*第二章*
隣接するエリアの比較的広い自然公園まで逃げたところでようやく一息吐く。
振り返ると、早梛が膝に手を当てて荒い息をしていた。彼女はあたりまえのように時幸を追ってここまで一緒に逃げてきた。小さい身体からは想像もつかないが、案外タフなようだ。途中過酷な道も多々あり、何より時幸自身、もう彼女と話す機会はないだろう、と諦めていたのだが。
「……追ってきてる?」
肩で息をしつつ、心配そうに辺りを見回した。
「おそらくは。しかし三人ともすぐには追えなかったでしょうし、しばらくは大丈夫かと」
「奥にいた人達が、追ってきてるかも」
「それなら心配いりません」
処理班の様子を思い出す。
「《機関》の構成員は原則、そのとき自分が与えられた任務以外には不干渉です。自分の管轄外で予定外のことが起こったとしても、まずは自分の仕事を優先する。そう徹底的に役割分担されています。中には例外の部署もありますが」
「……人に向けて攻撃したのって、初めてかも」
早梛は怯えたような、或いは自嘲するような顔をした。
先ほど、ワイヤーガンを顔面目がけて撃ったことだろうか。
あれには時幸は素直に感心していた。落下するタイミングで銃をキャッチし、あの混乱した状況の中顔面に狙いを定めて撃ったこと。身体能力もなかなかだが、度胸や判断力も素晴らしかった。
「彼らなら大丈夫ですよ。躱していましたし、あの人達もけっこう、鍛えてますから」
「そう……」
そしてやっと、肩の力を抜いた。
「よかった。ひとまず安心ね」
「いえ。俺の身体にはGPSが埋め込まれているので、その気になれば見つかります」
早梛は絶句した。
左鎖骨と胸筋の、ちょうど中間ほどを見せる。とはいっても、外見からは判別できない。触ってもすぐには気づかない。よく揉んでみてやっと、僅かにコリコリした感触がある。
「やろうと思えば抉り取れないこともないですが……」
もしそんなことをしたら、すぐさま特務部に所属する全員に通達が入り、自然公園に殺到するだろう。あれだけのことをしていまさらという気もするが、これ以上波風は立てたくはない。それに、GPSによる位置情報の確認は研究部の権限だ。夏来が易々と許可を出すとは考えにくい。時幸が本当に離反でもしない限り、なるべくそういった扱いを控えるようにしているし、何より彼女は琴羽とは反りが合わない。
「あなた、何者よ」
そういったことを考えているうちに、呼吸の整った早梛が鋭い視線を投げかけてくる。
「GPS、それも持ち物じゃなくて身体そのものになんて、《機関》にとってよっぽど重要な人物なんじゃないの。それとも、《機関》のエージェントは皆そうとか?」
「いえ……いろいろ事情がありまして。俺は下っ端なので、上の威光には逆らえないといいますか」
「アラヤって、この都市を防衛しきった英雄の名前よね」
意外な言葉に、目を瞬かせる。
「師匠を御存じなんですか」
早梛は肩を竦めた。
「日本人なら誰でも知ってる。まあ、名前まで知っている人は少ないかもだけど。個人情報はいまじゃ非公開になってるけど、一昔前の資料を調べればすぐに判る」
「なるほど。あの本屋は一度正式に洗ったほうがよさそうですね」
今回、あの本を回収しているふりをしていたのは早梛をうまく誘導して対話の機会を設けるためだったが、《機関》ではいまも戦時中や終戦直後に書かれた秘密文書の回収や破棄を行っている。小さな本屋だったが、ああいう場所から漏れた情報が思わぬ事件を引き起こすこともあるので侮れない。
早梛は険しい顔のまま、深く息を吐く。
「やっぱり、《機関》は重大な情報を隠しているのね」
「知りたいのであれば、どうして《マイナー》を目指さないんです?」
「低級ランク程度の情報、わざわざ《マイナー》にならなくても調べれば出てくる。《機関》の情報制限もわりと甘いみたいだし、海外ではそもそも公開されてる情報が多い」
けど、と、続ける。
「肝心なことは、どの国も隠してる。いいえ、どの国が知っていてどの国が知らないのかさえ判らない。《マイナー》も皆、ある一定以上のランクまで上がると途端に口が堅くなる。彼ら自身がそうしているのか、何らかの圧力がかかっているのかは不明だけど」
「よくご存じですね……」
「ええ」
そこで少女は不敵に笑う。
「だから、私を捕まえに来た……ってわけじゃないでしょ。あなたの目的はなに? 仲間割れしてまで、どうして私を?」
充分に魅力的な表情ではありますが、やはりもっと幸せそうな笑顔が見たいです。仄かにそう思いながら、時幸は別のことを口にする。
「あなたと、話がしたかったんです。俺個人が。《機関》は放っておいてもあなたに辿り着いたでしょうけれど、それだと俺の望む対話はできそうにない。だから、俺の権限ではアクセスできない情報にハッキングして、あなたに関する記録をすべて消しました」
「はい?」
「おまけに、大人しく連行されずに古坂さん達を転ばして逃げたわけですからね。いま頃上司の腸は煮えくり返っていることでしょう」
言いながら、嫌な汗が背中を行き過ぎる。情報操作の影響は一時的なものとはいえ、我ながらとんでもないことをしでかしたものだ。琴羽に次会うのが、はっきり言って怖い。
「あなたって……不思議ね」
婉曲的な表現だが、半分は呆れからくるものだろう。もう半分は、単純な興味か。
「ふはぁっ」
ほっとしたように息を吐き、早梛は芝生に腰を下ろした。
「ちょっと休憩。疲れちゃった」
あなたも座りなよ、と隣を示す。見下ろしているのも失礼なので、素直に片膝を立てて座った。
木の葉がざざ、と風で揺れる。それに合わせて、彼女の上に降り注ぐ影が斑に踊る。
ふと、走っている間も手放さなかった早梛の刀を見遣る。
「その刀なんですが」
「これ? うちにあった刀よ。近代の無銘のものらしいけど」
そう言って、ひょい、と持ち上げてみせる。
「……先ほど、『人を撃つのは初めてだ』とおっしゃいましたね。その刀で人を傷つけたこともない、ということでよろしいでしょうか」
「うん、ないよ」
「《ディヴィジョン》はどうですか」
「……いろいろと」
「斬りつけただけで殺せた《ディヴィジョン》や、逆に倒しにくかった《ディヴィジョン》がいたのでは」
「ええ。概ね有利ではあったけど」
「もう一つ、いいでしょうか」
時幸はそこで一旦息を吐き、また静かに吸い込んだ。
「もしかして、ご家族を殺した相手の血を受けてから、そのような力が備わったのではありませんか」
弾かれたように、早梛が時幸の方を見た。その反応で明白だった。
「やはり、そうでしたか……」
時幸だからこそ考えに至った可能性。特務部の精鋭達を出し抜き、真っ先に早梛に辿り着けた所以だった。
「……お話しいただくことはできませんか。あなたにとって辛い記憶であることは存じています。しかし……」
「いいよ」
早梛は中空に息を吐き出す。見上げた空は憎らしいほどに青かった。
「話してあげる。私の家族がどうして死んだのか」
二年前
家族が嫌だった。
親戚が嫌だった。
親戚の集まりが、嫌いだった。
その日、早梛は大嫌いな親戚達と顔を合わせていた。理由はよく憶えていない。
一族の中に夭折した女性がいたらしく、その人の七回忌とか十三回忌だったような気がしないでもないが、とにかく早梛は憂鬱だった。バックレてしまいたい気持ちももちろんあったが、一族の集まりは必ず早梛の家で執り行う、というしきたりがある以上、出席しないわけにいかないのだ。
いつものように、親戚の前で挨拶を行う。きちんと作法に則り、失礼のないように。にもかかわらずケチがつくまでが、いつもどおり。
身体が強張っている、嫌々やっているのがはっきりわかる。体格が小さい、目つきが悪い。そして二言目にはお決まりの一言。
――少しは妹を見習いなさい。
三つ下の妹が親戚の前に出るだけで一同は喜んだ。がさつで気の利かない早梛とは対照的に、妹は気配り上手で作法も完璧、物腰も優しく動作に気持ちが籠っている、と口々に褒め称えた。
早梛は、当時通っていた学校では活発で友達も多く、けして人間関係に不器用なわけではなかった。だから、何が親戚達の癇に障るのかはわからない。いや、本人達にも悪気はないのかもしれないが、一族の大人は姉妹を並べては比べ、妹には称賛を、早梛には批判を浴びせた。妹もそれをわかっている節があり、自分がやった方が早い仕事でもわざわざ早梛に手伝わせ、自分と比較させて見せた。親戚の前では平静を装い、早梛を持ち上げたが、裏で嗤っていることを早梛だけは知っていた。
普段の生活も大体同じだった。父母の前では良い子を演じ、いないところでは姉妹喧嘩が絶えない。姉の粗を探しては告げ口し、早梛が叱られているうちに自分の粗を隠す。世渡りがうまく、そして狡猾。早梛は妹が憎くはなかったが、そういうところを惜しく思っていた。せっかく可愛らしい顔をしているのだから、性格も美人ならよかったのに。
とにかく、両親の前ならいざ知らず、親戚一同の前で掴み合いの喧嘩など行えるわけもない。そんなことをしたら早梛が悪者にされるのは目に見えている。ので、恥ずかしさも悔しさも表に出さぬまま席を外れる。その場に居続けても悪口を言われ続けるのなら、いないところで陰口を言われる方がましだ。その日もいつもどおり、会食の途中でこっそり抜け出した。
親戚一同が集まれるだけあり、早梛の家は広かった。平屋建ての日本家屋は二十以上の部屋があり、広い庭では大人達の話に飽きた幼い又従弟達が無邪気に遊んでいた。しかし早梛の姿を見ると、途端に笑うのを止めて、さざ波が引くように逃げて行ってしまう。子どもというのは純粋で、それ故に残酷だ。
大人達が早梛に対して良い評価を下していないことを敏感に察知し、そんな不出来な子に近寄るのは良くないことだと距離を置く。たまに遊びに誘ってくれることもあったが、それは早梛を見直したからではなく、可哀想な子だから相手してあげる、という同情であり、こんな子とも仲良くできる僕は偉い子なんだという自己陶酔であった。その子達もまた、早梛よりも妹に懐いた。一族の大人にとっても子どもにとっても、妹はアイドルだった。
裏庭に面する縁側に腰掛け、溜息を吐く。自分の家なのに、どうしてこうも居場所がないのか。早梛とて石木ではない。貶されれば哀しいし、相手にされなければ寂しい。それを誰も、血の繋がった家族はわかってくれないのが、いっそ滑稽だとも思った。将来のことは漠然としか考えていなかったが、追い出されるより前に自発的に家を出る、そのことだけは決めていた。
「なにさぼってんの」
と、障子を開けて妹が現れた。髪にも肌にも手入れが行き届き、勝気な瞳が印象的。顔立ちは早梛に似ていなくもないが、背は姉よりも高い。黙っていればお人形さんのようだ。
「あんたこそいいの。私と違って人気者なんだから、いてやれば」
「やだよジジババの相手なんて」
親戚の前では絶対に口に出さないことを吐き出す。
「下衆なことばっかいっちゃってさぁ、ワンパターンなんだよね。『それに比べてお姉さんは……』って、他に言うことないのかな。うんざりなんだよね。早梛もこんなとこで油売ってないで少しは手伝ってよ、ご機嫌とりも大変なんだから」
外見に反し、素の妹は口が悪い。
「昔の話で盛り上がられても迷惑。同世代同士なら面白いのかもしれないけどさ、全然わかんない。相槌打って笑ってるしかできないっていうか。早梛はいいよね、私に押しつけてのんびりできてさ」
「あんただっていまはさぼってるじゃない」
「どうせ後で二人とも呼ばれるよ」
早梛の前でだけ、妹は本当の顔を晒す。どこにでもいるような十三歳の少女の、疲れた顔。親戚達が持て囃す完璧な様はどこにもない。信頼されてはいる気がした。故に、妹のことを完全に嫌うことはできなかった。
「……悔しくないわけ?」
「え?」
「あんなぼろくそに言われてさ。ちょっとは言い返そうとか思わないの。それとも、ほんとのことで何も言い返せない? みっともない。こんなにみっともないものが姉だなんて思いたくない」
「はあ?」
唐突に、あまりに酷い言葉を吐かれ、怒りが込み上げる。
「急になんなわけ」
「早梛がそんなんだから私も、早梛と比べられることでしか褒めてもらえない」
妹は早梛を名前で呼ぶ。幼い頃は違ったが、ここ数年はずっとそう。妹は早梛のことを明らかに見下している。その態度を隠しもしない。そんなことくらいわかっている。だが、理解してはいても、言っていいことと悪いことがある。
「あんたねえ、」
怒りに一瞬我を忘れ、食ってかかる。対照的に、妹は冷めた目で見つめ返す。
そのとき、
悲鳴。幼い子どものもの。それが、立て続けに。
そしてそれに混じって、音。
薄い木板を無理やり折り曲げたようなメキメキという音。
風船が弾けるような音。
曇っているというのに、雨の降る音。
「な……なに?」
尋常でないことが起こっているのは確かだった。
又従弟達がさっきまで遊んでいた方へ駆けだそうとしたが、それより前に第四の音が届く。建物の反対側で、障子が勢いよく開けられた音。
「だ、誰だ、おまえは!」
「……ひっ、あああああああああ、裕翔、裕翔お!」
「きさまあ! いったいな、に……」
微かな怒声。又従弟の名を呼ぶ声。そしてまた、音。
悲鳴。悲鳴。音。
悲鳴。悲鳴。音。
何者かが畳に上がり込み、床板が軋む音。半狂乱の人の声。
どたどたと、足音。弾ける音。制止を求め、すすり泣く声。
姉妹はとっさに、軒下に身を潜り込ませた。小柄な早梛が奥に入る。
顔を見合わせる。何が起こっているのだろう。怖い。
何かは判らないが「見つかる」という恐怖を抱えつつ、這って邸宅の正面に回り込む。その間も悲鳴は止まない。
表門が見えてきた。庭に誰か倒れている。遠くてよく見えない。
と、妹が軒下から這い出て、一目散に駆け寄った。早梛も慌てて後を追う。
「なに考えてるの!」
「怪我して動けないのかも!」
走っている間も、屋敷に侵入した『何か』に見つかるかもしれない、という恐怖が付いて回った。それでも妹が己の身の安全よりも他人の救助を優先した以上、自分だけ隠れるわけにはいかない。姉としての精一杯の矜持が早梛を向かわせた。
しかし、駆け寄った姉妹を待っていたのは、想像を絶する光景だった。
「ひっ」
叫ばなかったのは、見つかるのを恐れたというより、あまりの光景に喉が詰まってしまったからだった。
「――っ」
膝をついた。目に入るすべてと臭いと大気の味が消化器を刺激する。とっさに口を押さえるが、耐えきれなかった。
まだ幼い子ども達が、悉く死んでいた。
身の丈や衣類によって又従弟達と推測できたが、断言はできなかった。死体はどれも、顔が判らない状態だったから。
妹は嘔吐こそしなかったが青い顔で死体と、ぜいぜいとえずく姉を見比べていた。
一体何があったのか、一目で異常な死体だと判る。
そのとき。再び、悲鳴が響いた。
「――お母さんっ」
弾かれたように、妹が屋敷に駆け戻る。
「ま、待って」
しわがれた声で早梛が呼ぶ。胃も喉も焼け爛れたように苦しい。
よろよろと立ち上がり、歩きだす。
顔を上げ、そして気づいた。庭に面した広間の障子が開け放たれていた。白かったはずの和紙が、いまは赤く染まっている。そこから、誰かの腕が力なく伸びている。
ばくばくと心臓が早鐘を打つ。見たくない。信じたくない。
けれど、想いとは裏腹に身体は動いてしまう。
叔父、伯母、従姉妹、その娘、父の従弟、その配偶者、祖父母。
広間にいた大人のうち、生きている者は誰もいなかった。
さながら、図鑑か標本でも眺めているかのよう。それほどまでに露わになった、哀れになった、亡骸の数々。
早梛は別に死体に詳しくないし詳しくなりたいと思ったこともないが、それでもその異常性は感じ取れた。一体何が何だか判らない。状況が飲み込めない。もう胃の中には何も残ってはいない。その代わりのように、水分が眼から垂れ落ちる。人間離れした死に方をした彼らに、哀悼はまだ追いつかない。これは恐怖だった。何者かは判らないが、屋敷に侵入したものがこの状況を作り出した。それはまだ、この家のどこかにいる。
とっさに、この場から離れないと、と思った。
妹を連れてできるだけ遠くへ、見つからないところへ逃げるのだ。
直視したくはないが、死体の山をもう一度見遣った。両親をはじめ、この場にいなかった親族がいることに気づく。先ほどの悲鳴は本当に母のものだろうか。
正面、奥へと続く襖が半分ほど空いている。おそらくは、この殺戮を行ったものが獲物を探してそちらへ向かったのだろう。広間には足を踏み入れず、障子に沿って廊下をおずおずと回り込む。
自分の部屋の前まで来たところで、辺りを確認し、障子を開けて滑り込む。
「えっ」
真っ白いものが周囲をふよふよと浮いている。
押し入れが開け放たれ、布団が引き出されていた。この布団もまた、「異様な方法」で破かれている。詰まっていたはずの羽毛がそこら中を舞っていた。
早梛は悟った。屋敷に侵入したものは、神橋家の者に明確な殺意を持っている。そいつと妹が鉢合わせる前に、屋敷を脱出しなくては。
押し入れに人が隠れていないと判ると、侵入者は襖続きの隣室の客間に向かったらしい。戸棚から手鏡を取り出すと、足音を立てないように気をつけながら、客間を通り抜ける。
小声で妹の名前を呼ぶ。部屋に入るごとに身を隠し、鏡で状況を確認する。
途中で、父を見つけた。うつ伏せで、後頭部が××××××××た状態で事切れていた。どこかへ向かう途中だったらしく、死体の腕は前方に伸ばされている。そちらの方に目を向けた瞬間、新たな悲鳴が大気を切り裂く。
立て続けの悲鳴が足音を消してくれた。直前で止まり、少しだけ――人ひとり通れるくらい開いた襖の影に身を寄せる。鏡で部屋の中を確認する。
末の叔母が、腰を抜かして前方を凝視している。来ないで、来ないで、というヒステリックな懇願が喉から漏れる。必死で後退るが、目の前のものは容赦なく迫りくる。
そいつの姿が、鏡に映った。
早梛と同年代くらいの少女の見た目をしていた。
長い髪は黒かったが、日本人のような鴉の濡れ羽色ではなく、油彩画のような茶とも緑ともつかない光沢があった。顔立ちも欧州人のそれ。纏っているのはちょうど、今日早梛が着ているような上等なブラウスとタイトスカート。
泣き叫ぶ叔母とは対照的に、狼藉者は飽くまで静かに、冷淡に彼女に詰め寄っていく。土足で畳を踏みしめ、壁際に追い詰められ嫌々するように首を振る叔母に向けて、無言で手を翳す。
叔母の身体がふらりと揺れ、倒れた。あんなにけたたましかった悲鳴を、彼女はもう二度と上げることはできない。
――《ディヴィジョン》だ。見た目はまるで人のようだが、あれは人じゃない。
あのような殺し方をできるのが、人間であるはずがない。
と、そこで。
《ディヴィジョン》が顔を上げた。鏡越しに、目が合う。
「――っ」
考えるよりも先に駆けだした。が、躓いて転んでしまう。あまりの恐怖に、父の死体が見えていなかった。
「あ、あ、あ」
ロボットのようにぎごちない動きで振り向く。《ディヴィジョン》が近づいてくる。一歩、一歩。正面から見るとそれなりに整った顔をしているが、その顔は仮面のように無表情だ。威圧するようでも、呆れているのでもない。
淡々と、坦々と。
精密機械のように、早梛を確実に殺そうと、殺せると思っている。
恐怖で全身の力が抜けてしまった。スカートがじんわりと濡れて、畳を汚す。
「あ、や、嫌」
先ほどの叔母のように、力なく首を振る。
《ディヴィジョン》の右腕が、ゆっくりと持ち上がる。
が。
その腕が早梛に伸ばされることはなかった。
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああぁぁっ!」
瞬間。
突如として反対側の襖が蹴り破られ、妹が飛び出した。そのままの勢いで、持っていたものを渾身の力で突き出す。
《ディヴィジョン》の胸が僅かに盛り上がった。その真ん中から、銀色に光るものが伸びている。
早梛は思い出した。隣室の床の間には、我が家の守り刀が飾られていたことを。
それが《ディヴィジョン》の胸を深々と貫いていた。
「……やった」
柄から手を放し、妹が一歩、二歩後退る。興奮で息が荒くなっている。
《ディヴィジョン》は、胸元から伸びる切っ先を不思議そうに見つめている。依然として無表情のその口元から、赤い液体が零れ落ちる。
突如、《ディヴィジョン》は踵を返した。
「「ひっ」」
妹が怯えた声を上げ、奥の部屋へと駆け込んだ。
早梛もまた、信じられないものを見て全く同じ声を上げる。
《ディヴィジョン》の背中から生えた柄が、徐々に盛り上がっている。いや、押し戻されている。血濡れた刀身が背中の傷から排出され、やがてカラン、という音とともに早梛の目の前に全身を投げ出した。それでも《ディヴィジョン》は止まらない。
じくじくと溢れ出ていたはずの血が、渦巻くようにして傷口に吸い込まれていく。徐々に小さくなり、切れた布さえ巻き戻る。
《ディヴィジョン》は何も変わらぬ様子で、そこに立っていた。
まるで傷など、最初からつけられなかったかのように。
「化け物……」
妹が、へなへなと頽れる。
あまりの光景に、姉妹とも絶句していた。
永遠にもとれる時間が流れ、そして。
無言の怪物が、一歩を踏み出す。
息を飲む。
《ディヴィジョン》が妹に近づく。その形相はこちらからでは伺えない。
傷はなくなっても、傷つけられた事実そのものを水に流すつもりはないらしい。いや、そもそもこの死神は、もとより神橋の一族をすべて屠るためにやってきた。
妹は必ず殺される。そして、早梛もその後を追うことになるのだろう。
「や、いや、いやあああああああ」
普段は気丈な妹の、悲痛な声。
腰が抜けて、膝が震えて、喉が詰まって。
それでも叫んだ。叫ばずにいられなかった。
「昌梛!」
妹が、こちらを見る。潤んだ瞳。姉の姿を見つけ、口元が様々な感情を表すように歪む。
「あ、おねーちゃ……」
もう久しく聞いていなかったそんな言葉を、最期に呟いて。
妹が、昌梛が――咲いた。
それは、秋に花開く。
剃刀花、捨子花、死人花。
様々な名を持ち、その殆どが不吉な印象を与えるものばかり。
鮮やかなイロと繊細なカタチ。
とても美しく可憐な花なのに。
されど、早梛はその日、その花の名の由来を知った。
吹き出る血で真っ赤に染まった、
天に屹立する、ヒトのアバラは、
彼岸花の蕊、そっくりだ。
身体の内側から捲れ上がるようにして、妹の肌が、肉が、血が、内臓が、骨が、爆ぜた。
まるでスローモーションのように、胸が膨らみ、皮膚が裂け、血が噴き出すのが目に焼きついた。
触れていないにもかかわらず、睨んだだけで、軽く手を翳しただけで、化け物は妹を殺して見せた。
妹が死んだ、という事実が受け入れられなかった。非現実的なことが多すぎて、混乱していた、だけではない。
例えば、目の前で縊り殺されたり、刃物で刺し殺されたりしていたら、現実を受け入れることはできなくても、本能的な危機や恐怖、或いは死そのものに対する強烈な忌避感を抱いていたかもしれない。ただ、このときはそれすら持てず、漠然と、もう元には戻らない、という感想だけが散らばった臓物の上に降り注いだ。
妹を。叔母を。おそらくは父も、他の親族も、同じように殺したのだろう。頭が、胸が、腹が割れた死体。身体の内側から裏返させられたような死に方を、強要させることが。
どうして。妹は何も悪いことはしていない。
早梛よりも要領がよくて社交的で、それを鼻にかけることのある嫌な子ではあった。姉妹喧嘩が絶えることはなかった。ほんとにほんとに憎い、と思うことさえあった。
けれど、こんなのはあんまりだ。
こんな殺され方をされていい子じゃ、けしてなかった。
父も、親族の誰も、こんな死に方をしなくちゃならないほど悪いことをしただろうか。
なのに、殺した。
こいつは、皆を殺した。虫を潰すように。鼠を縊るように。
人としての、あたりまえの死さえ与えないやり方で。
幼い又従弟達でさえ。
そう思ったとき。唐突に、心が凪いだ。半ば自動的に掴んでいた、彼女の意志とは関りなしに。
目の前に転がる、奴自身の血の付いたままの日本刀を。
《ディヴィジョン》が、振り向く。こんどは早梛を殺すために。昌梛と同じように咲かすために。
がくがくする脚で立ち上がる。
荒い息を吐く。刀を構える。思っていたよりも、ずしりとした重さがある。手も震えて、取り落としそうだ。
皮膚の捲れた又従弟の稚い骸。
折り重なった死体と、濃厚な血の匂い。
柘榴のように爆ぜていた、父の頭。
昌梛。
姉よりも優れた妹だった。
いつも敵わなかった。
悔しかったし、嫉妬していた。
なのに、あっさりいなくなってしまった。
いいことも悪いことも、言いたいことが、まだたくさん、あったのに。
「きなさいよ。ただでは殺されないから」
精一杯の虚勢を張る。恐怖は依然、身体を圧し潰さんとしている。涙と胃液で顔はぐちゃぐちゃ、服だってこの上ないほど汚れている。格好悪いことこの上ない。
けれど、立ち向かう。
《ディヴィジョン》は、早梛の方を見て……眉を顰めた。
自分の胸元を覗き込む。先ほどの傷は跡形もない。どうせ早梛が斬りつけたところで、すぐにまた回復するとでも言いたいのだろうか。
しかし、《ディヴィジョン》は……困ったように首を傾げ、肩を落とした。
「Verdammt」
「……え」
《ディヴィジョン》が口にしたのは、聞きなれない言葉だった。……けれどもそれは、確かに。
人の言語だった。
《ディヴィジョン》は踵を返すと、予想外のことに呆気にとられる早梛を残して、手近な障子を乱暴に引き開けた。
そして、いずこかに消えた。
……どのくらいそうしていただろう。
自分を殺す脅威が消えたこと、見逃されたこと、家族が殺されたこと――自覚した途端、早梛は泣き叫んだ。
右も左もなく喚き散らし、手当たり次第に物を、床を、壁を殴り、持ったままの日本刀をめちゃくちゃに振り回した。
握った手は歪んでいた。きつく、放そうとしても放せなかった。
現在
「……どのくらいそうしてたかな。興奮が収まったら途方に暮れちゃってさ。うち、丘の上の一軒家だったから近所も頼れなくて。とにかく、《機関》に連絡して、そういう《ディヴィジョン》に殺された後の処理とかやってくれる人達が来て、死体の収容とか、現場検証とかしてくれたの。医療班の女の人達が集まってきて、やっと、握ってた刀も手放せた」
自然公園の芝生の上を、まだ小学校にも上がっていないような年齢の子ども達が、きゃっきゃ、とはしゃいでいる。その無邪気な眩しさの影で、早梛はずっと、沈痛な面持ちで語り続けていた。
「頼んだの。《調律の彼女》にしてほしいって。家族を、妹を殺したあいつに復讐する力が欲しいって。なのに……検査して、私の身体に大した怪我がないことが判って……それで終わりだった。どれだけ頼んでも『こちらで駆除するから、日常を取り戻すことに専念しなさい』って……無理だよ。いままで一緒に暮らしてた人達が急にいなくなって、一人ぼっちで、胸にぽっかりと穴が開いたみたいで……いままでの日常になんか、もう絶対戻れるはずないんだよなあって思ったら、気がついたら、この刀を持って街を彷徨ってた」
傍らの刀に手を伸ばす。
「最初は、あてもなく歩き回ってた。そのうち、たまたま都市に入り込んだ《ディヴィジョン》にかち合ってさ、そいつは私の仇でも何でもなかったんだけど、けど、むしゃくしゃして、何もかもが憎くて……斬りつけた。それで、この刀の能力に気がついたの」
鞘を少しだけ抜いた。長閑な公園には似つかわしくない物騒な煌きが反射する。
「この刀は《ディヴィジョン》を斬れる。仇を殺せる。だから、その道を選んだ」
日常を取り戻すことなど、できなかった。だから、通っていた高校を退学し、独学で剣術を学び、情報を集めた。かつては棒切れ一本振れなかったとは思えぬほど、この二年間で鍛錬を重ねた。
「でも、まだ足りない。私の刃はあいつには届かない」
早梛は確信していた。仇はまだ生きている。あの特異にして強大な敵が、易々と倒されるはずはないと。
「必死になって情報を集めたよ。学校は辞めたし、結果として一族の遺産は私に集中したわけだから、時間にも金銭にも余裕はあった。でも、有益な情報はネットには転がっていなかった。ううん、ネットを調べることで、《機関》がネットでは知られないように情報を操作していることが判った、と言った方が正しいかな。……そんなとき、偶然、本を読んでて見つけたの」
キャッチボールをする子ども達。白い球の軌跡が空に架かる。
一人の子がボールを取り落とした。小さな手には不釣り合いなほど大きなグローブに当たり、弾かれた球がころころと転がっていく。
「この国では、《ディヴィジョン》は……かつて、【眷属】と呼ばれていた」
転がったボールが、人工池に落ちた。
呆気にとられ、次いで泣き叫ぶ声が、暖かな午後を握り潰す。
「そもそも、《ディヴィジョン》って、『分かたれた』って意味だよね。《メイジャー》とか《マイナー》とか、《調律の彼女》が《ストリングス》ってルビ振るから、音楽用語で揃えたのかなって気がしなくもないけど、でもそれだと、イタリア語じゃないのはおかしい気がする。あいつらって……一体何なの。どこからきたの。どうやって生まれたの」
浮かんだボールが、よたよたと水面を進んでいく。動く度に、大げさなほど波紋が広がっていく。
話を聞き終えた時幸は、顎に手を当て、しばし考え込んだ。
「ええと……いくつか確認してもよろしいでしょうか」
少年が、黒目がちの瞳を向ける。
「一つ目。その刀は、二年前の事件以前には《ディヴィジョン》を殺傷できる能力はなかったんですよね」
「う、うん。お祖父ちゃんやお父さんがたまに手入れしてて、鋭くはあったけど、さっきみたいに斬ることで《ディヴィジョン》に明確に働きかけたり、それこそ掠っただけで殺せたりするような力はなかったよ。あったら、妹があいつに突き刺したときに、もう決着はついてたはずだしね」
当時のことを思い出しながら説明する。
「わかりました。二つ目。ご家族を殺した《ディヴィジョン》は、人と同じ大きさで、人型で、しかも人語を介していた。間違いありませんか」
「うん。あんな《ディヴィジョン》がいるなんて聞いたことなかった。それについても、《機関》は何か隠してるんじゃないの」
「いえ……言葉を話す《ディヴィジョン》は、それほど珍しくありません。三型などは特に元人間だった個体が多いので。もっとも、そういったものはほぼ意味のある言葉を話しませんけれどね。人間だった頃に馴染みのあった言葉を反芻したり、《マイナー》の言葉を真似たりです」
「違う! あいつは、確かに人の言葉を話してた。意味のあることを。日本語じゃなかったけど、こう、バーダミット、みたいな」
「Verdammt?」
「そう、確かにそうだった!」
時幸の発音に、早梛は大きく頷いて見せる。
「そうですか……」
「ねえ、何語なの、それ」
「少しお待ちください」
身を乗り出した早梛を手で制し、時幸は再び考え込む。
「……高位の《ディヴィジョン》には、人と会話できるほどに知能と声帯機能を備えた個体が存在します。そしてそういった個体の中には、人と同じ大きさで、人の形をしているものもいます。稀ではありますが」
「やっぱりいるのね」
「ええ。ですが、特に情報制限はされていません。国内序列百位以内の《マイナー》であれば得られる情報です。ただ……いえ、やはりおかしい」
「何が?」
少しやきもきしながら、早梛は尋ねる。
「……一般にも広く知られていることではありますが、《ディヴィジョン》は能力や発生によっていくつかのタイプに分類されます。あなたの持つ刀は、その《ディヴィジョン》を斬りつけたことで奴の能力を複写した。もし奴が……それが俺の予想どおりなら、事はそう単純では済まなくなる」
そして時幸は、最後の質問を投げかける。
「ご家族の葬儀は、どのように執り行いましたか」
「……え」
思いがけない質問に、目を瞬かせる。
「……それ、いま大事なこと」
「すみません。つらいことを思い出させてしまって。ですが……せめて、《機関》がどう対処したかどうか、お教え願えませんでしょうか」
少し声を固くした早梛に、時幸は俯きがちに懇願する。
「……《機関》は……少し調べるって、皆を預かって……たしか、三日くらい経った後、棺に入れて返してきたから、業者の人に頼んで、できるだけきれいにしてもらって、火葬にしてもらったけど……どうしてこんなこと訊くの?」
少年は押し黙る。話すべきかまだ黙っているべきか。時幸自身、自分の考えが纏まっていないようだった。
「いま伺った話、気になる点はたくさんありましたが……」
腕を組み、顎に手を当てて考える。
「《機関》の人間は遺体の状態を見れば、殺したのがどのタイプに属する、どの程度の強さを持った個体か判別することが可能です。そして、それによって遺体の扱いも変わってきます。なぜかというと……」
息を吐く。
「高位の《ディヴィジョン》に殺された人の遺体は、《ディヴィジョン》になるかもしれないからです」
早梛の全身を、衝撃と恐怖が駆け抜ける。
「……生きてる人が傷つけられたら、だけじゃないの?」
「様々です。生きてる人を変化させるパターンもあれば、死体を利用する場合もある。ただ“変える”だけでなく、養分にしたり、苗床にしたりするケースもあります。《ディヴィジョン》の形態が多岐に渡るように、奴らに殺された方の遺体の処理方法もその都度異なります。例外として、最下位のクラスⅤに殺されたのであれば、遺体の損傷が酷くなければ通常の葬儀を行うことが可能です。クラスⅤはこれ以上同族を増やすことができませんから」
「なるほど」
「ところで、あなたが先日持ち逃げした《ディヴィジョン》の角なのですが……いま、どちらにありますか」
「最寄り駅のコインロッカーに預けてあるよ。ダイヤル式のやつ」
「そうですか。あれは一応クラスⅣの一部なので回収させてください。《機関》との交渉の材料にする必要はもうないでしょう?」
「……もしかして、欠片でも危険なの」
「ええ。人の遺体が眷属化する危険があるように、《ディヴィジョン》の死体の一部であっても人を眷属化させることがあるんです。だから《機関》は《ディヴィジョン》が駆除された後、徹底的に死体を回収するんです。使い道があるから、でもありますが。……とにかく、いまの段階では判断材料が少なすぎます」
そこで、芝生の上に正座し、早梛に向き直る。
「その刀、俺の知り合いの《機関》の研究者に調べさせてもらえませんか」
「えっ」
早梛はとっさに、刀をかき抱く。
「その代わり、俺の権限でお伝えできることはすべてお話します。必要であれば、《機関》の他の部署の人との橋渡しも行います。いかがでしょうか」
「……いかがでしょうか、って……」
刀を抱いていない方の手で、毛先を弄る。こちらをまっすぐに見つめる時幸を直視することができなかった。……しかし。
ふと、彼についてのあることが気にかかった。居住まいを正し、早梛もまた、時幸に向き直る。
「ねえ、さっきは教えてもらえなかったけど、いいかな。……あなたはどうして、《機関》に所属しているの」
木の葉の風で騒めく音が、二人の間を通り過ぎる。
「俺は……《機関》特務部のエージェント候補生です」
「うん」
「そして、」
風が彼の前髪を揺らし、一瞬表情が隠れた。
「《機関》研究部の『財産』でもある……だから、俺がどんなに《機関》から離れようとしても、《機関》の方が俺を逃がしてはくれません」
風が抜けた。
時幸は、笑っていた。疲れたような、困ったような。
笑っているのに、見る者の心を締めつける、そんな顔だった。
「だからこそ俺は、敢えてエージェントになる道を選びました。あの人が、その選択肢を俺に与えてくれた」
――生きろ、ユキ。
「だから、俺は」
時幸の、顔が、歪む。
「あの人を奪った奴らを、絶対に許さない」
世界が反転する。
いままで探るばかりだった少年の心情が、暴かれる。
「先ほど言ったことは本当です。俺もあなたと同じで、仇を追っています」
少しだけ眉を緩め、時幸は話し始める。
「三年前、俺の師匠が《ディヴィジョン》を使って殺されました。犯人はまだ捕まっていません」
柔らかな日差しを切り裂くような真実。それでも皐月の風は爽やかに通り過ぎる。
「正規エージェントになって手柄を上げれば、それだけ閲覧できる情報も、扱える武装も増えます。世界各国の要人と交渉する機会も与えられます。だから俺は《機関》で上を目指した」
「え、待って」
風に舞う毛先を弄りながら、早梛は視線を泳がせる。
「あなたのお師匠さんって、たしか……」
「現夜一期。《ディヴィジョン》にとっての死神であり、犯罪者にとって最悪の狩人でもあった、《機関》の初代特務部部長です」
その名は何度も見た。中古本の中で。ウェブページで。公には既に引退し、一線を退いたことになっているはずだ。そんな人物が、三年も前に亡くなっている。
訊きたいことはたくさんあった。なぜ時幸は現夜一期と出会ったのか。どうして彼の名を名乗っているのか。そして何より――。
ただ、彼が早梛と同じ思いを抱いているのは感じられた。《機関》のただならぬ秘密を握っていることも。そのことを不審に思う気持ちはあるものの、同時に、まだ年若いにもかかわらず重いものを抱えているであろう彼に、ほんの少しの同情を覚えもした。
「わかった」
抱いていた刀を置く。ずっと持っていて、正直重かった。
「ありがとうございます」
険を解き、安堵の表情を浮かべる少年。
「改めて、俺は《機関》特務部遊撃班零室所属、現夜時幸です」
「神橋早梛。よろしくね、時幸くん」
「はい」
時幸の差し出した手を……受け流し、腕を掴む。
「はい?」
「悪いけど、あなたを完全に信頼してはいないの。ましてや、《機関》を相手取るのは並大抵のことじゃない。こっちにも有利になる材料が必要になる。人質になってもらうから」
「……なるほど」
武器を預けるというのだから、当然の構えではある。
「……了承してもらえたなら、何か武器を貸してもらえないかな」
「と言われましても、鎖は先ほど使い切ってしまったので手持ちは、あとは荒縄と手錠と……ガムテープくらいしか」
「なんでそんなに拘束具が充実してるのよ」
レパートリーに呆れたのか、早梛は初めて僅かに頬を緩めた。小動物のような警戒心と、花霞のように淡い表情。時幸の心が揺れる。
愛らしい、と思う一方で、さざ波立ってもいた。すぐ傍にいるはずの少女が、触れれば砕けてしまいそうで。