2‐3 監獄
まるで黒魔法のサバトのようだ、と時幸は思った。
壁は一面の黒い金属板で、一定間隔で蒼白いライトが設置されていて暗くはないが、反射する光は人魂のように歪んだ楕円で部屋を飾っている。床の一部は盛り上がり、円形のステージを形作っていた。これは生贄を捧げるための祭壇だ、と言われても違和感がない。時幸の腰辺りの高さに立入禁止のテープのように、実際立ち入る者を制限して違反者は通報されるなり狙い撃ちされるなりするのだろうが、赤色のレーザーが部屋を横切っている。
ここまで案内した看守型アンドロイドは、のっぺりして顔がなく、余計な会話もなく、音もなくするすると移動し、最低限の機能以外すべて排除した無機質な存在だった。同型機を何体か見かけたが、それがまた、同じローブを着て儀式をこなす悪魔信仰の狂信者の集団のようで不気味だ。
《機関》本部にも似たような空間は幾つもあるため、さして危険は感じないが、元々監獄という場所の持つネガティブなイメージと相まって、早く出たい、と思わせる。
既に話がいっているためか、さして待たされることなくアンドロイドは手続きを完了させた。地響きとともに、奥の壁が横にずれていく。中から現れた箱が、円形のステージの上に排出された。例えるなら、音楽教室に通う生徒が自宅で練習するために購入する、一人用の防音室くらいの大きさだろうか。箱の全容が露わになるのと同時に、再び壁が動き出して部屋を閉じる。
事前の打ち合わせ通り、一時的にレーザーが解除され、前に進み出た。
箱の表面に走る僅かな溝が、レーザーと同じ赤色に染まる。収納家具の折り畳み机を広げるような動きで表面のパネルがスライドし、人間一人が通れそうな穴を開ける。そこから、一台の車椅子が自動的に進み出た。乗っているのは巨大な芋虫。一瞬、そう見えた。
口の部分のみ酸素供給のための管を通されている以外、紙粘土のように光沢のない白色の拘束着で頭からすっぽりと覆われ、さらに幾本ものバンドで椅子に固定された人物は、幾つなのか、男なのか女なのか、そもそも人間の形をしているのかすら、不明の様相だ。僅かな胸部の規則正しい揺れがなければ、巨大なぬいぐるみと言われても納得してしまうだろう。それほどまでに人間味がなく、不気味な姿だ。
待機していたアンドロイドが、さらに別の装置を作動させる。すると、芋虫の上部が割れた。折り紙で蛇腹を折るように、或いは店舗が開店時にシャッターを捲り上げるように、細い部品がぱきぱきと徐々に収納され、囚人の顔が明らかになる。
散髪は既に済まされているらしく、顏の判別には苦労しなかった。五年間に及ぶ監禁生活のためか、事前に確認した資料よりもやつれてはいたものの、朝日メリサの瞳には未だに、世界を嘲笑うような、憐れむような、それでいてまったく興味ない、とばかりに見下すような光が淀んでいた。
メリサは時幸を一瞥し、眉を顰めた。口を僅かに開くが、声は出さない。こちらが発言の許可を出していないためだ。許可のない行動を行えば即、首に巻かれたチョーカー型の拘束具が警告を発し、三回無視すれば自動で爆発するという。映画などではベタだが現実に存在すると思うとぞっとする。水面に浮いた麩を食べる鯉のように、なおも口をぱくぱく動かして会話を求めるメリサに、許可を出してやる。
『予想とは異なる人物の来訪に怪訝。身分の提示を要求』
一度検閲を通しているとのことだが、直接会話をしているのと遜色ない音声が耳元に届いた。
「現夜一期はもう引退しました。『たかが子どものお遣い程度、わざわざおれが出張る必要もねーだろ』だそうです」
そう言って、肩を竦めてみせる。いかにも一期が言いそうな台詞と口調を真似て。
『そちらの誠意不充分につき、交渉不成立。軽んじられるのは不愉快。……子どものお遣い、だからといって本当に子どもを派遣するのはあまりにも悪趣味な冗談。憤慨』
言っていることはわからなくもないが、露骨に見くびられたことに、内心ムッとする。そう思うこと自体、時幸がまだ子どもである証なのだろうが。
「あの人が常識外れで思考が読めないのは御存じでしょう。俺達だって無茶振りされた被害者です。そもそも本来は日本政府が解決しなきゃならない案件なのに、無能総理と強欲官僚のせいでまったく関係ない《機関》が出張ることになったんですよ」
メリサは一度口を閉じ、もう一度時幸をじっと見つめた。何度か瞬きを繰り返す。
『確かに、やる気がなく、何を考えているのかわからない男だったと記憶。……言葉を交わしたのはごく短い時間だったけれど』
女の瞳が、しめやかに揺れる。依然として何の感情も映されてはいないが、仄か過去を懐かしむような面持ちだった。
『けど、』
と、目が細められる。相変わらず睨むでも蔑むでもなく。時幸の内を探るように。
『無責任ではなかった様子。特に己の過失については自分の手で決着をつける、あまりに徹底的』
「あなたが、あの人の何を知っていると」
傍から見れば動揺していないのか、それとも隠しているのか、判らないほどに不透明な声音。しかしメリサは、彼女自身が感情を表に出さない質なせいか、逆に感じ取れるものがあったらしい。
『この場にいる意味。素性、ただの冗談要因ではないと推測。疑問と、興味。……交渉人のID開示を申請』
「……許可します」
メリサの元に、時幸のIDが送信される。閲覧したメリサは、僅かに……安全装置が作動しない程度に首を傾げた。目を伏せ、淡々と情報を羅列する。
『……根拠のない仮説ではないと主張。閲覧した記録でも、現夜一期が自身の手で捕縛した国際テロリスト脱走の際に、距離が遠かろうが他の仕事を抱えていようが、率先して再確保に動いていた模様。まして、志緒は一期のミスで取り逃がし、部下に被害も多大。落とし前をつけたいのは山々のはず、と推論』
「たかだか日本のごろつき二人と、国際指名手配犯じゃあ意気込みが違うのはあたりまえでしょう。自惚れないで頂きましょうか」
『自惚れではないと主張。むしろ自国の犯罪者だからこそ、沽券に関わると考えるのが妥当。何より、現夜一期が無責任かどうかは個人の主観ではなく公の記録から判断すべき、と提案』
わかっている。もし一期が生きていたら、まず間違いなく率先して動いていただろう。場合によっては、仁藤の指示も聞かず独断で。隠しごとも多かったが、その有様を時幸が読み間違えるはずがない。
むしろ、彼がいないからこそ、このような回りくどい作戦を実行しなくてはならなくなったわけで。
メリサはなおも続ける。
『そもそも引退する年齢ではないという事実。引退の理由が公表されていないのも不審。実際、近年のデータでは、意欲的に多方面への活動を行なっていたと記録。それがぷつりと途切れたのは三年前。以後、公式・非公式関わらず現夜一期の関与は皆無。推測される仮説は二種。一つ目に、仁藤周、或いはそれに類する立場の人間からの命令で、隠密活動に専念している可能性。但し、二年前の大捕り物の際に一切の干渉がなかったこと、加えて、その際の「捕り物」側の著しいモチベーションの低下から察するに、この可能性は低いと推理。となると、』
と、伏せていた目を向ける。台の高さもあり、メリサの視線は時幸の背丈よりも高い。だが、その目つきは、どうにも時幸を見上げるような、臓腑の奥まで露骨に覗き見しようとでもいうような底意地の悪いもののように思われた。
『二つ目の可能性。現夜一期は既にエージェントを続けられる状態ではないと結論。さらに言えば……もはや死んでいる。そう考えるのが妥当。違うというのなら、その根拠を開示するよう、請求』
こくりと首を傾げ、女は口元に微笑を浮かべた。劣化し、心棒のずれた人形のように。
時幸は鼻を鳴らすふりをして、深呼吸した。――ここまで、粗方想定通りに事が運んでいる。
メリサとの交渉が簡単には折り合わないことも、一期の不在に言及されることも、一期が既に死んでいると見破られることも、すべて仁藤が考えた台本の内だ。
ならば時幸は、このまま踊ればいい。
「ばれてしまったのならしょうがありませんね」
不敵な笑みを形作る。表面上は穏やかだったがその実、自死するほどに思い詰めていた父譲りの、常に一抹の影の過る顔立ちは、こういうとき、ぞくりとするほど人を惹きつける。
「まあ、想定内のことではありますが。とはいえ、あなたは《機関》の機密を知ってしまった。このまま放置するわけにいかなくなりました」
『もったいぶった言い方は結構』
自然の賜物とは思えないほど不気味で美しい時幸の昏い微笑を見ても、メリサの感情は小石ほどにも動いていない様子だった。むしろ、いったい何を見返りに釣ってくるのか、脅してくるのかと、余裕を持って楽しんでいる節さえ窺える。
生体認証解除には、どうあってもメリサ自身の同意が不可欠となる。力不足なのは百も承知だ。テロリストとの取引など、経験もない。だが時幸は、何としてでも彼女の首を縦に振らせなくてはならない。
後方に合図を送る。待機していたアンドロイドが扉を開けた。
瞬間、もうもうと湧き上がる紫色の煙があっという間に空間を席巻した。同時に、海水汚濁によって死んだ魚が打ち捨てられた浜のような生臭さが嗅覚を刺激しだす。
笹倉が、扉の横幅ギリギリくらいの台車を押して現れた。そこから零れかけた、碧色の塊が室内に運び込まれる。乏しい照明に照らされて、てらてらと表面をぬめらせたそれが、不意にびくり、と痙攣した。……まだ、生きている。
「おそらく三型‐クラスⅣ、大方北陸か東北辺りに住んでた人の成れの果てでしょうけど、いまは関係ないので省略します。コレが選ばれたことに特に理由はありません。適当に一体生け捕ってくれるようお願いしただけなので。たまたまです」
笹倉に目配せすると、彼女はひらひらと手を振った。
夏来をはじめとした研究部の人間に《ディヴィジョン》の採取を無茶振り、もとい要請されることの多い討伐班は、どこの部位に、どの程度因子を混ぜれば死なないままにしておけるのか熟知している。実際、この蜂と犬とイルカを混ぜ合わせたような醜悪な《ディヴィジョン》も、翅と脚の途中まで、そして尾を笹倉の因子によって壊死させ、身動きが取れないようにされつつも、主要な内臓に損傷はない。
メリサはつまらなさそうに反対側に首を傾げた。まさか、身動きのできない彼女に《ディヴィジョン》をけしかけよう、などという手は《機関》は用いまい。確かに弱っているとはいえ、クラスⅣに襲いかかられたらメリサに為すすべはないが。
とはいえ、わざわざ生きたままここまで運んできたことが、単なる脅しというわけでもないだろう。言葉は使わず、眼だけで、目の前に立っている小僧に促す。
時幸は一つ、息を吐いた。笹倉に一度下がるように指示を出すと、《ディヴィジョン》の前に立つ。予め攻撃に使えそうな部位は潰してもらっているため、脅威がないことは判っている。だが、奴は複眼に爛々と恨みの炎を燃やし、牙をがちがち鳴らして威嚇している。
看守に許可を取り、事前に持ち込んだ小刀で、時幸は自身の指を切った。すぱりと薄い線が白い肌を横切り、ぽつぽつと赤い玉が浮かび上がる。それを少年は、無造作に放った。血管から流れ出したばかりの新鮮な血液が、壊死して黒ずみ、腐敗臭を放つ《ディヴィジョン》の関節に降りかかる。ぱたぱたと赤い斑が散った。
悲痛な低い唸り声が、狭い空間に木霊した。
悶え苦しむ《ディヴィジョン》を前に、顔面は犬っぽいのに声帯は牛なんだな、と、どうでもいいことを考える。
メリサの目の前で、少年の血液が降りかかった箇所から、《ディヴィジョン》の身体がぼこぼこと泡立ち、シューシュー煙を出しながら溶けていく。強力な酸でも撒き散らされたかのように。
掻き毟ることも、転げまわることもできない《ディヴィジョン》は、それでも辛うじて動かせる部位を総動員し、声が続く限り唸り、雄叫び、涙と血と汗と尿と、その他形容しがたいありとあらゆる液体と固体を垂れ流しながら、三十秒ほどかけて絶命した。骨だけになってもなお、白灰色の泡が濁りながらその骸を齧り削っていく。
さすがのメリサも驚いたのか、頻りに瞬きを繰り返している。
「……これが俺の有用性、です。《機関》でも限られた者しか知りません」
『……それをここで明かす意義、推測不明。驚愕。混乱』
視線のみを右に、正面に、斜め左に、そして時幸に向けて動かした。
「ええ。これであなたは『共犯者』です」
用意していた絆創膏で傷を覆い、涼しい顔で取引を続ける。
「あなたの有用性の話をしましょう」
『? 《機関》からは生体認証の解除とだけ伝達』
「ええ。ですが、あなたを釈放するには理由が足りない。小里川志緒のテロと、それを放置した場合に起こりうる混乱を軽んじているわけではありません。ですが、今回の一件、成功しても失敗しても今後《機関》と政府の関係は悪化する。ならばいっそ、それに見合うだけの成果を持ち帰れ、というのが、俺が上から受けた指示です」
白煙と臭気を上げながら体積を減らしていく死体には目もくれず、時幸は向き直った。
「朝日メリサさん、《機関》に入りませんか?」
ぱちぱちと目を瞬かせ、メリサは首を巡らせる。先ほどと同じリアクションだが、単純に、いまできるリアクションがそれしかないからだろう。メリサは明らかに揺れている。慌ただしいのは、気持ちを落ち着かせるためだ。
『……その指示を出したのは、仁藤周?』
「ええ」
一度目を伏せ、コンクリートが剥き出しの武骨な床に視線を投げた。
「あなたの察したとおり、現夜一期は三年前に死んでいます。ですが、いま《機関》には後継となるエージェントが不足している。それこそ、こんな体質で、見た目通り若造な俺が、前線に駆り出されるほどに」
腕を広げ、自嘲気味に笑ってみせる。これは事実だ。一期が死んだ後、彼の技能を継いだエージェントは皆後始末に追われ、唯一の直弟子である時幸はまだ未熟、しかも訳ありだ。早梛が加わったとはいえ、未だ不測の事態に対処できる人材が常に足りない状況であることに変わりない。
「総帥はあなたのドローン操縦技能を高く評価しています。味方になってくれれば心強い。その証として、《機関》の『秘密』を開示しろ、という命令です」
『承知』
「もちろん見返りも……え」
一瞬、空間が凍てついた。《ディヴィジョン》が溶けていく音だけが継続的に聞こえており、止まっているのは時間ではなく彼の方だと教えている。
『意欲。メリサは《機関》の一味になることを選択』
「え、それは、けど……」
しどろもどろになり、後ろに控えていた笹倉に視線を向けるも、交渉事はあなたの仕事ですわ、と言わんばかりに知らんぷりされて途方に暮れる。
我に返り、二、三度咳払いして気を落ち着かせる。
「まだ《機関》に所属するメリットとか、小里川志緒の処遇とかまったく話し合ってないんですけど」
『不要。メリサは志緒の付属品。但し所有物ではない、自由意思を保持』
「付属品?」
『肯定』
頷き、メリサは目を細めた。
『“檻姫”は志緒さえいれば完結。ドローンを作るのも、操るのも、ハッキングも、情報操作も、すべて志緒の技術。メリサがいなくても、志緒は何も困らない目算。困らないけど、つまらないと豪語。メリサはお飾り。ただの人形。ただの志緒の、コッペリア』
ふぅ、と、僅かに息を吐いた。疲れ果てた、五年間拘束され続けたことだけではない、もっと根本的な何かに飽き飽きしたというように。
「……それだと疑問が残ります。ただの愛玩人形であれば、こんな大ごとに世界を巻き込んでまで手元に戻そうとしますか? 何か、彼にとって都合の悪い情報を握っているとか、あなたにしかない技能があるとか……」
メリサは数度の瞬きの後、目を瞑って首を僅かに振った。先ほどのすべてをうっちゃっている態度の表れとは違う。純粋に、時幸に呆れている。
『利害だけで人が繋がると、本気で思っているなら誤解。逆に質問、あなたと一期は血縁ではないのか』
不意打ちに師の名を出され、弾かれたように顔を上げた。
『現夜一期がプライベートはいい加減な人間、各国との交渉でも傍若無人で幾つもの組織を掛け持ちしつつ、その総てに忠誠心を持っていない、尊敬できる部分の乏しい人間であることはその界隈では有名。見たところ、そんな彼に憧れ、意志を継ごうとしている現夜時幸は、利害関係だけで一期と繋がっていたとは思えないと判断』
胸を突かれる思いだった。一期との間に血縁関係はない。だが、単に利害関係と言い切ることができないだけの恩を、情を、受け取っている。
戸籍上の父親だから、という形式上の理由はある。「人並みでありたい」という意地から、育ててもらった恩を無下にするわけにはいかない、という義理もあった。
だが、それだけではない。いたずらされることも厳しく躾けられることもあったとはいえ、いや、むしろ中途半端な関係を嫌っていたからこそ、一期は時幸に容赦をしなかった。だからこそ、お互いに隠しごとはあっても時幸は一期に心を開いたし、全幅の信頼を寄せていた。
だが、時幸の理性はそれを否定した。
利害ではない「情」の関係を認めてしまえば、時幸は自分の中にある「母性愛」を否定できなくなる。母親に棄てられた。愛されていなかった。道具としての情しか与えられていなかった。一期に育てさせるために手放したことに、葛藤や未練はなかった。そう信じたかった。
時幸の眼の手術の直前、様子がおかしかったのは、自分の都合で息子を傷つけること、手放すことに迷いがあったのだと、薄々気がついてはいた。けど、認めたくなかった。母親に愛されていたこと――自分が、母親を愛していること。
だから、時幸は――情による繋がりを、肯定しない。肯定するわけに、いかない。
「……小里川志緒が、あなたを情で繋ぎ止めていた、というのはわかりました。では……あなたの方は、どうだったんですか?」
『? メリサにはそもそも、情なんてない』
メリサは質問の意義というより、やや動揺した様子の時幸に怪訝になったようだった。
「え……」
意外な言葉に、自分自身の心の内と向き合う恐ろしさからの逃避も相まって、時幸は食いついた。
『……言ったはずだけど、メリサは、人形。人間ではなく人形だから、自分で考えないし、行為しない。必要としてくれる人間に道具として使われるだけ。一番最近の持ち主が志緒だった、それだけ。どんな乱暴な扱いを受けようが、逆に大事に大事に扱われようが、人形なんだから、何も感じないし、不当とも思わない。だって……』
むしろそれがあたりまえであるかのように、淡々と述べる。
『傷ついても、痛む脳さえないのに』
「――‼」
本気で、そう思っているのか。自分は人形だと。どんな扱いを受けたとしても、心には何も響かないと。
おそらくはそうなのだろう。実際に自分が布と綿でできてると思ってはいまい。だが、この女には人間として必要最低限の「何か」が決定的に不足している。故に、同じ人間だとは――時幸も大概だと、思っていなくもないが――思えない。
彼女が“檻姫”となる前、志緒と出会う前の経歴は不明だ。朝日メリサ、がそもそも本名なのか、日本人なのかも不明。人外戦争後、そのような人間は珍しくない。だから、彼女がその長いとは言えない人生で誰にどんな扱いを受け、こうなったのかはようとして知れない。
だが、これだけは言える。
――メリサは、壊れている。
「……俺は、あなたとは違う」
狂気にも近い自己定義に薄ら寒いものを覚えつつ、時幸は絞り出すように宣言した。
「俺は、誰について行くのか、誰を目指すのか、自分で選びました。誰に情があろうが、選ばされた道だろうが、それは変わりませんし、誰にも否定させません。俺は世界に生かされてるんじゃない。俺が、俺の意志で選び、進んでる」
だから……母親に、捨てられたんじゃない。
俺が、自分で、あの人とは決別したんだ。
少年は眼前だけをひたすら睨みつける。自身の極端さから目を逸らしていることに、気づかぬまま。
その青さ、未熟さ故の危うさに気づきつつも。指摘するでも、嫌うでもなく、まさに人形のように無感動に、形式的に。
メリサは、取引に応じた。




