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*第一章*

 大きな戦争があった。

 人と人の、ではなく、人と人外の。


 十九年前、突如として現れた未知の脅威《ディヴィジョン》。

 手段は多岐に渡るが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()奴らは瞬く間に増殖、世界中に分布した。どんな強力な兵器も奴らを、特にクラスⅠと呼ばれる《ディヴィジョン》の頂点に立つ存在を葬り去ることはできず、人類は成すすべもなく命と土地を奪われ続けた。

 半年後。後に【紅鹿事変(こうろくじへん)】と呼ばれる、思わぬ事態により《ディヴィジョン》の攻勢が弱まった隙を突き、人類は残された土地に高さ数十メートルに及ぶ壁で囲んだ武装都市を建設し、立て籠もることでひとまずの安寧を得た。そして今日に至るまで、世界各国、各都市で発足した専門機関が、奴らに対抗するための研究と文字どおり壁際の攻防をいまも続けている。

「日本におけるその拠点がここ――《機関》というわけだ」

 時幸は部屋の中央、白い寝台の上に手首と足首、腰を金具で固定された状態で横たわっている。普段纏っている黒い制服ではなく、清潔な術衣に着替えさせられて。細身ながらもそれなりに肉のついた、けれど年相応の少年らしい未熟な身体は、真っ白い術衣ごしだと着痩せして見える。毎度のことだが、この部屋や類似の研究室でこの状態にされる度、「俎板の上の鯉」という慣用句が脳裏に浮かぶ。

 彼の周囲では白衣を着た複数の男女が、クリップボードに何か書き込んだり、モニターの数値を確認したり、せわしなく立ち働いている。と、一人の研究者が丸い機器を押しながら寝台に近寄り、「目を瞑らないでね」という一言とともに時幸の顔に強い光を照射した。

 一瞬、反射で目を瞑る。おそるおそる目を抉じ開けるが、それでも眩しく、再び瞼が落ちそうになる。

 両眼ともに深く濃い黒色の彼の瞳は、普段はその性格の温和さを表すかのように円い。だが、さすがにいまは薄目しか開けられず、光が反射して鋭くなり気味だ。

「《機関》の人類への貢献は大きい。《ディヴィジョン》に対抗できる特殊な『調整』を受けた《調律の彼女》を作り出すことに成功し、人類の手によるクラスⅢ以上の個体の撃破に世界で初めて成功した。さらに、上位の《ディヴィジョン》の大群による都市攻撃を暫定日本政府との合同軍で撃破するなど目覚ましい戦果を挙げた。だが、奴らの脅威はなくならない。兵器を投入し、奴らを寄せつけにくいものに壁の材質を変え、高さや厚さを増しても、都市を襲うこと、人間を殺すことを諦めようとはしない。そうせざるを得ない『何か』が奴らにはある。奴らは……『そういうふうに、できている』」

 こうしているいまも、外壁の向こうでは人類と《ディヴィジョン》との攻防が昼夜を問わず続いている。開戦直後ならいざ知らず、現在では研究も進み、奴らの習性や弱点もある程度判明し、対抗手段が確立している。最上位のクラスⅠでさえ、ある程度の火力と弱点となる物質、幾つかの地形の条件が揃えば撃破できる。それでも、《ディヴィジョン》は壁に殺到し、隙さえあれば都市に攻め込んでくるのを止めようとはしない。たまにとはいえ壁を越えて、或いは壁の隙間(老朽化や成分の偏り)を突き崩して侵入してくる《ディヴィジョン》もいる。そういった輩は大体小物だが、当然放置はできない。

「壁の防衛に当たり、《ディヴィジョン》の侵入を防ぐ政府・《機関》合同軍とそれに属する《調律の彼女》による公の対抗勢力が《メイジャー》。それに対し、内部に侵入してきた《ディヴィジョン》を、《機関》から発行される資格を取得して駆除する《調律の彼女》とそのサポートをする民間人が《マイナー》。……さて、どうして私が、こんなわかりきっていることをわざわざ長々説明したのかわかるか、ユキ」

 ようやく光が消され、素直に目を瞑るが、それでも残光が瞼の裏に緑色の斑を焼き付けた。振り払うように、唯一自由になる首を左右に振る。眼と同じ色の艶やかな髪が、寝台に打ちつけられてぱさぱさと音を立てる。

 ようやく目を開ける。まだ眩しい。寝台とその周囲の研究者の服装だけでなく、高い天井もそれを支える四方の壁も、床も設置されている機材まで、何もかもが白く、どんな些細な光さえ跳ね返すのだ。

 そして、寝台の傍らに立つ、部屋の中で唯一色のついている人は、まさに「どう料理してくれようか」といったように彼を見下ろしていた。

「……《機関》に所属する者には、末端に至るまで、人類の安全を担うものとしての責任がある、ということだ」

 スマートなアッシュグレーのパンツスーツに身を包み、量の多い褐色の髪を折り鶴の飾りのついたシンプルな簪で纏めた、三十歳前後の女性だった。切れ長の目といい、艶っぽい唇といい、いかにも仕事のできるクールビューティ、といった風貌。だが、その佇まいには一切の油断も隙もなく、さらにいうならいまは柳の葉の形をした眉の間に皺を寄せていていかにもおっかない。

 当然のことながら、琴羽は少し、不機嫌なようだ。彼女のお陰で、今回の試験では時幸に情報でのアドバンテージがあった。さらに、試験期間終了が迫っていたこともあり、通常行うエージェント昇進試験よりも遥かに難易度は低かった。にもかかわらずしくじったのだから、失望は当然だろう。

 一人の女性研究者が躊躇いもなく時幸の術衣をはだけさせ、肩や胸にパッチを貼っていく。鈍い駆動音がして、少年の身体に振動が伝えられる。

「……油断していたわけではないと思います。他の《マイナー》に手柄を横取りされることには警戒していました」

「ふむ」

「……彼女のこと、どこまで掴んでいるんですか」

 同じ研究者がパッチを取り外し、時幸の術衣を直した。手慣れている動作だった。

「結論から言って……あの少女は《マイナー》ではなかった」

 寝台が動きだした。ベルトコンベアに乗せられて出荷されていく商品のように、時幸の身体は幾つかの機器に潜らされていく。

「討伐後の申請なし。顔、名前、ID序列、すべて登録なし。予想していたことだが、どうやら完全にモグリのようだな」

 研究室内を移動する寝台に付いていきながら、淡々と説明する。

「やはり、そうでしたか……」

 人一人がすっぽりと入れる大きさのトンネル状になった機器が近づいてくる。正確にいうと寝台の方が動いているのだが、少年は自らの意志とは関わりなくその中に突入する。

「予想はしていました。《マイナー》は原則《ユニゾン》を結成して討伐に当たるのが基本ですから。けど、じゃあ、どうやって封鎖地区に侵入したんですか」

 機器の中で青いレーザーで身体をスキャニングされながら、時幸は疑問を口にする。

「隔離壁が起動する前に予め潜んでいたらしい。今回は侵入から討伐要請までスパンが空いてしまったからな、ありえない話でもないだろう」

 機器の中で数秒間照らされたのち、時幸を載せた寝台が再び動きだし、元の位置まで移される。

「……じゃあ、使用した武器については?」

 二人から距離をとっている研究者の一人が手元のキーボードを操作する。今度はゆっくりと、寝台が回転する。

「……おまえはどう見る?」

 《ディヴィジョン》を滅ぼす手段は限られているが、奴らは天敵となる物質にはとても脆く、小量が体内に入っただけで瞬く間に細胞崩壊を起こして死滅する。幾つかのタイプ、階級に分けられる《ディヴィジョン》の、これは共通する法則だ。それらのことを踏まえれば、少女の用いた武器も自然と予想がつく。

「おそらくは、五型の材質か薬液を使用していると思われます」

 《ディヴィジョン》が斬られたときの様子を思い起こしながら答える。三型の《ディヴィジョン》に対して、あの刀にはその変化を封じる効果があった。一方で、致命傷には至らなかった。《ディヴィジョン》が崩壊したのは単にぶつ切りにされて生命活動を維持できなくなったからに過ぎない。

「そう。回収した三型の細胞からは、僅かながら五型の細胞が検出された。こちらも照会したが、やはり登録のない武器だ。もっとも、武器が特殊なのか《調律の彼女》の能力なのかは不明だが」

「《調律の彼女》? 《マイナー》ではないのでしょう?」

「海外で手術を受けた可能性もある。知ってのとおり、五型は対立関係にないタイプにもある程度優位をとれしな。クラスⅣ程度であれば、それ以上の格持ちなら容易いさ」

 縦になった時幸と向かい合う形で立つ琴羽の身体から、赤い光線が透過して少年の肌を照らし上げる。

「……というわけで、正体や居場所の調査についてはまだまだこれからの段階だ。だがうかうかしてはいられない。その娘が何者で、何の目的で【()()】の一部を持ち去ったのかは不明だが、たとえ一部であっても持ち去られたのがクラスⅣの細胞である以上、複数のクラスⅤが東日本一区(このまち)に解き放たれる危険性がある」

「もちろん、このままにしておくつもりはありません」

 光の照射が止み、寝台が回転を始める。その直前、琴羽は素早く飛び退る。

「今回のことは俺のミスです。そして、自分のミスのケリは自分でつけるのが《機関》の……エージェントの掟ですよね。大丈夫、絶対に挽回します。彼女を見つけ出して、【眷属】の一部を取り戻します。やってみせます」

 再び横になりながら意気込みを語る彼に、

「悪いが、それはない」

 琴羽の容赦ない一言が突きつけられた。

「彼女のことはもちろん見過ごせない問題だ。だが、おまえはこの任務に参加する資格はない」

「……しくじった、からですか」

「そうだ。そして本日1900(ひときゅうまるまる)をもって、試験期間終了。特務部遊撃班零室所属、現夜時幸の正規エージェントへの昇格は白紙になった」

「はぁ⁉」

 思わず身を乗り出しかけた時幸の首と腕に、幾本もの針が打ち込まれた。コンピューター制御によって的確な位置に打たれた針が刺された勢いで、時幸は寝台に縫い留められる。針に繋がれたチューブの中を、暗い色の赤い液体が通り抜けていく。

「納得いきません」

 哀れな標本となりながらも、時幸はじたばたと反論する。

「おまえの努力は見ている。しかし、しくじったことに変わりはない」

「今回の試験前の実績はどうするつもりですか」

「いっただろう、白紙、つまりリセットだ」

「そんな、おかしいです。確かに俺は今日失敗しました。自分でも信じられないようなミスです。けど、それでいままで積み上げてきたものも全部無しなんて、あんまりです」

 皮膚の下をぞくぞくとした不快感が走る。脳の奥をチカチカとした警告が行き過ぎる。徐々に四肢から感覚がなくなっていく。

 なぜわざわざ検査中に通告に来たのか、そもそもどうしていつもより早く定期検査が行われたのか、理解した。事情を知らされた時幸が自棄になって暴れるのを防ぐために、敢えて身動きできないタイミングで告知したのだ。

「私も理解している。おまえのここ数か月の努力と、その結果勝ち取った評価を。だが、充分過ぎる支援を受けてなお討伐に失敗したこと、それも討伐権限も武器の所持も認められていない相手に手柄を横取りされたこと、違反行為を目の当たりにしながらみすみす見逃したこと、さすがに擁護できない」

 琴羽は淡々と続ける。

「確かに討伐後は現場の保存が鉄則だが、エージェントには状況を見て柔軟に対応する力が求められる。おまえは正規のエージェントではないとはいえ、ただの《マイナー》でもないんだから、追跡班に連絡して追わせるなり、通信室に直接電話して現場を監視させるなり、いくらでもやりようはあったはずだ。状況を鑑みて、彼女が《マイナー》だと判別できなかったのだとしたら間抜けだし、気づいていたのならなおさら悪い。たとえ【眷属】の持ち去りがなかったとしても、当然武器の所持も認められていないわけだから、そういった意味でも防げたはずの危険性を排除できなかった点は大きい」

 普段から自分にも他人にも厳しい人ではあるが、こういうときには本当に、徹底的に容赦がない。

「たとえ相手が武器を持っていたとしても、おまえには先輩仕込みの“審判(ジャッジメント)”があった。しかも、J・Rまで保有していた。なのに、どうして拘束しなかった。こう言ってはなんだが、我々を失望させるのに充分だったよ。……それに、おまえに期待されているのはただのエージェントではない。先輩の……あの『アラヤ』の後を継ぐ者、だ」

「っ」

 悔しいが、琴羽の言っていることは何一つとして間違ってはいなかった。

 それでも納得いかなかった。三年間、ずっと耐え続けた。ようやく掴んだチャンスと、数か月間かけて積み上げた成績なのだ。確かに他よりも高いハードルが要求されてはいた。しかし、いやだからこそ、引き下がるわけにはいかなかった。

「一度でいいです、あと一度、チャンスをください」

 意識が薄らいでいく。チューブの先に繋がれた瓶の中に赤色が満ちていく。貧血状態によるある種の恍惚に必死に抗い、懇願する。

「無理だな。エージェント昇格を決めるのは私じゃないし」

 だが、ぴしゃりと跳ねのけられた。

「……っ、だったら、直談判、します」

「それも無理だ。試験白紙決定ののち、総帥は秘書を伴ってマカオへ出向かれた。いま頃は空の上だ」

「マカオ……」

 琴羽は肩を竦めた。

「次、いつ会えるかは判らないな」

 首を振るう。感覚のない手足をだらりと伸ばし、ただされるがままに血を抜かれ続けた。感覚喪失と意識低下の状態は数十分続くこともある。採血が終わるまで、白いくせに何の面白みもない天井をただ眺めていることしかやることがない。そしてその間、時幸の脳内では不合格だったこと、これまでの努力が無に帰したことがリピートされ続けるのだろう。

 そんな時幸を哀れんだのか、琴羽はふう、と息を吐くと、もう一つの告知をした。

「彼女のことは心配するな。カメラの映像から顔と体格は割れている。倉木(くらき)なら明後日には特定が終わっているだろうさ。他区への連絡ゲートにも手を回した。身柄を押さえるのも時間の問題だ。そんなわけで、おまえはしばらく暇だ。その間に学校へ行け。『少なくとも高校卒業』も、正規エージェントになるための条件だろう? 今回は残念だったが、いずれまた機会は巡ってくるさ」

「はい……」

 時幸は一瞬考え込み、深く息を吐いた。

「一つ、お願いがあります」

「内容によっては聞かなくもない」

 琴羽は、次々に瓶に満ちる少年の血液をちらりと見た。どう見積もっても検査にしては多すぎる量が搾り取られている。一瞬だったが、そのことに対する嫌悪と諦観が、深い色の瞳の中で絡み合っていた。

「十日間、監視レベルをEまで下げてください」

「ほう」

 女性は意外そうに瞬きした。

「おまえにしては珍しいおねだりだな。理由は?」

「別に、大したことではないのですが……楽しみにしていた映画がもう公開されているので、タイトルと視聴回数が記録に残らないようにしたいんです」

 琴羽はますます目を丸くし……その形のよい唇から、一塊の息が零れ出た。

 耐えられない、というように笑声の漏れる口元を細い指で押さえながら、肩を震わせる。

「それに、この機会に小旅行にも行きたいですし、欲しいものを買いにも行きたいです。カラオケとゲーセンにも。ここ数か月、試験のことばかりでいろいろ我慢し通しだったので。評価は白紙でも、稼いだポイントは報酬として口座に振り込まれるはずですよね」

「ああ……くくっ」

 一頻り声を押し殺して笑うと、緩く腕を組んで向き直った。

「いいだろう。本来なら私の権限を越えてはいるが、総帥はいないし、あんなことがあった後だ、九岡(くおか)も反対はしないだろう。存分に羽目を外すといい」

「……ありがとうございます」

 優しい言葉に戸惑いつつも、感謝の言葉を述べる。

「それでスズが『今日は念入りに検査する』って言ってたな。しばらく間空くから」

 唐突な定期検査の前倒しには、そういう意図もあったのか。

 琴羽の配慮は素直に嬉しかった。

 それを裏切る算段を立てるのが、申し訳ないほどに。

 かつて、宇宙から見た日本列島の夜は、その形がくっきり現れるほど明るかったという。

 狭い国土にひしめくようにしてあった光は、いまはもうない。いまもなお地球の軌道に乗って様々な事象を研究、観測している人工衛星から夜の日本を見たのなら……おそらく、六つの光の塊が点在して見えるのだろう。

 そんな、夜に光になる場所の一つがここ――東日本一区であり、その中心部付近、エリア21、旧渋谷区に位置する私立清蓬(せいほう)学園が、時幸の通う高校である。

 午前九時。渡り廊下によって連結された大小幾つもの棟の一つ、南校舎一階の教室にその姿はあった。

 五月半ば、まだ多くの新入生が学校に馴染みきっていない時期にもかかわらず、制服姿の時幸はなかなか様になっていた。上下とも黒一色、すらりとしたシルエットの、リクルートスーツやタキシードを思い起こさせるデザインの制服は、彼のしなやかな体躯によく似合う。さらに、入学と同時にエージェント見習いとして働くときにはいつも、つまり休日含めほぼ毎日着用しているためか、他の生徒よりも馴染みが早いのかもしれない。もっとも、その着用頻度にもかかわらず、時幸が登校した日数は今日を含めても僅かだった。まあそれも、この学校では特に珍しくもない。

 始業前、教室では皆が思い思いの場所で友人と談笑したり、端末を弄ったりしている。単独の者は時幸だけだ。確実に、遠巻きにされている。別に素行が悪いわけではない。むしろ誰にも、同学年に対しても相変わらず、丁寧な口調と態度を貫き通している。それが逆に壁を作っているように感じさせるようで、敢えて親しくなるような生徒はいなかった。時幸としては、《機関》に所属している事実が露見する、なんてことは当然あってはならないので、むしろ都合がいいとも思っている。

 にもかかわらず彼が注目されるのは、単純に……見ていて嫌な気持ちにならないからだ。しかも本人に自覚はない。頻繁に欠席するから、たまに出席するのは物珍しいのだろう、と思っている。

 一時限目で使用する教材を机の上に準備する。幼い頃に世界中を連れ回されていた時幸にとっては、英語は簡単な言語だった。それでも、自然に、或いは必要に迫られて習得するのと違い、しっかり学び直すというのは新鮮で楽しいことだ。しかし今日は他にやることを抱えているため、授業には集中できそうにない。

 と、廊下から、ぱたぱたと急ぐ足音が近づいてきた。ドアの隙間から時幸を盗み見ていた他クラスの女生徒を追い散らすようにして、一人の女子が転がるように教室に入ってくる。

「二年の杉原(すぎはら)、《ディヴィジョン》に殺されたって‼」

 とっさに立ち上がった時幸が助け起こすより前に飛び起きた女子が、真っ先に叫んだ。教室中が一斉に静まり返り……程なくして、ざわめきだす。

「マジ?」 「この近く?」 誰、杉原って?」 「どこに住んでんの」

「怖いね」 「ほんとに?」 「今日休校?」 「やった、休める」

「大丈夫ですか」

「あっ、現夜くん……ありがと」

 差し伸べられた手をおずおずと握った女子は、仕入れた情報を披露する。

「えっとね、エリア69にある自宅で、一家皆殺しにされてたのが発見されたんだって。しかも、やったやつ、まだ見つかってないって! それで今日、臨時の全校集会だってさ」

「まじか」 「一時限目は確実に潰れるな」 「よかった、うちの近くじゃない」

「69ってどこらへん?」 「まだ捕まってないの?」 「ヤバくない?」

「ま、すぐ見つかるっしょ」 「ゲーセン行こうぜ」

 不安を口にする者もいるが、安堵し、もうこの件は終わった、と思っている者もかなり多いようだ。それほどまでに、日常茶飯事なのだ。《ディヴィジョン》が侵入すること、人が襲われること。それでいて、よくあることじゃない、自分は大丈夫だ、と思い込んでいる者が圧倒的に多い。こんなに身近で犠牲者が出たというのに。

「すみません、詳しく教えていただけませんか」

 握ったままだった女子生徒の手を、自然に振りほどきながら尋ねる。

「あ、その……ごめん、これ以上はよくわかんないの」

「そうですか。ありがとうございます」

 死体が残っていた。一家皆殺し。ということは個人の判別はついたということ。発見された。発覚が遅れた。上位の個体であれば《機関》による二十四時間監視によってすぐ気づかれるはず。……もしかしたら彼女が持ち去った欠片によって生まれたクラスⅤの犯行であるかもしれない。その可能性は限りなく低いが、急いだほうがいいだろう。

 そこまで考えたところで、どたばたと、先ほどよりも重い足音が響いてきた。程なくして「席に就け!」の大声とともに、1―Aの担任が教室に入ってきた。


 教室にいる人間は皆着席した。他のクラスの友人に会いに行っていた者も戻ってくるが、それでも出席している生徒は疎らだ。

 黒板の前に吊るされたスクリーンに、清蓬学園学園長、相川(あいかわ)智典(とものり)の上体が映しだされる。

「……痛ましい事件が起こりました」

 学園長はそうしてまず、今回の事件のことを話し始めた。だいだい先ほどの女子が語ったことと同じだったが、杉原一家の遺体には人間がつけたとは思えない大きな、そして鋭利な裂傷が残っていたと聞き、あの少女が持ち去った欠片は今回の件とは無関係だと判明した。あの流動する個体とは明らかに結びつかない殺傷方法だ。

「そもそもの始まりは、十九年前……」

 そして話は、都市創設へと移り変わっていく。

 ここにいる多くの人間は、《ディヴィジョン》がどこから来たのか知らない。なぜ人間を襲うのかも、《調律の彼女》が対抗できる理由も。

 ある日突然現れ、何が何だかわからないまま戦い、ひとまずは壁を築き、いつ終わるとも知れない戦いを日々重ねる。そんな日常に、都市内部の人間はもう、慣れてしまった。この学校にいる生徒の大半は、生まれたときから既にこの状態があたりまえだった世代だ。だからこそ死に無関心でいられる。死が関わりのないものだからではない。死があまりにも近しいものだから。

 時幸は室内の空席をちらりと見る。東日本一区では、資格さえ取れば十三歳から《ディヴィジョン》の討伐に当たることができる。当然、《ディヴィジョン》の侵入がないときには学校や会社にいるわけで、この清蓬学園は、そんな《マイナー》と学生を両立する生徒を受け入れている学校の一つというわけだ。そのため、総帥から正規エージェントになるときの条件が提示された際も、スムーズに進学することができた。時幸が《機関》の人間であることはごく一部の教師しか知りえないが、事情を知らない教師や生徒も、勝手に解釈してくれるので楽ではある。

「しかし、これで終わりではありません。今回のような痛ましい……」

 相川はまだ話している。小中でも思ったが、校長だの理事長だの、上の連中はどうしてこうも話が長いのか。《機関(うち)》の総帥を見習ってほしい。

 総帥といえば、マカオではいま頃どうしているだろう。前線で戦っているのだろうか。かつてこの都市を、《ディヴィジョン》から奪還したときのように。


 《ディヴィジョン》の出現から半年後、一方的な全面戦争は開始と同じく唐突に休戦することになる。それまで人類を絶滅させる勢いで――事実、ヒトという種そのものの存続が危ぶまれる攻防が幾度となくあり、誰もが遠くない未来にそうなることを予測し、絶望し諦観した――殺戮と増殖を恣にし続けた《ディヴィジョン》は、増えたときと同じくらい唐突に、爆発的にその数を減らした。いや、減らしたなんてものではない。僅かな……それでも人類の脅威と呼ぶにふさわしい数だったが、最盛期と比べると本当に、本当に僅かな生き残りを除き、絶滅した。ある一つの存在によって。

【一型‐クラスⅠ‐β】

 それまでに確認された多種多様な《ディヴィジョン》の中でさえ、それはまさに規格外の存在だった。大きさも、能力も、何もかも。

 初めてそれが出現したとき、そして最初の一声を上げたとき。

 周囲の《ディヴィジョン》が、悉く消滅した。文字どおり、ぱっと消えた。

 種類も、階級も、数も関係なく。突然、人間を襲っていた個体も、人間を食べていた個体も、《ディヴィジョン》になりかけていた人間も。……いや、正確には、その鳴き声を聞いても消滅しない個体がいた。それは本当に少なかったが、確かに、ある条件に則って選定されていた。

 その紅い《ディヴィジョン》はその後も世界各地に出没しては、多くの都市と人々をその巨体で踏み潰しながら、他の《ディヴィジョン》を篩にかけ続けた。それが世界を回るのに十日もかからなかった。残した傷跡の大きさを考えると、あまりに短い期間だったといえる。

 世界中の《ディヴィジョン》を……対象となる《ディヴィジョン》を消し去ったのち、それは唐突に姿をくらました。

 その事件は、それを引き起こした個体の外見上の特徴をとり、こう呼ばれている。

 ――【紅鹿事変】。


 結果的に、《ディヴィジョン》は大々的に弱り、隙をついて人類は絶滅を免れたわけだが。

 それは人類の勝利ではなく。自力で勝ち取った休戦期間でもなく。

 つまりは、《ディヴィジョン》による、壮大な同士討ちに過ぎなかったのだ。

 深紅の《ディヴィジョン》にとっては、人類などどうでもいい存在だったに違いない。事実、《ディヴィジョン》数体に殺されるのとは桁違いの人命がそれ一体に奪われた。人類は知ってしまったのだ。どれだけ力を合わせても、叡智の限りを尽くしても。絶対に倒すことのできない敵の存在を。滅亡を免れはしたものの……事実上、人類は敗北した。

 そんな混乱期に発足したばかりの《機関》は、かつて人類の生活の場であり、後に《ディヴィジョン》によって蹂躙され、そして人類の領土でも奴らの領土でもなくなった瓦礫の荒野に一から街を築いた。人が増えるほど《ディヴィジョン》もまた引き寄せられた。《機関》は都市の整備を進めると同時に、武装兵を指揮して日夜を問わず戦い、彼らを盾にして都市は建設されていった。

 この戦いにおいて、生身の人間でありながら前線で戦い、単騎にてクラスⅢを打ち取った者がいた。《機関》の最古参の一人であり、後にエースとして特務部を率いることになるその男の、個人情報は非公開だが、彼は世界中から称賛され、「英雄」「人類の希望」「救国の番人」などの異名で呼ばれた。……小学校で歴史を学んだとき、本人にその話をしたところ、「えっ、おれそんな風に呼ばれてんの。ダサい上にすっごく恥ずかしい。おいユキ、おまえ絶対おれをそう呼ぶなよ。呼んだら殴る」と凄まれた。一度「番人さん」と呼んだら本気で殴られた。痛かった。

 ……こうして、人類は仮初とはいえひとまずの平和を獲得した。様々な問題を抱え込んだまま。

 【事変】を起こした個体も含め、世界各地で数年おきに確認されている規格外の四体に対抗する手段はいまだ見つかっていない。さらに、「人類の裏切り者」、開戦直後の混乱期に世界中の核兵器という核兵器を使えなくしたテロリストによって隠された爆弾の所在も不明のままだ。そもそも、いまもなお世界中で増殖を続ける《ディヴィジョン》の頂点、クラスⅠの発生源を絶たない限り、根本的な解決にはならない。


「……でもさ、」

 と、後ろから囁き声がした。時幸の席から一つ挟んで真後ろに座る女子と、その隣の友人のようだ。

「《ディヴィジョン》ってさ、人間が作ったんでしょ」

「らしいね」

「そうだよ。じゃなきゃ、《機関》があんなに早く対応できるわけないじゃん。隠してるんだよ」

「もしほんとうなら、何で隠してるのかな」

「そりゃ、責任とんのが嫌だからでしょ」

「やだねー」

 巷ではあることないこと、まことしやかに噂されている。

 真実のすべてを知っている時幸は、退屈気な溜息を一つ漏らす。スクリーンが巻き上げられ、ホームルームが始まった。

 四限目の授業が終わった後、担任教諭に早退する意向を告げ、時幸は学校を後にした。教諭は一瞬迷ったようなそぶりを見せたが、結局何も言わずに時幸を送り出した。

 現在では旧東京都全土と旧神奈川県、千葉県、埼玉県の一部で成り立つこの都市は、内部はおよそ六百もの区画に分割され、それぞれに番号が振られている。番号が若くなるほど中心部に近く、都市防衛や行政のための主要施設も集中している。

 清蓬学園のあるエリア21の主駅から、モノレールに乗って南へおよそ10キロメートル。エリア18の主駅で下車。事前にコインロッカーに預けていた小道具の紙袋を回収。トイレで変装、といっても分け目を変えて伊達眼鏡を掛けただけだが。その後、端末で地図を確認しつつ歩きだす。

 建設当初は要塞都市という印象が深かった東日本一区も、この十九年ですっかり整備され、外周部以外は比較的以前の様相と設備を取り戻していた。特にこの辺りは、《ディヴィジョン》の侵攻から残った建物をそのまま利用し、或いは改装して、昔とほぼ変わらない街並みを再現している。

 時幸が足を止めたのは、大通りに面した小さな書店の前だった。正面入り口は両開きの引き戸で、黄色く煤けた硝子越しに店内の様子が窺える。立ち並ぶ高い棚に配架された本はどれも年季が入っている。若い店員が一人カウンターで本を読み耽っているのみで、客はいない。どうやらあまり繁盛してはいないらしい。書籍の電子化が進むこのご時世、紙の本を買い求める人々は減りつつある。しかもそういった人々は駅前に並ぶ大型の書店にとられがちだ。それでも潰れないのは、ここが周辺高校の教科書を取り扱う店舗だからということを、時幸は調べ上げていた。

 引き戸を開けると、取り付けられた鐘がカラカラと乾いた音を立てた。

「いらっしゃいませ」

 一心に本を読んでいた店員が弾かれたように顔を上げた。カウンターから立ち上がって二、三歩こちらへ歩み寄る。

 小柄な体格。埃を被った書店には似つかわしくない整った容姿。されど、深緑のエプロンを纏った姿に違和感はなく、飽くまで平凡な印象を与える。青みがかったポニーテール。まさか客が来るとは予想していなかったらしい。きょとんとした顔には先日の険しさは微塵もないが、紛れもなく、目的の少女だった。

「何かお探しですか……」

 そう問いかける声が窄まり、大きな瞳が時幸の顔を凝視する。気づかれた? プランAか。いや、その表情に驚きや警戒はない。好意的でさえある。どうやら、ことあるごとに師匠に「くっ、おまえほんとに無駄に顔がいいな」と言われ続けた時幸の顔に見とれているらしい。

 そのことに気づき、不思議そうに頬に手をやる。幼い頃より《機関》の大人達、その性別にかかわらず彼のその点を指摘し、学校では話しかけられこそしないが、女子の中には始業前や、休み時間には他のクラスからわざわざ見に来るような生徒もいるくらい。にもかかわらず、時幸は自身の容姿に対してあまりにも過小評価だ。謙虚というより本当に、全くといっていいほど、これっぽっちも自覚がない。

 それはさておき、どうやら彼女は時幸の顔は覚えていないらしい。予想どおりだ。時幸の仮説が正しければ、その場にいただけの、いわばモブだと思っていた人間の顔までは記憶していまい。プランBで進める。

 書店の奥から動かない少女に歩み寄る。

「あの、お伺いしてもよろしいでしょうか」

 警戒されないよう微笑みを浮かべながら、予め用意していた紙片を取り出す。無自覚イケメンに微笑まれ、少女はみるみる赤くなる。

 手を伸ばせば頬に触れられる距離。改めて見ると、本当に小さな少女だ。事前に調べた情報では時幸よりも年上ということだが、十二、三歳でも通用しそうなほどだ。身長だけでなく、体型も華奢なつくりをしている。戸惑うように胸元で握られた指は細くたおやかで、こちらを見上げる眼差しといい、守ってあげたくなるような可憐な美少女だ。

 だが、時幸の差し出した紙片、そこに書かれた書名を見た瞬間、その表情が凍りついた。すぐに平静を取り戻したが、一瞬の間に浮かんだ驚愕と困惑を時幸は見逃さなかった。

「ああ、この本なら、すぐにご用意できます」

 ちょっと待っててください、と踵を返す少女。カウンターに置かれていた本を手に取り、タイトルを確認することもなく時幸の元へと運ぶ。それは先ほどまで、少女が読んでいた本のはずだ。

「こちらでよろしいでしょうか」

 全体が黄ばみ、ところどころに傷や折れが目立つ本。食み出した栞の房の先は解れてぼろぼろだ。明らかに古びた表紙のタイトルを確認する。

『人間の眷属化とその由来』

「ああ、これです」

 にっこりと微笑む。が、先ほどとは違い、少女はもう照れも見惚れもしなかった。表向きは普通だが、動揺や不審を隠しきれていない。

 そのとき、ポケットから電子音が鳴り響いた。

「失礼」

 端末を取り出し、耳に当てながら一旦店を出る。

「はい、首尾は順調です。はい、はい。最後の一冊も無事、見つけました」

 意図的に店の中に聞こえるようにしながら、誰かと通話しているふりをする。電子音は予めタイマーでセットしていた。演技を続けながら、硝子越しに店内を窺う。

 少女は、時幸が置き去りにした紙袋の中を覗き込んでいた。ここからではその表情までは知ることはできない。だが、先ほどの反応を見る限り、平静ではいられないだろう。

 そこに詰め込まれているのは、先ほどの本と同じようなことが記されているものばかりだ。《機関》発足前後、《ディヴィジョン》という呼称が確立される前の混乱期に書かれた論文、考察文。《機関》によって回収対象に設定されて以降、表に出回ることのない失われた書籍の数々。果たして彼女はどう反応するだろうか。

 と、少女が出入り口の方をちらりと見た。慌てて……慌てたふりをして、顔を逸らす。

「はい、わかっています。それでは」

 端末をしまい直し、店内に戻る。少女は……何もなかったかのように、カウンターに座っていた。

「お待たせしました。ええっと、この店にあるのはこの一冊きりでしょうか」

「そうですけど……」

「では、お願いします」

 支払いは普通に終了した。受け取った本を紙袋に詰め込んで店を後にする。

 100メートルほど行ったところで脇道に逸れる。少女は追ってはこなかった。

 一連のやりとりで感じたことだが、おそらく少女には他国の組織との繋がりはない。ならば、次にとるべきはプランEだ。

 紙袋を確認する。抜き取られた書籍は特に無し。その場にあった蓋つきのごみ箱を開け、一冊にライターで火を点けてからすべて無造作に放り入れる。瞬く間に、連鎖的に燃え広がっていく。《機関》の書庫から勝手に持ち出したものだが、書庫には同じものがまだたくさんある。それにこれらはどちらにしろ、破棄される予定のものばかりだ。登録番号は削除しておいたから時幸が持ち出したと判明するのにも時間がかかるはず。こうして燃やしてしまえば証拠も残らない。

 一応禁書指定されているので、すっかり燃えつきて読めなくなったのを確認してから、その場を後にした。


 適当に時間を潰した後、再び書店の前に戻ってきた。するとちょうど、少女が出てきたところだった。私服に着替え、背には細長いケースを背負っている。さて、どちらが入っているのか。

 と、少女がこちらに気がついた。

「あ、さっきの」

「こんにちは。奇遇ですね」

 これは嘘である。この時間にバイトが終わることは調査済だ。

「いまからお帰りですか」

「ええ……」

 少女は口ごもった。その表情は困惑が3:不審が6:緊張が1といったところ。時幸の正体を図りかねているようだ。

「あ、そうだ。先ほどはありがとうございました」

「え?」

「おかげで、上司に怒られずに済みました」

 いまいち飲み込めていない様子の少女に、用意したとおりのセリフを言う。

「無事、頼まれていた本をすべて回収することができました」

「お遣いだったの」

「はい。まだまだ下っ端で、叱られてばかりです」

 そういって肩を竦める。これは本当のことだ。

「あなたみたいな年の子が? バイト?」

「まあ、そんなものです」

 さりげなく眼鏡を外す。気づいているのかいないのか、少女は視線を落ち着かなげに彷徨わせている。

「ところで、そちらは……」

 飽くまで自然に、ただ軽く興味が湧いた、といった様子を心がけたつもりだが、少女はあっという間に警戒を強め、背中の荷物に手を伸ばした。だがまだだ。まだ手の内を明かしてはいけない。とっさに怯えた顔色を作る。何気ない話題を振ったはずなのに、急に変わった空気に困惑する少年を演じてみせる。

 少女は目を瞬かせはしたものの、警戒を解く兆しはない。

「もしかして……《マイナー》の方ですか」

「……」

 少女は息を吐き、手を離した。

「やはりそうなんですね。すごいなあ。あ、やっぱり、いままでたくさんの《ディヴィジョン》を倒してきたんですか」

「さあ……興味ないから」

「登録情報に記録されているはずでしょう。ランクにも関わりますし、討伐回数や階級によって報酬にも影響します。何より、ランクが上がれば《機関》の公開情報にアクセスする権限が与えられる。それなのに、興味がないんですか」

 《マイナー》は《ディヴィジョン》を討伐する度、《機関》から見返りとして報酬を与えられる。報酬額は討伐した個体数と階級、及び駆除したことへの社会貢献度などに応じて変動するが、うまくいけば一か月間机に齧りついて働くよりも、月に数度侵入する《ディヴィジョン》を討伐した方が儲かる場合もある。

 さらに、《機関》が保持している情報の一部にアクセスする権利が与えられる。討伐任務に参加するにあたって必要な情報だが、それらは一般市民にはまず公開されることはない。しかも、討伐成績が上がるごとに、アクセスできる情報も増えていく。《マイナー》やそれに類する制度を定めている国は概ねこの方法を採用しているが、日本では《ディヴィジョン》に関わる情報についてすべての権限を《機関》が独占しているため、情報開示は大きなモチベーションに繋がってもいる。

「……《ユニゾン》の、他のメンバーが管理してるから」

「公開される情報は共有してはいらっしゃらないんですか」

「してない。……信用してないし」

「お仲間を?」

「……」

「《機関》を?」

 少女は、頷いた。

「……《マイナー》に公開される情報はすべて本当のことですよ。《機関》は、隠しごとはしても嘘は吐きませんから」

「……随分肩を持つのね」

「ええ、まあ」

 でも、と、時幸は続ける。慎重、かつ大胆に。

「《マイナー》であることは、同時に大きな責任を伴うことでもありますよね」

「……そうね」

 《マイナー》は資格を取得する際、実技などの試験とは別に責任能力を問われる。すなわち、《機関》によって定められた約束事を守れるかどうかということだ。《ディヴィジョン》を狩るためとはいえ、普段から殺傷能力の高い武器を携帯することを許可されるのだから妥当といえる。

「討伐以外に武器を使用しないこと、知りえた情報を民間人に教えないこと、そして……駆除した《ディヴィジョン》の死体に触らないこと」

 少女は表向き無反応だ。口を引き結び、俯いている。

「他にもいくつかありますが、主なものはこの三つですね。どうしてだかご存知ですか」

「ええ。武器の使用はもちろんいけない。《機関》から携帯を許可された武器は飽くまで《ディヴィジョン》を狩るためのもので、人を傷つけるためのものではないもの」

「はい。情報漏洩を防ぐのは、混乱を防ぐためです。いますぐ人類が滅亡するような事態はありませんが、それでも危険な状況に変わりはありません。人類は一丸となって《ディヴィジョン》と戦うべきです」

「……そのために、都合の悪い事実を隠している?」

「必要な情報制限です。いずれ、地球上から《ディヴィジョン》が一掃されたら公開されます。……きっと、『何もかも』」

 さりげなく背を向ける。表情が見えないように。

「三つ目の理由は簡単です。《ディヴィジョン》は、たとえ死体になっても人体にとって非常に危険だからです。……しかし数日前、とある《ディヴィジョン》が討伐された際、その場にいた人物がその一部を持ち去ってしまった。しかも悪いことに、その人物は《マイナー》ではなかった。このことが知られれば、《機関》は立場を失ってしまう。何とかして秘密裏に対処したい。それが、《機関》の……俺の上司の意向です。……ただ、」

 少女は無言だ。彼女から時幸の表情が伺えないように、時幸からも少女の顔は見えない。

「俺個人としては、少し気になることがありまして。こっそり調べてみたんです。《マイナー》ではなかったから《機関》にその人物のIDは登録されていない。武器も同じです。だけど、現場に残されていた《ディヴィジョン》の遺骸からはある物質が検出された」

 一旦言葉を切り、固唾を飲み込む。

「……まず《機関》に記録されている、同じ物質が検出され、なおかつ犯人がまだ駆除されていない事件をピックアップしました。膨大な量でした。《機関》には国内で起こった《ディヴィジョン》による殺人事件はすべて記録されていますから」

 振り向かないまま、背後の気配を窺う。その場から動いた気配はない。逃げる、襲いかかる、飽くまで白を切るなど、幾つかパターンを予測していたのだが、どうやら一番穏便な方法で正体を暴露することができそうであった。

「そこからさらに、現場の生存者に現在十代の少女がいること、調整手術を受けていないこと、東日本一区に住んでいることを追加。それでもかなり多かったのですが、公安委員会のデータベースに侵入して銃砲刀剣類登録許可証を発行している家のデータと照らし合わせ、さらに武器の特徴から俺が推定した『あること』を条件として追加した結果……ある一人の人物がヒットしました。政府の都市人口登録データをハックして顔写真を見て、確証しました」

 半身だけ振り返り、その言葉を口にする。


「失礼かとは思いますが、あなたのことは調べさせてもらいました。神橋(かんばし)早梛(さな)さん」


 いきなりのことだった。少女は背負っていたケースを掴んで一歩踏み出し、その反動で身体の前に引き下ろした。当然、目の前に立っていた時幸は勢いの乗ったそれを突きつけられる形になる。

 飽くまで穏やかな表情で、身体を正面に向ける。それに対して、少女は無言で睨みを利かせた。

 と、時幸が右手を持ち上げた。相手の身体が強張るのが見てとれる。そろそろとケースの金具に指が掛けられる。

 分け目を戻す。表情に変化はない。

「……見覚えありませんか」

「?」

 少女はケースを下ろしたが、金具に指は掛けたままだ。

「会ったことあったっけ」

「ええ、実は」

 溜息を吐く。

「まあ落ち着いて、ひとまず話を聞いていただけませんか」

 予定どおりだが、本心も込めた言葉で、時幸は少女――早梛を抑えようとする。

「確かに俺は、あなたが思っているとおり《機関》の人間です。ですが、上層部にあなたを引き渡すつもりはありません。知りえた情報も俺しか知りません。むしろ上層部にあなたのことが知られないよういろいろ工作して、そのせいで家に帰れない状態です」

「は?」

 早梛は小首を傾げた。黙り込み、視線を彷徨わせる。ケースに手を掛けつつもそれ以上は何もせず、時幸の出方を待っている。戦闘になったときのことも考慮して装備を揃えてきてはいたが、相手に話を聞く意志があるのならありがたい。

「早梛さん……お名前でお呼びしてもよろしいでしょうか」

「その話し方やめない?」

「ああ、すみません。元からこういう話し方なんです。俺に日本語を教えた人物が、こういう話し方になるように躾けたので」

 早梛は口を開いたが、結局、何も言わなかった。そのことについていまは深く話すことではないと判断したらしい。

「先ほど言ったとおり、俺は上層部にばれないようにあなたに接触しようとしました。というのも実は、あの場に俺もいまして」

「あなたも? オペレーター?」

「いえ。実際に、あの場であなたを、あなたが立ち去るところを見ていました」

「……もしかして」

「思い出していただけたみたいですね」

 早梛は時幸をまじまじと見つめた。

(こんな美形に気づかなかったなんて。よっぽど気が急いていたのね、私)

 という考えが脳裏で浮かんだのだが、もちろんそれを時幸が知る由もない。

「そう、ものすごい確率ね。あんな雑魚の討伐現場に《機関》が居合わせるなんて」

 早梛は肩を竦めた。

「知っていたら、こんな回りくどいことしなくて済んだのに」

「やはり、《ディヴィジョン》の一部を持ち去ったのは、《機関》と交渉するためでしたか」

「ええ、そう」

「目的は、情報ですか」

「いいえ」

 首を横に振る。艶やかな黒髪がはらりと舞い、青く輝いた。

「……力、よ」

「……ご家族の仇討ち、ですか」

「…………………ええ」

 ぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。

「調べたのなら知ってるでしょ。私が、事件の生き残りなのに《調律の彼女》でないことくらい」

「……あなたも、よく調べていらっしゃるようですね」

「少し考えたらわかる」

 《調律の彼女》。

 《ディヴィジョン》に対し防戦一方だった人類のカウンター。《ディヴィジョン》に対抗するための“調整”を受けた人類……いってしまえば、生物兵器である。

 日本語表記のとおり、全員が女性。その素性は明らかにされてはおらず、表向きは志願者ということになってはいる。が、実際、どういった選考基準によって彼女達が手術を受けるに至ったのかは明らかにされてはおらず、また調整手術の内容も公にされていないため、その得体の知れなさが《機関》、そして《調律の彼女》という存在、制度そのものを善しとしない空気を蔓延させている。《調律の彼女》の素性が伏せられている背景には、そういった社会情勢があるのも一因なのだが……。

「……SNS社会であるいま、情報を完全に隠匿するなんて無理がある。壁の内側での討伐の様子はすぐリークされて拡散される。そうすればあとは簡単に判る。《調律の彼女》になったのは、過去に《ディヴィジョン》に襲われて、家族を失った経験のある人ばかり。調べられた情報の範囲内だけどね。けど、私は違う」

「ええ。あなたは調整手術を受けていない。……いや」

 早梛の手に力が籠るのが、見てとれた。

「手術を申し出たが、《機関》は棄却した」

「そうよ」

 早梛の肩が、腕が、わなわなと震えた。

「あなた達は、私に、力を与えてはくれなかった」

 きっ、と顔を上げ、時幸を見る。しかしそこで一瞬、途方に暮れたような眼差しを投げ、半歩距離をとった。何か、言いかねているようだ。

「……あなた、いくつ?」

「え」

 それが年のことだと気づくのに、しばらくかかった。

「俺は……十五です」

「妹と同じじゃない。それ、制服?」

「はい。動きやすくて」

「学校に通ってるの。だったら、なんで《機関》なんてやってるのよ」

 身体にぐっと力が籠るのが見てとれた。その瞳は依然として強く、されど眩しすぎて。彼女が抱いている感情を、推し量ることができない。

「学校に通えるのに。通えるだけの環境が整っているのに。なんでわざわざ、どうしてあなたみたいな子が、《機関》にいるのよ」

「同じだからです」

 時幸は微笑んだ。訓練によって染みついた表情だ。

「俺も、あなたと同じなんです。早梛さん」


「俺も、大切な人を奴らに殺されました」


 二人の間を、打って変わって爽やかな五月の風が通り抜けた。

「あなた、も……」

 そこで、何かに気づいたように一旦言葉を切る。

「あなた……名前は?」

「俺は、」


 絹を裂くような悲鳴が辺りに響き渡る。


 反射的に、時幸の身体は動いていた。とっさに振り向いた早梛の脇を擦り抜ける。

「ちょ、待って!」

 すぐさま早梛も後に続いた。

 悲鳴は一度きりだったが、どよめきや激突音が連鎖的に近づいてくる。程なくして時幸は騒ぎの中心に行き着いた。背の高いビルに囲まれた十字路。

 既に戦闘は始まっていた。

 時幸達の目にまず入ったのは、交差点のほぼ中央に鎮座する異形だった。全身は閉じた傘のような円錐形で、頭頂部にくるんと丸まった一対の触角がある。そのすぐ下に睨むような三角形の両眼と、笑うように吊り上げられた口。その表情は落書きのようで現実味がない。大きさは、せいぜい3メートル。RPGの雑魚キャラのような見た目といい、そう脅威な《ディヴィジョン》であるとは思えなかった……一体だけなら。

 密集しているのでよく見えないが、おそらく四体。大きさも見た目も全く同じ《ディヴィジョン》が、折り重なるようにして衝突し、乗り捨てられた乗用車の合間から窺い見えた。おそらく、交差点に進入したところに《ディヴィジョン》が突如現れて、ブレーキが間に合わなかったのだろう。となると侵入経路は空から降ってきたか、それとも地下からか。どちらにしろ、あれがどういった性質のものなのか見極めなければならない。

 《ディヴィジョン》と一括りにされてはいるが、奴らは性質や階級ごとに細分化することができ、それぞれ通用する武器のランクも駆除方法も異なる。判断を誤れば大きな被害に繋がる。

 そいつらが煽るようにうぞうぞと身体を揺する一方、相対する《マイナー》は若干消耗しているようだった。二人組で、一人は男性。車の間から身を乗り出すようにしてグロック拳銃を構えている。もう一人は女性で、男性よりもかなり《ディヴィジョン》に近い位置にいる。手に持っているのは対DIVブレードソード。《機関》から支給される刀剣類のうち最も世に出回っているタイプのものだ。刃の中央部分に溝が入っている。そのことから、彼女が《調律の彼女》であることは一目瞭然だ。ただ、全体的に劣勢のこの様子だと、どうやら相性が悪いらしい。

 少し遅れて到着した早梛は、すぐに状況を見てとった。ケースを開帳。中に入っていたのは紫色の袋に包まれた細長いもの。早梛は素早く袋を剥ぎ、鞘からも引き抜く。現れた日本刀はビルの側面に反射して銀色の煌きを放つ。

 時幸は周囲を見渡した。悲鳴が響いてからあまり時間が経っていないため、野次馬は疎らだった。多くの者は逃げることを優先したらしい。しかし、《ディヴィジョン》が彼らに寄らないようにするためにも、また彼らが興味本位で戦場に足を踏み入れないようにするためにも、封鎖しておくに越したことはない。

 緊急時、区ごとを仕切る数メートルの隔離壁は、外周の大壁ほどではないが、《ディヴィジョン》が広範囲に動くのをある程度制限し、被害を大幅に減らすことができる。大壁同様空を飛ぶものや地に潜るものには効果は薄いが、内郭で《ディヴィジョン》に遭遇した際には起動するのがセオリーだ。時幸もまず、周辺に隔離壁の手動作動装置がないか見回した。……しかし。

「ないですね……」

 ちょうど区の中心部辺りなのか、それとも交通が激しいために区の境界を引けなかったのか。緊急とはいえ道路を封鎖することになる隔離壁は、交通の多い交差点や線路付近には設置されないことが多い。

「それなら、自分で非常線を敷くまでです」

 時幸は懐からJ・Rを取り出した。素早く鎖を引き出すが、そこで、

「縛ってくれ!」

 物陰から《ディヴィジョン》を狙っている青年が、半ば叫ぶように要請した。

 時幸はとっさに、錘のついた鎖の先端を《ディヴィジョン》に投げ掛けた。うち一体の身体に巻きつく。間髪入れず、女性が迫る。走りながら腕に刃を奔らせる。ブレードの溝がみるみる赤いもので満たされていく。血液の通った武器で、女性は《ディヴィジョン》に斬りかかった……しかし。

 《ディヴィジョン》の身体が左右に、()()()()()()()()()

「なっ」

「くそっ、やっぱダメか」

 男性が舌打ちする。

 合計五体になった《ディヴィジョン》は、うち三体は同じくらいの大きさだが、先ほど斬りつけた二体は周りのものよりも少し小さくなっていた。比率にすると13:25といったところだろうか。

「あれは……もしかして、元は一体だったんですか」

「ああ、そうだ。攻撃する度にああやって分かれた」

 早梛が女性に目線で合図を送る。女性が頷いた。

 次の瞬間、早梛は手近な車の屋根に駆け上り、源義経の八艘跳びよろしく屋根伝いに《ディヴィジョン》目がけて走り寄る。それも、わざと左右に大きく振り幅をとりながら。援護しようと、時幸は拳銃を取り出す。そこで気がついた。試験のときから銃を点検していない。最大装填数まで弾が入っていない。

 素早く思考を切り替え、手近な車のサイドミラーに鎖の先端を引っ掛け、銃を構える。

とにかく《ディヴィジョン》の足元、といっていいのかわからないが、地面との接点目がけて数発撃ち込んだ。撃ちながら観察する。

 早梛が向かって一番右の《ディヴィジョン》に肉薄し、斬撃を放つ。《ディヴィジョン》はもともとふざけたような顔を貼り付けてはいたが、まるで嘲笑うように再び左右に千切れて回避した。

 その直後、すぱっと軽快な音が響き渡った。

 中央にいた《ディヴィジョン》が口を丸く開き、大きく前方へ倒れ込む。すぐに回復して元の姿勢に戻ったが、惚けたように目をぱちくりさせ、背後から斜め右に走る鮮やかな切り傷を眺めた。どうやらあの顔は自前らしい。

 早梛は何も、撹乱するためだけにあんなジグザグに動き回っていたわけではない。敢えて自分に注意を引きつけることで、外周から半円を描くように奴らの背後に回り込んだ女性の攻撃が気づかれないようにしたのだ。

 果たして、《ディヴィジョン》の身体は豆腐のように切断された。しかし、女性の攻撃は大してダメージを与えることはできなかったらしい。悔しそうに口元を歪ませながら、二人は一旦距離をとった。

 いままでの攻防で判ったことがある。

 《ディヴィジョン》の能力は分裂。だが自分が分かれるばかりで、特に攻撃手段はない。あったらあれだけ接近した早梛に何がしか仕掛けるはず。また、一回の分裂でほぼ半分の大きさになる。推測するに、周りに散らばる《ディヴィジョン》がすべて同じ個体だったとしても、元の個体はさして大きくはないだろう。物理攻撃は有効。

 以上のことから、時幸は相対する《ディヴィジョン》を八型‐クラスⅤであると結論づけた。

 先ほどの早梛と女性の即興の策で傷をつけることに成功しはしたものの、《ディヴィジョン》は合計六体に分裂してしまった。しかもここは十字路。無人の車が妨げになるとはいえ、《ディヴィジョン》はいまにも獲物を求めて立ち去ろうとしている。四人では一般人に被害が出ぬよう牽制するのが難しくなりつつあった。

 中央と左奥の個体が横道に逸れようと動き出す。時幸はとっさに、その二体を立て続けに撃った。左奥の個体が三度分裂し、比率6:7のかなり小さな個体に変わる。しかし、中央にいた個体は、その身に銃弾を受け、苛立たしそうに傷口から鉛を吐き出した。

「当たった⁉」

「なるほど」

 時幸は女性をちらりと見た。あれはおそらく“変化阻害”。つまり、彼女は対三型の《調律の彼女》。三型だけでなく多くの《ディヴィジョン》の能力を抑制できるのが強みだ。ただ、いま戦っている《ディヴィジョン》は八型。彼女の攻撃は決定打になりえない。

 時幸と男性は中央の個体に狙いを定め、銃弾を浴びせまくった。二方向から集中攻撃を受けた《ディヴィジョン》はぐずぐずと崩れ、やがて動かなくなった。クラスⅤ程度であれば、特殊な武装がなくてもある程度のダメージを与えれば駆除できる。

 そこで時幸の銃は残りの弾が一発のみとなってしまったため、一旦狙撃を止める。男性の方も弾が僅からしく、牽制以外の射撃を中断した様子だ。

 残った《ディヴィジョン》はかつて自分の一部だったものが無残に殺されたのを見て、少しだけ怯んだ。その僅かな隙を少女が駆ける。

「はああああ!」

 早梛は小柄な身体にバネを利かせ、《ディヴィジョン》の懐に飛び込んだ。顔の真ん前に飛び出す。

 ほぼ同時に、《調律の彼女》の女性も同じ個体を背後から狙った。今度は、小細工は用いない。しかし充分だ。いままでの様子から鑑みるに、奴はおそらく一度に二体までしか分裂できない。そしてそれは正しかった。

 《ディヴィジョン》は女性の刃を分裂して回避したが、早梛の刀を躱すことはせず、その身に受けた。女性の刃を受けた個体が分裂能力を剥奪され殺されているため、より危険度が高いと判断したのだろう。――しかしそれは、悪手だった。

 早梛によって斬りつけられた《ディヴィジョン》はぶるぶると震え……突然、周囲の《ディヴィジョン》に飛びかかった。飛びかかられた方の《ディヴィジョン》は虚を突かれ、転倒する。傷を受けた個体が圧し掛かり、下にいる個体を吸収するかのように密着した。やおら起き上がったときには、傷口の周りの細胞が癒着し、かつて同一のものだった二つの個体は再び一つになりかかっていた。

(……やはり、あの刀は)

 歪な塊はバランスを崩し、故意か偶然か、少女を目がけて倒れ込む。

「早梛さん!」

 あの塊に圧し掛かられては、華奢な身体など花を手折るように容易く潰されてしまうだろう。しかし早梛は、まるで挑むような眼差しで迎え撃ち、再度斬りつけた。直後、素早く後退して紙一重で躱す。ほっと安堵の息を吐く。

「無茶な真似を……」

 癒着した個体はさらに別の個体にも引っ付いて不格好に一体化した。完全に元に戻っているのではなく、飽くまで「もう元には戻らないが、それに近い状態になろうとしている」。それは、“分裂”というソレ本来の在り方に逆らう行為だった。《ディヴィジョン》の表情は事実歪んでいる。したくないことを、強制させられている。自分でもどうにもならない力によって。離れていた個体が慄き、その場から逃げようとする。

「そうは、いきません!」

 時幸は鎖を引いた。

 はっきりいって、時幸の狙撃の腕はそれなりだ。一応の訓練を受けてはいるが、せいぜい並といったところ。体術もまだまだ未熟。剣術、槍術などでも秀でている面はない。交渉術は、まあまあだが経験不足。遠隔サポートやそれ以外の任務にも目立った業績はない。

 だが――師匠から直々に叩き込まれた、拘束術だけは自信があった。

 銃が使えなくなったからといって茫然と突っ立っていたわけではない。

 車の開け放したままのドアの角、ミラー、標識、ビル壁面の広告の額の隙間、いつの間にか幾つもの点に張り巡らされた鎖が、交錯しながら周囲を囲っていた。それらを辿ると、時幸が手に持つ円盤に辿り着く。中央部の突起を弾くと、鎖はメジャーが巻き戻るように円盤の中に吸い込まれ、薔薇を描くように複雑に《ディヴィジョン》を絡めとる。

 鎖の勢いに引っ張られ、時幸の腕が小刻みに痙攣する。本来であれば今日は、早梛と接触し、戦闘になった場合の最低限の備えしか用意していない。いま用いているJ・Rも、丁……対人を目的とした最も弱いタイプである。

 男性が時幸に駆け寄り、補佐に回る。

「すみません、お願いします」

「え、ええ?」

 男性にJ・Rの本体を預け、時幸は銃を構える。

 《ディヴィジョン》は鎖が巻き戻る勢いに逆らえず、すべて一つの個体として纏まり、縛り上げられた。各々がじたばたと暴れ回るが、元に戻ろうとしている個体の吸着力と、ぎりぎりまで短くなった鎖の束縛に抵抗できないでいる。これだけ大きく、しかも身動きのとれない敵であれば、外す方が困難だ。

 ただ、《ディヴィジョン》は数発撃たれたくらいでは、たとえ最下位のクラスⅤであってもよほど当たり所が悪くない限り死なない。それをわかっているからか、早梛も《調律の彼女》も攻めあぐねている。さりとて、先ほどのような集中攻撃はもうできない。時幸の銃弾はあと一発。

 しかしそれで、充分だった。

 狙いを定めて放たれた時幸の銃弾は、回転し運動を維持しながら一塊の《ディヴィジョン》の表皮に到達した。そのまま抉りながら、内部に侵入する。そして、衝撃で外殻が破壊されたはずだ。ここからでは確認できないが、直後に起きた出来事がそれを証明している。

 それまでもがもがと動き回っていた《ディヴィジョン》が……突如、尋常でない激しさで震えだした。引きつけを起こしたかのように小刻みにもがき、その顔は今際の苦悶に歪んでいる。銃弾が、正確には内部に満ちていた物質が浸透するにつれて、癒着した別の個体に症状が伝染していく。どうにかして猛毒素を捻り出そうとして出せない、「滅ぶ」以外の選択肢が残されていない。

 壁内への侵略者とはいえ、あまりにも痛々しい形相のまま、《ディヴィジョン》は次第に大人しくなり、目に見えて弱っていき……完全に動かなくなると同時に、瞬く間に崩壊して辺りの地面にべっしょりと広がった。

「なんで……」

「ターゲット、沈黙。討伐完了」

 呆気にとられている早梛と《マイナー》二人をよそに、時幸は事務的確認を呟くと、ブレードを持った女性に近づいた。

「お怪我はございませんか。あなたも」

 駆け寄った男性にも確認する。

「《機関》特務部零室所属、現夜時幸です。討伐参加者はお二人で全員でしょうか」

 顔写真付きのライセンスを提示しながら、時幸は名乗る。

「あ、え……」

「オ、《機関》?」

 二人は驚きつつも、どこか納得した様子だ。

「ええ。偶然この近くに用がありまして。……でもよかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 意図的に言葉を選び、隠し、こちらが何も言わずとも相手が都合のいいように解釈するよう誘導する。偶然《ディヴィジョン》と遭遇することは想定外だったし、もちろん対八型の武器など携帯しているはずがない。時幸の銃は前回の戦闘終了時の状態のままだった。時幸自身もそれに気がついていたために、確実に止めがさせるタイミングまで最後の一発を温存していた。最後の銃弾……どんな《ディヴィジョン》さえ滅ぼせる《機関》の秘密兵器を。

 BMWS――全型対応特殊弾。《機関》が()()()()()で、世界で唯一開発に成功したすべての《ディヴィジョン》を致死させるに至る武器の一つ。理論上はクラスⅠでさえ滅ぼせる、らしい。当然()()も稀少な上に超取扱注意で、現段階での量産は難しく、《マイナー》への配給はもちろん、政府間での兵器開発どころか《機関》内部でさえ滅多に出回らない代物だ。しかし、時幸はある理由によって、所持する拳銃に対応した弾を一発ずつだけ貸与されている。

「あの、ありがとうございます」

「いえ、職務を全うしたに過ぎません。それで、」

「あの、」

 時幸の言葉を、途中で女性が遮る。

「今回のことなんですけど……どうにか、内々に済ませてもらえませんか」

「内々、とは」

「ええ。あの、私もマサトも、仕事途中で抜け出してきてて……」

「ああ。なるほど、そういうことですか」

 《調律の彼女》は、《ディヴィジョン》との戦闘がないときには一般人として、ごく普通の仕事や家族の時間を過ごしている。そのため、《調律の彼女》であるということを職場や学校では秘密にし、素性を隠して討伐を行う人も少なくない。

「わかりました。では、最低限の登録コードのみお伺いしてもよろしいでしょうか」

 二人から《マイナー》として登録されたIDを聞き、手帳に書き留める。

「では後日、指定の口座に報酬を振り込ませていただきます。お疲れさまでした」

 形式どおりの文言を述べ、一礼する。

 《マイナー》のペアは安堵の表情を浮かべ、踵を返すと、弾かれたように狭い路地に駆け込んだ。いつの間にか集まっていた野次馬が騒ぎ立て、何人かは追いかけようとさえしたが、時幸がJ・Rの鎖を引き出した状態のまま大振りに振り回し、付着した《ディヴィジョン》の皮脂を払いつつ簡易的な封鎖線を敷くと、悪態をつきながらもしぶしぶ後退した。

 時幸は端末を取り出し、一瞬躊躇った後、馴染みの深い番号に電話を掛けた。場所と、駆除対象の性質、討伐方法などを簡単に伝達する。討伐に参加した《マイナー》のIDと報酬についての確認も行う。

 事務的なやりとりを終え、ふと息を吐く。辺りを見回すと、早梛の姿が見えた。道路の影から鞘を探し出し、刀を収めたところだった。それが済むと、時幸の方へ歩いてくる。

 と、独特なサイレンの音と主に、道路の向こう側から幾つもの大型車両がこちらに向かってくるのが見てとれた。相変わらず仕事が早い。

 車両は乗り捨てられた乗用車群のぎりぎりまで近づいて停止した。ドアが立て続けに開き、出てきたのは専用の清掃着に身を包んだ一群だった。《機関》の処理班だ。

 処理班はてきぱきと機材を運び、時幸が張ったのよりも強固な封鎖線を築き、ぐじゃぐじゃに崩壊した《ディヴィジョン》の死骸を掬って掻き集め始める。人間が入れそうな大きさのカプセルの中に次々と放り込んでいく。

「ねえ、」

「ユキ!」

 早梛の発した呼びかけは、鋭い声に掻き消された。

 処理班とは別の車両、黒塗りのワンボックスから、スーツをぴっちりと着こなした男性が登場し、まっしぐらにこちらにやってくる。同じ車から、彼の部下らしき二人の男も降りてきた。

「通報感謝します、ユキ。休暇中なのに、悪かったですね」

「いえ」

「しかし……とんでもないことをしてくれましたね。自分が何をやったかわかっていますか」

「……ええ」

 男性は時幸の傍らに立つ早梛をちらりと見遣った。

「……きみにも思うところがあったのでしょう。私からも主任に掛け合ってみます。ただし、それを抜きにしても、きみが行ったことは許されることではありません。心しておいたほうがいい」

「すみません」

 時幸が、顔の前で勢いよく手を合わせた。手のひらを打つ乾いた音が響き渡る。

 男性は呆れた、と言う代わりに鼻を鳴らした。

「謝るくらいなら最初からやらないで欲しかったですね。大体きみは、」

「本当に、すみません」

 がちゃん、という音が下の方からした。そちらに目を向け、男性は、自身の両手首に嵌められた、間に長い鎖の垂れた手錠を見て一瞬、間の抜けた表情をした。

 すぐさま戦闘態勢を整えようとしたが、そのときには既に四肢を封じられ地面に転がされている。

 早梛の目はその、一連の動作を捉えていた。

 時幸の合わせた手から綾取りのように鎖が出現し、両端の手錠を掛けると同時に間の鎖を天高く放り投げていた。虚を突かれた男性の脇を抜け、彼の背後で落ちた鎖を掴み、下に引きつつ交差させる。体勢を低くして、腕を捩じり上げつつ仰け反った背に密着し、背負い投げの要領で俯せに引きずり落とす。

 とっさのことに受け身のとれなかった不揃いの足に、絡めた鎖を投げて引っ掛けると、顔の前でもう一度手を合わせた。

「すみません、古坂(こさか)さん」

 “審判”。

 時幸の師匠が編み出した、拘束具と柔術を組み合わせた独自の対人拘束術。

 人体のしくみ……関節が曲がる方向が決まっている、筋肉が厚い部位と薄い部位がある、ある部位に衝撃を加えれば反射神経がどう作用する、そういった前提を利用し、相手の動きを制限しつつ、自他共にほぼ無傷の状態で拘束する。

 我に返った古坂は、部下二人に叫ぶように命令した。

「私はいい、捕らえろ!」

 部下の行動は早かった。二方向から挟み込むように時幸に接近しつつ、懐から得物を取り出す。二人が手にしているのはツクバネ重工のワイヤーハンドガン。《機関》で支給されているワイヤーガンのうち最もオーソドックスなものの一つだ。

 警告はない。古坂がああなった以上、時幸は問答無用で拘束対象だ。殆ど同時に発射された。銃口から鉤つきのワイヤーが勢いよく射出される。

 がぎん、という乱暴な音がその場にいた者の耳朶を打つ。

 二人が撃つと同時に、時幸も全く同タイプのワイヤーハンドガンを抜き、向かって右の男目がけて放っていた。二つの鉤が両者のほぼ真中で激突し、お互い弾け飛ぶ。男は顔目がけて飛んできた鉤を躱して一瞬もたついた。時幸は素早く巻き戻すが、間に合わなかった。

 もう一人の男のワイヤーが、とっさに胴を庇った時幸の腕に巻きついた。巻き取られて体勢を崩す前に、時幸は半回転して自らワイヤーを引き寄せつつ、背後に飛んで逆に接近した。男は素早く銃を手放して距離をとる。残念だが時幸も手放さなくてはならなかった。バク転。地に手をついたとき、絡んだ鉤とワイヤーが食い込んで痛みが走った。堪えて、揃えた足で着地する。その隙に先ほどの男が再びワイヤーガンを構える。時幸は体勢を低くし、足元に滑り込もうとする。が、

「があっ?」

 痛みに、男は銃を取り落とした。左斜め後ろから振り抜かれた刀身入りの鞘が、手の甲に激突したのだ。早梛は回転の勢いそのままに足払いを掛け、男を転倒させる。落下するワイヤーガンを空中で掴み、もう一人の男に向けて発射する。

 ワイヤーは、先端の鉤は、まっすぐ男の顔面を狙っていた。不意の攻撃に動揺しつつも、磨かれたエージェントの動きによってすんでのところで回避する。しかし直後、足を掬われて大きく仰け反った。狙いを変えた時幸が滑り込みシュートをかましたのだ。

 頭を打って気絶した男を一瞥し、ふと目を遣ると、処理班はこちらを窺いつつ、黙々と自分達の作業を続けていた。身を翻す。彼らは追ってはこないはずだ。



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