*第1章* 1‐1 調査結果
頬に触れる感触に、時幸は目を開けた。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
「あ――」
とっさに身を起こしかけるも、途端に視界が揺れてぐらぐらと回る。耐えられなくて、一秒前まで身を横たえていた長椅子に再び凭れ掛かった。
「無理しなくていいよ、まだ気持ち悪いでしょ」
「……すみません」
心配そうな顔を上目で見て、僅かに息を吐く。
「寝てていいよ。今日はもう仕事もないから」
「いえ、そういうわけには」
「いいから」
と、半ば強引に寝かされる。抵抗するものの、思った以上に調子がよろしくない。結局、ずるずると長椅子に沈み込んだ。
その隣にちょこんと腰掛ける。彼女の小ささに合わせて詰め物が僅かに凹み、青がかった黒髪がぱさりと揺れた。
横になったまま、彼女の顔を観察する。白く照るような美貌。いつもどこか張り詰めたような印象の強い瞳は、いまは柔和に細められ、月のような慈悲を投げかけている。
行儀よく膝の上で組んだ手が、時幸の頭から数十センチと離れていない場所にある。そのことに嬉しさと安心と、くすぐったさとほんの少しの苦みを抱いた。
以前は三か月に一度のペースで行われていた採血は、年々その頻度を増し、ここ最近では月に二度ほどのペースになっている。時幸の身体が成長したというのも理由の一つだ。だが、最も大きな要因としてはやはり、年々増加する《ディヴィジョン》に対して《機関》は、いや、《機関》を含めた人類全体が対処しきれていないが故だろう。
鍛えてはいるし、一回の採血量はそれほどではない。とはいえ、さすがにこう頻繁だとなかなか堪えるものがある。そうでなくても今年は例年に比べて蒸し暑く体調を崩しやすい。ただでさえ任務で酷使されている身体は、一度音を上げたら回復まで時間がかかる。
加えて、いつもなら血を抜いた後は寮に直帰するが、ある理由から、今日はまだ研究施設に留まらなくてはならない。
そのせいで、普段なら採血に同伴させていない彼女の前で、このような醜態を晒してしまっていて。
「……早梛さん」
壊れ物のようにそっと、名前を呟く。
「……辛い?」
早梛はそう言って、時幸の前髪を撫でた。
時幸の方こそ繊細な細工であるかのように、優しい手つきで。
「いえ。献血と同じですよ。だるいですけど命に別状はありませんし、皆さんとてもよくしてくれます。待ち時間にはビデオも見放題ですし」
少しおどけて言ってみるが、早梛の顔は晴れない。
「辛いなら、ちゃんと辛いって言わないと駄目だよ」
どうやら、無理をしていると思われたらしい。気遣ってくれるのは嬉しいが、それ以上に、きまりが悪い。
「……」
何か言葉にすればまた擦れ違いが起きそうで、口を噤んだ。
早梛は変わらず、時幸を慈しむように撫でている。なんだかまるで幼い頃に戻ったみたいで……鈍い痛みが、胸に積もった。
「や、お待たせ~」
と、やってきたのは、夏来の部下の今出川だ。多忙な上司に代わり、今日二人に説明してくれることになっている。
「すまん、随分待たせちゃったな。ん、どしたユキ? 遅いから拗ねちゃったのか?」
「拗ねてません」
「いやいや、ちっこい頃から見てるから機嫌悪いのは見て判るぞ~」
「お黙りください」
「あの、具合がよくないみたいなので、あまり……」
「早梛さんっ、俺は、平気ですってば」
再び身を起こしかける。「無茶しないで」と窘められる。
「ああ、なるほど」
と、今出川は手を打った。
「いやいや、お嬢さん。ユキは本当に平気なんだ。信じられんかもしれんが」
やんわりと説明する。
「確かにしんどいだろうが、慣れてるから緩和する方法は自分で知ってる。むしろ構われる方が我慢ならんのだ。自分が不甲斐なくなるから」
「でも……」
無理に身を起こすのを止め、姿勢を整える時幸と今出川を見比べ、早梛は眉を寄せた。
「弱ってるときくらい、素直に周りを頼ってもいいんじゃないかな……時幸くん、特に、普段から無理しちゃうし……」
「いやいや。かっこわるいとこ見せたくないんだよ。特にきみにはな」
「私……そんなに頼りない?」
早梛は悔し気に口元を噛み締めた。
時幸が弱っているのなら、支えるのが早梛の役割だ。研究者にも上司にも有用性を証明し続けなければならない彼が、気負わずに付き合える相手であること。守り守られ、支え補い合う間柄であること。それが早梛のいる意味だと、ようやく理由を見つけられたのに。
「頼りないとか頼りがいがあるとか、そういう問題じゃない。これは男の意地って奴さ」
「はい?」
意外な言葉に、目を瞬かせる。
「女の子にみっともないところを見せたくない。周りがどうとかじゃなくて、自分で自分に決めたルールみたいなもんさ。傍から見たらくだらない意地張ってるように見えるかもしれんが、男にとっては譲れないものがあるんだよ」
「そういうもの、なんですか」
「そうそう」
「今出川さん」
うんざりした、とでも言うように、時幸が声を上げた。
「そろそろ本題に入ってはくれませんか」
「おっと、そうだった。悪い悪い」
今出川は持っていた資料を早梛に渡した。
「印刷してはあるけど、持ち出しはできないんだ。悪いが、ここで確認してくれ」
受け取ると、早梛はすぐさま字面に目を走らせる。
――【魔女の娘】について。
今日、早梛が研究所を訪れたのはこれが目的だった。
三週間ほど前に戦った【第七魔女】アリシア・ローレンスの娘セシリア。彼女との戦闘記録、及び採取された七型の細胞などから、いままでヴェールに隠されていた【魔女の娘】についての新情報を《機関》は得ることができた。
セシリアを撃破した当事者として、また今後再び【魔女の娘】と相対する可能性を考慮して、時幸と早梛は報告を聴けることになったのだ。
資料に合わせ、今出川が解説する。
「【魔女】と【魔女の娘】の共通点は、因子による能力を行使できること。【眷属】は階位が下がるごとに能力がグレードダウンし、《調律の彼女》は血液などを媒介にしないと能力が使えない、それも抑制や阻害にしか効果を成さないから、細胞を消費せず多様な能力が使えるのは脅威だ」
早梛も資料を目で追い、気になったことを呟いた。
「相違点は……【眷属】を生み出せないこと」
「ああ」
今出川は頷く。
「【魔女】との大きな違いはそれだ」
二十三年前、東ティモールで地殻変動によって発見された【魔女原細胞】。
それを人体に埋め込み、誕生した【魔女】。
【魔女原細胞】に適応した彼女達の肉体は【魔女細胞】で構成されており、文字通り身を削ることで【眷属】=《ディヴィジョン》を生み出すことができる。
【魔女】から直接分かたれた【一位眷属】=クラスⅠは、場合によっては【二位眷属】=クラスⅡを作り出すことができる。クラスⅡはクラスⅢを……というように、最大でクラスⅤまで増殖する。
「【魔女の娘】も全身が【魔女細胞】で構成されていることに変わりはない。だが、先天的な性質なのか、彼女達は母親のように【眷属】を作り出す能力は持っていないんだ。だが代わりに、【魔女】にさえ持っていない力を発現している」
今出川は一度言葉を切り、ある質問を投げかけた。
「こんな事実がある。戦時中、とある【魔女】が『ある建物を破壊しろ』という命令を与えて【眷属】を生み出した。その【眷属】は命じられたとおり建物を破壊した。その後、どうなったと思う?」
「ん……周囲の人間を襲いだした?」
「ううん」
「それじゃあ、クラスⅡを増やすことに専念した?」
「それも違う。正解は『何もせずその場に留まり続けた』」
目を瞬かせた早梛を見て、機嫌よさげに続ける。
「【眷属】は【魔女】が与えた命令にしか従わない。それ以外のことを行う機能がない。そして【魔女】は生み出すときの、たった一度の命令しか与えることができない。撤回することも上書きすることもできない。だから大抵クラスⅠは【魔女】にとっては使い捨ての道具か、抽象的な命令で継続的に使役するかのどっちかだ。後者ならたとえば『無期限で私を護衛しろ』とかかな。あと単純に『増やせ』っていうのもある。三型はこれが多い。それに対して」
と、声を低める。
「【魔女の娘】は、母親の生み出した【眷属】なら、追加の命令を与えたり、命令を撤回・変更したりできる。しかも、新たに判ったことなんだが、最初の命令さえ修正可能……つまり母親と意見が割れていても有効で、後に与えられた命令が上書きされるみたいだ。これは大変なことだ。なにせ、『一なる命題』を書き換えるということは、その【眷属】のコンセプトそのものを書き換えるということだからな。場合によっては、いままで人類側が戦って得てきた情報が全くの無駄になる」
思っていた以上に深刻な事実に、早梛は固唾を飲み込んだ。
「幸いというべきか、そういった個体はまだ発見されてはいない。ただセシリアの死亡も確認されてはいないんだ。今後七型で変革が起こるかもしれんな」
それはいまは置いといて、と、今出川は資料を捲るように指示を出した。
次のページには、早梛の知らない新情報が印字されていた。
「その情報は、セシリアの血液が採取できたことで判明したんだ。空港での血液検査は“転移”ですり替えたダミーだったが、きみのお陰で僅かとはいえ彼女は血を流した。お手柄だ」
早梛はその内容を、震える声で読み上げる。
「『【魔女の娘】は……対立する因子を持つ【魔女】の細胞では殺害不可。対立する因子を持つ【魔女の娘】の細胞、或いは一型因子、または時幸の細胞でしか抹消できない』……つまり、これは」
「うむ」
今出川は頷いた。
「たとえ上位の存在であっても、【第三魔女】閻緑蝶にはセシリアを殺すことはできない。緑蝶に娘がいたら、その子には殺すことができる。逆も然りだ。ただし彼女の場合、因子によるオートディフェンスが作動してないから、“転移”をどうにかすれば一般兵器でも殺傷可能かもしれんが」
早梛はすぅ……と息を吸い込んだ。
そして、静かに吐き出した。
二年前、彼女の家族は殺された。犯人は――【第五魔女】の娘。
あのとき、妹が刀で刺したが、“反転”の能力でダメージを与えることはできなかった。おそらくは他の一般武装での攻撃も同様に防がれるだろう。思い返してみても、彼女の能力練度はセシリアを上回る。
だが、早梛の刀にはそのとき彼女を貫いた血が浸み込んでいる。五型因子は共喰いの因子。【第五魔女】の娘にとっては……やはり早梛の刀に付いた「自分自身の血液」のみが、殺しうる毒となる!
「おーい」
先ほどからまったく反応のない時幸に、今出川が呼びかける。
少年はいつの間にか寝入っていた。あどけない寝顔が、長椅子の背凭れに半分埋まっている。
早梛はその顔を見て、かわいい、と思うと同時に、一抹の不安を抱いた。
「……大丈夫、かな」
意地を張るとか以前に、時幸の体調が心配だった。
本来対人戦闘をメインに鍛えられた時幸の技能は《ディヴィジョン》には通用しにくい。そのための足りない部分を、時幸はその身体そのもので補わざるを得ない。身を盾にして、囮にして、血を流し、肉を切らせて、代償を払って倒すしかない。
時幸とて超人ではない。切られれば血を流す。血を流し過ぎれば死ぬ。そして……死ぬ度に、時幸でなくなっていく。
傍から見たら便利な身体と機能だろう。だがそれは、無限に搾取できるものでも、していいものでもない。目に見えにくい形で、確かに減っている。
早梛は守りたい。「時幸」に、いなくなってほしくない。
「大丈夫。ちゃんと調節してるから。研究者にとっても、ユキがユキでなくなるのはいろいろ不都合だからな。こう見えて、昔からしょっちゅう擦り合わせて、お互いにいい妥協点を探ってきたんだよ」
悔しさが早梛の身を苛む。偉そうなことばかり言って、結局自分は、時幸のためにまだ何も成し遂げてはいない。
早梛が浮かない顔のままなのを見て、今出川は付け足した。
「起きたときにまだ回復してなかったら、輸血するから」
「輸血?」
「そう。ユキ自身の血液を戻すこともあるが、まず余らんからな。その場合は健康な者から募るんだ」
「平気なんですか?」
「ん?」
ああ、と、合点がいったのか、説明してくれる。
「血を抜くだけだから、提供者に害はないよ。血液型は合致させてるからユキの方も問題ない」
「は……」
「こいつ、A型だから。ちなみにやぎ座」
知らなかった。そもそも時幸にも血液型があったという事実に、目を瞠る。
「まあ、血については気をつけてるかな。長いから」
「長い?」
「出血多量で死ぬと、蘇生するまで時間がかかるんだ」
「!」
「血液だけじゃない。『なくなった』場合だと、再生するのに時間がかかる。それに暴走の確率も高いな」
「……」
早梛の刺々しい視線を受け、肩を竦める。
「言っとくが、研究室で試したわけじゃないぞ。そんな日には皆現夜さんに殺されてただろうしな。任務とかで偶然、とか、大怪我して治しようがなかったときとかだ」
詳しく訊きたい? と、若い女性である早梛を気遣うように問いかける。いまさらだ。こちとら、いままで無惨なものも悍ましいものも散々見てきたのだ。
「はい。お願いします」
何より、早梛は知らなくてはならない。
時幸を、そんな目に遭わせないために。
「五体が揃ってるとすぐ復活するし、暴走の危険も薄い。一番いいのは窒息だな。けど、蘇生してもすぐまた死ぬような状態だと、暴走の確率が高まるから、溺死とかはわりと危険だ。撃たれたり刺されたりはまだましな方。潰れた内臓の復元速度は損傷箇所による。粉砕骨折とかだと、蘇生した後も数日眠り続けてたことがあったな。一度任務で腹の中ズタズタになったことがあったが、あれは大変そうだった。なまじ意識が残ってたから治るときもかなり辛そうだったな。どれくらい痛いか知らんけど」
どうやら、死因によって蘇生時の反応も変わるらしい。
「指の骨とか細かいとこは丸ごと取り除いても元に戻るけど、四肢とか頭の切除はしたことがない。その状態からだと、再生しても最悪、人間に戻れない可能性がある、ってのが総帥の見解だ。あと死因だけじゃなくて、死ぬまでに時間がかかったり、強いショックを受けてると蘇生後の暴走の確率が上がる。だから今後、手遅れになったときには潔く頸動脈切ってやってくれ」
「そんなことっ……しません! できるわけがありません」
声を荒らげる。色白の頬が瞬く間に紅潮した。
紙を千切るような気軽さで殺人を提案した今出川に、怒りと軽蔑と、理解できない不快感を抱く。やはり研究部の人間は、頭の螺子がどこか人とずれている。
何より、時幸の命を侮辱されたようで、気に入らない。
「へえ……相棒って、それも含めてだと思ってたが」
少女の中で株価が急下落していることなど気づいていないらしく、会話を続ける。
「……そもそもそういった状況にならないように気を配るのが私の役目ですから」
「ふうん」
「現夜さんとは違うのか」
今出川は、しみじみと顎を撫でた。
「あの人は、どうみても手遅れの場合でも『死ぬなよ』って、最後まで諦めなかったな。生き返るって判ってても、治療を止めなかった。それでいて暴走しかけたらきっちり縛り上げて付きっきりで押さえてたよ。元に戻るまで何時間も。いっそ楽にしてやった方がいいだろうに、ぎりぎりまでユキの生きようとする力を信じた。おかげで、ユキには死に癖がない」
いまでも未熟な少年の、さらに数年前。それで楽になれるなら楽にしてやりたい、と傍から見ていても思うような在り様を見て。長く苦しませても、厳しいと恨まれることになろうとも。それでも時幸に、険しくとも生き続ける道を課した。
それでいて、時幸に粗末にされているという意識を与えることなく、たとえ世界の誰が彼を見捨てても自分だけは見捨てない、裏切らない、そんな感情を注ぎ続けた。
だから時幸も、楽になれると判っていても、「いっそ殺してくれ」と願うことはなかった。「死んでたまるか」と自身を鼓舞して、足掻いて、歯を食いしばって、最後の一秒まで命の限りを尽くす。
それを許せばきっと、彼自身の自我さえ手放してしまうかもしれないから。
先ほどの、積極的に蘇生を検証することはなかったという話が事実なら、時幸が死ぬことは本当にイレギュラーな場合のみだったのだろう。そういった状況を、一期が作り出した。
それがなければ、いまでさえ自分を顧みず無茶する時幸が、さらに自身を打ち捨てていたかもしれなかった。
「でも、担当医は不服だったなあ。死ねば治るのに、わざわざ抗生物質打ったり縫ったりしなきゃならない~って」
「そうしなくていい理由が、あったんですか」
「ん?」
「次も戻ってこれるって……まだ時幸くんのままだって保証が、どこにあったんですか」
蔑みを含んだ叱責の、冷めた瞳で見上げた。潤んだ、率直な眼差しを受け、今出川は息を飲む。それまでのどこか呑気な雰囲気が掻き消える。
いくら蘇生の事実があろうと、統計をとれていようと、それは「次も同じように蘇生する」かどうかを裏付ける根拠にはなりえない。【魔女】と古の呪詛を継承する一族の混血。時幸と同じ存在はいない。次死ねば、本当に死ぬかもしれない。暴走して、二度と元に戻ることはないかもしれない。時幸の「次」は、誰にも予想できない。
「……そうだね。ごめん」
「いえ……あなたが悪いわけじゃありません。ただ……」
子どものように眠りこける時幸の頬に、早梛は再び、そっと触れた。
世界にとっても彼自身にとっても危うい存在故に、何度も憎悪の、嫌悪の、好奇の目で見られ、傷つけられ、それでも優しく真っ直ぐに育った時幸。彼がいま、ここにいるのが、とても尊いことに思われた。
されど、様々な人がその事実を履き違えている。慢心して楽観視して、むしろたかが死んだ程度、どうせ生き返る、とさえ思っているかもしれない。……時幸自身でさえ。
「私は、それが……とても悔しい」




