プロローグ 赤く現れる夜
すべてに赤い影のつく夜だった。
背の低い建物の間を、狭く短い道が縦横に走り、ごくたまにノラ猫が横切っていく。道を抜けると、異国情緒あふれる装飾の施された石造りの橋が、黒く濁った水を湛える川に架かっている。川縁はちょっとした遊歩道になっており、瀟洒な造りの街灯が、しめやかに照らす石畳が続いていた。
その道を、一人の女が歩いている。
女の子、という形容の似合う女だった。顔立ちを窺うに、とうに二十歳を越えているだろう。されど歩き方や佇まい、仕草など、彼女を縁どる様々なファクターが、さながら世間擦れしていないあどけなさを感じさせた。
時刻は25:20。見るもの触れるもの血に染まったような風景の中、彼女の他に動くものはない。それでも臆すことなく、むしろ幻想的な眺めに高揚するかのように足取り軽く夜を行く。
「……It`s all dark in the afternoon, but when I look up, the stars are full, like a……」
口の端に歌を乗せる。禍々しい夜にふさわしい不気味な歌詞の、それに不釣り合いな陽気な調子の。
赤い夜。孤影の路。昼下がりの歌。
「だっせぇ歌」
それらすべてを切り裂いて、夢を壊すような一言が女の足を止めさせた。
橋の下から、まるで居酒屋の暖簾を潜るような気安さで、一つの影が現れる。
仕立ては良いが草臥れたスーツに身を包んだ、三十代後半と思しき男だった。それなりに整った顔立ちをしてはいるが、一応手で覆いつつも大きく欠伸した様は服装同様疲れた大人そのものであり、女の神経を逆撫でた。
彼女とて、追っ手がかかることを予想していなかったわけではない。むしろ誘うように、わざと痕跡を残してもいた。そうやって罠に掛かったとも知らずにやってきた相手を、華麗に一蹴する様を思い浮かべては上機嫌になっていたものだ。だが、実際現れたのは、どうにも締まりのないへらへらした男が一人。第一印象は最悪だ。そしておそらく、覆されることはない。
自身がどう評価されているかなど知る由もない男は、つと空を、そこに浮かぶ月を見上げた――地上を照らす月は赤く、故に夜は血の色に彩られている。
「……ストロベリームーン。高度が低いせいで太陽光の青色が大気によって散乱され、赤く見える月、だったか。季節特有とはいえ、そんな珍しいものでもないかな。……もっとも、どんな空模様だろうがこの時間はいい加減眠い。いつもならもう、ちびを寝かしつけておれも休んでる時間だぜ?」
無粋。嫌悪の悪寒が、ぞわりと背中を駆け抜ける。
今日、仕組んだわけでもないのに幻想的な風景を、自然がまるで支援してくれているかのような素敵な演出に思っていた。それをこいつは、いきなり乱入しておいて、さらに剥ぎ取るように解説しやがった。
「てめぇもさ、こんな夜更けによくもまああんな周到な仕掛けを張る気になったな。おれの知ってるテロリストなんて、白昼堂々衆人環視の中で盛大にぶっ壊しておいて『爆破サイコー‼』とか高笑う奴だぜ。……その方が何十倍も迷惑だがな」
心底面倒臭い、という様子で肩を竦める。
某国の筆頭研究者スチュワート=K・ハセクラの暗殺。亡命を請け負った日本政府の警護を掻い潜ってまんまと首を獲る。成功すれば政府の失態と癒着、そして“檻姫”の名を全世界に披露することができる、格好の舞台だった。
故に数か月前から綿密な計画を立てていたし、故意に誘いをかける以外では足がつくようなことはしていない。
完璧な作戦。華麗な仕事。事実、ここまで想定外のことは一切起きていない。
称賛されることはあれど、「迷惑」の一言で片付けられることになろうとは、彼女も予期していなかった。激昂しかけたのを自覚し、身を引いて深く呼吸する。落ち着け、たかが一人に何ができる。誰も彼女の目論見を追えていない。掌で転がされているとも知らず慌て狼狽え、存分に迷走したところを悠々と飛び越え、最後に嗤うのは彼女の方だ。遥かに格上の相手であることを、存分に見せつけることに変わりはない。こんな、偶々彼女を見かけたようないい加減な男に一喜一憂する必要など、どこにもない。そう心を落ち着けたときだった。
ガチャリ、と重たい音が、足元に突きつけられた。
「仕掛けはこれで全部か? ……ああ、言っても判んねえか。悪いな、時間まで暇だったから」
ばらばらに……強引に破壊されたのではない、むしろ懇切丁寧に分解されたパーツの一つひとつが、地面いっぱいにぶちまけられていた。弾みで螺子が跳んで、ころころと転がって川に落ちる。とぽん、と小さな水音がした。
元は何だったのか、もはや判らない残骸を前に、女は呆気にとられる。気づかれていた? 馬鹿な。まさかあんな、そもそも物を隠すという発想そのものが思いつかないような場所を、探り当てたというのか。
女の困惑を受けて、男は何てことのないように肩を竦める。
「あいにく、この手の嫌がらせには慣れてるもんでな。むしろ易しい方だった。言っちゃ悪いが、あんたよりあの悪趣味な歯車野郎の方が一枚も二枚も上手だよ」
周到な仕掛けを無効化された挙句、余裕だったと軽んじられた。あまつさえ、比べられて貶された。だが怒りよりも警戒が勝る。歯車、という言葉に、眼前の男がいままでどういった連中とやり合っていたのかを悟った。
「……成程。ただの昼行燈ではない様子」
初めて、女は口を開いた。この男には声をかける価値があると、評価を改めた。
「そりゃどうも」
男は変わらず呑気な顔で、ひらひらと手を振っている。
されど自身の方が勝っていることを、彼女は疑っていなかった。ターゲットの現在位置は把握しているし、代案も用意済みだ。計画には何の支障もない。そして……今度こそ確実を期すために、この男はここで始末しなくては。
男はもう一つ欠伸を手で隠す。彼女の目論見を阻んだことで気を抜いている。気づいていない――既に自分が包囲されていることに。
女は、口元に可憐な笑みを浮かべた。それ以外には何もしなかった。何の前触れもなく……男に、驟雨が降り注ぐ。四方八方から繰り出される不意打ちの攻撃、全神経を集中させていても無傷では済まない。まして、油断しきった男には成すすべもない……はずだった。
「“審判”――“幽蛾”」
男の姿が――透けた。残像を、鉛玉が虚しく通り抜ける。
絶え間ない攻撃の隙を、男は悠々と歩んでいく。実際はぎりぎりで見切り、最低限の動きで躱しているに過ぎない。けれども、言うのは簡単でも、実行できる人間は僅かだろう。
その神業を、男はまるで散歩でもするかのようにこなしていた。独特の歩術と身の捻りを駆使し、紙一重の回避であってもまるで優雅に、水槽の中を泳ぐ熱帯魚のように。
歩み寄る男に、このとき初めて女は危機感を抱いた。
すぐさま切り替える。
自動掃射を中断、散開。ポーン1~7を前面展開。残りのポーンとルーク1、浮上。ビショップを男の足元に設置、ナイト1・2にはそれぞれ胴と顔への特攻を指示。
「“河津七滝――海老滝”」
男の前を、縦に裂くように光が迸る。きらきらと、まるで飛沫のように。一秒後、積み木の城を崩したようながらがらという音が道の上で弾けた。彼女の僕達、その残骸が、不可視の迷彩を纏ったまま地面に転がった音だった。
「“天の川”」
銀光が今度は横薙ぎに掠め、残りの包囲網も破り捨てる。
度重なる攻撃を一顧だにせず、男は徐々に距離を詰めていく。さすがに焦りが出た女は、隠し持っていたフルオートを抜き放ち、連撃を放った。
「“鏡花”」
つ、と男が身を引くと同時に、その動きを追うポーンに銃弾が命中した。そのまま身を低く保ち、
「――“オデット”」
気づいたときには、男は眼前に迫っていた。
その顔には既に、呑気さもやる気のなさもない。その代わり、真剣さやぎらついた覇気も欠けている。
秋の暮れのように冷たく、それでいて花を撫でるように優しい風のような、爽やかで静かな眼差しがあった。
「くっ」
捕まらないように仰け反る……だけではない。足を跳ね上げ、仕込み靴の先端、毒入りの刃を喉元に突き上げる。
「おっと……“グレートヒェン”」
男は身体を半回転させて避けた。その周りに、鱗粉のように輝くものが見える。射撃すると、キンキンという反射音がした。
(鎖? いや、もっと細い……)
いずれにせよ、僅かとはいえ再び距離ができた。女は身を引き、一旦体勢を立て直そうとする。
「もっかい“グレートヒェン”……逃がすかよ」
男を守るように囲んでいた煌きが、今度は女に纏わりつく。
「ちいっ!」
「そろそろ終わりにしよう。眠いし」
詞に反して、凛とした響きがあった。まるで、世界中の人々の安眠を守る守り人だとでもいうように、そのことに誇りを抱いているように。
「“ロイヤルストレートフラッシュ”」
目の前で硝子板が粉々に砕け散った。そのような錯覚を覚え、一瞬赤い月の現実さえ見えなくなる極上の空想が意識を誘拐する。
目が覚めたとき、全身の自由が利かず、駒はすべて解体されて地に落ちていた。道の真ん中に転がされている女の顔を、男が覗き込んでいる。
切れ長の、濡れたように艶やかな瞳。形の良い耳と顎。夜風に煽られる黒髪が、赤い光に照らされて海の底のように怪しく、艶めかしく輝いた。薄い唇が、にっ、と引き延ばされる。いたずら小僧のようなその笑顔。
ああ、捕まったのだ。何をされたのかは判らない。されども漠然と、詰んだ、という感想がすとんと胸に落ち着いた。
男が手を放した。相変わらず、身体は微動だにできない。
丸太のように転がる女には既に興味を失くしたらしい男は、懐から端末を取り出す。
「……うわっ、着信やべえ」
シャットアウトしていた通信機能を復活させると同時に、洪水のような履歴と、金切り音のようなアラームが鳴り響いた。あまりの忙しなさに、もはや幽玄な夜の気配は欠片もない。
「おれだ。無事だから安心し」
『部長⁉ やっと、やっと繋がった……‼』
「ちょ……ショーカ、落ち着けよ」
電話口の声は、涙混じりで少し高い。
「悪かったよ、連絡できなくて。でももう“檻姫”は捕まえ」
宥めようとする男を遮り、悲痛な声が夜闇を切り裂いた。
『いまどこです⁉ 大変なんですっ、空港に向かう車両が次々と襲撃を受けています‼』
「は?」
男は初めて、僅かばかりだが目を瞠った。
「おい何言ってる。“檻姫”は……朝日メリサはここにいるんだぞ⁉」
『本当です、和田さん達とも連絡がとれなくて、』
「どうなってる……くそっ」
『い、急いで政府と連携を、救助者の確認を』
「落ち着け。どうせ全部ダミーだ」
『え……』
オペレーターが間の抜けた声を上げた。数秒前までヒステリック気味だったせいか、やや裏返っている。
「十台とも遠隔操作のラジコンだ。博士ははなから車で移動しちゃいない」
『は……じゃ、じゃあ、本物は』
「ここじゃ言えない」
ちらりと、転がったままぴくりとも動かない、否、動けない女の方を見た。
「それより、和田達と連絡がとれないことの方がいまは重要だ。単なる電波妨害なのか、それ以外の仕込みなのか……場合によってはそっちの方が本物の安全に関わる。一旦落ち着いて、冷静になれ」
『は、はい!』
既に先ほどの動揺から復帰したらしく、的確に指示を飛ばしていく。
「ああ……くそっ」
電話を切り、苛立たし気に髪を掻き上げた。
「迂闊だった……プロファイリングじゃあ、まるで二重人格者みたいにあやふやだったが……ほんとに協力者がいたとはな」
『違うね』
男の呟きに、予想外の返事があった。
女の方からしたが、彼女ではない。口にも戒めが施され、声の出せない状態だ。呼吸の度に上下する胸元、そこに僅かに動きの差を見出し、躊躇いもなく腕を突っ込んだ。指先に固いものが触れ、取り出す。ボタン電池ほどの大きさの装置だった。見たことのないタイプだ。あの男のように自作の品だろうか。
『初めに言っておく。メリサを殺したら、この都市全員道連れになるよ』
若い男の声だった。冷たい響きに、それが誇張でも何でもないと察した。おそらくは生体装置で、女が生きているのをどこかからか確認しているのだろう。
「違う、ってのはどういうことだ。おまえは何者だ」
『そっちこそ誰? 政府の番犬リストに載ってなかったと思うんだけど』
しゃあしゃあと、機密情報を持っていることを披露してみせる相手にうんざりしながらも、男は決然と己が名を告げた。
「現夜一期。《機関》の一員だ」
『《機関》……化け物工場の犬の方か。ん、アラヤ……現夜。そうか、キミがあの有名な』
「そうだ。逃げられると思うなよ」
男――一期は、力強く宣言した。
『ふうん。まあ名乗ってもらったし、こっちも名乗るかな……小里川志緒。“檻姫”のもう一人さ』
「……なるほどな」
ふぅ、と溜息を吐く。
「薄々おかしいとは思ってた。一人にしては手際が良すぎるし、現場の遺留物的にも揺らぎがあった。なまじあの化け物の相手してるせいで感覚が狂ってたが、まあつまりは」
一期は、す、と目を細めた。万物の中に潜む悪意を、それが引き起こす背理を監視するような、番人の眼差しで。ここにいる彼女と、ここにいない彼を睨みつける。
「“檻姫”は、二人組……いや、複数人のユニットだったってことか」
『そういうこと。ちなみにボクとメリサだけだよ。他の人は信用ならないからね』
「そうか、そりゃいいことを聞いた。捕まえる人数は少ない方がいいからな」
『ハハハッ、できるかな、番人さん』
ブツリ、という鈍い電子音がして、通信が途絶えた。
同時に、装置を持つ手から雷が駆け抜け、一期の意識を焼いた。
*
「……それで、朝日メリサは結局、政府に引き渡したんだね」
部屋、というより箱、という表現が似合う、無機質な空間。けして狭いわけではない、むしろ《機関》の執務室の中では比較的広い部類に入るはずだった。
されど、白いパネルを床、天井、壁全面敷き詰めた場所はどうにも作りものじみていて、箱に詰められたペーパーシアターを思わせる。壁にはファイルや書籍、機材が並んでいて生活感はあるものの、それを収める家具がやはり白い。磨き上げた黒檀の執務机は立派だが、その上には白い紙の山と白い電話機、白を基調としたホログラム映写機が陳列されており、さらにそれと向かい合う安物の回転椅子とそこに座る人物の小市民ぽさが尚更アンバランスで、切り貼りめいたものを見る者に感じさせる。
「はい。《機関》に置いておく必要もありませんし、連れ帰ったとしても持て余すだけだったでしょうから。政府と事を構える必要もないと判断したんで」
一期が、彼にしては珍しく……というよりも、彼を知っている人物であれば耳を疑うことに、敬語で報告を行う。
「うん。正しいよ。政府にも面子ってものがあるからね。ただでさえ今回の暗殺未遂事件で各国からバッシングを受けてるのに、犯人が自国出身じゃあ、さすがに犯人確保を大々的に伝えないと立つ瀬がないでしょ」
それに対し、相手は「西日本二区建設計画草案」と印字された資料を手繰りながら、目も上げようとしない。
相手が相手でなければ、一期は「人と話すときには目を見て話せ」と叱りつけていた。どころか、何の予告もなしに椅子を蹴って引きずり下ろし、手元の資料を奪い取って床にばら撒き、さらに一、二発は殴っていたかもしれない。
そうしないのは、対面する人物がそのぱっとしない外見とは裏腹に、高い地位にあるから……というのもあるが、それを抜きにしても、一期が尊敬と恩義を抱く数少ない人間の一人だからである。
「それじゃあ、これで今回の事件はおしまい……ってことにするつもりですか」
「一応は。スチュワート某も無事渡航したし」
「……“檻姫”はまだ倒れてないのに?」
「まさか、単独のテロリストじゃなく複数犯だったとはね」
肩を竦めるのは、現在、彼が所属する組織……《機関》の、総帥である。
元は《機関》の前身である《REIMEI》にて高い地位にあったために、対人外戦争下において最高責任者に祀り上げられた人物。だが、ただの神輿ではなく、その統率力や【魔女】についての並々ならない知識、医術の手腕、そして、もはや悪魔と呼ぶにふさわしい斬新な発想によって幾度となく日本、そして人類の未来のために貢献してきた。
その功績には、従属意識皆無である一期であってもさすがに、畏敬を抱かざるをえない。何より、親友の治療の件では大変世話になったこともあり、多少無茶な仕事でも断ることはなかった。
「確かに気になることではあるけど、《機関》がこれ以上介入する道理はない。あとは政府の管轄だ」
今回の件は、飽くまで暗殺を食い止めたに過ぎない。犯人を逃がしたとあっては、いつまた同じことが起きないとも限らない。
果たして、政府はそのことに危機感を持っているだろうか……否。解決した気になって、終わったこととして処理するつもりだろう。
だがそれは、《機関》が憂慮すべき問題ではない。警告する義務も、助ける義理もない。今回はたまたまスチュワート博士の研究結果が《機関》にとっても有用だったために手を貸したが、本来ならわざわざ国の面子や国家間でのマウントの取り合いのために、身を削る必要はない。
むしろ、私情でテロリストを追い続ければ、過干渉として非難を浴びかねない。【魔女】との繋がりもあるあの男ならともかく、“檻姫”は国家間の均衡を崩すのが狙いだ。勇んで追う必要は《機関》にはない。
「現夜……これから、どうするつもりだい?」
「どうって……」
一期は首を傾げる。
「寝ます。連続の遠征はさすがにきつかったんで、さっさと寮に帰りますよ」
それから、腕を回して悪態を吐く。
「あー、でも、先に風呂かな。通信機に仕込まれてて、多分遠隔操作式のスタンガンだと思うんですけど、いまでもちょっと痺れがあるんで。ったく、おれじゃなきゃ死んでたっつーの」
「あー……」
総帥は一瞬呆気にとられた顔をしたが、
「う、うん! それがいい、お疲れ様!」
気を取り直して、部下を労う。
「それじゃ、失礼します」
身を翻し、退出しかけた一期だが、
「そういえば」
ドアの前で、足を止めた。
「ん? どしたの」
もしや、やっぱり引き続き“檻姫”を追います、などと言うんじゃないかと身構える。だが……。
「うちのちびはどこですか」
どうやらまったく念頭になかったようだ。密かに息を吐く。
「ああ。さっき検査して、いまは」
その言葉に、一期の眉が僅かに跳ね上がった。
「また検査? ここんところ多くないですか」
「またって、君が任務に出たの二か月前じゃん……ああ、いた。いまは通信室にいるみたい」
総帥は片手で端末を操作し、GPSから得た情報を表示する。
「また無茶なことやらせたんじゃないですよね。致死量まで血を抜くとか、肋骨削るとか」
「そこまではしてないよ。確かに血は抜かせてもらったけど」
目の前の男は溜息を吐いた。
「……不服かい?」
テロリストの話をしていたとき以上に関心を傾けている一期を見透かしたように、言葉を投げかけた。
「……ええ。本来なら、国を守るのは国民の仕事で、悪党を退けるのは大人の仕事です。ガキのあいつから揺すりとってるこの状況は、明らかに異常だ」
生物学上は両親ともに日本人、そして現在は一期の養子とはいえ、日本国に対して何の義理もない未熟な子どもの、健康な身体にメスを入れ続けている。やむを得ないこととはいえ、それを黙認、どころか加担しているのは、気持ちのいいものではない。
おれは……こんな扱いを受けさせるために、あいつをここに連れてきたわけじゃない。
そこまで考えて、ならば……と、別の一面が首を擡げる。
果たして……どうしてやることが、正しいんだ? どこに連れていくべきだった?
あの女にあいつを託されたと判ったとき……目論見が、理解できなかった。あいつのことを考えてなど、いなかった。ただ……手元に、置かなければと、それだけ思った。他の誰かに渡すわけにはいかない。渡したくない。だって、あいつは……。
「ふふっ」
と、突然、上司の笑い声。
「……なんすか」
「いや、君、いま」
と、澄んだ瞳に、一期を映す。そこにいたのは、子の将来を憂うただの一人の大人だった。
「とっても『保護者』って顔してたから」
「……あたりまえです」
一期は薄く微笑んだ。嬉しいというよりも、透きとおった、感情を窺わせない笑みだった。
「おれは、あいつの『師匠』ですから」
そして、今度こそ部屋を出ていった。
「現夜部長! すみませんでした」
通信室に入ってすぐ、若い女が突進してきた。かなり背が高く、一期は押される形となる。
「お、おおっ」
ぶん、と頭を下げる。その風圧だけで一期の髪や服の裾がはたはた揺れた。
「わたしのせいです! わたしがもっと早く気づいていれば、もう一人を取り逃がすことはなかったのに‼」
不意打ちの勢いと迫力に押されていた一期は我に返ると、下がったままの頭を撫でてやる。
「ショーカのせいじゃねえよ。“檻姫”が二人組だと気づけなかったおれの責任だ。むしろ、一人は捕まえられたのはおまえのアシストのお陰だぜ」
「ですが……」
「ほら、あんまり気に病むなって」
頭を上げた笙香の丸まりがちな背中を、励ますように軽く叩いてやる。
「ところで、ちび知らねぇ?」
「あ、はい……」
ようやく調子が戻ったのか、女はおっとりと笑った。
「奥のシアタールームで休んでいます。貧血で……」
「そうか」
笙香と別れ、奥へと続く扉を開ける。
『一期、待て』
瞬間、耳に飛び込んできた懐かしい声に、足が止まった。
『こっちで解錠する……三十秒だ、いけるか?』
『上等だ!』
向かい合う壁一面に埋め込まれた大型のスクリーン、そこにいま、自分が映し出されている。
若かったせいだろう、無謀な笑みを顔に貼りつけ、明らかに格上と思しき海外の工作員相手に渡り合っている。その表情には微塵も怯えはなく、ただ己の技能への自信と、相棒への信頼があった。
『いまだ!』
画面から聞こえる、姿なき声……録音された通信士の指示通りに一期が動き、敵を翻弄する。敵が巨体のバランスを崩し、倒れ込んだところを間髪入れずに鎖で縛り上げた。
『やった、一期、でかした!』
『何言ってんだ、日聖のおかげだぜ』
「……」
在りし日の光景。
もう二度と戻って来ることのない、夢のような日々。
名残惜しい気持ちを振り払え、とでもいうかのように再生が終わり、画面が暗くなる。
三秒だけ、その場に立ち尽くした。
そして、歩み始める。画面の前に設置されたふかふかの長椅子に向かって。
回り込むと、やはり、目的の人物が横になっていた。おそらく昔の映像が見たいと駄々を捏ね、彼に甘い通信班の好意を無駄にして、途中で寝入ってしまったようだ。
二か月ぶりだというのに全然変わっていないように見える……否、あの雪原で名前を訊いたとき以来止まったままのような、小さく柔い少年の頬に、そっと、触れた。
「ユキ」




