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*第七章*

「……こちら研究部部長、ただいま無事離脱」

『了解。すぐに迎えが到着する予定だ。私の部下の危険と引き換えに生き残ってくれやがってありがとう』

「はいはい」

 夏来は肩を竦めた。端末をしまい、部下の治療に移る。

 襲撃の際、とっさに遮蔽に隠れられたのは彼女を含めて数名のみだ。殆どの職員は、銃で撃たれて出血している。中には……手の施しようのない者もいた。

 心の中に沸き立つものを堪え、淡々と処置を施していく。看取るのはこれが初めてではない。前線に出る機会の少ない研究部であろうと、《機関》に所属する以上、命の危険があることは判りきっていたことだ。部下自身とて、覚悟の上のはず。

 それに、軽傷の夏来とて油断はできない状況だ。依然として壁の外、いつ《ディヴィジョン》に襲われてもおかしくない。先ほどセシリアが一掃したため一時的に周囲は空白になってはいるが、すぐに新手が現れることだろう。

 幸運なことに、処置が終わる頃、猛スピードで向かいくる車両のライトが彼女達を照らし上げた。全部で三台。

 乗っていた人物を見て、目を見開く。

「あなた達……どうして」

 《機関》の職員に紛れ、見知った顔が車から降り立った。

 表情から言わんとすることを読み取り、首を振る。その間も職員達は、負傷した研究者を車両に運んでいる。

 不意に、地響きとともに足元が浮きがるような感覚が襲いかかった。

「な、なんだ⁉」

 職員が周囲を見渡す。

「ちょっと、あれ……」

 夏来が、なぜか笑顔で彼方を指さす。

 本当に恐怖しているとき、人は笑うものなのだと、そのとき思い出した。

 深い海の底にいるような、重くも心地好い微睡みが身体を包み込んでいる。

『……キ』

 海面に投げ込まれた石のように、微かな声が波紋を呼ぶ。

 親しい人のような気もするし、大事な人のようでも、あまりよく知らない人かもしれない、声。

『……ユキ、しっかりしろ。聞こえてるのか』

『お願いだから返事をしてください、ユキさん』

 よくよく聞くと、複数人が彼を呼んでいることに気がついた。

 気がついたことで、徐々に意識が覚醒していく。

「……っ」

 覚醒しはしたが、応答に手間取った。全身が痺れるように痛む。四肢に僅かに力を通すだけでも、かなり億劫だった。

『ユキーッ、気がついているんならなんとか言えーっ』

「……生きて、ます」

 全身が隈なく痛いせいで逆に、銃創の負傷も一時的に麻痺しているようだ。

『ユキさん⁉ よかった。いえ、GPSが機能してるので生きているのは判ったんですけど……』

「……ああ」

 時幸の肉体そのものに埋め込まれたGPSは、彼の生体反応が消失すると機能を失い、蘇生の際には異物として排出されてしまう。だが今回のように戦闘で負傷していることが予想される場合はむしろ、一度蘇生していてくれた方がありがたかったのだろう。生きているからといって、自力では動けないほどのダメージを負っている場合もあるし、最悪意識が戻らない可能性もあるのだ。

 首を巡らして周囲を窺う。これだけでも、かなり苦労した。

 どうやら、叩きつけられた先は偶然、エレベーターの扉であったらしい。地下室崩壊の際、大破した扉の向こうの空間に押し出され、瓦礫に埋もれるのを回避したらしかった。崩落にまともに巻き込まれたはずのノーマンがどうなったのかは不明だ。

「俺は……大したこと、ありません。自力で動けますし、地上への道も、何とかなりそうです」

 本当はあちこち蹴られたり打ちつけられた傷が疼くし、挙句に撃たれて絶賛出血中ではあったが、事実動けないほどではない。施設を放棄したことで昇降機は既に機能しないだろうが、ケーブルを伝っての上り下り程度ならなんとかなるはずだ。

『そうか……ならワリィけど、救出は後回しだ。それどころじゃない事態が起きてる』

 時幸の無事を知っても依然緊迫した空気に、まさか、と脳裏にある可能性が過る。

「……なにが起こったんです?」

『あー、なんと言うべきか』

 歯切れの悪いセリフに、こちらから言葉を接ぐ。

「……クラスⅠが、現れたんですね」

『いや』

 しかし、否定された。

『んと、ね、なんというか……確かに、クラスⅠじゃないんだけど……』

 他の職員も要領を得ない中、代表して笙香が口を開く。

『……神橋さんは、必死にクラスⅠの出現を阻もうとしました。直前まで、最善を尽くして。事実、レーダーに出ている反応はクラスⅠの……生体の反応ではありません。生体でない以上、アレは《ディヴィジョン》とは呼べないでしょう。ですが……』

 送信された映像がポップアップされる。立体動画の中心、白い饅頭のような塊が、でん、と佇んでいた。大きさといい形といい、なるほど、クラスⅠとはとても思えない。確かに早梛は、与えられた使命を果たしたのだろう。ただ、ああやって顕現してしまっている以上、完全な成功とはいえないかもしれないが。

「クラスⅠでないのなら……アレはいったい」

『おそらく、半端に阻止したせいで、却って脳神経系が形成されていないのだと思われます。あれはただの肉の塊で……クラスⅠと同じくらい、膨張しつつあります』

「なんですって」

 軋みを上げる身体に鞭打ち、地面から毟り取る様にして上体を起こした。

『司令塔がない以上、行動することはない。当初の予定通り都市を襲うことはないっぽいね。けど、このままおっきくなり続けてると、都市の方まで膨らんでく、かも』

『さっすがに東日本一区がまるまる飲み込まれるこったあないだろうが、壁に着くかもな。そうなったら、あの肉を梯子にして、他の《ディヴィジョン》が際限なく都市に流れ込むことになる』

『でもね、いまはまだ都市の外で、けっこう距離もある。この間のクラスⅡとは違って、超破壊兵器の使用が可能ってわけ。事実、日本政府が使用宣言を出しそう、なんだけど……』

「なんです?」

 一刻を争う事態のはずだ。都市に被害が及ぶ状況でない以上、早急に破壊する必要がある。だが生天目の声には、暗い響きがあった。

 ぞくりとした予感に、背筋が震えた。息が荒いのは、傷の痛みだけではないだろう。

「……早梛さんは」

 ずっと気にかかっていたことを、口に出す。

「早梛さんは、どこにいるんですか⁉」

 戦闘中でさえ感じなかった恐怖と緊張が、全身を打ち叩く。

『神橋さんは……』

 沈痛な笙香の……通信班全体の、気配。

 先ほど、早梛は直前まで、セシリアを妨害していたと聞いた。つまりは、すぐ直近にいた、ということで。

『……彼女の端末の信号は、あの肉塊の内部です。形成の際、巻き込まれたものと思われます』

 声を失った。一瞬、心臓さえ停まったように思われた。

「そんな……」

『安否は不明です。ですが……』

 あの肉塊に取り込まれたのだとしたら……十中八九、命はあるまい。窒息したか、圧死したかの違いしかない。

 がくがくと足が震える。強者と対峙したときとは違う恐怖が、背筋を駆け上がる。

「けれど……まだ、決まったわけじゃない。内部の密度は大したことないかも。いえ、もしかしたら端末だけ取り込まれて、近くで動けずにいるのかも。早く助けに行かないと」

 必死に可能性を拾い集める。

 否。彼女が死んだという可能性を、捨てようとする。

『無駄だな』

 だが、冷徹な声が殴りつける。

『生きていたとしても、そう遠くないうちにあの一帯はミサイルで焼き払われる。諦めろ』

「ここに来たとき、ユキにゃんは空っぽだったにゃ」

 何度目かの鹵獲任務に失敗し、大勢の命が失われてから数か月。死体が発見されなかったものの、現場の様子から死亡が濃厚とされた一期がひょっこり帰還したとき、連れていたのが時幸だった。

 当時の彼は、それまで一緒にいた母親から一方的に手を放され、知らない男に知らない場所に連れてこられた、まだ八歳の少年だった。

「ユキにゃんは、知らなかったにゃ。自分が何者か。でも、ある日、わかったにゃ」


「自分が【魔女の息子】だって、自覚することで」


 沢村は一度目を伏せ、ゆっくりと上げた。

「ユキにゃん、多分自分からは絶対に話さないにゃ。でも、知ってほしいにゃ」

「なんで……」

 早梛は惑うように視線を泳がせた。

「……彼に、何があったんですか」

「ユキにゃん……殺されたんだにゃ」


 時幸が現夜の姓を名乗り始めた頃のことだった。

 たまたま、一期が傍にいなかったときのこと。何の前触れもなく、それまで親しくもなかった職員の一人に刺された。心臓を直撃。幼い子どもの柔な身体は死んだかと思われたし、事実死亡が確認された。

 彼を殺害した者はこう語った。対人外戦争が勃発した折、【第一魔女】が生み出した《ディヴィジョン》に親しい人を殺された。私は大事な人を亡くしたのに、憎い人殺しの息子が生きているのが許せなかった。人を殺した化け物を「駆除」して何が悪い。

 つまりは、逆恨みだった。

 その後、早梛も知るとおり、時幸は蘇生した。一期や総帥は驚きつつも安堵した。しかし……治ったのは、身体だけだった。時幸の心は、一度死んでしまった。

 母親に裏切られた時幸は、自分が何者かわからなかった。わからないまま一度殺されて、自分の正体を実感する。刻みつけられた――激しく濃ゆい、鮮やかな死の感触とともに。

「そんな……」

 もちろん、一期を含め、周囲の人間は時幸を庇った。【魔女】との繋がりを否定し、彼の安全と尊厳を守ろうと尽くした。けれども一度芽生えた思いは拭えなかったし、その後も保護者のいない隙に彼の人格は何度もズタズタにされた。

「……アタシは、確かにミキにゃんを、ユキにゃんのお母さんに殺されたにゃ。でも、それはユキにゃんのお母さんにだって、仕方のないことだったにゃ。自分や子どもが誘拐されそうになって、守るためだったにゃ」

 そもそも【魔女】とは、実験体として拉致された女性のことだ。戸籍を削除され、死んだことにされた彼女達に、研究所内では実験と称して様々な人道に悖る行為が繰り返された。

「ユキにゃんのお母さんも可哀想なんだにゃん。まして、ユキにゃんはお母さんとは別人にゃ。恨むなんて筋違いにゃ。それに……」

 きへへ、と笑ってみせる。

「あの顔を見るとどうしても、ヒにゃんを思い出しちゃうにゃ。息子を恨むなんて、できっこないにゃ」

「ヒにゃん?」

日聖(ひなせ)だからヒにゃん。あなたはサにゃん」

「はあ……」

 言いたいことはわかる。時幸の遺伝子上の父親は《機関》の通信士だった。

 一期や沢村、五室の職員など、生前の彼を知る人物にとって時幸は「日聖の子」だった。

 しかし、その繋がりを知らない者にとっては「世界中を混乱に陥れ、多くの人々を殺した憎き【魔女】の子」だ。

 そして、時幸自身にとっても。

 自分は人とは違う。自分の母親を憎む人間が大勢いて、その当てつけや身代わりに殺されてもおかしくない。散々、憎まれた。化け物と罵られた。母親をダシに非人道的な実験を受けることもままあった。

「……お母さんのやったことを知れば知るほど、自分のことも嫌いになっていったにゃ。元来、お父さん似の責任感の強い、優しい子だったんだにゃ。……それがますます、あの子を苦しめたにゃ」

 沢村の瞳が、暗い色に沈む。

「自分にとれる責任はとる。母親が奪った分だけ、自分が差し出すことで補填する。もちろん、そんなことは無理にゃ。けれども周囲は、それを強いたにゃ」

「幸か不幸か……いや、()()()()()、あやつには必要とされる理由があった。逆らわなければ、檻に入れられるが安全は保障される。有用性を証明し続けている限り、実験と搾取は続くがある程度の人権は守られる。あやつはそれがまだましだと、自分の手に入る最良だと思い込んでしまっている」

 本当は居心地がよくはないだろう。けれども、幼いときに散々刻まれたトラウマは既に彼の在り方を形作ってしまった。彼と関わる人々の扱いの差もあってか、時幸の自己犠牲精神は根深いところまで浸透してしまっている。

「だからあやつは、自分を投げ打つことに躊躇いがない。元よりそういうものだと思い込んでしまっている。ぬしはあやつが自身を無下に扱うのが見ていられぬと言うたが、あやつにとってははなから、己に価値などないのだよ」

 気がつくと、再び涙が零れ出してきていた。

「……サにゃんは優しいにゃ。ユキにゃんのために泣いてるにゃん」


「痛い」


「「え?」」

 沢村と皆瀬が、心配そうに顔を覗き込んできた。

「痛い。苦しい。嫌だ。死にたくない」

 涙が溢れ出るように、早梛の口からは言の葉が千切れる。

「こんな、誰だって思うことを……あたりまえのことを、まさか時幸くんだけ、感じないなんて思うんですか。どうして時幸くんだけが、我慢しないといけないんですか」

 沢村達というよりも、ここに居ない者達に……時幸を刺した職員だけではない、その風潮を「致し方なし」として容認する全世界に向けて、早梛は怒った。バケツをひっくり返すかのごとく、心のうちをぶちまけた。

「サにゃん」

 早梛の涙が同情からくるものではないと察し、沢村の顔に、何ともいえない色が浮かぶ。話の流れとしてはふさわしくないかもしれないその色は、だが、悪いものではない。

「……研究者が彼女達を【魔女】にしたんじゃないですか。勝手に作っておいて、自分達に制御できなくなったからって勝手に都合のいい言葉で人外のレッテルを貼って、責任を擦り付けて。そりゃあ、彼女達だってもう、純粋な被害者とはいえないかもしれません。でも、それを……謝るのは、【魔女】自身です。誰にも代われません」

 拳を握り締め、肩を震わせ、早梛は次々と思いの丈を炸裂させる。自分を罵るとき以上に、言葉は溢れて止まらない。

「まして、息子だからって、何も悪くない時幸くんに贖わせようだなんて、お門違いもいいところです。だって彼は当時八歳ですよ⁉ いったい何ができるっていうんですか。なんでそんな、私にも判ることが判らないんですか。そりゃあ、時幸くんは、時幸くんは……」

 皆瀬の言った便利な言葉を思い出す。

「確かに、人よりも、少しだけ『丈夫』です。でも、だからって、少し特別な生まれ方をしたからって、何をしてもいいなんてこと絶対ない!」

 興奮している自覚はあった。されどいまさら止めることもできなくて。この際だからと、すべてすべて、吐き出してしまう。

「時幸くんは、自分に非がないことでも、背負ってしまう……優しいから。でもっ、それは……それは……」

 きっと顔を上げる。その拍子にまた、雫がまろび出た。

「時幸くんが、優しいのは、……誰よりも、自分を怖れているから」

 その途端、ふっと糸が切れるように、身体が軽くなった。

「……やっと判った。時幸くんが、自分を大切にしないのは、優しいから。自分が、誰かを傷つけてしまうかもしれないって判ってるから……誰よりも先に、自分を傷つけようとする」

 死ぬのは怖い。自分が自分でなくなるのが怖い。

 早梛の前で死と蘇生を繰り返した後、彼が魂の底から吐露した言葉だった。

 ――あれは、彼にとって、何度目の死だったのだろう。

「にゃー!」

 背後から沢村が抱きすくめる。その顔は満面の笑みを湛えていた。

「さ、沢村さん」

 愛情表現のつもりかもしれないが、力強い抱擁に背骨が軋んだ気がした。

「うむ。それでこそ早之助じゃ」

 皆瀬が満足げに頷いた。


「だからぬしは、『かけがえがない』のじゃ」


「え……」

「あやつの境遇に同情する者は多々おる。怒りを抱く者も。だが……『誰だって』や『あたりまえの』という見方をする者は、そうはおらん」

 もし仮に時幸が、あれほどに慕われていた日聖の子でなかったのならば、沢村も笙香も、一期でさえも彼に異なった対応をしただろう。あからさまに実験動物とは扱わなかったかもしれないが、それでも、腫れ物に触るような態度を取っていただろうことは否めない。

 早梛はそうではない。「正しいか正しくないか」で判断している。人間だとかそうじゃないだとか、誰の子どもだとか何を持っているとか、そんなことでは判断しない。或いは他の人がこうしているから……で流されない。自分の物差しで世界を測っている。

 時幸の父親と面識があるわけではない。時幸の母親が歪めた世界でいまも戦っている。そして、時幸の人間離れした特性を何度も目撃した。にもかかわらず、「こんなのはあんまりだ」と断じてみせた。

 時幸が何者だろうと関係ない。

 不当な扱いには怒りを抱き、迫害や自己犠牲に心を痛め、身を挺してでも守ろうとする。

 その公正さと優しさが、早梛の魅力である。

 それはとても強いこと。同時にとても――危ういこと。

 正しいか正しくないかで、そして二十歳にも満たない早梛の物差しで測れるほど、世界は単純でも綺麗でもない。だが、だからこそ。そんな早梛に、時幸は惹きつけられている。現実の厳しさを知りつつも、彼女の青い理想を保ちたいと望んでいる。

「ぬしは要る。現夜時幸には、他の誰でもない、神橋早梛が、かけがえのない相手なのじゃ」

 ここに居る、というあたりまえな肯定ではなく。ここに居てほしい、とも少し違う。

 ここに居なくてはならない、時幸の傍にいてほしいという、それは祈願なのだ。

「早之助。痛みを伴わぬ付き合いに血は通わぬ。傷つくことを恐れるな。そして、いくらでも傷つけよ。そして忘れるな。治してやれるのもぬしだけじゃ」

「あ……」

「傷つけたと思うのなら、これから謝ればよい。自分の弱さが嫌なら、これから強くなればよい。相棒とは自分で自分を削り合う言葉ではなく、お互いを磨き合う関係だろう」

「にゃん。バディを守るのはあたりまえにゃん」

 沢村の言葉は、童謡に出てくる尻尾の生えた月のように柔らかく明るかった。

「でも守られるだけじゃだめにゃ。お互い背中を預けられるようににゃらんと」

「……はい」

 涙の残滓を拭い、早梛は二人に向き直った。

「私を……鍛えてください」

 まっすぐ背筋を伸ばして、頭を下げる。

「私、時幸くんにばかり辛い思いをさせたくないです。いまのままじゃ、彼に顔向けできない」

 必要だ、早梛のままでいい、と言われても、さすがにそれを受け止められるほどに、早梛は早梛自身を信じているわけでも、許せたわけでもなかった。

 何よりも、早梛自身が、強くなりたかった。

 時幸が、自分を切り分けることしか知らないから、痛みを伴うと判っていても、それしか選べないというのなら……他の道を見つけられるほどに、聡くなりたいと。

 彼だけを傷つけさせない。時幸の犠牲を世界が強いるというのなら、その世界と戦う。

「うむ」

「アタシは厳しいにゃん。覚悟するにゃん」

「望むところです!」

 晴れ渡った眼にはもう、迷いはない。


(そうだ……)

 緩く揺れる世界は、少女の矮躯を容赦なく攪拌する。されどそれは心地好く、破滅へ誘うと判っていても、抜け出せない。

(戻らないと……)

 それでも、目を覚ますことを選んだ。彼の元に向かわなくては。

 どうにか目を開ける。足元の辺りが明るく、仄かに周囲を照らしている。

 身体中が軋んでいる。戦闘で痛めた手や脚、その後打ちつけた背中や腰、頭など、血が固まっているのかうまく動かせずにいる。

「……くっ」

 無理やり身を起こして、現状を窺おうとする。

 光源はLED照明だった。《機関》の地下施設で最も普遍的な照明器具と同じ型。それが早梛の、なぜか片方だけ靴を履いていない右足の傍で、いまにも消えそうな弱々しい光を発している。

 どうして靴がないのか。弾き飛ばされた衝撃で吹っ飛んだ? いや、そもそも、天井近くに設置されているはずの照明がどうして足先に……答えを求めるように見上げると、よく見知った床の模様が窺えた。そしてそのことに気がついても落下しないということは、重力がない空間なのか、天井が地面側にあるかということだろう。

「んー」

 頭がはっきりしない。起き抜けのせいかとも思ったが、じくじく痛む頭に手をやると、けっこういっぱい血がついた。どこか切ったようだ。

「ここは……」

 そっと手を動かすと、冷たいものにそっと触れた。そちらに目を遣ると、それは彼女の愛刀だった。戦闘で弾き飛ばされたはずだが、どうやら彼女も吹っ飛ばされたことで近くに来ていたらしい。とりあえず、武器が確保できたことに安堵すると、ここがどこだか確認する。セシリアとの……【第七魔女】の娘との戦いの後、何が起きたのか。

 左手側にあるのは障壁だ。遠藤達通信班が遠隔操作で動かし、廊下を閉鎖した際のもの。早梛は元の廊下から移動していないということだろうか。それならなぜ上下が逆さまなのか……。

「……ひっ」

 反対に目を遣った彼女は、小さく悲鳴を上げた。

 廊下の向こう、通路が続いているはずの方向は、いつの間にか壁で閉ざされていた。通信班の誰かが遠隔操作で動かしたのだろうが、彼女が声を上げたのはそれが原因ではない。その壁の縁、通路の向こう側から……白く、柔らかく、そして大きなものが、緩やかに蠢いていた。そのぶよぶよしたものからはさらに細い蔦のようなものが何本か伸び、探るように空を掻いている。

「なに、あれ……」

 気絶する直後に起きたことを思い出す。確か……恐慌に陥ったセシリアは、都市に辿り着く前に装置を解放しようとした。早梛はそれを阻止しようとして……とっさに、靴を投げたのだ。それで、片方ないのだった。それがちょうど、セシリアに激突し、彼女は変化を始めた【魔女細胞】から弾き飛ばされて……。

「そっか……しくっちゃった、のか……」

 こうして施設が壊れていること、そして、僅かとはいえ既に【魔女細胞】が変化していたことを思い出し、嘆息する。

 クラスⅠが出現したのだ。早梛は……止められなかった。

 任された仕事を果たせなかった悔しさと、都市の状況への不安が、胸を圧迫する。されど、と頭を切り替える。現状を嘆く暇があったら、少しでも、状況を変えられる可能性を探らなくては。

 壁を叩く。埋まっているのか、手ごたえは固い。脱出は難しそうだ。反対側はああして《ディヴィジョン》の肉で塞がれている以上、通り抜けることは厳しいだろう。いや、それよりも、先ほどから感じるこの振動は何なのか。てっきり、クラスⅠが膨張することで施設崩壊する振動が伝わっているのかとも思われたが……それにしては妙だ。クラスⅠは発生してから数秒で爆発的に膨らみ、一分足らずで完全体になるはずだ。こんなに長い間揺れるのはおかしい。

「もしかして……」

 壁に、今度は身をくっつけ、耳を澄ます。僅かに……唸り声のような、消化器官が動くような、つまりは生き物の気配が聞こえた。

「……そんな」

 通路ごと、巨大な《ディヴィジョン》の中に埋まっている。

 こちらの壁からはまだ侵入はされていない様子だったが、どちらにしろ、ここから抜け出すのは絶望的だ。今度こそ心が折れるかと思った。

 そこで、腕時計型デバイスの存在を思い出す。もしかしたら助けを呼べるかもしれない。されど、腕に巻いていたはずのそれは見当たらない。縋るような気持ちで振り返る。――あった。通路の奥に転がっている。

 顔が綻んだのも束の間。その向こうに広がる《ディヴィジョン》の壁、そこから伸びる蔦のような触手の存在を、すっかり忘れていた。

「ひゃぅっ」

 目を離した数分間の間に、触手は急速成長・増殖し、壁の隙間から溢れんばかりにぎゅうぎゅう詰めになっていた。しかも、ずずっ……といかにも窮屈そうな音を立てながら、さらに膨らみ、先端を伸ばしつつある。

 心臓が早鐘を打つ、汗が頬を滴り落ちる。浅い呼吸が、限られた酸素を貪り食う。

 脱出とか、連絡とか、そういう次元の話じゃない。あの、いまにも迫りくる触手を何とかしない限り、早梛に未来はない。このままでは、肉に圧迫されて潰れ死ぬことは避けられない。

「……嫌だ」

 嫌な汗が、頬を伝う。

 されど、心情とは裏腹に。両手でしかと刀を掴み。切っ先を上げて。

 早梛は、迫りくる死を見つめた。

 逃げ場のない空間、限られた時間ではあれど敢えて、さらに目を背けずに。

 ――死ねない。

 曇り一つない刃は、仄か青く。

 ――死なない。

 湖面から飛び立つ白鳥の動きで。

 ――死んだら、悲しませてしまうから。

 ――死んだら、彼を見ようとする人が、止められる人が、いなくなってしまうから。

 強く、真面目で、見栄っ張りで、苦労人で、優しく、脆い、彼女の相棒を想って。

 ――帰らないと。

 自惚れかもしれない。彼自身の気持ちを確かめたわけでもない。

 それでも。ここで死ぬわけにはいかないと。踏み出した。

 同時に、壁を砕き飛ばし、白い肉の氾濫が迫りくる。

 生きるべく、どこまでも振り上げた一閃が奔る――‼

 対人外戦争が始まって以来、様々な階位、或いは種類の《ディヴィジョン》に踏み荒らされまくった荒野に、いま、新しく轍を刻んで。

 爆走する車が一台。

「もっと、もっと早く、近づいて、しゅーくん弟!」

「榊です!」

 運転する青年をけしかけつつ、夏来は前方の丘陵を睨みつける。否、丘陵ほどの大きさに膨れ上がった肉塊を。後部座席の悠は身を縮こまらせ、両耳を手で塞いでいる。聴力を持たない彼女だが、化け物のようなスピードで三半規管を痛めたのか、それとも受け継いだ血が聞こえない音を聞こえしめるのか。

 負傷した研究者をどうにか押し込んだ車は既に都市へと向かわせた。夏来にも乗るよう促した職員を彼らとともに逃がし、研究部部長は逆に都市へと迫る脅威へと接近しつつあった。

「それで⁉」

「なによ」

「近づいて、何か当てはあるんですか?」

「ないわよ、そんなもの!」

「はぁ⁉」

「そもそも、《ディヴィジョン》としてはあれ、不完全なのよ」

 クラスⅠは、発生してから数秒で爆発的に膨張し、体長10~20メートルほどまで成長する。その間に司令塔や各種器官が形作られ、膨張が収まると同時に活動を始める。反面、形成途中はさながら蛹の中身のように無防備かつ不安定だ。ただ、その成長速度は生物としては目を瞠るもので、とてもではないが攻撃する暇はない。

 しかし、目の前で膨らみ続けるアレは、何が原因なのか、《ディヴィジョン》としては完全に失敗作である。本来数十秒で完了するはずの形成を十分以上も行い続けているにも関わらず、脚や触覚、眼球などの器官が未だ形作られていない。【魔女】の都合によっては不要の機能ではあるが、命令を受理し、実行する思考回路すら形成されていない可能性がある。

「つまり、アレは大きさこそクラスⅠ級だけど、クラスⅠではない。クラスⅠではない以上、人類の既存兵装でも処分可能である」

「そうなんですか?」

「多分」

「確証はないんですね。あれ?」

 ハンドルを握りながら、榊は首を傾げた。

「対処可能なら、ミサイルなり何なり撃ち込まれるってことですよね。なら、近寄ったら危ないんじゃないんですか」

「お馬鹿さんねえ。跡形もなく吹き飛ばしちゃったら、せっかくの稀少な七型、それも【魔女】に近い性質の細胞を採取できないじゃない。ただでさえこの間誰かさんが消滅させちゃったし」

「……けっこう根に持つタイプなんですね」

 今日なんて榊だけでなく、多くの《マイナー》が七型を大量に討伐したというのに。

「ん、そういえば」

 夏来はどこか呑気な顔で、こちらを見遣った。

「あなたの呪詛って、《ディヴィジョン》の型に関係なく作用するけど、階位はどうなの? クラスⅠには効くわけ?」

「さすがに無理じゃないですかね。普段の呪詛だって、効く個体とそうでない個体がありますし」

 前方の肉丘を見据える。あの大きさのものを腐蝕せしめるのは自分では無理だろう。たとえ部分的に効くとしても、全身に深く作用させるまでには至らない。

「ふぅん……『旧い血族』っていっても、様々ねえ」

「……どこでその言葉を?」

「総帥から。あの人も一応、そうでしょ。だからしゅーくんを雇ったのよ」

「ああ。そういえばそうでしたね」

 と、そこで。けたたましい電子音に、思わず急停止。

 てっきりスピードの出し過ぎや他の要因で車が音を上げたのかと思ったが、そうではなく、夏来の端末からだった。

「はい、こちら夏来。……どこって、あの細胞の近くよ。……なんですって⁉ はぁ⁉」

 夏来の目が見開かれる。

「大変‼ 政府がミサイル発射を強行したわ、《機関》の同意を得ずにね‼」

「なっ」

 榊はブレーキを掛けた。いまはまだ、肉塊から距離がある。どの程度の威力のミサイルが飛ばされたのかは不明だが、都市との位置関係を考えれば、ここは安全圏ぎりぎりだろう。

 しかし。回しかけたハンドルを、ぐっと抑え込まれる。

「……悠さん?」

 後部座席から身を乗り出した悠はしかし、榊ではなく、どこか遠くを見つめている。

「放してください。あなたの安全が第一です」

 聞こえなくても、状況から言いたいことは伝わっているだろう。

 両親を《ディヴィジョン》に殺され、自身も瀕死の重傷を負って《調律の彼女》となることを強いられた悠は、誰に言われるでもなく戦う道を選んだ。両親のように殺される人々を減らせるように。自身と同じような少女を増やさないために。一度決めたら譲らないことを、榊は知っていた。だから自身も《マイナー》となり、傍らで戦うと決めた。

 だが、それ以上に。悠を想う史俊の気持ちもまた、知っている。家族を次々と失い、この上悠にまで何かあったら……。

 されど悠は首を振った。口を大きく動かし、声にならない言葉を伝える。

「……え?」


 その僅か、数分後。

 天を分かつように、鉄の塊が降り注いだ。

 それは最高点にまで撃ち上がると、曲線を描きながら落下。肉塊の、まさに頂上に向かい、そして……。

 小高い丘に、花火が咲いた。

 頭上には満天の星。

「……はっ、はっ」

 久方ぶりの地上に出て、制限されていない酸素を思う存分摂取する。実際は一時間も経ってはいないが、疲労は既に限界を超えて、怪我も相まって立っていられるのが自分でも不思議なほどだ。

 唯一の脱出口なだけあって、エレベーター内部のシステムにはぎりぎり利用できるものもあった。とはいえ、いつ絶えてもおかしくないそれを騙し騙し、残っていた拘束具とケーブルの残骸を駆使してどうにか地下から這いずり出ることに成功した。正直、いますぐ清潔な場所で真っ当な治療を受けている最中に寝落ちしてそのままふかふかのベッドに運ばれたい。せめて休みたい。だが、それは叶わぬ願いだ。

 数キロ先に鎮座する問題を凝視する。

 時幸はいままで、何回かクラスⅠと遭遇したことがある。そのときと比べれば、ずっと御しやすいように思われる。見たところ顔も手足もないそれは、ただの増えるだけの肉饅頭のようだ。それでも、成りそこなったクラスⅠ擬きとはいえ、あれが最終的にどこまで膨らむのか判らない以上、放っておくわけにもいかない。同時に、政府や上層部の決定に任せて切り上げられないわけもある。彼にとって大事な人が、依然あそこに囚われているのだから。

 幸いというべきか、往きに使っていたバギーは乗り捨てたときの状態そのままに昇降機の傍らで主の帰還を待っていた。ワイパーに紙が差し込んである。引き抜いて中を見ると、研究者達は退避したこと、負傷していたら後で迎えをやるから無理に運転せず安全な場所にいること、危険なのであの肉擬きには近づかないように、とのことが書いてあった。握り潰して捨てると、車に乗り込む。エンジンを吹かし、アクセル全開で小高い丘のようになった目的地へと向かう。

 取り込まれたと思しき早梛を助け出す方法は、考えつかない。だが、時幸はすべての【魔女細胞】を滅ぼしうる存在だ。いくらでも手はある、はずだ。どちらにしろ、接近しなくては助けようもない。

『……キ? ユキ?』

『現夜時幸! 聞こえていたら返事しろ!』

 地上に出たためか、幾ばくか鮮明になった通信が彼を呼ぶ。

「いまっ、取込み中です!」

『まだ脱出してないなら、動くな! ミサイルが来るぞ!』

「なんで⁉」

 予想外の言葉に一瞬、ハンドルがとられかかる。

『政府が強行した! 《機関》は許可しちゃいないっていうのに!』

「待ってください!」

 なおも進みつつ、時幸の声は半ば叫びに近い。

「駄目だ、まだ、まだ早梛さんが、あそこに!」

 逸る気持ちそのままに車を駆る。どうか、どうか間に合ってくれと。だが、少年一人が願ったくらいで、都市全域、凡そ一千万人の命を危険に晒せるわけもなく。

 フロントガラスに、白い尾を引く星が落ちる。

「やめて……」

 これ以上、奪わないで。

 小さな懇願は、幼い子どものようで。

 簡単に、握り潰されて。


 時幸の目の前で、肉塊にミサイルが激突、爆炎に包まれた。


 軽く見積もって四階建てのビル一棟ほどの高さと質量にまで膨張していた塊が、丸ごと紅蓮に包まれる。衝撃で周囲にいた下位の《ディヴィジョン》らしき影が焼き裂かれ、或いは吹き飛ばされるのが黒いゴミのように視界に散った。

「……」

 アクセルを踏む力も、ブレーキを踏む理性も失せ、慣性に従って進み続ける車の中で。少年の、力ない呟きが漏れる。

「……早梛さん」

 彼女との日々が思い出される。

 ともに過ごした時間はあまり多くない。だというのに、思い起こせばいくらでも、彼女の顔が、声が、言葉が、振る舞いが、ぬくもりが、溢れんばかりに胸を満たして。

 出会ったばかりの頃は警戒されたこと。知り合って間のない時幸を何度も身体を張って庇ってくれたこと。一緒に沢村にしごかれたこと。初めて会ったときの、宵の青。

 時幸の無事を知って、流した涙。

 自分を大事にしてほしいと、血を吐くように懇願されたこと。

 散々化け物扱いされてきた時幸に、何度も触れて、笑いかけてくれたこと。

 それが、現実味のないほどに派手に燃え盛る炎に、掻き消されて。

「俺が……俺は、あなたを」

 何と言おうと、したのだろうか。

 巨大な質量の震動に、思考が塗り替えられる。

「……なっ」

『そんな……』

『……ぅそ』

『あらら』

『なっ』

『へ、なな、なに』

 彼の驚きに追従するように、複数の通信が共感の声を上げた。

 炎が弱まり、煙が撒かれたその、向こう。

 クラスⅠと同様の質量を持つそれが、依然として佇み、いままた増殖を遂げたところだった。

『……そう、そうね。そうだったわ』

『えっ、夏来さん?』

 心臓が、どくん、と脈打った。

『成り損ないといっても、アレは七型。その性質が“不変”である可能性を、失念していたわ』

 その言葉を裏打ちするように、傷一つない肌を晒し、巨塊はますます勢力を広げていく。

『は?』

『それってどういう……』

『そもそも研究部部長、いまどこっすか?』

『ちょっと、邪魔すんな』

 回線が混乱しているのか、たくさんの声が入り乱れている。

 そのうちの一つが、先ほどから耳の奥から彼の身体を揺らしていく。

 聞き間違いではないかと、怯えるように耳を澄ます。

 微かに、されど確かに、聞こえる声。

 そっと、声に出した。

「……早梛、さん」

『はい?』

 確かめるように、もう一度。

「早梛さん」

『はい……っていうか、時幸くん⁉ 大丈夫、どこ?』

「早梛さん!」

『うん。だから、どうしたの?』

「早梛さん……」

 噛み締めるように、彼女の名を呼ぶ。

「よかった、いき」『さなちゃん⁉ やったー‼』『神橋さん……‼』

『お怪我は? いまどこに?』 バンッ、バンッ(何かを叩く音)「……」

 ともあれ、早梛が生きていた。安堵と歓喜が指先にまで熱を伝え、いつの間にか止まっていた車の中、密かに零れた涙を拭った。ついでに榊の声も聞こえた気がしたが、多分気のせいだろう。

「ご無事ですか? どこにいますか」

『うん……多分ここは、《ディヴィジョン》の中だと思う。ごめん、私、しくじっちゃった』

『どういう状態だ? てっきりもう……』

 先ほどの冷徹な声が、拍子抜けしたように尋ねた。

『はい。通路ごと《ディヴィジョン》に取り込まれています。それで……』

『そっか、無事か~。いやぁ、とっさに壁動かしててよかったわ~』

「は? 遠藤さん、いまなんて?」

『あ、ぼくは判ってましたよ。っていうか、悠さんが教えてくれました』

「は?」

『神橋さんがあの中にいる、まだ生きてるって。ミサイルが効かないことも判ってたんですよね?』

『まじで⁉ さっすがはるちゃん‼』

『悠さん……』

「……」

 様々な人にいろいろ言いたいことはあったが、疲れるだけなので止めた。

 それに、早梛が生きていたという結果だけで、いまは大抵のことは許せる気がした。

『盛り上がってるとこ悪いんだけど』

 いったいどこにいるのか、夏来の声が通信で繋がっている全員に伝わる。

 そうだった。嬉しくてつい忘れていたが、事態はあまり好転していない。

『これまでのことを整理したいんだけど、いいわよね。まず、専門家の目から言わせてもらうけど、あれは正式にはクラスⅠじゃないわ。なぜか知らないけど、ミラノ区画のときとは違う。加えて、本来七型のクラスⅠは“転移”や“固定”による空間支配能力をメインにしていることが多いんだけど、アレはどうやら“不変”、それも自己保存に特化してるみたいね。何も行動を起こさず、ただ緩やかに成長し続ける。《ディヴィジョン》としての前提に反するわ』

 何があったのか聞かせてちょうだい、と、早梛に話を振る。

 早梛は事の顛末を説明した。セシリアと戦い、クラスⅠを出現させようとする彼女を止めるため、とっさに靴を投げたこと。激突した彼女は転倒したが、【魔女細胞】は増幅を始めたこと。

『なるほど。多分、あの肉塊は「一なる命題」を与えられる途中で中断されたんだわ。だから不完全な形で出現した。それでいて、【魔女の娘】……おそらく彼女は、怪我をした経験に乏しい』

「? どういうことです」

『アリシアの実子なら本来、七型因子を自在に操れるはずだわ。けど彼女は《同盟》の都合のいいように能力に制限を掛けられ、歪んだ教育を施された。或いはその影響で、ストレスで能力にムラがあるのかもしれない。母親みたいには肉体保存機能が自然発動しないのよ。でも“転移”によって攻撃を無効化できるから、いままで血を流したことがなかった。でも今日追い詰められて怪我をして、ひどく動揺したと思う。「傷つくのは嫌」という鮮烈な意識が流れ込んだことで、アレは“不変”に一点集中した個体になった、んじゃないかしら。もしかしたら空間支配能力を持った個体を作ろうとして、途中で命令を変更したから不安定な《ディヴィジョン》擬きになったのかも』

 まあすべて推測の域を出ないけど、と呟き、夏来はまとめに入る。

『とにかく、あの肉団子をなんとかしなくちゃならないのは同じ。囚われたお姫様を助け出すのも大事。でも、ミサイルが効かない、打つ手がないのも本当』

「……じゃあ、どうするんですか」

『……それを考えるのは特務部の仕事でしょ』

『『『『『はあああああああああああああ⁉』』』』』

 榊と通信班による激しいブーイング。

『しょうがないじゃない、前例もないし。ここまで解析してあげたんだから、あとはどうにかしてよ』

 開き直って豪語する。

『【魔女の娘】は? 彼女なら止められるんじゃないんですか?』

『反応が消失しています。おそらくは、瓦礫の下でしょうね。生死不明です』

『待て、ユキが向かってるんだろう。ならどうにかなるんじゃ』

『無理ね。ユキくんの細胞は確かに天敵だけど、皮膚を破ることができない、口もない相手に摂取させることは難しい』

 その言葉に、はた、とある考えが浮かんだ。

「夏来さん……“ヴィセラ”ならどうです」

『は?』

『なんです、それ』

『……』

 夏来からの返事がなかったため、事情を知らない通信班と榊達に説明する。

「表皮に塗布するタイプの毒薬です。浸透した箇所から崩壊を始め、数分から数十分で内臓まで溶解させる。おそらくはアレにも有効でしょう」

 通信越しにざわめきが広がった。

『なんだ、そんなもんがあったのかよ。ならすぐ使って』

『だめ』

 固い声が、遮る。

『“ヴィセラ”は本来、対一型を想定した特効兵器。使用するには総帥と、部長クラス三人以上の許可が要るわ』

「そんなこと言ってる場合じゃありません! 早く、早くしないと早梛さんの身が危ない!」

 依然として増殖を繰り返すあの細胞は、いつ人工の砦を破って彼女を飲み込んでもおかしくない。酸素が保つとも限らない。こうしている間にも、タイムリミットは迫りつつある。

『だめ、だめよ。……わたくしは自分が人でなしだと自覚している。そんなわたくしから見ても“ヴィセラ”はあんまりだわ。事実、製造に携わった人間は総帥以外皆心を病んで辞職した。総帥だって……できることなら、もう二度と作りたいとは言わないはずよ。だからこそ、慎重に使わないといけないの』

「いま使わずしていつ使うって言うんですか‼ 大体いままで散々……」

『時幸くん?』

 早梛が聞いていることを思い出したのだろう。時幸は失言に気がつき、口を閉ざした。

『……』

 だが、時既に遅し。榊も、通信班も、早梛も、気づいてしまった。

 夏来は「対一型特効兵器」と口にした。

 しかし、一型因子に有効打をとれる物質は、()()()()()()のはずだ。

 ――()()()()()()

『つまり、それって……時幸くんが文字どおり身を犠牲にしてできたもの、だよね』

「……」

 沈黙は肯定だと、早梛は判断した。

 おそらくは、血液以上に時幸の因子が濃い部分を材料としているのだろう。 “ヴィセラ”――visceraという名称からして、おおよその想像はつく。

 つまり製造のためには……()()()()()()()()()()()()()()()

『……忘れてるかもしれないから、もっかい言うけど……私は、時幸くんが犠牲になることを前提にした策なんて反対だから。そんな方法で助けてほしくない』

「ですがっ」

『大丈夫。私は大丈夫だから』

 前のように、声を荒らげることはなかった。

 【魔女細胞】の中に囚われているというのに。早梛が一番、大変な立場にいるというのに。

 安心して、と、強く、優しく、呼びかけた。

『時幸くんが傷つくなんて、やだよ。いまは平気でも後で辛い目に遭うくらいなら、そうじゃない道を考えよう』

「そんなこと、言われても……」

『ね、時幸くん』

 こんなときだというのに、早梛の声は、落ち着いていて。

 大事な話をするように、一つひとつ、想いを乗せて。

『時幸くんは、慣れてるのかもしれない。そんな方法しか知らないかもしれない。けど、私は嫌なの。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「えっ……」

『たとえ親でも、時幸くんが代わりに果たさなくちゃいけないことなんてない。そもそも十九年前には、生まれてすらないじゃん。時幸くんにしかできないことだって、嫌なことなら投げ出していいし、それで人類が滅びようが、あなた自身が救われないなら知ったこっちゃないよ』

 前にも言ったけど、と、早梛は。

 結成の日の言葉を、繰り返す。

『優しい人は幸せにならないといけない。頑張った分だけ、見返りがないといけない。そしてそれは、誰もがあたりまえに持っているものであっていいはずがない。自由とか尊厳とか、身を削ってまで頑張ってようやく手に入るのはおかしい、おかしいことなの』

 それはもとより、誰しもに保障されているものだと。

「でも……俺は」

 時幸の中で、どくん、と記憶が波打った。

 鼓膜の中で、かけられた言葉が反響する。

「俺は……人間じゃ、ないんですよ?」

 【魔女の息子】。すべての《ディヴィジョン》を屠れる存在。モルモット。研究部のおもちゃ。人殺しの子。化け物。そういった言葉をかけられるのが、時幸だった。

『それがそもそもおかしいんだよ。だって、時幸くんは人間だもん。それに、たとえ人間じゃなかったとしても、粗末にされていい理由にはならないし、あなたが自分を投げ出す理由にもならないんだよ?』

「それは……」

 一つひとつの言葉が、胸を打つ。

 彼の心の柔な部分にぶつかり、水晶同士が奏でるような音色を立てる。

 まるで、頑なな扉を敲くように。

「けどっ……俺は、俺は、駄目なんです。そうじゃないと、そうでもしないと、自分が危ないって、忘れてしまうから!」

 人が持っているものを、求めてはいけない。

 欲しいのなら、対価を払わなくてはならない。

 逆らってはいけない。

 人に近づけば、忘れてしまうから。

 自分の怖ろしさを。誰かを傷つけてしまうかもしれない可能性を。

『判ってる。時幸くんは優しいから……誰よりも、自分に厳しい。誰よりも自分を信用してないから、周囲からの批判も期待も、一身に背負おうとする』

「優しくないです。俺はただ、弱いだけです」

 自分を信じられないから、化け物であることを否定できない。

 世界を信じられないから、諦める。

 ――本当は判っていた。拒まないのは、変えようとしないのは、優しいからではない。周囲を諦めているからだ。

 どれだけ辛くても、人々は、環境は、変わらない。

 歩みを止めれば人類が滅びてしまうから、時幸が嫌がっても彼を利用し続ける。

 手綱を緩めれば暴走するかもしれないから、時幸が悲しんでも彼に化け物だと自覚させる。

 周囲に反発すれば、それ見たことかと、それまでの何倍も痛めつけられる。

 止めてと叫んでもどうせ何も変わらないから、時幸は変わることを諦めた。止めてと叫ぶことさえ止めてしまった。

 利用価値を証明し続ければ、最低限、生きていることも、ここにいることも許されるから。

 耐えていれば、現状を受け入れ、従順に振る舞えば、これ以上傷つくことはないから。

 だから、自分を差し出すのは苦ではないと嘘を吐いた。率先して矢面に立つことで、後ろから投げられる石を防ごうとした。


『本当に化け物(よわいひと)なら、人を傷つけることに躊躇いがない』


 だが、早梛は、それでも言うのだ。

 それは優しさだと。

 時幸の脆さも醜さも、すべてひっくるめて、断じてみせた。

『時幸くんが私を守ってくれるのは、弱さじゃない。妥協じゃない。確かにあなたの、優しさだって判ってる。でも、私が無茶をしたらあなたが辛いように、あなたが傷つけば私も痛い。たとえ自傷でも。相棒ってそういうものでしょ』

「でも……あなたを守るためなら、俺は」

『うん。でも、守られるだけのお荷物は嫌だから、私は時幸くんを守りたい。身体だけの話じゃないよ。あなたの権利も気持ちも、私が守りたいあなたをすべて守らせてほしい』

 それは未熟、故の傲慢。

 世界が彼女の意志に、色付いていく。

『世界とぶつかるのが痛いのなら、私が代わりに世界とぶつかる。時幸くんが自分を犠牲にし続けるのなら、それを世界が求めるのなら、私も身体を張ってあなたを守る。いつか、傷つかなくていい世界になるまで。私は戦い続ける。自分の弱さからも、時幸くんの後ろ向きな心からも。その境遇丸ごとひっくるめて、分かち合える日まで、止まらないっていま誓うよ』

 あのとき愛刀を差し出した、あの気持ちこそが求められているものだったのだ。

 共に背負う。

 変わるまで何回でも声を上げる、時幸を囲む理不尽と、何回でも戦ってみせる。

 時幸が誰にも憚らずに幸せになれる世界を、諦めない。

 いつか、あなたがあなたを好きになれるようにしたい。

 そんな、あたりまえの――されど時幸には、望めないと思っていたものを、与えたいと。

「早梛、さん……」

 耳元が爆発した。そう表現しても過言ではない爆音が轟いた。

 拍手喝采、一部揶揄するような声も交えた、祝福とも感動ともいえる、だがそれとは異なるような、とにかく大騒ぎ。

「……‼」

 通信が各所に繋がったままなのを失念していた。

『ふぁっ⁉ ななな、なに⁉』

 どうやら早梛は、こっぱずかしいセリフを言った自覚がないらしい。そういう鈍感なところも、とっさに出た悲鳴も可愛らしいなと思ったのは内緒だ。

「わかりました……敵いませんね、あなたには」

『はい?』

「ひとまず“ヴィセラ”を使うという案は保留にします」

『! うん!』

 ここで強行すれば、きっと早梛はその分自分も無茶しようとするだろう。

 なによりここまで言われて、それほどまでに時幸を信じてくれている早梛の気持ちを、踏み躙りたくないと――彼女が時幸を大事にしてくれる気持ちを、尊重したいと思ったのだ。

 こんな気持ちは、初めてかもしれない。

 今回は時幸の負けだ。だが、それはそれとして。

「それで、大丈夫、という根拠は何ですか」

 早梛の言葉からは、考えなしに言っているわけではない響きがあった。以前のように捨て身の策を選ぶ様子でもどうやらない。

『うん、あのね』

 チャキ、と微かな音がした。

『実は、もう壁、破られてて……』

「はぁ⁉」

『お、落ち着いて、話を聞いて! ……とにかく身を守ろうと、刀で斬りつけたんだ。七型に五型が効かないのは判ってたけど……でもね、斬りつけたら急に、この肉の壁、こっちに来るのやめて、引っ込んでったの』

「はい?」

『多分、麻生さんと同じ。ほらあの人、《ディヴィジョン》の足に血をつけて、進む向きを反対にしたでしょ。だから私は、しばらく平気だと思う』

『なるほどね』

 聞いていた夏来が、ふふん、と鼻を鳴らした。

『成長遡行……収縮させたんじゃなくて、あくまでベクトルの“反転”ね……ん? 待って。てことはいま、表皮の向こうの細胞の一部は「外に」向かってるんじゃなくて、「内に」向かってるってこと? じゃあ……』

 しばし、考え込むような沈黙。

『……通信班、あの肉塊の密度解析。急いで』

『は、はい!』

 慌てたのだろう、通信が繋がっているすべての人間に、解析結果の画像データが送信される。

『……やっぱり。成長分布が均等でない箇所がある。お手柄よ、さっちゃん』

『は、はい?』

『行けるかもしれない』

「え?」

『確かにユキくんの血は必要で、他の人にも血を流してもらう必要があるけど……さっちゃんを救いだして、あの肉団子も消せる策、あるかもしれない』


 約十分後。

 夏来達の乗る車は、肥大した肉塊にさらに近づいていた。膨張速度から算出した接近限界まで、およそ100メートルといったところだろうか。

「通信室、もう一度方位修正」

 運転席に移動した夏来が命令する。フロントガラスには肉塊に加えて、端末から投影されているホログラムが赤い点滅と、花火のような信号を表示している。

『はい。……演算完了。伸展方向一定。神橋さんの端末反応は後方以外へは移動していません』

「了解」

『こちらは配置に着きました』

「オッケー。準備はいい?」

 車の上に向けて、呼びかける。

「はい」

 ルーフに乗った榊が答える。その全身には、彼の血族が編み出した黒い靄が纏わりついていた。

『こっちも平気です。お願いします』

「そう。じゃあ通信室、よろしくね」

『了解。これよりエージェント救出及び七型【魔女細胞】塊排除作戦、「オペレーション・キャベッジバタフライ」を開始します。カウントダウン、3、2、1、ナウ!』

 転瞬、夏来は車を発進させた。もちろんアクセル全開で。時速は瞬く間に30、40、50……まだまだ上がり続ける。

 常人ならしがみつくこともできない速度の中、しかし黒い靄に守られた榊は立ち続ける。立ったまま、振り被る。手に持った……やはり全身を赤黒い靄によって包まれた、彼の槍を。

 車が接近限界ぎりぎりまで到達したまさにその瞬間、渾身の力で投擲されたそれは、靄を鋭く渦巻かせながら、一直線に肉塊を目指す。そのぶよぶよと白い表面に……引っ掛かった。

 榊の異能は【魔女細胞】の特性や相性に左右されない。故に、その表皮を少し、貫いた。内部に食い込んだというよりも、肉の中に僅かに埋もれたに過ぎないが、それでも確かに、到達した。一方で、彼自身が語ったように、たとえ呪詛を流し込めたとしても、打ち負けるのは目に見えていた。だが今回、彼が打ち込んだのは呪詛だけではなかった。そして内部に侵入させることでもなかった。

 表皮に穂先が当たった瞬間、纏っていた赤黒い靄が風船が割れるように散開した。ちょうど、フロントガラスに表示された花火のような信号に重なるように、広く薄く肉塊の表面に広がっていく。と……ずずずっと地響きを立てながら拡張していた肉塊の動きが、徐に止まった。靄が晴れたとき、そこは広範囲に淡く赤に染まっている。

(……やった、の?)

 後部座席に横たわった悠が、薄目を開けた。自らが志願したことでもあるとはいえ、貧血でしばらく身を起こせそうにない。

 作戦開始前、榊の呪詛に悠から抜き取った血を混ぜ、槍に纏わせた。槍が投擲され、肉塊に到達すると同時に、靄の浸蝕に合わせて仕込まれた彼女の血液もまた表面に広がったのだ。彼女の持つのは四型、“停滞”の因子。七型と四型は反発しない。

 とはいえ対象の性質は“不変”。他の因子の干渉は受けつけないはずだった。しかし夏来には確信があった。早梛の刀は、不変であるはずの肉塊に作用した。状態ではなく方向を変えたに過ぎないが、それでも変化をもたらしたことに間違いない。つまり、不変であっても他因子の干渉を全く受けつけないわけではないのだ。これと似た状況を、夏来は知っている。時幸の蘇生だ。

 時幸は肉体が死を迎えると、死因も含めてそれまで身体に負った負傷が全快した状態で蘇生する。埋め込んだ人工物などもすべて排出される。――唯一つ、彼の右眼、移植された母親の角膜を除いて。指の欠損や内臓の破裂は回復が確認されている一方、時幸自身の角膜が復活することはなかった。つまり移植され、彼の一部として機能しているものは欠損にカウントされないと推測できる。もちろん【魔女】がそう仕込んだのかもしれないし、時幸の蘇生自体稀な現象であるため確証はないが。

 とにかく、“不変”の存在であろうと、機能に変更をもたらさない“添加”を行うことは可能なのだ。この性質を利用すれば停滞させることができる。その目論見は成功し、悠の血が付着した箇所は膨張のスピードが格段に落ちた。だが、それは飽くまで血が触れている範囲だけ。

『方向よし! 神橋さん、いまです!』

『はい!』


 ゴーサインが出た瞬間、早梛は再び駆けだしていた。通路の向こうにぎちぎちに詰まった肉の壁、あと少しで首を締めそうだった真綿に向かって。掲げた刀を、躊躇いなく。身体全体が一本の針になったかのように、突き刺した。

 たちまちそれまで大人しかった肉の芽が、一目散に向かいくる。直前で息を止め、刀を胸に押しつけた。今度は早梛の身体に“反転”の効果が被さるものの、肉の濁流は周囲の空気ごと彼女を押し流す。狭い通路はたちまち肉で充満し、向こう側の壁も突き破ってさらに遠くを目指し始めた。

 肉塊はいまもなお膨張を続けている。つまり“成長”はそれそのものの機能であり、“不変”の性質を持っていようがいまいが肥大し続ける。ということは言い換えれば、“不変”の存在であろうと、自らの“成長”によって生じた変化はするわけで。

 前に前に、成長して、膨張して……断末魔のような響きとともに、中の肉が食み出した。


 ビキビキビキビキ……そのぶよぶよとした外見に似合わない、石膏を砕くような音を立てて皮膚が裂け、――肉塊は内側から、破裂した。

『進行方向、右へ二度変更。ユキさん、発進してください』

「はい!」

 笙香の声に、時幸の車もまた、荒野を駆ける。自動運転によって進んでいるが、メーターは弄って速度を最高にしてあった。榊のようにルーフに乗り、白い細胞の小山目指して爆走する。

 それまで“反転”によって向きを制限されていた肉の成長は、再度“反転”されて外側に向かった。しかし悠の血によって“停滞”させられている表面は内側からの膨張に耐え切れず、結果、成長を続ける肉は表皮をぶち破り、柔な内部を無防備に晒し出した。

 確かに“不変”は厄介だ。だが、攻撃を加えられないならそれ自身の機能を利用すればいい。そして……外側から滅ぼすことができないのなら、中から破壊してしまえばいい。

 もう肉塊は目の前だ。あと少しで、激突する、その直前――時幸は、飛んだ。肉塊の中央、柘榴のように裂けた肉割れ目がけて、飛び込んだ。

 生暖かい感触が全身を圧迫する。応急処置を施していた腹から、肩から、再び血が零れ出る。そうでなくても全身血まみれだ。加えて、加速度のついた彼の身体は容赦なく肉を抉っていく。先ほど撃たれた彼が今度は自らを弾丸にして、敵の野望を文字どおり撃ち砕く。

「思うにさ、」

 いつも通り訓練でしごかれ、さすがに小休止に入ったときのことだった。

 一期は冷たいレモンティーで喉を潤しながら、ふと呟いた。

「大事なものができたら、手を放すな。物理的に」

 途中まではありきたりだがもっともな言葉だと思った。だが、最後の一言で、時幸の頭の中を「?」が席巻する。

「……物理的に?」

「そう。物理的に」

 一期は頷いた。

「いや、真面目な話だぜ。いくら常日頃から大事だ、傍にいてくれって言い続けても、目を離した隙にいなくなっちまうんだ。あっけなくな。……五分、たった五分だったんだ」

「え?」

「……五分前には一緒にいたんだ。目の前にいた。手の届く場所に、いたんだよ」

 師の雰囲気が変わったことを感じとり、時幸は余計な口を噤む。

 一期の恋人は、職場に昼食を届けた際、亡くなったのだという。彼に弁当を渡し、通信室にいた日聖を呼ぶため一旦部屋を出た後、瓦礫の下敷きになった。一期のいるオフィスは崩落に巻き込まれず、あと五分引き留めていれば、或いは一期も一緒に通信室へ向かっていれば、守ることができた。守れたはずなのに、守れなかった。それが一期の、一つ目の後悔だ。

「日聖も、さ」

 俯いている師の顔は、よく見えない。いつも大体こうだ。

 自分から話しておいて、話したいのに、時幸には、心情を明かしてまではくれない。それが哀しくて、悔しくて……羨ましかった。会ったことのないその男は、いまでも一期にとって「特別」なのだと。

「数日前まで、普通に話して、一緒に酒飲んで、馬鹿やって、笑ってたんだよ。他愛ない話してさ、それまでずっと続けてきたような……これからも続けていくと、思ってたんだ。なのに、あのやろう」

 家を空けがちな日聖が、久方ぶりに休暇で家族と過ごすと聞いて、何も疑問に思いはしなかった。休暇が終わればまた戻って来る。日聖の家は知っているし、会いに行きたければ行けばいいと、軽く考えていた。

 もっと重く受け止めるべきだった。徐々に短くなっていく発作の間隔、総帥の調合した薬の習慣性、家族を傷つけたくないと家に帰らない日々、そういったすべてを、優しい友人は全部一人で抱え込んでいた。

 抱え込んだまま、逝ってしまった。

 またもや、一期の手から零れ落ちた、救えたはずの人。

 今度こそ、救いたかったはずの人。

 一期に責はない。恋人のことは不測の事故だったし、日聖は友人の前では弱さも苦しみも、自殺する覚悟も隠していた。だがそれらは、一期にとって何の免罪符にもならない。

「目を離さなければ、目の届くところにいれば、腕を掴める場所にいれば、引き留められたかもしれないんだ。確かに一緒にいたんだ。生きていたんだ……生きていたんだよ、生かせたはずだった」

 彼方を向いたまま、一期は顔を上げた。

 さらりとした黒髪が光の中で踊って、欠乏した男の輪郭を撫でる。

「だからさ、ユキ」

 そう言った師匠は果たして、笑っていたのか。

「おまえは、おれみたいになるなよ。守りたいものができたら、常に傍においておけ。掴んで放すな」

 それとも、泣いていたのか。

 ――けれど、師匠。

 俺は、そうは思いません。

 信頼する勇気を、信頼される誇らしさを知ったから。

 たとえ離れ離れになったとしても、それぞれの場所で任務を全うする。自分の相棒にはそれができると断じて、最善を尽くす。彼女のためなら何回でも身体を張っていいと思えるが、終始傍で守らなくてはならないほど、早梛は弱くない。剣の腕や戦闘経験の話ではない。誰が何と言おうと、その強さを、時幸は知っている。


 いつだって、彼女は時幸を避けなかった。

 真っ向から見つめて、ありのままの心をぶつけた。

 まるで、ただの十五歳の少年のように。

 彼女だけは、時幸を、特別扱いしなかった。

 それが、時幸にとっては。


 とても――特別だ(うれしか)った。


 あなたを守るためなら、傷つくことも厭わない。

 けれど、そう考えれば、今度はあなたが、俺の代わりに傷つこうと無茶をしてしまう。何より、あなたは前に出る人だから。俺が無茶しようがしまいが、あなたは自分を投げ打ってでも、進もうとする人だから。――俺にないものを持っている人だと思っていたけれど。案外俺達、似た者同士かもしれませんね。

 その、抜き身の剣のような危うさもひっくるめて、あなただというのに。

 そんなあなただから、傍にいてほしいと思ったのに。

 ――そんなあなたの、傍にいたいと願ったんです。


 肉壁を突き破り、奥へ、奥へ。白い景色を進んでいく。

 どこもかしこも狭くるしい。それでも方向は間違っていないはずだ。

 皮膚に触れる感触が変質する。弾力のある塊から、どろりと半液体状の粘り気のあるものへ。さらに、攪拌しすぎて分離した生クリーム状へと。ある意味肉よりも流動的なそれが口から入ってきて息苦しい。もみくちゃにされて、負傷した箇所から千切れんばかりに痛い、痛い、痛い。

 それでも――見つけてみせる。

 迎えに行くから待っていてほしいと、他でもない、彼が言ったのだから。

 潰れるような圧の中、必死にもがき、手を伸ばす。

 何もかも、思考さえ手応えのなくなりつつある世界で。

 それでも彼は、確かに掴んだのだ。



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