*第六章*
黒が増える。さらに死が舞い降りる。
二人の周りに現れたのは、何挺もの機関銃だった。主を中心に、放射線状に展開したそれらは、どす黒い銃口を外側に向けている。
勘の鋭い者は物陰に隠れた。だが、大半の者が動けなかった。突然現れた侵入者に、これまた前触れもなく現れた武器。現実を飲み込むのに時間がかかった。
コンマ一秒の後に、機関銃は皆一斉に火を噴いた。男も、少女も操作はしていない。空に浮く僅かな間に周囲に弾を撒き散らす。おそらくは、そのように改造された銃だったのだろう。或いは――予め、放たれる直前のまま、収納していたのか。
それらが撃ち尽くすまで、三十秒もかからなかった。
床に落ちるまでの間、ありったけの弾を吐き出した銃がばらばらと二人の足元に横たわったとき、地下室は三百六十度見る影もなかった。機材の損傷は痛ましく、千切れたコードから火花が散っている。まして、逃げ遅れた人は形容する言葉さえなかった。思うままに蹂躙された肉の塊が、倒れるというより崩れ落ちる。
少女が再び手を組むと、足元に散らばっていた空の銃が姿を消した。破壊の中心部から飛び出すと、部屋の隅、そもそもドットの模様があったのではないかと錯覚するほど弾痕塗れの壁の一辺に近づく。銃創のせいで判りづらいが、僅かに繋ぎ目が窺えた。傍らにはセキュリティパネルの残骸がぶら下がっていて、元はこれを操作して開閉する仕組みだったらしい。だが、少女はパネルを破壊したことなど少しも頓着することはなく、またもや胸の前で手を組んだ。
ノーマンは腰のダブルホルスターから二挺の銃を抜くと両手に持つ。周囲を見渡し、運よく難を逃れた者の気配を微かに感じる。その息遣いのする方へ、ゆっくりと歩みだした。
その瞬間、発砲していた。二人が離れたタイミングを、まさに撃ち抜くようにして。
先ほどの一斉掃射によって、生き残りがいるにしてもすぐには動けないだろうと慢心していたのか。……いや、気がつけない、わけがあった。
少女は、自身が狙われたものではなかったが故に。
男は、殺意がなかったが故に。
銃弾は二人を標的としたものではなかった。それが撃ったのは、男の頭上のライト。その一つに命中した。破砕音が響き、煙と火花、そして硝子の破片が降り注ぐ。
男は駆けだしていた。銃弾が放たれた方へ向けて。とっさにしては凄まじい速度ではあったが、彼がこちらへ辿り着くことはなかった。
「Daddy‼」
絹を裂くような少女の叫び。男の姿が掻き消える。
瞬き数度の後、その姿は少女のすぐ脇、硝子シャワーから離れた安全圏に現れた。傍らの少女は、固く両手を握り締めている。
「……Mind your own business.」
余計なお世話だ。男の無事を窺う少女に、突き放すように告げる。男の身体能力であれば、鋭利な欠片が追いつく前に安全圏へ逃れることも、次の行動をとらせるより前に発砲者を封じることもできる算段だった。
少女は男を見上げ、何か言いたげに口元を歪めた。しかし何も言うことなく、その代わり、発砲者が潜んでいる方へ向けて怒りの眼差しを向けた。
瞬間、瓦礫が消失した。
互いを隔てるものが文字どおりなくなって、両者の姿が露わになる。
急に風通しのよくなった空間で、油断なく銃を構える時幸。
抜き身の刀を携え、侵入者を見据える早梛。
間髪入れず、ノーマンは発砲した。
ガンファイアが砕けた硝子に万華鏡のように反射する。
先ほどの弾幕に比べれば簾ともいえるような粗い連撃だった。されど、二挺拳銃から絶え間なく撃ち出される鉄の雨は逃げる余裕も避ける隙も与えない。
時幸も威嚇射撃を行うが、その銃弾は届くことなく空中で消失した。
二挺の銃がありったけの中身を吐き出し、ようやく静かになる。
火と光が目に焼き付き、音撃が耳朶を麻痺させ、周囲に煙が漂った。
「……Hmm.」
男は眉を顰める。
時幸も早梛も無事だった。それどころか、怪我一つ負っていない。さらに信じられないことに、殆どその場を動いていなかった。
瓦礫が消失した瞬間、早梛は一歩前に出た。時幸は一瞬、また捨て身の攻撃を仕掛けるのかと焦ったが、彼女が刀を相手に向けるのではなく、自分と時幸に押し当てるように引いたのを見て、目を瞬いた。
ノーマンの攻撃は、当たらなかった。まるで磁石のN極とN極が反発し合うように、早梛の刀と、その延長である二人の身体と触れ合うか否かの距離で、銃弾そのものが、自ずから逆を向いた。それを見て、時幸にも早梛の意図が飲み込めた。
そのとき。依然として銃声の名残響く地下室に、はっきりとした言葉が生まれた。
「……そんな小細工で、私達をどうにかできるとでも?」
子猫が鳴くように甘い、柔らかな声。それでいて艶のある響きには、怒りと屈辱が滲んでいる。
初めて日本語で、そして《機関》の者にある程度の長さの言葉を吐いた少女は、敵意を込めた眼差しで睨みつけた。
「I don't think that can, but just stop you…… Miss Lawrence.」
落ち着いた、されど固い覚悟の籠った声音で時幸が答える。
ミス・ローレンス。
そう呼ばれた少女は、さして動揺した様子もなく、ただほんの少しだけ、微笑んだ。愛らしく笑うというよりも、不敵に、まるでトリックを暴かれた犯人が名探偵を称賛するように、怪しく艶やかな笑みを形作る。
笑みを消すと、少女は足を片方出し、もう片方を下げた。喪服のようなドレスの裾を摘まみ上げ、非の打ち所のないカーテシー。
「セシリア=ヒルデガード=ノーマンよ」
少女は、優雅に続ける。
「母の名は、アリシア=ローレンス」
やはり、という思いが、時幸と早梛に訪れる。
“転移”の能力を自在に扱い、《ディヴィジョン》を操る能力を持っているかもしれなくて、身元に関する一切の情報が判明せず、三型が都市への侵攻を棄却してでも倒さなくてはならない者。つまり、命令以上に優先される、三型全体の生態系そのものに組み込まれた脅威。延いては、【第三魔女】の敵。
だから、当初は成都を襲う予定だったのか。唐突に納得した。
成都に住む【第三魔女】は、《同盟》が囲っているであろう【魔女】にとって天敵のはずだ。あの老獪な緑蝶に気取られないようにクラスⅠを送り込むのなら、なるほど回りくどい手段を用いるのも伺える。
しかし、目の前の少女にとってはおそらく、それ以上に、母親を守るためだった。
【第七魔女】の娘は二人を見返した。
せいぜい十歳前後にしか見えないその容貌には似つかわしくない、強者の表情を浮かべて。
予想していたことなので、いまさら驚かない。むしろ父親がノーマンというのが意外だった。本当に血縁なのかはいまは確認のしようがないが。
「……ここ最近、この都市に七型の襲来が多いのは、あなたが呼び寄せたからですね」
相手が日本語なので、ややこしくなるのでこちらも日本語で応対する。
「ええ」
ふぁさり、とブルネットを掻き上げた。
「私の言うことをよく聞いてくれる、いい子達だったわ。みんな、死んでしまったけれど」
す、と視線を床に遣る。特に惜しんだ様子はない。飼っていたペットを亡くしたというよりも、とっておいたお菓子が腐ったから捨てた、とでも言うかのように軽い。
早梛の予想したとおり、【魔女の娘】は母親の生み出した《ディヴィジョン》を操れるらしい。先ほどの大攻勢も、セシリアが仕組んだもののはずだ。《機関》が防衛で手一杯になっている隙に、都市を脱してここに来るまでの陽動のために。
「その前は、ミラノ区画を訪れましたね」
「ええ。私よ」
「……成都に行く予定は」
「取り止めたわ」
ふるふると首を振ると、子ども特有の細い髪が首に当たってぱさぱさ音を立てた。
「ほんとは私達家族のためにもやり遂げたかったんだけど。でもいいわ、あなた達、さすがに生意気だもの」
こちらを流し目で睨みつける。なまじ整った顔をしているだけに、その表情にはぞくりとする魅力があった。
「断言するわ。私はあなた達を滅ぼす。止めるのは無理よ。あなた達では私とダディには敵わないもの。この間みたいには優しくしないんだから」
胸を逸らし、既に勝ち誇ったように告げるセシリア。数日前に見せた、置物のように静かな佇まいとは大違いだ。おそらくこれが、この少女の素なのだろう。
「あなたがミラノ区画で何を行ったのかについても、ある程度予想はできています。だから……あなたに、あの装置を渡すわけにはいきません」
銀の一閃、否、一線が宙を翔けた。
次いで、空気の割れる硬い音。
そう形容しても差し支えないほどに、緊迫した気合が膚を叩く。
言い切ると同時に、時幸は少女に向けて鋼鉄のワイヤーを繰り出していた。クリアシルバーの塗装によって、明るい空間では大気に溶けて見えなくなる。事実、セシリアは反応できていなかった。
しかし、ノーマンは微妙な揺らぎを見逃さない。一飛びでセシリアの前に躍り出ると、空を馳せる銀糸を毟るように掴み取った。強引に勢いを殺されたワイヤーの端が蛇のようにのたうち、ノーマンの腕に絡みつき、食い込んだ。
「我輩一人で充分だ。やるべきことをやれ」
「はい、ダディ」
そのときには既に、時幸は走りだしている。二人に向けてではなく、部屋の反対側へ、ノーマンを中心に円を描くように。そこにはもはや無残な姿になった手術台があり、半壊した無影灯にワイヤーの端を巻き付け、固定する。同時に、手術台から拘束用のバンドを拝借した。
敢えて無視し、ノーマンは駆けだした。セシリアの“転移”ほどではないが、凄まじい速度だ。空になった銃を棄て、反対側からセシリアに向かおうとした早梛のすぐ目の前に現れる。反応の遅れた少女の胴を薙ぎ払い、その勢いのまま投げ飛ばした。
「早梛さん!」
時幸はとっさに受け止めるが、勢いを殺しきれず、無影灯に叩きつけられた。ライトが拉げ、巻き付いていたワイヤーが解ける。腕を振ってワイヤーを外すと、ノーマンはぐっと身を屈めこちらへ突進してきた。それを見た早梛が素早く立ち上がるが、時幸がすぐには動けないと判断し……刀を持ち上げた。
ノーマンは構わず突っ込んでくる。以前掴んだ腕の感触から、少女の筋力は見当がついていた。体格差も速度も、比べるまでもなく優勢だ。日本刀の切れ味は厄介だが、切られる前に叩き飛ばせば問題ない。
だが、早梛はもとより、切り結ぶつもりはなかった。切っ先をまっすぐ上に向け、位置を調節し――手を放すと同時に、柄頭を強かに蹴り上げた。
「……ぃっ」
足の甲に奔る痛みに顔を顰めつつも飲み込んで、ようやく体勢を立て直した時幸の腕を掴んで立ち上がらせる。
「走るよ!」
瞬間、けたたましい警報とともに、視界を白が覆い尽くした。
「What⁉」
白煙は瞬く間に部屋中を席巻する。ノーマンは吸い込まないように口を覆い、油断なく付近の様子を窺った。部品の外れる音と、重厚な何かが移動する音に紛れ、幾つもの足音が動き回る。姿は見えないが、そちらへ向けてノーマンは足元の瓦礫を蹴り上げた。何かに当たった反応はなく、お返しとばかりに刃物が飛んでくる。見えていないのは向こうも同じらしく、狙いが外れているそれを、指で挟み取った。白煙の中でもきらりと目立つそれは、手術で用いるメスだった。
「……なるほど」
ぱしゅ、ぱしゅ、と、吸い込むような音とともに、煙が薄やいでいく。セシリアが消しているのだ。つまり、この煙は本来一時的なものではなく、継続的なもの。鳴り止まない警報と、重く閉じていく音がその正体を教えている。
早梛は愛刀を、天井に向けて蹴り上げた。正しくは、天井に取り付けられているものに向けて。凡そ、どこの施設にも設置されている、装置に向けて。
果たして、煙が晴れたときには、周囲の様子は一変していた。
壁が二か所を除いて黒々とした防護壁に置き換えられ、無言の圧力でノーマンを見据えている。機関銃程度では傷一つつけられそうにないだろう。防護壁のない二か所の内の一角のみが、唯一先ほどまでの研究室の名残を残していた。
病的なまでに白い小部屋の中には、やはり白い、されどところどころ赤い人々が折り重なるように乗り込んでいる。麦わら色の髪の若い女が、こちらに向けて中指を突き上げてみせた。美しい顔に浮かべた嘲笑が、網膜に焼き付く。一秒後、両側から迫る白い扉に遮られ、見えなくなるまで。
くぐもった音を立てながらも、エレベーターはその職務を全うした。
《機関》では、研究室で問題が起こった際、機密保持のために部屋そのものを隔絶し、放棄するシステムが組み込まれている。このシステムに則り、刀が火災報知機に突き刺さった瞬間、消火剤が散布されると同時に封鎖のための防護壁が作動したのだ。取り残された人々を運ぶエレベーターもいま出発し、この空間は名実ともに陸の孤島と化してしまった。
もっとも、夏来がもともと警戒レベルを最大値に設定していたが故の措置であり、早梛の行動は最後の一押しに過ぎなかったのだが。
「なるほど。ミスディレクション、か」
真っ向から相対した二人は陽動だった。意識を集中させることで他の者から気を逸らさせ、火災報知機の煙で目眩ましをかけて安全圏まで逃がす。セシリアが都市に《ディヴィジョン》をけしかけたのと同じように。
「だが……こちらの目的も、果たされたな」
部屋のもう一角に目を向ける。防護壁に囲まれたスペースの中、そこだけ不自然な形に壁が抉り取られている。最奥には電子レンジにも似た広さの穴が開いていて、逆にくっきりと人工的だった。物理的にも電子的にも障害が張り巡らされた先にある金庫の中から、セシリアがいままさに、目的の装置を抱え出す。
「一応訊くが……貴様らは、逃げなくてもよかったのかね」
千切れた煙の向こうから現れた少年と少女に、あまり返答を期待していない問いを投げかけた。
「言ったでしょう、あなた方を止めると」
依然として警報は鳴り止まず、僅かな振動が身体を揺する。
「……Go」
行け、と、短く少女に命じた。
「But」
セシリアは躊躇うようにノーマンを見る。
研究室は封鎖されただけでなく、絶賛破棄されつつあった。出入口は既に塞がれ、セシリアの能力がなくては脱出は不可能だ。それでも。
「I`ll go later. Don`t forget your mission.」
「……」
断固たる言葉に、一度、少女は俯く。そして、手に抱えた装置を垂直に投げ上げた。
「えっ」
「は?」
予想外の行動に、一瞬呆気にとられる。
打ち上がった装置は、しかし、遥か上で停止した。そこだけ時間が止まったかのように、もしくはピン留めでもされたかのように、微動だにしない。
「……“固定”、ですか」
同時に、二挺の拳銃が新たに何もない空間から出現する。ノーマンはそれを空中で掴み取った。
次の瞬間、大気が「空いた」。
指を組んだセシリアの横手の防護壁がごっそり削れて、元の研究室の白壁が覗いている。それも瞬く間に消え去り、武骨なコンクリートが現れた。
我に返り、阻止しようと、或いは装置を奪還しようと踏み出した二人の前に、ノーマンが立ち塞がる。
「邪魔はさせんよ」
言うが早いか、突進してきた。
早梛を庇うように前に立ち、J・Rから鎖を引き出す。だが、
「遅い」
弾丸のように放たれたノーマンの巨躯が、未完成の鎖の盾もろとも時幸に激突した。
「ぐぅっ」
圧し潰されそうな痛みを感じながらも、どうにか踏み止まろうとする。早梛は丸腰だ。時幸が倒れれば、彼女には身を守る術がない。背後で彼女が屈んだ気配を感じる。また懐に入り込む気だろうか。だが、おそらく、肉弾戦では早梛に勝ち目はない。
「……うぁっ」
正面からの圧を受けるのにさえ必死だった時幸に、斜め前から繰り出された張り手を防ぐ術はなかった。たたらを踏んだ少年を回し蹴りで薙ぎ倒し、その勢いのまま小柄な少女も蹴り上げようとする。
「早梛さん‼」
身に染みた動きで受け身をとり、少女に向かって走るが、間に合わない。
命さえ刈りとるような凶暴な一撃が迫りくるというのに、早梛は場違いなほど清涼な空気を纏っている。ピンと張られた糸のように。或いは、極限まで研ぎ澄まされた刃のように。
「――」
刹那、迸る金糸の煌き。それは虚空を翔る一枚の金属の閃きだった。
居合抜きのように収められた手を、引き絞った矢を放つように早梛は前方に伸ばしていた。鍛えられた動体視力によって、脚を振りかぶった不安定な姿勢から、ノーマンは迫りくる攻撃を避ける。頬を掠め、裂傷が奔った。
その僅かな隙に、少女は左に避ける。背後から殺気を感じ、ノーマンは脚を強引に曲げて打ち払う。それは、天井から降る日本刀だった。
腕を突き上げると同時に伸び出てノーマンに迫ったバングル型の武装、しかしそれは攻撃を狙ったものではなかった。金属板の端は半壊した火災報知機を貫き、早梛が左に動きつつ腕を捻ったことで全壊し、刺さった刀が落下した。蹴られて床に転がったそれを素早く拾い上げ、構える。
「早梛さん……」
冷徹なほど冷静、そして無駄のない流麗な動き。こんなときだというのに、ぽかんと口を開けてしまう。危機が迫ろうと臆さず、自分にできることを瞬時に考え、大胆に実行する。早梛らしいといえば早梛らしいが、一方で、知らない女性を見ているような心地がした。
「ありがとう、守ってくれて。でも……私だってもう、守られるだけの私じゃないよ」
目を合わせると、やはりあの、花のような笑みを向けてくれて。
「私、私に求められていることを見失ってた。時幸くんと相棒であることの意味を、私がいる意義を、忘れてた」
清廉な意志は、彼女自身の握る刀の鋼のように、雑り気がない。
「守るっていうのは、戦いから遠ざけることでも、代わりに傷つくことでもないんだって。だって時幸くんの代わりに私が傷ついたら、時幸くんが傷つくから」
時幸に傷ついてほしくない、その気持ちは、譲れない。
けれど、戦えないほど、守らなくてはならないほど彼は弱くない。そして戦場に立つことは、彼自身が選んだ道だ。手柄を上げて優秀なエージェントとして一期の後を継ぐことが、彼自身の目的だから。それを取り上げることは、彼自身の選択を阻むことだ。
ならば、早梛にできることは、早梛がしなくてはならないこととは、何なのか。
「私は戦う。時幸くんにしかできない戦いがあるのなら、私は私の戦場であなたを守る。時幸くんの戦いを、弱い私が邪魔してるのなら、邪魔しない私になりたい。まだ少しずつだけど、相棒としてふさわしい私でありたいの。他の人は関係ない、私がふさわしいと思える、神橋早梛に」
あなただけを戦わせはしない。
あなただけに身を削らせはしない。
相棒とは、傷つけ合う関係ではないから。
分かち合い、補い合う関係のはずだから。
凛とした決意が、少年の胸を打つ。
「……俺の方こそ、大事なことを見失ってました」
ぞわりと背中を駆け抜ける悪寒に、ノーマンは振り向いた。
「《機関》の先輩として、早梛さんを危険から遠ざけないとって肩肘張って、忘れてました。相棒っていうのが対等であることも、早梛さんに戦う理由があることも、……俺が」
先ほどまでの少年とは異なる雰囲気に、早梛の刀を警戒しつつも、優先順位を切り替えて対峙する。
「もともと、対人のためのエージェントであることも。自分も相手も傷つけずにその場を収める調停者。……こんな状況こそ、本来は得意分野のはずでした」
そして――笑った。
「嬉しいです。もったいないことを、言っていただきました。……俺の方こそ、早梛さんにいいところを見せないといけませんね」
控えめにいっても美しい少年の顔が、晴れやかに、誇らしく彩られる。
ぞくりとさせるような、惚れ惚れするような笑顔だった。
その顔のまま、時幸は躊躇いもなく発砲した。思わず引き込まれる美貌に、やはり殺意のない弾丸。ノーマンが我に返ったときには、周囲には再び、舞い散る硝子。
時幸は研究所内を巡るように移動しながら、照明を撃ち抜いていく。光源の減少とともに、未だ熱を発する破片の雨が降る。
ノーマンは銃口を上に向け、落下する鋭利な欠片を撃ち抜いて細かく砕きながら、最低限の動きで軽々と避ける。避けながら、少年の意図を探る。闇雲にこのような行為を行っているわけではあるまい。光源の確保のためか、仲間の少女を巻き込まないためなのか、すべての照明を落としたわけではない。やがて、それは目に見える形でノーマンにも理解できた。
かなり絞られた光はまるでコンサートホールのよう、その中に僅かに、飴色の線が翔る。身体を回転させ、降りしきる硝子を吹き飛ばしながら鋼線と距離をとった。
だが、避けた先に黒の鞭。ワイヤーを投擲すると同時に、時幸は身を翻して反対側から接近し、手術台から外したバンドを振るっていた。
顔を狙うそれを、とっさに腕を交差させて受けるが、強かな痛みが手首を打つ。同時に、脚にも纏わりつくものを感じ取り、軸足を入れ替えて跳んだ。前方を確認することなく発砲。しかし時幸は、不安定な姿勢で下がるノーマンの、さらに背後に回っていた。それも、人体の構造上死角になりやすい斜め後方、下段から。
もう一つの手術用拘束バンドを男の右腕に渡らせて襷掛けし、下方に引いて動きを止める。男はすぐさま反対側に回転して胴を自由にしつつ、遠心力を利用した蹴りを放った。しかし先読みしていた時幸はぎりぎりの距離でこれをバンドで受ける。風圧で、少年の前髪が巻き上がった。それでも《ディヴィジョン》拘束を想定した強化型手術用バンドは頑丈で、男の足先を防いで僅かの隙とはいえ、包む。針穴を穿つようなその間に時幸はバンドの片方を手放し、腕に巻かれたままの起点に迫った。
「なめるな、小僧!」
若干感情を露わにした声で、ノーマンが銃を向ける。
怯むことなく懐を目指す時幸と銃弾が擦れ違う。頬に裂傷が奔るのと引き換えに、時幸はノーマンの胸倉を掴んでいた。すぐさま肘を入れられそうになったところを頭を下げて回避する。武骨な音とともに、手首に架かる僅かな重み。
そのとき。それまで密室であったはずの空間に、清涼な風が吹き荒れる。
残った硝子片が撒き上げられるも、ノーマンの身体を盾にして時幸は無事だった。
宙に浮いたままだった装置が、手を放されたようにぱっと落下する。セシリアは組んでいた手を解いて受け止めると、一瞬だけこちらに目を向けた。一瞬だけだった。
くるりと身を翻すと、開けたばかりの薄暗い穴の中に飛び込んだ。
「行って、ください!」
時幸が声を荒らげる。
「あの先は都市です。彼女を行かせたら、クラスⅠが出現します!」
「――わかった!」
短く答えて、早梛が後を追う。
それを見届けるか否かのとき、腹にずしりと重い、熱い感触がして。少年の身体が跳ね上がった。
肉薄されたことを逆手にとり、ノーマンはゼロ距離で発砲していた。同時に反対側の銃でバンドを焼き切り、少年の生死を確認することなく娘の妨害に向かった少女の後を追おうと踵を返す。
否、返そうとして、腕を引かれて停止を余儀なくされる。
「……恨みでもあるのかね、我輩の手に」
ノーマンが吐き捨てた。その手を鎖が一周している。
肘打ちを避ける直前、時幸は用意していたJ・Rから必要なだけ鎖を引き出すと、小さな輪を作って頭の上に掲げていた。ノーマンの腕が通過すると同時にスイッチを入れて引き絞り、先端のカニカンで固定してしまった。
両者の間は、僅か一メートル。
依然として研究室の放棄は進行しており、壁や天井が徐々に圧迫してきていた。猶予はあまり、残されてはいない。
少年は汗を浮かべる顔に不敵な笑みを貼りつける。
「Shall we dance?」
“死が二人を分かつまで”。
もとより道連れにするような、演舞を踊れと。
*
愛刀が重い。
連戦のせいか、体力はほぼ底を尽きかけていた。
だが、止まるわけにはいかない。
前方を走る少女も消耗激しいらしく、小さな腕にようやく収まるような装置を抱え、よろよろと進んでいた。普段走ることなどあまりないのだろう。瞬間移動能力にも弊害はあるのだな、と考え、そう考えられるだけの余裕があることを自覚し、さらに脚に力を込める。
「How persistent!」
振り返り悪態を吐く。同時に、再び装置を上に放った。一瞬、早梛の目がそちらに向くが、視界の端々に出現した黒いものを確認する前に、とっさに刀身を抱き寄せていた。
七型の性質は“保存”。確かに強力だが、元来攻撃ではなく防御に向いた力だ。故に、攻撃方法は“転移”に偏っている。そして、能力そのものによる攻撃ならともかく、ただの召喚した火器による銃弾ごとき、いまの早梛には通用しない。
数多の銃弾が小柄な少女に襲いかかる。しかし、その肌に届くか否かという距離でくるりと回って、見当違いの方向に飛んでいった。
早梛の刀は、斬りつけたものに“反転”の性質を転写することができる。しかしそれだけではなく、その刀身自体に五型の上位種のように攻撃を反射する効果がある。こうして密着させれば、肉体に対する攻撃を跳ね返すことも可能だ。皆瀬曰く、《調律の彼女》ではない早梛であるからこそ使える防衛手段。ノーマンには早梛が《調律の彼女》なのか刀自体に仕掛けがあるのかは判別つかなかったため、以後早梛を銃で狙うのは警戒した。
セシリアにもそれが見てとれたのだろう。忌々しげに舌打ちし、握り合わせた手に力を籠めた。再び、周囲の空間に人工物が出現する。構わず突っ込もうとして、寸前で停止した。
セシリアが出したのは、撃鉄の上がった銃器ではなく、拳大の黒いボールだった。同時に、上空で止まった装置を置き去りに、セシリア自身の姿が掻き消える。その正体を察し、早梛の顔が蒼白に染まった。
銃弾という形のあるものならともかく、爆発による衝撃波は反射する保証がない――‼
立ち竦んだ彼女の、眼前で。
突如、床からせり出した防火扉が爆弾との間に立ち塞がった。脆い少女の身体を打ちのめすはずだった凶器が、向こう側で炸裂した音がする。だが、分厚い扉を僅かに凹ませるのみに留まった。
「……へ」
助かったという安堵より、予想外の盾の出現に呆然とする早梛の手首から、
『ぃよっし、ギリセーフ』
悪い意味で聞き覚えのある男の声が流れ出た。
「……遠藤さん⁉ ちょっとこれ、どういうことですか⁉」
腕時計型デバイスに口を寄せる。すると通信の向こう側で、得意げな声が答える。
『おう。以前から合同で開発してた都市防衛システム、部分的だけどいま発動させた』
「は? はじめて、聞きましたけど」
『そりゃあいつ使いものになるか判らなくてひっそり進められてた計画だし~。工事に十……十五年? かかったしな。ほら、見てみ』
遠隔操作で地図機能がポップアップされる。都市外周まで、あと八キロメートル……と、都市へと続く道の先が、地図を確認している間に枝分かれし、線路のレールを切り替えるように変形した。
『《ディヴィジョン》が都市に侵入したときってさ、地上だと隔離壁が起動するじゃん。んでもって地下の場合でも同じよーに、区画ごとにブロックで切り分けて、その場所ごと封鎖するのが可能なわけよ』
それについては早梛も聞いたことがある。都市の建築段階でそのように設計されており、いざというときにはブロックごと放棄することが可能だ。
『けどさ、せっかく地下掘って作った施設を棄てるのって大変だろ? 地上からの襲撃ならある程度誘導とかもできっけど、身動き取れない地下だと絶対棄てられない場所に襲撃受ける、なんてこともあるし。だからさ、ブロックをこう、互い違いに入れ替えてさ、それで、大事な施設を守ろうってのがこれなんだわ。日本だと特に地下に重要機関が集中してるし』
『まあ、十六年前に《機関》の地下施設が一度めちゃくちゃになって、工事するならいっそ、というのもあったんですけどね。遠藤さんはほら、空間把握能力がちょっと独特だから、やらせてみようって話になって。《ディヴィジョン》というより敵対組織や【魔女】の襲撃に備えてのものという感じですけど』
笙香のフォローが入る。確かに、以前の彼のアナウンスは独特だった。常人にはちょっと理解しがたかった。
『まさしく「こんなこともあろうかと」ってやつだな。っと、ほら近道な』
と、歯車の噛み合う音とともに、それまで壁だった横側が、シャッターが開くように巻き上がって道を作った。そちらへ進みながら、端末を確認する。セシリアの位置と自分の現在位置が表示されている。
「でも、これ、一旦行き止まりにしても、相手は壁を取っ払って進めるんですよ?」
『へーきへーき。人間ってさ、行き止まりに着いたら壊してでも進もうとするけど、道があったらそっちを選ぼうとするもんじゃん? このまま組み替えて、見当違いの場所に連れてってやるぜ』
『偉そうに言ってますけどー、標的の誘導や障壁の設置は通信班総出での演算なのでー、ほんとのほんとにいざってときのためのものなんですけどー』
被せるように、どこか恨みがましい響きのある鳥海の声がした。
『しかも予算と期限大分オーバーして経理と政府にさんざん締め上げられたよね』『どれほど大変だったと……』『まあ、こうして役に立ってますし』『甘―い! 室長手作りスイーツよりも甘いよ、しょーかちゃん!』『確かに。後で戻すの大変そうだな』『地下鉄のダイヤとかどうしますのん?』『遠藤、減俸』『はぇえええええええ⁉ ナンデ、ナンデっすかぁ?』
通信班による激しいブーイングの嵐。その間にも、ブロックごとに道が組み替わり、迷路のように複雑な構造が侵入者を惑わせる。早梛自身、デバイスのマップと通信班のサポートがなければ激しく切り替わる地形に対処できなかっただろう。
目の前の壁が床に収納され、少女の姿が現れた。
「What⁉」
先回りしていた早梛に対し、セシリアには完全な不意打ちになった。
視界が揺らぎ、空気を叩く。
「……Ah ah ah ah ah ah ah ah ah ah ah ah ah ah ah‼」
驚愕と動揺、そして純粋な痛みに対する嗚咽が、幼い少女の口から漏れ出た。
早梛が投げたのは、先ほど時幸が用いた鋼線だった。空気に紛れる銀の鞭は的確に少女の手甲を打ち、あまつさえ巻き付いて動きを封じた。さらに、痛みのショックでセシリアが手を強引に動かしたせいで、結果、親指が脱臼する事態まで引き起こしていた。さらなる痛みに、セシリアは思わず膝をつく。
「これでもう、武器は呼べない……あなた、転移させるとき両手を組む癖があるよね。それと、目で見えているものしか消せないんじゃないかな」
ずっと疑問だった。どうしてセシリアはこれまで、限定的な力しか使ってこなかったのか。【第七魔女】の娘であるなら、七型の因子に関して完璧に支配できるはずだ。例えば、飛行機が着陸した瞬間、空港の中に移動してしまえば入国検査をごまかす必要はなくなる。機関銃を召喚して一斉掃射を行うよりも、研究員達を消失させる方がてっとり早い。セシリアの行動は回りくどく、そして非効率だ。
それで考えたのだ。セシリアは、母親のようには能力を自在に使えないのではないか。能力を使うことに制限があるのではないか。そしてそれはどうやら、正解だったようだ。七型の能力は応用が利く一方で複雑だ。まだ幼いセシリアでも操りやすいよう決めたルーティンなのか、それとも《同盟》が利用しやすいように矯正した結果なのか。
「それと、その装置」
痛みに耐えながらも引き寄せた箱に目を向ける。
「その装置は転移では移動させられないんだよね? だからわざわざ《ディヴィジョン》に運ばせなくちゃならなかったし、さっき地下室から逃げるのにも、横穴を開けないといけなかった。そもそもこうやって走って都市まで行く必要さえない」
セシリアは悔しそうに唇を噛んだ。
確かにセシリアの能力はまだ不安定で効率が悪いが、それでも母から受け継いだ強大な力を彼女は過信していた。親指の怪我でそれが使えなくなり、激しく動揺していた。
「大人しく渡してもらえるのなら、これ以上危害は加えない。当初の予定だと、日本を襲うはずじゃなかったんでしょ?」
早梛には彼女が、《同盟》の操り人形として働かされているようにしか見えなかった。せいぜい十代前半のこの子が自分の意志で、わかった上で任務に赴いているとは考えられない。沢村の「話」を聞いた後では、余計にそう思う。親元にいるかいないかの違いはあれ、彼女は……時幸と同じだ。自分で選んでいるようでいて、その実、選ばされている。《機関》の、《同盟》の用意した以外の選択肢がない。
「……できないわ」
しかし、精一杯虚勢を張り、少女は突っぱねた。
「私の力と素性を知られた以上、トウキョウを滅ぼさない限り、同じ手はもう使えない。……私は、失敗するわけにはいかないの。帰りを待っているマミーのためにも」
その言葉に、早梛の動きが一瞬止まる。
敵前でそれは、余りの愚行だった。
「――ぐっ」
身体そのものに押し出されるような衝撃。胸と鳩尾を中心に熱い痛みが罅割れのように広がっていく。
小さな身体全体でタックルをかましたセシリアは、次いで早梛の手を掴んだ。身体のバランスを崩しつつも、刀は奪われまいと、背中側に隠そうとする。
だが、セシリアは刃物には頓着せず、とにかく早梛の手を渾身の力で握り込んだ。血管が浮き出て、思わず開いた掌を覆うように指を絡ませる。自身の手を組まずとも転移が使えるのか。竦んで目をきつく瞑る。だが……。
一向に何も起こる気配がない。目を開けると、怯えの混じった困惑顔で、セシリアが早梛の胸の辺りと結んだ手とを見比べていた。とにかく距離をとろうと、もう片方の手に握った刀で闇雲に殴りつける。とっさに、セシリアは手で庇った。しかしそちらは脱臼している。
「っ‼」
怪我をしている手にさらに打ちつけられ、それでも勢いは止められず脇腹にも痛みが響いた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~」
子どもの絶叫は声というよりもはや音に近い。超至近距離での金切り声に、あまりに痛かったのか握っている方の手がさらに圧迫され、早梛にも並々ならないダメージが入るが、駄目押しとばかりにセシリアの頭突きが顎に命中した。
「ぁっ」
さすがに堪えきれず、床に叩きつけられる。不意のことでろくに受け身も取れず、頭から落ちてしまう。刀が手からすっぽ抜けて通路の彼方へと転がっていった。
「Hurts, hurts, hurts!」
床に打ちつけた頭がくわんくわんと揺れている。赤く染まった視界の中で、セシリアが蹲って喚いていた。癇癪を起した子どものようなその姿は、見た目よりもかなり幼い。
「Help me, daddy, mammy. I want to meet …….」
泣きじゃくって両親を呼ぶ少女の視線が、床に転がったままの装置に注がれた。
――使命を忘れるな。
父の言葉を思い出す。
(そうだ)
幼いとはいえ、セシリアは《同盟》の工作員として訓練を受けていた。意識が切り替わる。
(ダディの……お手伝いをするんだ。これはシシーにしかできないことだって、信頼してくれたんだもの。マミーだって、大事なものを、預けてくれたんだもの)
半ば這いずりながら移動し……装置に、手を掛けた。
「――いけない!」
早梛は敢えてもう一度、思いきり頭をぶつけた。眼球の中で火花が散るが、朦朧とした意識がはっきりしだす。その勢いのまま上体を起こし、なんとか膝を立てるも、腹に激痛が奔り、うまく力が入らない。それでも鞭打って無理やり腰を上げるが、駆け寄るには間に合わない。刀を投擲できれば……“反転”の性質で逆行できる。でも、刀は吹っ飛んで通路の奥だ。
追い詰められた少女の手の中で、装置の外殻が砂時計の砂が落ちるように剥がれ落ちて虚空に吸い込まれていく。そこに世界最小のブラックホールが生まれたかのように、黒い光で周囲が照らされる。
親に認められたい、褒めてもらいたい。子どもとしての純情な感情が、セシリアを突き動かす。
【魔女の娘】は、母親の生み出した【眷属】に追加の命令を与えられる。
たとえ、まだ【眷属】になっていない細胞であっても。
予め母親の細胞が詰め込まれたギフトを、セシリアは探し出し、新たなクラスⅠをその場で作り出した。これがミラノ区画の一件の真相だ。同じことを別の都市でも行おうとした。だが今度は仕込み済みの《ディヴィジョン》が別の《ディヴィジョン》に食べられてしまい、目的地とは別の場所に向かったばかりか、装置は《機関》の手に渡ってしまった。ノーマンは奪還に動いたが交渉は失敗し、そして。
そのまま予定を変更し、この日本で、東日本一区で新たなクラスⅠを発生させるつもりだ。
手持ちの武器はすべて使ってしまった。刀はいま手元にない。走っていては間に合わない。
セシリアの手の中で、特殊加工はぼろぼろと崩れて、遂に中身が露わになる。
僅かな……それこそ少女の両手に乗る程度の量でしかない、紐で束ねられた人の頭髪。
紅茶色の艶は、少女のブルネットにも通じるものがあった。
手の中で薄らと輝くそれを、セシリアは恍惚とした目で見つめている。
その顔に、勢いよく飛ぶものが叩きつけられ、少女は転倒した。
背中から壁に叩きつけられた少女は、顔を押さえて首を振った。大した重さではなかったが、鼻の頭にそれなりに固いものが当たり、じくじくと痛んだ。
「やったわね」
早梛を睨みつけるために、手を放したところで……赤いものが垂れ落ちた。
そちらに目を向け、愕然とした。
白い小さな手の中に、鮮やかな真紅が咲いている。
「……っ⁉」
《同盟》で働き始めて以来、否、物心ついてからいままで、血を流したことなんてなかった。それは撃った人間の中にしか詰まっていない液体だった。そのはずだった。
「ぃやあああああああああああああああああああああああああああああ‼」
絶叫する少女の横で。
光が弾けた。
*
銃口がこちらを向いた、というのを、視覚ではなく本能で感じたときには既に、姿勢を低くし相手の膝に潜り込んでいた。跳ね上がる膝頭を避けるべく跳び退るとともに、浮いた脚に鎖を渡す。しかし、敵もさるもの。上方から被せるように反対の脚を打ち込み、さらに両脚が床を離れた体勢から的確に少年を狙い発砲した。
――“月に叢雲”。J・Rを後方に投げ上げると同時に空中一回転で躱す。壁を蹴った反動で向かいながら手に残ったバンドを投げつける。ノーマンは軽々と撃ち落とすが、その隙に反対の手で再びJ・Rを回収、収納する勢いを利用して肉薄し、横手から甲を蹴りつける。
みしりと腕の軋む音がするが、ノーマンは銃を手放さない。どころか、不安定な体勢の少年の脚を抱え込んで床に叩きつけようとした。時幸は宙で身を捩って抜けると同時に鎖を交差させる。巻き付いたままのノーマンの脚が僅かに跳ね上がる、その間隙を縫って“ワールウィンド”、後方へ滑り込む。至近距離で背中合わせのような格好になる。
サイズの大きな服を無理に合わせるために雁字搦めにしたベルトが功を奏し、腹の傷は浅い。それでも肉に銃弾が食い込んでおり、動く度激痛が奔る。それでも細かに、休みなく動き続けなければ、すぐに新たな銃弾を受けることになるだろう。一月前に相対した麻生も銃を用いてはいたが、ノーマンは彼女より遥かに優れた使い手だ。それだけでなく、重量を存分に活かした足技にも警戒しなくてはならない。
親鳥を求める雛のようにけたたましく、依然として警報は鳴り響く。施設の柱が軋みを上げ、崩落までの猶予を無慈悲に教えている。
――集中しろ。
垂直に屈みながら銃を回し、ノーマンが背後を撃つ。背後に回ることでその分引き出された鎖を戻す勢いを利用して弾き、リールそのものを投げ上げた。銃を持つ腕に鎖が巻き付く。転瞬、凶暴な筋肉の膨らみが上から襲いかかり、腰をぎりぎりまで後ろに逸らして回避する。同時にノーマンがリールに肘を叩き込み、明後日の方へ弾き飛ばした。それでも、時幸は伸びた鎖を掴んで優位を保つことに成功した。
「小賢しい」
張った鎖の向こう側から、もう片方の銃で狙われる。とっさに身を「く」の字に曲げて一射目を回避するも、二射目がすぐに向かいくる。
“グレートヒェン”。
鎖を巻き取るように半回転して避け、肝臓の位置に肘を放つ。大したダメージは与えられていないが、密着したことで三射目を封じた。と思ったのも束の間、踵を打つ痛みにふわりと体が浮く。脚を刈られてバランスを崩し、さらに身動きのとれない状態で背負い投げられた。投げ出された少年を、二つの銃口が狙い撃つ。
「――くっ」
再度“月に叢雲”、さらに“花に風”。後方に身を投げつつの横回転、身に纏った鎖がそれこそ花吹雪のように白銀の煌きを巻き上げる。その煌きに銃弾の鉛が呑まれて混ざる。
カーン、と音を立てて弾丸が床に落ちた。一拍遅れて、時幸が着地する。
間髪入れず、周囲に広がる解けた鎖を巻き上げて一瞬視界を塞ぎ、端を持って駆けだした。腹から零れる血が、雪道に残る足跡のようにぱたぱたと散る。
――止まるな。
ノーマンは背後に跳んで距離を保ちつつ、時幸を狙い撃つ。否、撃とうとしてとっさに、左から迫りくるものの迎撃のために肘を張った。弾かれたリールを見もせずに掴んだ時幸は、踵を軸に回転させて横手から殴りつける。と見せかけて、返す脚での回し蹴り――!
ノーマンは与り知らぬことだが、J・Rの中にはリールを操作しなくても、鎖を軽く引けば巻き込まれて収納されるものが存在する。さながらアイロンか掃除機のコンセントのようなこの性質を利用してリールを引き寄せた時幸の蹴りは銃身で塞がれる。と同時にもう一つの銃が至近距離で顔に刺さる。
曲がるような銃声とともに、熱気が顔の前を横切った。
蹴りが防がれるのも想定外だ。時幸は三段構えの最後に、胴に巻き付けたベルトを一本外してノーマンの銃に巻き付けた。“スィングショット”。強引に軌道を逸らされた銃弾は天井に突き刺さる。そのまま腕の下を通りつつ相手の身体を引きつけ、回避も防御もできない位置から渾身の蹴りを放つ。ノーマンもさすがに眉を顰めた。受けた上で時幸の脚を抱えて固めた。
逃げることはしなかった。むしろ鎖をさらに短くして接近。肩に痛みというより熱が奔る。同時に、顎に額を打ちつける。こちらのダメージも甚大だが、それでもノーマン相手にしばしとはいえ間隙が生まれた。その刹那、素早く鎖を渡してもう一方の腕も封じる。
――考えろ。
研究所が崩れていく焦燥。早梛の安否が判らない不安。
都市に迫る敵への危機感。格上の相手に相対する弱気。
特に最後のは深刻だ。時幸の自己肯定度は低い。それこそ、七年前に粉々に砕けてしまっている。
それでも。
時幸がいい、と、言ってもらえたから。
望んでもらえたから。ふさわしくなりたいとまで、願ってもらえたから。
――負けられない。
いままで、「自分にしかできないから」この都市を守ってきた。
守りたいとも、誇らしいとも、感じはしなかった。
それが時幸に望まれていることで、彼にできることだったから。
いまは違う。
守りたい。
失いたくない。
――あんな思いは、もう。
遠い記憶が掠める。半壊した家屋、棺の中に残った僅かな残骸、手の中で崩れた、師匠だったモノ。
いま、ノーマンを娘と合流させてしまえば、早梛が危ない。それだけではない。都市にあの装置を届けてしまえば、多くの人が死ぬ。
時幸が世話になった人も、尊敬する人も、数少ない友人も、全員失う。
あたりまえのことから目を逸らすな――‼
鳴り響く警報。掠っただけで内臓を抉るような蹴り。少しでも反応が遅れれば確実に命を奪う弾丸。蘇生できるとはいえ、その間にノーマンを逃がしてしまう。加えて、腹の傷からは止めどなく血が噴き出している。撃たれた肩は脳を叩くように熱い。がたがたと震える心。ばくばくと走る身体。
それらすべてを置き去りにして――時幸の手首は、魔法のように動く。
「なっ」
“ミスディレクション”……先ほどのように、別の動きに紛れての拘束や誘導、ではない。
タネも仕掛けもなく、純粋な鍛錬のみで身に沁みた動きが、繊細な操作を可能とする。
故に、“ウィザード”。手首の絶妙な捻りによって拘束具を操り、敵の行動を制限する近接専用の拘束技。それなりの重量のあるはずの鎖を、まるで綾糸のように軽々と駆り、ノーマンの手首を、握られた銃を制御する。
「Saucy!」
腕を封じられながらも、ノーマンは重量にものをいわせて無理やり跳んだ。床がみしりと軋み、放射状に亀裂が走る。否、彼の踏み込みもあるだろうが、既に部屋は限界に達しつつあった。崩れつつある部屋をさらに破壊しながらの、凶暴な振りが襲いくる。
“蛍に灯”――! 敢えて浮いて、側転。回転方向に鎖を回して拘束を維持しつつ、銃弾をぎりぎりで逸らし、宙で強引に身を捩り、男の胸を蹴り上げる。衝撃は浅く、あまりダメージはない。同時に、触れている時間が僅かだったために捕まれることもない。反動を利用して着地。と同時に“ワールウィンド”、緩急差を利用して翻弄、懐に潜り込んで“唐傘驚き”‼
逆巻く鎖が、巻き戻る衝撃のまま抉るように下方から狙う。突き上げるような一撃だが、これこそ陽動だ。現に、ノーマンは同様の硬さの鎖を活かして易々と跳ね除けてみせた。どころか、勢いの霧散したそれを蛇を締めるように掴み取り、そのまま鞭のように叩きつける。しかし既に姿勢を整えた時幸は、下に傾けた鎖で軌道を操ると同時に一歩下がり、液体のようにするりと躱してしまった。
瞬時にノーマンは一歩踏み出して追撃をかける。まともに受ければ骨折は免れない容赦のない突き。しかし少年は、陽炎のように揺れて回避する。
ノーマンの銃が、肘が、蹴りが、拳が、膝が、頭突きが、四方八方から時幸に襲いかかる。一つ一つが重いくせに切り替えが速く、絶え間のない連撃。目で追っていては間に合わないそれを、時幸はされど、軽快な足取りで躱し、或いは鎖で受け流す。息つく間もない連続攻撃に対し、さらに小刻みに動きながら、鎖を駆る手を止めることもない。ボクシングのダッキングのように、或いはジャブの応酬のように。
超至近距離でありながら絶妙な間合いを保ち、複雑な手首のスナップと足のステップを組み合わせつつそれを感じさせない軽やかな動きで防戦しつつ、相手の自由を奪っていく。ときに紙一重で躱した動きを次の動きに繋げ、ときにわざと受けた攻撃の勢いを活かして拘束を強化しながら。
――“グレイプニル”。
さながら、北欧神話において狼の魔物フェンリルを終末の日まで拘束し続けた鎖の如く、しなやかに、強靭に。
(……なんだ、これは?)
鎖を持った少年一人に翻弄されている。脚を崩してもその勢いを活かして敢えて回転。手刀を叩き込んでも無理やり軌道をずらされる。瞬時に拘束を外されて肘鉄砲。距離をとったと思ったらまた詰められる。
けしてノーマンよりも格上の相手、というわけではない。銃で撃たれれば傷つくし、蓄積したダメージは確実に肉体に負担を与えている。こちらの動きに対処しきれていない。迎撃も回避も、ほんの僅かにズレが生じている。それとも……わざとリズムを崩している? 現に、ノーマンは攻め切れていない。フェイクを混ぜた蹴りも、体重を乗せた拳も、当たる前に流される。どれほど一撃の重い暴力であっても、衝撃を殺してしまえば威力は軽減される。
だが、たとえ小僧のペースに巻き込まれているとしても、それだけだ。こちらの手を封じるばかりで、一向に反撃に転じてこない。或いは、転じたくてもできないのか。
粗方撃ち尽くされ、僅かに残った光源が目障りに点滅する。いよいよ研究室は終焉を迎えるらしい。攻めあぐねてはいるものの、そろそろ決着をつけなくては。
「……ふんっ」
時幸がバックステップしたタイミングで、ノーマンは再び床を踏み砕いた。先ほどよりもさらに強く、深々と。泣き叫ぶような罅割れ音が轟き、床のタイルがクレーター状に窪む。浮き上がった少年の身体を、回転で勢いをつけた肩で弾き飛ばす。鎖が腕から離れ、毬のようにバウンドして壁に叩きつけられた。
「……シシー」
固く絡みついた鎖を解きながら、娘の消えた穴を振り返る。壁がごろごろと崩れ、瓦礫が流入して塞がりかかっている。
「――させ、ませんっ」
点滅する灯の中、白く照る。
感知すると同時に、全身に蛇に呑まれるような悪寒。否、事実、物理的に細やかに巻き付いていた。
「なんだ、これは」
照明が不安定になることでようやく視認可能になったそれは、ほぼ透明な、テグスのように細いワイヤー。先端にはこれまた透明に近い屈折率の針、それがノーマンのコートの其処彼処に縫い留められ、雁字搦めにしていた。
いったいいつの間に。驚愕と怒りの綯い交ぜになった視線を、ワイヤーのもう一端、それを引いた少年に向ける。すべて、このための布石だったのか。ダイナミックな回避も、手品と見まごうばかりの鎖捌きも、自爆覚悟の超至近距離戦も。
美しい顔に鮮やかな血の筋と、いたずらに成功した子どものような笑みを滲ませた少年。
《機関》の伝説のエージェント。銀鎖の執行者。救国の番人。
現夜一期。
伝聞とは年齢が一致しない。だが唐突に、その人物の名が頭を掠めた。
次の瞬間、間に降った瓦礫によって両者は遮られる。
次いで、視界そのものが、暗闇に呑まれて消えた。




