*第五章*
嘘のように穏やかな日々が続いている。
例の装置がミラノ区画を半壊させた《ディヴィジョン》絡みの品だということが判明し、一時本部が緊張状態に陥りもしたが、いまのところクラスⅠが現れる傾向はない。密かに監視をつけている《同盟》の工作員にも目立った動きはなく、同伴の少女とともに観光に励んでいるとのことだ。
一方、再度会談を申し込むでもなく、かといって諦めた様子もなく日本に滞在し続けており、何か企んでいるのではないか、或いは何かを待っているのではないかと監視担当者は恐々としている。
それは連れの少女に対しても同じだった。マチルダ=ルーズヴェルトはかつてノーマンが所属していた組織……彼が壊滅させたと噂される組織に籍を置いていた女性で、既に亡くなっていることまでは突き止めている。悪趣味なことに《同盟》では潜入工作の際の偽名の一つとして多用されているらしい。
だが、肝心の少女の身元については全く、不自然なほどに何も出てこない。欧州最大の諜報機関《翅の靴》に連絡を取りもしたが、多くの見返りを約束したにもかかわらずめぼしい結果は得られなかった。
装置については依然開封に至ってはいないが、外装を着々と外し、解析が進められている。
今日の分の報告を纏めて、上司に送信した。
緊急会議でノーマンとの癒着を疑われて以来、交渉班の人間は無実を証明しようと躍起になっていて、そのプレッシャーはなぜか監視担当の職員に向けられている。少しでも不正がないかとまめな報告を強いられ、自分達が監視しているのかそれともされているのか、たまにわからなくなるほどだ。
それでもノーマンが本当に何か企んでいるのではないかと気を引き締めるが、奴と少女は連日都市内部のめぼしい観光地を巡るばかりで一向に行動を起こす兆しはない。観光地で何かしかけられたらと常務部の警備課に連絡を取ったこともあったが、結局何も起こらなかった。
「奴ら、ほんとに観光を楽しむだけ楽しんで、それで帰っちゃうかもね」
傍らの同僚が笑いながら言う。気を抜くな、と言いたいところだが、実際端末越しの拡大された映像の中で土産物に目を輝かせている少女を見ていると、自分達の恐れも不安も箒で掃いてぱっぱと捨てられるようなくだらないものではないかと疑ってしまいたくなる。
土産物屋から出てきた少女が、外で待っていたノーマンと合流した。
「もう、いいのか?」
「うん」
少女は頷き、祈るように両手を組み……こちらを、見た。
同時に、頬を撫ぜられるような風を感じた。
「おい、いまの……」
とっさに振り向くが、つい数秒前までいたはずの同僚の姿がない。
そのことに疑問を持つ間さえなく、意識もろとも彼は吸い込まれた。
(はあ、外れ籤引いちまったな)
丸山進は欠伸を噛み殺し、胡乱な動作で砲台の弾を補充した。頭上で常夜灯が回転し、周囲を煌々と照らしている。その灯に導かれるように、壁の縁に集まった《ディヴィジョン》が一際蠢いた。
《ディヴィジョン》の襲撃に休みはない。奴らはこちらの都合などお構いなしに、隙あらば攻め寄せてくる。故に《メイジャー》は三百六十五日二十四時間、交代で警備に当たっている。当然、夜勤の者は完全に昼夜が逆転しており、丸山もその一人だ。そのせいで、休みの日に友人と遊ぶ計画を立てようにも予定が合わず、付き合いの輪は徐々に狭まっている。家族からは結婚を仄めかされているものの、こんな生活を続けているうちは夢のまた夢だ。
おまけに、詳しくは知らないがこの間《メイジャー》内部に抗争があった関係で、丸山は昇進したものの以前よりも勤務時間が延長した。補充の《メイジャー》が育つまでの中継ぎだとは言われたものの、たとえ人員が増えても辛さはそう変わらないだろう。
日本の防衛の要、《機関》。そこに入ることはかつて丸山の目標だった。研究者でもない、優秀な成績も身体能力も備えていない彼がスカウトされることなど当然あるはずもなく、募集枠を根性でどうにか潜り抜けたのもいまは昔のことだ。有能な人材とは言い難かった丸山は随時不足している《メイジャー》に配属され、そのまま転属はなくいまに至る。それでも初めの頃は防衛に対する意識も誇りもあったが、本当に自分がやりたかったことはこれなのか、最近は思い悩んでばかりだ。
『丸山さん、気を抜かないように。そこは修復が終わっていない、一番脆い箇所なんです。そこを突かれたら都市内部に侵入されてしまうんです』
「わかってますって」
一月前のクラスⅡ襲来によって、壁の一部に大穴が空いてしまった。現在は死骸も取り除かれ、修復工事によって瓦礫が塗り固められているが、以前あったものよりも堅固なものにしなくてはという意識からか、急いで全体を塗り固める従来の方法ではなく端から分厚くする作業が始まっており、結果、中央辺りはまだ弱い箇所がちらほらある。とはいえ、外壁の修理は完了しており、内壁が脆いのは外部からでは判別がつかない。
同じことを繰り返すばかりの退屈な日々。作業的に、空を飛んで都市への接近を迫る《ディヴィジョン》に向けて砲を向ける。
そのとき、はたはたと飛んでいる《ディヴィジョン》の一体が、ぱっと消えた。数秒後、そいつは同じ場所に……否、高度はそのまま、数メートル前方の空に出現した。そいつは何度もそれを繰り返し、飛ぶ速度よりも速く、都市に近づきつつあった。
見間違いではない。しかしそれを報告しようと身を翻したとき、地上を照らす光に思わず目を瞑る。
ゼリーのような形をした《ディヴィジョン》が頭上の器官を発光させる。そいつの前方に一本の光の筋が奔った。それが消えた後……光線上にいた他の《ディヴィジョン》は何も残っていなかった。それでいて、土地はまっさらで、きれいなままだ。何の残留物もありはしない。
つまり、消されたのだ。灼かれたのでも潰されたのでもなく、虚数の向こう側に追いやられた。遮るもののなくなった空間を、そいつの仲間と思しき《ディヴィジョン》が悠々と進んでいく。
偶然か、そのうちの一体に味方の撃った砲弾が直撃する。しかし、硝煙が晴れた先から進み出た姿には瑕一つついてはいなかった。
短距離を省略しながら。障害物を消去しながら。攻撃を無効化しながら。
見たことのない形と能力の《ディヴィジョン》が遂に、目の前まで迫る。
早いもの順だ、割り込み禁止、と言わんばかりに壁際に殺到していた三型が足元に噛みついた。次の瞬間、その三型は灰の像のように散り散りになって消えてしまった。接触による対立分子の反応。おかげで相手の種類と階級が判明した。
『……七型です。それも、クラスⅢが複数いるものと思われます』
通信士の、恐々とした実況。
「はぁ⁉」
ミラノ区画の顛末と、もしかしたらこの都市も似たような災禍に見舞われるかもしれないという話は聞き及んでいた。しかし、
「おい、来るとしてもクラスⅠ一体だけじゃねえのかよ‼」
視界の中、それまでいた三型や五型を蹴散らして進撃する七型の《ディヴィジョン》は、少なく見積もっても数十体。
「おかしいだろ、日本にこんな七型が集中するなんて!」
「ちくしょう、攻撃が効きやがらねえ!」
「よ、四型だ! 四型の弾を撃て!」
目の前の光景に、眠気も退屈も、ついでに余裕も安心も吹き飛んだ。
「理由はわからん! だが、まずい。いまはまだ壁に到達していないが、これ以上近づかれると内側に転移してきかねん」
と、怒鳴るように口走った、その直後。
一体の《ディヴィジョン》が目の前で消失した。同時に、下から大きなものがばらばらと崩れる音がした。
消えたはずの《ディヴィジョン》は、修復途中の壁の中間に出現していた。そこに収まっていた瓦礫が弾き出されて、下の瓦礫を潰して軋ませる。圧された瓦礫が、ふるふる震え、次いで、積み木の城のようにがらがらと崩れていく。
「た、退避―っ‼」
叫んだ声が、瓦礫の怒涛に飲み込まれて消えた。
*
「いったん休憩にしよう」
しようか、という提案ではなく、やんわりとした命令だった。
数時間ずっと画面に向かっていた時幸は、強張った目元を摘まんで揉んだ。打ち込んでいる間は気にならなかったが、随分と眼精疲労が溜まっているようだ。
「お茶淹れるよ」
「あ、俺がやります」
「いいから。きみは座ってろ」
言ったときには既に、山本は隅の給湯スペースに立っている。
「すみません」
カップを置く場所を作るため、デスクに散らばっていた書類を纏め始めた。
「どうってことないさ。《機関》にいた頃は毎日やってたしな」
「それも、すみません。人事不足だからって来てもらって」
「皆大変そうだな」
予定では、九州視察は後一週間で終わるはずだ。今回で結論を出さず、今後も慎重に話し合いを重ねるらしいが、将来的に九州一区と九州二区が合併し、九州全土が人類生存可能領域になるのはほぼ決定らしい。一方で、九州の問題が解決したら次はどこを合併するかという議題、もとい東日本一区と西日本一区による東海区の奪い合いが勃発する見込みなので、いいことばかりともいえない。
「同じ国の話なのに、どうしてこうも拗れるんでしょうね」
広げられた地図を畳む。
「それこそ十九年前、この国が分断される前から統一なんかされてなかったさ。男女の恋愛と一緒だ。違う人間なんだから、価値観が違ってすれ違うなんてざらだ。些細なことがきっかけで、好きでも元鞘に戻れないことだってある」
実際は都市間の連携には利権や文化の違いが関わっているのだろうが、山本の言い草はどうにもロマンチックだ。
「ああ、恋愛といえば、梅島とは少し意外だったな」
「確かに……琴羽さん、そんな雰囲気なさげというか」
プライベートのことを滅多に話さない琴羽が、どんな付き合いをしているか、想像もつかない。いや、時幸自身、恋愛というものをよく知らない。
「いや、彼女は魅力的な女性だよ。けど、あの二人がくっつくとは思えなくて」
「一応、お試し付き合いらしいですよ。そのわりには長く続いてますけど」
「まあ、そのほうがいいかもな」
「? どういう意味ですか」
恋愛について疎い時幸でも、男女交際というのに様々な形態があることは知っている。しかし、同僚や部下の育成、政府との交渉事など、琴羽は人間関係には誠意をもってあたるタイプだ。男女交際だけ遊びやファッションで付き合うとは思い難い。だからこそ長く続いているにもかかわらず未だにお試し付き合いなのが疑問でもあったのだが。
「うん……ほら、梅島は、なんていうか、けっこう危ない仕事もしてるだろ? いまはどうなのか知らないけど、現夜が生きてた頃なんかは一緒に何回も死線を潜ってきたし。そう考えると、確約もないのに結婚前提、なんて却って無責任だろう。そういうことしないでしょ、彼女」
「あ……」
確かに、琴羽は監督主任として上の立場ではあるが、未だに現役で、エージェントとして世界各国を回る日々を送っている。この間の“霹靂”戦でも前線に立った。先立つ可能性を考えて、たとえお互いに好いていても、一線を超えずにいるのかもしれない。
「それに……」
と、噂をすれば影というべきか。資料庫の扉を開けて、琴羽が入ってきた。
「山本さん、すみません遅くまで。もう上がってください。ユキ、おまえもそろそろ帰っていいぞ……って、どうした?」
「いやぁ、ちょっと恋の話とかね」
「ユキが⁉ 珍しいな。おまえが惚れた腫れたの話とは」
心底意外というように、琴羽が口元に手を当てる。
「ふぅん、おまえももう十五だもんなぁ」
「いえ、そういうわけじゃ……」
途端に赤くなり、顔を背けた。なんとも判りやすい。本当に自覚はないのだろうか。
正直、意識しているのならさっさと和解してほしいとも思うのだが、そういうわけにもいかない。琴羽も経験者だからわかるが、複雑な問題は男女間の感情が絡むとさらにややこしくなるものだ。
「にしても、梅島、きみは結婚する気ないのかい?」
「へ、私ですか? ……いまはまだ」
ちらりと視線を床に落とす。やはり、結婚に踏み切れない理由があるのだろう。
「それに……自分で言うのもなんですけど、家庭に入るっていうのが、なんか落ち着かないといいますか」
「ん? ああ、なるほど」
「確かに……想像つきませんね」
琴羽なら、たとえ結婚しても引退しないだろう。前線から退くとすら思えない。
「男が女を守るものだ、女を養うものだって考える人は少なくないし否定するわけじゃないけど、してもらってばかりで返さないっていうのは私的には気分が好くない。守られてばっかりなのは性に合わない。年下の男の背中に隠れてぬくぬくするような女にはなりたくないし、このご時世にぬくぬくするだけの女を庇い続けられる男も珍しい。向こうはか弱いもの、守りたいものを守るのは自分の役目だって思ってるかもしれないけど、それってつまり、こっちが自分の身も守れないって、対等だと思ってないってことだろ?」
「……」
時幸が、弾かれたように顔を上げた。琴羽は気がついたが、構わず続ける。
「まあそれは言い過ぎかもしれないけどさ。そんな生き方、私は選ばない。男に守られるよりも、まず自分が前に立つ。たとえ危ない目に遭うかもしれないとわかっていても、自分のけりは自分でつける。多分……そこもひっくるめて、あいつが好きになってくれた、私だから。選んでしまったらそれは梅島琴羽じゃない」
時幸の顔に、焦りのような、迷いのような色が浮かんだ。それはすぐに消えて、拗ねるようでも、悔やんでいるようでもある躊躇いの表情に染まる。おそらくは思い至ったのだろう。琴羽ではない、けれど、彼女と似た志を持った、少女の心情に。
そのときだった。
鳴り響くサイレンとともに、通信班の声が急を告げる。
『エマージェンシー、エマージェンシー‼ 手の空いている戦闘員は至急921ゲートに集合してください。繰り返します、戦える者は921ゲートに!』
「何事だ!」
すぐさま端末を起動し、確認をとる。
「ユキ、悪い知らせだ」
話を聞いた琴羽は、短く命じた。
「七型の下位が壁際に殺到した。一部は既に都市内部に侵入しているらしい。《メイジャー》と招集した《マイナー》が戦闘に当たっているが、対抗策が少なくて苦戦している。即戦力を応援に向かわせたい」
「わかりました」
「だが……一般の《マイナー》の前でおまえの力を見せるわけにはいかない。苦しい戦いになるぞ」
「わかってます」
「……そうか」
時幸は一礼し、部屋から出ていった。
七型が攻めてきたのはちょうど東京湾にせり出した区画だった。数十艘の筏やボートが浮かび、そこに何人もの《マイナー》を乗せている。
強力な一体の敵に備えていた《メイジャー》は予想外のことに反応が遅れた。それでも、用意させていた対七型装備によってどうにかこれ以上の侵入を食い止めているとのことだ。裏返せば、既に侵入した《ディヴィジョン》に対しては、そういった《機関》のバックアップなしに対処しなくてはならない。
さらに悪いことに、日本にはそもそも対七型の備えがない。国内にいる《調律の彼女》は、殆どが対三型……つまり、同じ七型の因子を宿す。因子の対立は起きないが、致命傷を与えるのが難しい。かといって、因子を用いない攻撃のみでクラスⅢを倒すのは苦しい。しかも七型は“保存”の性質によって攻撃への耐性が高い。
時幸の存在は、そんな不利な戦況を変える補給物資に等しい。一つしかないが特効がある。
『こちら、《機関》作戦本部。手短に言う。今回の任務は《機関》の保持する兵装が整うまで、壁を突き破ってきた七型の《ディヴィジョン》を駆除し、戦線を維持することだ。なお、緊急事態につき敵性個体の殲滅が最優先とする。ごねる研究者共は俺が黙らせるから、とにかく市街地には向かわせるな。ここを破られれば大勢が死ぬ』
九岡の有無を言わせぬ凛とした声が命じる。七型の細胞を獲得できる機会は稀だが、回収する余裕はないと判断したらしい。夏来の恨めしそうな顔が目に見えるようだが、適切な指示だ。
時幸は《ディヴィジョン》が集結しつつある場所にボートを進めた。原動機の勢いそのままにJ・Rから鎖を引き出し、すり抜けざまに投擲する。激しく揺れるボートから投げ出されそうになるがどうにか堪え、一気に引き絞った。“アラクネ”――まるで蜘蛛の巣に絡められた獲物のように、複数体の《ディヴィジョン》の動きが制限される。鎖には時幸の血が塗ってあった。
【第一魔女】とその【眷属】が他の【魔女】の因子を無効化するのと同じように、時幸は【魔女】の因子による影響を一切受けることがない。彼の血液を利用したBMWSなどの兵装でも同等の現象が起こり、果たして、縛り上げられた七型はどうして転移して逃れることができないのかと混乱している。答えを与える隙も与えず、BMWSを一発ずつ、確実に打ち込んで討伐する。
付近を見渡す。とりあえず国内にいる数少ない三型の《調律の彼女》、そして致命傷は与えられないものの優位をとれるタイプの《調律の彼女》が掻き集められ、対処に当たっているようだ。《マイナー》は一体につき六人から十人ほどのチームで当たり、前衛が撹乱し、三型の《調律の彼女》が血を塗り込んだ刃を刺してどうにか倒していく。
だが、“不変”の性質を持つ個体は完全に生命反応を停止させるまでのスパンが長い。一体にかかずらっている間に、他の個体が転移する。消えた姿を探して周囲を見回す《マイナー》の死角に出現し、筏から引き摺り落とす。派手な水柱が吹きあがる。主戦力である《調律の彼女》を落とされたチームは途端に各個撃破される。だが、時幸は助けに入るわけにはいかない。彼の体質を、一般の《マイナー》達に知られるわけにはいかない。任務に参加している他の《機関》の職員に任せ、次の群れに突っ込んだ。
時幸は銃撃しか使えない。銃弾が通らないほど硬い甲殻を持つ個体は縛るだけに留め、新たなJ・Rを取り出した。時幸が拘束した《ディヴィジョン》を《機関》の職員が蟻を潰すようにちまちまと、比較的柔い関節部から対立因子を注入して駆除していく。
背後で、光が爆発した。
「きゃあああああああああああ‼」
何事かと一瞬意識がそちらに向く。手足の欠損した《マイナー》が、腕が付いていたはずの場所を押さえて絶叫していた。傷が痛くて泣いているだけではない。彼女の傍らには、下半身だけになった男が立っていた。一瞬だけゆらりと揺れ、どさりと倒れ込む。腕を喪失した《マイナー》に、血がシャワーのように降り掛かった。
その向こう、十メートルほど離れた場所に、彼女達と相対していたと思しき《ディヴィジョン》の姿があった。円錐台の身体の頭頂に、チョウチンアンコウのような触覚をぶら下げている。その触覚は仄かに光っており、その光が徐々に強まっている。
「――伏せて‼」
とっさに声を張り上げる。周囲の《マイナー》がばらばらと身を低くした。だが、逃げ遅れた《マイナー》も何人かいた。刹那、光の洪水。目を開けていることができずにきつく瞑った。それでも瞼の向こう側を完全には遮断できないほどに眩い光線。
意のままにならない瞼を無理やり抉じ開けると、数秒前まで確かにいたはずの人々の姿がない。穴が開いたようにぽっかりと、彼らのいた空間が空いている。さっきまで生きていたはずの人々は、遺体さえ残らない殉職を果たしてしまった。その事実に愕然とする。
《ディヴィジョン》は再び光を蓄え始めた。周囲のボートがエンジンを鳴らして遠ざかり、射線から外れようとする。その一体に気を取られている隙を突いて、他の《ディヴィジョン》が猛攻を仕掛けた。《機関》の討伐班は、他の《ディヴィジョン》を盾にする位置で光の《ディヴィジョン》と上手に距離をとっているが、《マイナー》は防戦一方、どうにか逃げ回るので精一杯だ。
時幸はボートを方向転換し、《マイナー》に纏わりつき、追い回している蝶型の《ディヴィジョン》の群れに突っ込んだ。
「逃げて、ください‼」
《マイナー》を逃がし、応戦するが、そろそろ弾が尽きそうだ。間の悪いことに、奴らははらはらと飛びながら小刻みに転移を繰り返す。これでは狙いを定めることができない。拘束しようにも、鎖が触れる前、時幸の血が付着する前に逃げられてしまう。
一体が鎖をうまく掻い潜り、まんまと転移した。背後に気配を感じたときには既に遅く、横殴りの衝撃が襲いかかる。姿勢を崩し、ボートから転落した。
驚いたのは一瞬だけ。師匠によって、水泳というより生存本能に染みつけられた訓練の通りに身体が動く。海中の毒素を吸わないように息を止め、手で水を掻いて状況を整理する。落とされたボートの上にはまだ《ディヴィジョン》がいるかもしれない。少し離れた筏まで平泳ぎで進む。下部分に身体を圧し込むと、そのままひっくり返して水上に上がった。筏の上に《ディヴィジョン》がいた場合、ひっくり返すことはできないので、この筏は安全だ。はぁはぁと息を整える。
「だめ、そこは」
「逃げろ!」
「え?」
至近距離での、回避不能の虹の奔流。太陽を眼に入れたかのような、もはや痛みさえ感じる光の暴力。とっさに顔の前に腕を翳して網膜を灼く光量を少しでも減らす。
光が止んだのを感じ、自由にならない視界を瞬きを繰り返して徐々に鮮明化させる。べろりと何かが背中に触れた感触があって、反射的に飛び退った。
前方、三メートルほど離れた場所に、例のアンコウ《ディヴィジョン》が鎮座していた。その近さにびくつくが、相手はもっと信じられないものを目撃した様子だった。頭頂の触角が、コンサートのペンライトのように青、赤、緑、紫、様々な色に点滅を繰り返している。狼狽、衝撃、驚愕を表すかのように。
身体の向きから時幸を窺っていることを察し、自らの身体を見下ろす。光線によるダメージを目いっぱい受けてしまっているが、肌には目立った痛みはない。すべて先ほどの戦闘で受けた些細なかすり傷だ。繰り返すが、「肌は」無事だ。無事なのが一目で判る。
「少年漫画みたいですね」
服が消失していた。わかりやすくいうと、上裸だった。
おそらく、アンコウ《ディヴィジョン》の能力は“転移”が発展した“消滅”だ。そしてきれいさっぱり時幸の衣服の前面を消し飛ばしてしまったようだ。先ほどのは、背中部分だけになった服の残骸が剥がれた感触だったらしい。おまけに銃まで消失してしまった。
時幸に因子による干渉は効かない。服はその限りではなかったが、とにかく、先ほどの攻撃を受けても時幸がそのまま存在し続けていることに、アンコウ《ディヴィジョン》は困惑しているらしかった。困惑はやがて警戒へと変化、様々な色の発光が素早く切り替わり、徐々に光を増していく。
「……勘弁してください」
頭を抱えて蹲る。再度、光が周囲を包み込んだ。
だが結果は同じだった。光線をもろに食らった背中は、彼そのものも、全く無事だった。《ディヴィジョン》はますます狼狽えた様子で光らせるだけに留まらず触覚をぶるんぶるんと振っている。
時幸も、さすがにまずいと苦い顔になる。もう一回食らえば、ズボンを守り切れる自信がない。ただでさえ衆人環視の中での上裸など、彼の品性と師匠の美意識に反する格好だというのに。いや、それも大事といえば大事だが、周囲で戦っている《マイナー》に時幸の特異性をこれ以上晒すわけにはいかない。相手の攻撃手段が光によるものであり、一時的に視界を遮るのがむしろありがたい。
だが、いまは周囲にまだ他の《ディヴィジョン》がいて、それどころではないかもしれないが、何回食らっても時幸が生きていること、さらに、服だけはしっかり影響を受けていることを知られれば、後々厄介なことになるのは避けられない。
幸か不幸か、《ディヴィジョン》は光による攻撃は無効だと結論づけたらしい。一瞬、毛伸びするかのように身体を逸らし、触覚を振り上げた。先端がけばけばしいワインレッドの光に彩られる。思わず目を瞑った、その間に。
《ディヴィジョン》は逸らした身体を今度は屈ませ、その姿勢のまま距離を詰めてきた。瞬間移動ではないが、底にキャスターボールでもついているのかと思うほど滑らかな動き。そのまま時幸に接近しながら……口を開けた。
「なっ⁉」
触覚の下方がぐぱぁぁあ、と開き、鮫のような乱杭歯――しかも一本一本が時幸の頭ほども大きな――の並んだ、白夜の太陽みたく真っ赤な口が出現する。口を大きく広げたまま、猛スピードで迫ってくる。
回避、する時間はない。
迎撃、する手段がない。
とっさに、つい癖で、腕を前方で交差させた。血液を飲ませて消滅。そこで気がつく。
周囲には依然、一般人が多くいて、見られている。このままではごまかしようのない決定的な光景を目撃されてしまう。それに、あんなに鋭利な歯で噛まれれば、時幸だって無事では済まない。腕の複雑骨折は免れないだろう。できれば一度死ぬよりは地道な治療を選びたいところだが、完治するのに数か月はかかるはずだ。それに、何より……。
(多分、いや……絶対に痛い‼)
恐ろしさに身が竦んでしまい、他の方法は結局、選べなかった。
しかし、待てども、《ディヴィジョン》の鋭利な歯が噛み砕く兆しはない。おそるおそる、腕を下ろして前方を、見ると。
目の覚める青に、世界が染められた。
凛としたその人が、《ディヴィジョン》の鼻先数十センチのところで相対していた。その小さな背中で、時幸を庇うようにして。
髪と同じ青い耀きを放つ彼女の愛刀が、その顎を捕らえている。ぎりぎりの距離まで引きつけ、すぐ真下から縫いつけていた。切っ先が《ディヴィジョン》の上顎から突き出している。そのすぐ上、提灯型の触角の器官が怪しく瞬いた。
危ない、と叫ぶよりも先に。まさしく光り出したそこに、見覚えのあるダガーが突き刺さる。深々と食い込むダガーに押されるように、光の波がその動きを緩やかにさせられる。それでも光は弱まりはしなくて。ぎりぎりと、錘でも付けられたような動きではあるけれど、エネルギーを蓄えて。
視界を真暗闇が覆う。否、覆ったのは触角の器官のみ。光源を急に絶たれ、光に慣れた目に残滓が焼き付く。
そのまま、闇が絞られた。触角を包んだまま狭まり、平たく潰した。
《ディヴィジョン》は先ほどのように背を大きく逸らした。しかし抱く感情は全く別のもの。それよりも。
突然姿勢を動かすものだから、顎を貫いたままの刀を持つ少女が釣られてわたわたと動いてしまう。しかも足場は不安定な筏の上だ。
「危ない!」
思わず駆け寄って腰を抱き、勢いそのままに《ディヴィジョン》を蹴りつけた。わりといい角度で当たったらしく、歯を食いしばれなかった人間のようにぐわん、と《ディヴィジョン》の顎全体が震え、どう、と背後に倒れ込む。その衝撃で刀が外れ、反動で二人は飛ばされた。抱えた人物が頭を打たないように庇いながら、どうにか受け身をとる。
倒れ込むと同時、触覚を破壊した闇の塊が《ディヴィジョン》全体に覆い被さり、折り紙を畳むように圧縮した。闇が消え去った後、そこには跡形も残っていない。
討伐対象の消滅を見届け、傍らの人物の安否を気遣う。
「大丈夫ですか⁉」
「うん。ありが――」
少女の頬が朱に染まる。瞬く間に耳まで真っ赤になり、元から大きな目をさらに見開く。
どこか異常があるのかと狼狽えた時幸だったが……原因に気がつき……彼女と同じような様相になる。
「……きゃああああああああああああああああ‼」
「って、なんで男の方が叫んでるんですか」
(大丈夫? どこか怪我したの?)
「見てのとおり無事ですよ」
同じ筏に飛び乗った二人がモールス信号を交えて会話しているが、頭に入ってこない。「――見ないでください‼」
とっさに腕を掻き抱いてしゃがみ込む。
肌を見られるのには慣れているはずだった。特に研究室では、女性職員に脱がされてももう何も感じない。
だというのに。彼女にだけは、見られるのが恥ずかしかった。
「誰もありがたがって見ませんって、そんな貧相な身体」
全然フォローになっていない一言。
そっと顔を上げると、呆れたような榊と、まじまじと、どこかおもしろそうな顔で見下ろしている悠。その向こうで。
律儀に後ろを向いている、早梛がいた。
何か声をかけようとして、視界が塞がれる。榊の羽織っていた上着だ。ありがたく拝借する。背が高く肩幅も広い榊のものなので時幸には大きく不格好だ。悔しいが、貧相な身体というのを否定できない。だが、とりあえず肌は隠れた。
「早梛さん」
おずおずと、名前を呼ぶ。
「……もういい?」
「はい」
くるりと振り返る。
ああ、こんなにも小柄な人だったか。もうしばらく会っていないような心地がした。実際はたった数日のことなのに。
けれど、この短時間のうちで、変化があったのだろうことは窺える。最後に会ったときの、溢れんばかりの激情に、決着をつけてきたかのような、迷いのない目をしていた。けれど、意志の強さも、凛とした佇まいも、それでいてどこか儚げな風情も、何も損なわれていなくて。
こんなときだというのに、また、見惚れてしまって。
「時幸くん」
溌溂として清涼な、そして優しい声が、彼の名前を呼ぶ。
「はい」
それだけのことが、ただ、とても嬉しくて。
けれども、早梛はふっと顔を逸らした。胸の奥に、形容できない冷たい靄が沈む。
「……あーっ、もうっ」
と思ったら、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「早梛さん⁉」
やはりどこか戦闘で痛めたのかと、急いで駆け寄ると、早梛は、困ったように見上げてきた。
「私、ずっと……ずっと、どんな顔して会えばいいのかわかんなくて……でも、もう目を背けない。まっすぐ向かい合うんだって、発破かけてきた、つもりだったんだけど……」
目をきつく瞑り、代わりに声を張り上げた。
「~~~~さすがに予想外過ぎるよ‼」
「すみませんでした‼」
その場で頭を下げる。
「まったく」
手のかかる弟を見守るように、榊がやれやれと肩を竦めた。
「心配して駆けつけてみたら、一昔前のバトル漫画みたいな恰好してるんですもの。一期さんが見たら殴られた上に蹴られてましたよ、きっと」
「さっき見たことは忘れてください! 悠さんも。っていうか、自分で脱いだわけじゃありませんからね⁉」
「わかってますって。きみらしくなく慌てなくても大丈夫ですよ」
(でも、ちょっともったいなかったかも)
「何が⁉」
やんわりと笑う悠の言葉に、しょんぼりと項垂れる。
「っ、そうだ、戦闘は」
思い出して、周囲を見回す。
「粗方片付いたみたいですよ」
《機関》の応援が到着し、追加兵装で掃討を行っていた。壁に開いた穴にはパイプが通され、僅かに水音がする。以前採取した時幸の血液から精製した薬液を撒いているのだ。周辺の《ディヴィジョン》を排除しつつ、壁の穴を特殊な材質で塞いでいく。榊の言うとおり、戦いは終結したとみていいだろう。
「早梛さん」
安全を確認し、改めて向き直る。
「……うん」
「申し訳ありませんでした」
「え?」
一度頭を下げた後、まっすぐ目を見据えて、告げる。
「俺は、正解のないことで、あなたを間違えていると責めてしまった。悪い面ばかり見て、あなたの選択で好転したことを評価しなかった。俺は小さい人間です」
相手が武器を隠し持っていた時点で、状況は圧倒的に不利だった。どんな方向に転んだとしても、ノーマンと《機関》の関係は悪化しただろうし、銃を持っていた人間相手にこちらが無傷だったとは思えない。
早梛の行ったことは確かに最適とはいえなかったかもしれないが、それでも全員大した怪我なく切り抜けることができた。そもそも、一期も言っていたことだが、交渉においてはある程度ハッタリも手段の内だ。彼女が自らを蔑ろにしたことは哀しかったが、そこは素直に称賛したかった。
「そんな……そんなことない! 私の方こそ、ごめんなさい!」
ぶん、と激しく頭を振る。星屑を散らした夏空のように深く輝く青色が目の前を通り過ぎた。
「私、焦ってた。一人で突っ走って空回って、大事なことを見失ってた」
艶やかに滴り落ちる髪は、天の川のようにも見える。
「あなたを守りたい気持ちに嘘はないし、できるだけ無茶しないでほしいのも本当。でも……守るっていうことがどういうことなのか、履き違えてた」
しゅるりと絹の髪が揺れ、再び、向かい合う。
「そのことを、ずっと、伝えたくて……でも、なんて言えばいいのか、いまのままじゃ顔向けできないって、なんだかんだ理由をつけて、零室に行かなくて……」
早梛は、さかんに瞬きを繰り返していたが、あのときのように泣くことはなかった。それを見て、なんともいえない気持ちになる。自分の幼稚さを思い知ったような、でも悪くはない。
「いえ、俺の方こそ、あなたに言わなくちゃならないことがあったはずなのに、見つからなくて、零室に顔を出しませんでした」
早梛は肩を落とした。
「……沢村さんの言ったとおり、幽霊部員になっちゃったね」
そして、くしゃっと笑った。
釣られて時幸も笑った。久々に、気持ちよく。半ば照れ隠しではあったけれど、それを抜きにしても、嬉しいような、ほっとしたような気持ちで溢れていた。
*
壁の修復を担当者に任せ、討伐任務参加者は陸地にある《機関》の施設に一度集められた。
重傷者の回収と搬送が進み、軽傷者には治療と報酬交渉が行われている。時幸の能力を目撃した者に対してはやんわりと精神誘導による記憶操作が施されている辺り、抜かりない。
悠は自傷以外の傷はなく、榊に至っては無傷だった。全参加者の中でもかなりの高額報酬を約束されたらしく、顔には全く疲労の色がない。対照的に、二人との交渉に当たった職員は何かを抜き取られたように蒼白い顔をしていたとか。
戦闘が終わっても、事態は収束してない。むしろ、何か大きなことが動いている。そう感じていたため、時幸は軽く休息をとりつつ、内地への帰還はせずに待機状態を保っていた。補給物資の中から消失したものと同型の銃を見つけ、バックルに挟む。馴染むまでは時間がかかるだろうが、それでもないよりかはましだ。榊の上着もベルトを幾つか使って縛り、どうにか様にした。
状況の報告と確認のため、まずは琴羽に連絡をとる。早梛もすぐ隣で聞いていた。
『ユキか?』
「はい。内部侵入した七型はすべて排除しました。壁の復旧も進んでいて、これ以上の進撃はないものと思われます」
『そうか。よくやった。疲れているところ悪いが、もう一仕事してほしい』
声音は冷静だったが、調子は重い。
『ノーマン達を見失った。監視に当たっていた職員の安否も不明だ』
「行方不明?」
『ああ。しかも、外部からのハッキングによって定時連絡が数時間偽装されていた。発覚したときには既に足取りを掴めない状況だ。だが、向かう先は予想がつく。現れるであろう奴らを拘束しろ。地下からの道は封鎖したから、地上を進んでもらうことになる。充分気をつけろ。だが、急げ』
「……やってみます」
『頼んだ。しかし……今日のアレはさすがに不自然すぎる』
固唾を飲み込んだ。七型の大量発生という時点で、例の件と無関係とは思えない。だが不可解なのは、現れたのがすべて下位の《ディヴィジョン》だったことだ。一型であれば【魔女】の命令で特定の都市を襲うこともありうるが、各地に散らばっていた下位個体がその地での活動を中止して別の都市、しかも主な活動場所であるヨーロッパからかなり離れた日本にまで集結するなど、前代未聞のことだった。さすがに習性を利用して云々、なんて次元ではもうない。
『ミラノ区画の半壊以来、七型のクラスⅠが増えたという情報は入ってきていない。しかも今回現れた個体は同一のクラスⅠから派生したものではない』
一口に「〇型の性質」といっても、【眷属】に受け継がれるのはその性質に属する幾つかの能力のうち一部のみだ。クラスⅢまでは複合した能力を備えていることもあるが、それでもどの能力に特化しているかで同型の《ディヴィジョン》でも偏りがある。特に七型の場合は突き詰めればすべて“保存”の性質とはいえ、“不変”・“固定”・“転移”は実際は全く異なる個性といって差し支えない。
それに、《ディヴィジョン》の見た目は親となった上位【眷属】の外見に似通う。今回襲ってきた数十体の《ディヴィジョン》が同一の「一なる命題」を共有する群れだった可能性はゼロだ。であれば、習性も異なるはず。にもかかわらず、画一化された行動をとった理由が判然としない。
「あの」
と、これまで聞いていた早梛が口を開いた。
「逆に考えてみるのはどうでしょうか」
「『?』」
「《ディヴィジョン》に仕掛けがあるんじゃなくて、七型ならどんな《ディヴィジョン》でも操れるんじゃないかって」
「まさかとは思いますが……《ディヴィジョン》を意のままに操る方法があると?」
時幸が眉を顰める。琴羽も電話でも判る苦い声で告げた。
『創造主たる【魔女】でさえも完全には統制下におけないというのに? そんなことができる研究者が生き残っているとも思えないし……』
「はい。だから、そもそも……《ディヴィジョン》に命令できる人がいるんじゃないかって」
「『?』」
早梛はすぅ、と息を吸い、また吐いた。
「【魔女細胞】の強さでいえば、【魔女】が最上。クラスⅠ、クラスⅡ、クラスⅢ……これは絶対埋めようがない差、越えられない壁。でも……【魔女】以外で、クラスⅠより上位の【魔女細胞】を持った存在が、この世界にはいますよね」
「! まさか」
時幸は目を瞠った。
『……いままで表舞台に出てきたことがないから、どんな能力があるのか知られていない。それどころか、顔も、いるのかすら定かでない。しかし、だからこそ【魔女】よりも自在に動くことができる。これまでの《ディヴィジョン》の不可解な動きも、会議室に武器を持ち込めたことにも、それですべて辻褄が合う』
琴羽も、信じられない、という声で呟いた。
「俺も……俺だって同じようなものなのに、その可能性に思い至りませんでした」
「だから、かも。時幸くんていう例があるから、こういうものなんだって、先入観があったのかもしれない」
「だからって……ああ」
確かに、早梛が気がつくのはあたりまえだったかもしれない。なぜなら、彼女が常に追い求めている存在もまた……。
「それだけじゃないの」
時幸の眼差しに込められた納得の色を見て、早梛は、だが、ほんの僅かに哀しみを浮かべた。
「……実は、皆瀬さん達に、時幸くんの過去を少し聞いちゃって……」
「俺の?」
「うん。……ごめん」
「いえ、別に。……それで」
「うん。それで、思ったの。時幸くんのお母さんは、どうして時幸くんを産んだんだろう、って」
それは早梛だけでなく、事情を知る者なら一度は考えたことのある疑問だろう。
「そう考えると……そもそも一型の《ディヴィジョン》がクラスⅠしかいないのはどうしてなのかって考えだして……逆に、時幸くんがいるから、時幸くんが男の子だから、クラスⅡ以下も、必要以上の数も、要らないんじゃないかって」
そして【第一魔女】は……【眷属】が強力とはいえ、あまりに少なすぎる。そこまで息子に賭けているのだ。何を? いったい彼女は時幸に何をさせたい? 何のために時幸を産んだ?
早梛は髪の一房を触りながら、次の言葉を探している。言いたいことも聞きたいこともいろいろあったが、いまはそれどころではない。
「それでね、逆に他の【魔女】はどうなんだろうって考えたら、もしかしたらって、思い至ったんだ」
これまで【魔女】は無敵だ、と散々聞かされていた。なら、その【魔女】がクラスⅠを生み出すよりも、わざわざ他者の力を借りてまで得ようとするのは、なぜなのか。
「思えば、前々から考えてたことでは、あったんだと思う。前例がないってことは、これまで表舞台に立ったことのない人が、関わってるのかもって」
『確かにな。……我々はノーマンの動きにばかり注目していた。奴の経歴や行ってきたことは無視できなかった。だからこそ、影のように付き従うあの少女に注目しなかった。くそっ、まるで人形のように自己主張に乏しいと思っていたが、それも含めて演技だったってことか』
琴羽は一度押し黙った。そして絞り出すように、考えを述べる。
『《ディヴィジョン》は特定の個体を除き、群れることがない。その常識は今日をもって崩れ去った。都市防衛の根幹が揺らぐぞ、これは』
「はい。ですが、いまはあの少女とノーマンを追うのが先決かと。『《ディヴィジョン》の群れ』といういくらでも使い道のあるカードを切ってまで行方をくらませたのは、おそらく……」
『ああ。あの装置が狙いとみて間違いないだろう。すぐスズに連絡して、安全な場所へ……って、どうした⁉ なに、見つかった⁉ どこだ! は? 本庄⁉』
電話口がにわかに騒がしくなった。複数名の報告が飛び交っている。
『わかった、私が対応する! おまえは、そう……迎えに行け! ああ、わかったから‼ くそっ、政府の狗ども……ユキ、悪いがスズにはおまえ達から連絡してくれ』
尻切れ気味に通話が切れ、一時静寂が訪れる。
「……移動しながら話します。まずはゲートへ」
大仰な音がして、外壁の一角に設けられた扉が開かれた。
周囲に《ディヴィジョン》がいないことを確認し、時幸達を乗せた壁外探査用のバギーが発車する。運転は時幸が務めている。事態が事態なので、早梛も何も言わずに乗り込んだ。
夏来に連絡するも、なかなか応答せず、まさか既にノーマン達が迫っているのかと危惧した矢先、苛立ったような声が電話口から零れ出た。
『もしもし』
「夏来さん、無事ですか!」
『ええ。こっちはまだ。警戒レベルを最大に引き上げて立て籠もったところよ。そっちはどうなった?』
「侵入した《ディヴィジョン》は倒しました。ですが、こっちは多分陽動です」
ノーマン達が姿を消したことと、同伴していた少女の正体の仮説について手短に伝える。
『なるほど……いえ、多分そうね。わたくし達では知りようがなかった情報でしょうし。……その仮説が正しかったとして、厄介なのはやはり装置のことね。新しく判ったことを伝えるから、意見を聞かせてちょうだい』
手元で資料を手繰る音。
『リッカルドの細胞の照合結果が届いたの。彼は体構造がとても脆い《ディヴィジョン》に作り変えられていた。すぐに死んじゃうような個体だけど、帰巣本能が強く、人間だった頃暮らしていた街に戻る習性があったわ』
「つまり……」
『ええ。《同盟》はまず、標的となる都市出身の者を拉致して《ディヴィジョン》に変化させた。そして、殺されることを前提で、あの装置を埋め込んだ』
おそらくは人体に三型‐クラスⅣ辺りの細胞を投与して眷属化させたのだろう。誕生したクラスⅤは帰巣本能に従って故郷に戻り、現地の《マイナー》に討伐され、ばらばらに砕け散る。《ディヴィジョン》の細胞は回収されるだろうが、クラスⅤならそこまで丁寧な回収は行われない。ましてや、まさか《ディヴィジョン》の体内から出てきたとは思われないから、装置はそのまま道端に放置される。
後日、標的となる都市に送り込まれた工作員が装置を見つける。既に仕込みは済ませてあるのだから、工作員は手ぶらだ。税関で止められることもない。
『問題は、そうまでしてあの装置を都市に入れる必要性ね。クラスⅠを呼び込むには、何か条件がいるのかしら? でも、それだと……』
もし仮に、あの少女がクラスⅠさえ操れるのだとすれば、わざわざ危険を冒してまで現地を訪れる必要はない。そもそも《ディヴィジョン》に敵対組織を擁する都市を襲わせるだけなら、クラスⅠである必要はない。むしろクラスⅠ一体だけよりも、統率されたクラスⅢの群れの方が厄介だ。
それに、ミラノ区画の一件はただの襲撃事件ではない。何も前兆がないにもかかわらずクラスⅠが出現するという、まさに不意打ちの攻撃だった。その状況を作り出すために、あの装置、そしてあの少女、どちらかが欠けるわけにはいかなかったのだ。
『……おそらく、ミラノ区画は実験ね。本当にクラスⅠを呼べるのか……でも、そもそも、あのクラスⅠはどこから来たのよ! いまここに装置があるっていうのに、未だにクラスⅠの影も形もないのよ‼』
「あの」
と、再び早梛が声を上げる。
「そもそも……クラスⅠは、いないんじゃないでしょうか」
『は?』
どういうこと、と、少し苛立ったように詰問する。
「まだ、どこにもいない……だから、接近にも気づけない。だって、これから生まれるから」
今度こそ、夏来は呆れた溜息を吐いた。
『その話なら先日の会議で結論が出てる。【眷属】を作れるのは【魔女】だけなのよ。【魔女原細胞】を持っている者だけが、自身の細胞を切り離しながら、コンセプトとなる命令を与えることで【眷属】を生み出すことができる。たとえこれが本当に【魔女】の髪だとしても、それだけで【眷属】になることは……あ』
そこまで口に出したところで、つい先ほどの、早梛の仮説を思い出す。
「つまり……そこには【魔女】の細胞がある。そして」
言いかけた早梛に被せるように、夏来の呟きが漏れた。
『「命令」も……もうすぐ届く』
そのとき。
「おかしい」
それまで黙って運転に専念していた時幸が、疑念の声を上げた。
「え?」
「変です。壁の外に出てから随分経ってるのに、《ディヴィジョン》に一体も遭遇しないなんて」
確かに妙だった。以前壁の上から外を見たときには押し寄せる波のように視界を埋め尽くしていた《ディヴィジョン》が、付近には全くいない。いくら七型の大攻勢があったとはいえ、壁からかなり離れても一体もいないというのは、実に不自然だ。
「まもなくポイントに着きます! 準備を……」
『え、ええ。その先にある丘を下った先の、地上からのエレベーターだけが唯一の出入り口よ。いま入室許可を出すから、三十秒以内に……え』
と、耳に押し当てたままの端末から、夏来の言の葉の裂が漏れる。
「夏来さん⁉ どうしたんですか⁉」
嫌な予感が背中を駆け上った。
『上が……地面が、消えてる。……掘ってるっていうの⁉ まさか、何キロあると、いえ、でも、このスピードは、』
ぐん、とバギーが力を上げ、坂を登っていく。
丘陵の頂点に達して、車が跳ねる。
飛び込んできた光景に、二人とも、絶句した。
打ち捨てられた土地の中、唐突に地面に穴が開いていた。掘削機で開けたにしては周囲に掻き出した土砂はなく、ぽっかりと、まさしく「洞」としかいえない穴が。人が二、三人入れる程度、けして大きな穴ではないが、かなり深いらしく、底の見えない黒々とした闇が覗いている。地図上にない、つまりこの数時間のうちに施された細工は不気味かつ圧巻だった。
しかし、あまりに人工的過ぎる故か、それは写真に貼りつけたように現実味のないものだった。だから大して驚かなかった。否、むしろ、それを囲む異常があまりにも衝撃的過ぎて、感情を割く余地がなかったのかもしれない。
丘の下一面を埋め尽くす死体、死体、死体。折れた肢、千切れた翅、潰れた胴。
あまりに多いせいで、地面に積み上げられているというよりも、地面そのものを屍が構成しているかのような景色。
その多くが三型の《ディヴィジョン》だった。日本では大して珍しくない、人間を襲って同族に変えるために都市を目指すだけの下位種。だが、さすがにここまで死に絶えているのは初めて見る。まるで周囲にいた三型のすべてが、「こいつだけは生かしておけない」というような天敵を見つけて、一斉に襲いかかったかのような。そして、返り討ちにされたような。これほどまでに三型を殺められる者は限られている。そして、これほどまでに三型に狙われる者も。
がごり、がごりと音がした。
三型の死体の一部が盛り上がり、下から突き上げるようにして円柱状のポッドが出現した。これが、地下室へのエレベーターだろう。
我に返り、急いで乗り込む。
「夏来さん、夏来さん⁉」
『残り、四十……三十』
ぐんぐんとエレベーターは降りていく。人体に考慮したスピードがいまはもどかしい。
停まると同時に二人は滑り降りた。目の前には白い清潔な空間。本部の研究室ほど広くはないが、機材の立ち並ぶ広大な部屋。
白衣を着た研究者が数名、こちらを見てびくつき、次いで、ほっと顔を緩めた。
よかった、間に合った。夏来の麦わら色の髪が、部屋の反対側から向かってくるのを見て、安堵の息を吐く。
それが黒に遮られる。
鴉が黒いのは、喪に服しているからだという。
死期の書かれたリストを燃やした灰から飛び立った鳥は、次に死ぬ人のところへやってくる。根拠のない、ただのおとぎ話だ。
けれども、目の前に降り立ったその黒は。
まさしく死を告げる、黒翼の使者のようだった。
一秒前まで空気しかなかった場所から出現した男と少女は、目算を誤ったのか、ややおぼつかなくはあったが無事着地する。
そしてその場で、優雅に一礼した。
あまりに突然のことに、時幸も、早梛も、研究者達も反応することができなかった。
静粛に感謝するように、少女が両手を、胸の前で組み上げる。
とっさに動けたのは、早梛だけだった。
周囲に遮蔽物がないと見るや、刀を抜き、時幸の背中を峰で打ち払った。
不意打ちに近い一撃に沈む少年をさらに押し倒しつつ、自分も床に伏せ、そのまま宙で柄から手を放す。
愛刀の重みを背中に感じた刹那、一つの音に早梛の鼓膜は支配された。
なぜか、半月ほど前の、討伐の様子を思い出した。
脆い、痛々しいほどに死にかけた、ぼろぼろの蝶。
けたたましく啼いて蹂躙する鳥と、その最期。
リロードを繰り返す、時幸の銃。
とても乱暴で、怖くて、たくさんで。
そう、この音はまるで、あのときの。
数百発の弾丸が、連続して撃ち込まれるせいで、それ以外の音が一切しなくなった、あの日の嵐の悲鳴だった。




