*第三章*
冷え冷えとした訓練場に、竹刀を当てる音と鎖のざやめく音が交差する。
「……【紅鹿事変】以降、【第一魔女】以外は概ね自身の出身国かその周辺に潜伏しているものと思われる。故にヨーロッパは数種類の《ディヴィジョン》が混在する、激戦地となっている」
攻撃を繰り出しながら、座学で習った範囲を暗唱する。
「はい。ロシア、ドイツ、フランス、イギリスが第四、第五、第六、第七、それぞれの【魔女】の出身国ですので。数の点で最も多いのは五型、次いで三、八、七……と続きます。気づいたことは?」
時幸も手を止めず、自ら思考するように誘導した。
「んと……意外と欧州出身の【魔女】の系統は多くない……じゃない、アジア勢の方が進出してるんだ!」
「では問題です。陸で繋がっているという点以外に、三型と八型が多い理由は何でしょう?」
三型は中国出身の閻緑蝶、八型はインドのウルミ=ラーイを祖とする《ディヴィジョン》の系譜だ。必然、本国はもちろん、アジアの大部分が三型と八型の独壇場となっている。さらにこの二種には、発生した場所以外でも広く猛威を奮っているという特徴がある。
竹刀をくるりと回して、脇腹を狙う。
「んー……っと……あ、わかった。人が多いんだ」
少年は鎖を持つ手を縦に、巻き戻す勢いを利用してこれを防いだ。
「半分正解です」
三型の多くは人間をダイレクトに変化させることで【眷属】を増やしていく。その性質がもともと人口の多かった中国という土地柄と噛み合った結果、今日の悪夢のような三型の繁栄がある。中国はけして国土の貧弱な国ではなかったが、それでも人間の二倍から十倍ほどの体積がある《ディヴィジョン》が跋扈するには狭すぎたらしく、陸を行き、海を渡り、世界中に分布を続けている。
「それほど直接的ではないとはいえ、八型もまた、人間を利用して個体数を増やしている以上、インドで増えたのは必然。ですが……八型の増殖には、もっと別の要因があるんです。わかりますか?」
「えっと……うっと……」
一瞬攻撃の手が鈍る。その僅かな隙に竹刀の先を絡め取り、一気に肉薄する。
「あっ」
横側から梃子の原理を利用して竹刀を取り上げ、その上で一歩踏み出して背後に誘導する。素手になった早梛は防戦一方になり、やむを得ず後退した。
「時間切れ」
「え、ちょ、ちょっと待って」
同時に、縛鎖の包囲網が完成した。その先端は時幸の手の中、巧妙に編まれて指と半ば一体化している。こともなげに引くと、張り巡らされた鎖がギュルギュルという擦れた音を立ててて締まり、早梛の腕を縛って吊り上げる。腕以外に腹や脚にも絡み付き、動きを制限している。本来であればさらに鎖を絞って宙吊りにした敵を尋問するのだが、訓練なのでそこまではしない。何より時幸は自称紳士(傍から見たら初心)なので、顔を逸らしつつすぐに緩めた。
「……警戒してたのに。いつの間に仕込んだの、それ」
「手の動きに気をとられましたね。“審判”では歩術も技のうちです」
序盤は早梛が優勢だった。身体の軸と捻りを最大限に活用し、一撃一撃を重くしつつも疲労は少なくなるよう、踏み込みからずっと絶やすことなく攻撃をしかけ続けた。途切れることのない打ち込みに、時幸は躱すだけで精一杯……のふりをしていた。
その実、いなしながら、水面下ではずっと仕込みに手間をかけていた。連続の剣戟を受け流しつつ、気取られないようにわざと手元で大げさに鎖を操ってみせる。後退する風を装い、徐々に罠のある方へと誘導する。“ミスディレクション”。手品師と同じだ。
「実際の戦闘では、地形や伏兵を利用して罠に誘い込まれることがあります。それこそ元人間だった三型など、知能の高い大物との戦闘は厄介です。それに……日本ではあまり見ませんが、統率のとれた《ディヴィジョン》の群れとの激突は、事前に万全の準備をしていても苦戦すると聞きます」
「にゃん。目に見えているものがすべてではないみゃあ。とんでもない爪を隠してることだってあるんだにゃん」
ずい、と沢村が割って入る。ここ最近皆瀬は仕事で忙しく、訓練場には専ら彼女一人だけだ。
「ん。……そういえば、知能が高い個体がいるわりに、司令官になる《ディヴィジョン》は見かけないかも。でも、いるにはいるんだ」
「それはですね……」
「《ディヴィジョン》は命令に従うからだにゃん」
沢村が説明する。
「クラスⅠは【魔女】が最初に与えた命令に従うにゃん。そんで、【魔女】の命令を聞くようにクラスⅡ以降を増やしていくにゃ。だから最初の命令に従うだけで複雑な思考回路は持ってないにゃ。末端になるとますます単純になるにゃ」
「はい、ですから群れるのに向いてないんです。しかし、」
「群れる場合もあるにゃ。考える脳を持っている場合と【魔女】が命令した場合だにゃ」
そこでくーっと身体を伸ばしてから、続きを話しだす。
「三型や六型だと下位でも人間と同じような思考ができて群れを作るにゃ。命令の範囲内で自ら考えての行動ができるんだにゃ。あと、協調しなさいっていわれたクラスⅠに作られたクラスⅡは仲間内で群れを作るにゃ。どんどん増やしていくにゃ。大変にゃ」
「それができるなら、なんで【魔女】は【眷属】の群れを作らないんです?」
「別に望んでないからだにゃ」
面倒なのか、沢村は時幸をじっと見る。根負けし、説明を引き受けた。
「【魔女】の多くは、別に人類を絶滅させたいわけではないんです。だから積極的に人類を殺すような強大な《ディヴィジョン》は生み出さず、簡単な命令しか与えない。人類が抵抗できるよう、程よく減らせるように調節している」
「意外。ぜんっぜん手加減してるように思えない」
「だにゃ」
「……人類への恨みはあると思います。しかし【紅鹿事変】によって【魔女】の数が減った……そして、やろうと思えば《ディヴィジョン》を絶滅させられる存在がいることを知った以上、人類相手だろうと【魔女】同士だろうと大っぴらに戦争できなくなりましたから。むしろ搦め手で自分の利益を浚ったほうが合理的と判断してもおかしくはありません。……あの人が何の基準でもって他の【魔女】を生き残らせたのかは不明ですが、十九年前、戦争が最も過激だった頃の【魔女】と比べれば、いまいる【魔女】はかなり温厚といえるでしょう。例外は……」
「【第二魔女】だにゃん」
「……ええ。アメリカの【魔女】、ドロシー。彼女は人類を滅亡させるつもりだった。そして悪いことに、彼女にはそれができる能力があった。四年前、遂に実行に移そうとした彼女を討つため、アメリカに限らず世界中の国々が団結し合同作戦が開始されたんです」
「俗にいう【カンザスの墓標作戦】だみゃ」
「ええ。予期せぬアクシデントが連発し、当初の作戦からは大きく逸脱しはしましたが、結果的に【第二魔女】は死亡。人類は絶滅を免れました。しかし、人類の勝利とはいえなかった」
時幸は一旦言葉を切った。そして珍しく、茶目っ気を含んだ眼差しで早梛を見た。彼の師匠を彷彿とさせるその顔は、早梛を試しているようだ。
「えっと……」
「ヒント。先ほどの話を思い出してください」
「さっきって……ヨーロッパの分布……っあ!」
早梛は思わず身を乗り出した。
「八型が増えた!」
「正解!」
生徒の成長を見守る教師のように、口角を上げて少し笑う。
「大元である【第二魔女】がいなくなったことで、二型はゆっくりと数を減らしつつある。そして天敵の減った八型が数を増やしつつある。将来的にはかなり深刻な問題になると予想されています」
「そうだよね……」
数の点でも上回るだろうが、最大の危惧は【第八魔女】への対応だろう。【魔女細胞】の性質上、同等以上の対立因子でしか対抗できないのだから、彼女がもしドロシーのように大それた行動に出た場合、最悪インド全土を吹き飛ばすような威力の兵器を用意するしかない。が、そういった「実際に【魔女】を殺しうる兵器」は目下ロシアのテロリストの支配下にあり、運用は難しい。
「もちろん、討伐作戦が持ち上がった段階で危惧されていたことです。それでもなお、【第二魔女】は早急に排除する必要があった」
「それで……あれ? でも……」
何か言いかけて、早梛は口を閉ざした。その理由に思い当たり、時幸は静かに口を開く。
「夏来さんの言ったとおりです。【第二魔女】を殺したのは【第一魔女】……かつて彼女を生かしたはずの【魔女】です」
【カンザスの墓標作戦】が失敗した最大の理由は、複数の【魔女】の介入があったせいだった。事件の場には、彼女達二人以外にも【魔女】の姿が確認されたという。
「……その過程で新たな【一位眷属】が誕生。一型はこれで四体となり、いまでもそれらに悩まされている以上、作戦は失敗。しかし、最悪のシナリオは免れた」
「他の【魔女】は人類に滅んでほしくはなかったからにゃあ。まあそれだけが目的でもなかったんだろうけどにゃ」
「ええ。【第一魔女】の目的は……ドロシーの心臓」
「心臓?」
「はい。先日お話ししたように、【魔女】は各々特殊な器官を持っています。【第二魔女】の場合は心臓でした。だから【臨界開花】する前に奪いに来たんです」
「Over limit bloom? 限界を越えて、咲く?」
聞き慣れない単語に早梛は小首を傾げる。なんというか、とてつもなく、かわいい。
「はい。【魔女】が最期にクラスⅠを生み出すことです。他のクラスⅠを生み出すときとは異なり、【魔女】の残りの身体がすべてクラスⅠに置き換わる。執念というか怨念というか、そうした個体は大きさも破壊力も桁外れになる。まあ、死を覚悟したら【魔女】に限らず自棄になって破壊衝動を命じてもおかしくはないでしょうけど」
「だからそうなる前に決着をつける必要があったにゃ。でも人類の連合軍はしくじりそうだったにゃ。【臨界開花】する直前に【第一魔女】が心臓を抜き取ったにゃ。それでアメリカ全土消滅は免れたにゃ」
「……臓器を抜き取るのはあの人の十八番でしたからね」
皓皓と積もった雪に飛び散った、深紅の花びら。周囲の白を染めて溶かし、徐々に冷たく沈んでいく塊と、電池が切れたみたいに倒れ込んだ本体。「それ」が無くなったから動かなくなったのだと、幼い時幸には理解できなかった。傷のない、命のない、からっぽのカラダ。
「にゃん。それで大勢やられたにゃ。一期にゃんの部下も……ミキにゃん達も」
しょんぼりと項垂れる。釣られて、被っている頭巾の猫耳もしゅん、と下がった。
「ミキ、さん……?」
「ミキにゃんはあたしの大事なお友達にゃ。ひおにゃんの前の室長だったにゃ。あたしもひおにゃんも大好きだったにゃ」
「あ……」
皆瀬があの若さで室長を務めているわけが、ようやく判った。四室……追跡班は、【魔女】に殺される確率が最も高い。皆瀬のときのように、見逃されることなど【魔女】の気まぐれ次第で……同じような気まぐれで、多くの職員が殺される。
「そう、だったんですね」
「にゃ。でも覚悟の上だったにゃ。向こうだって守りたいものがあったにゃ」
「?」
沢村はこてん、と頭を傾けた。相変わらず切なげな表情で。
「《機関》は何度か、誘拐しようとしたにゃ。彼女も、ユキにゃんも。それで返り討ちにあったにゃ」
「え……そうなんですか」
「にゃん。そもそもユキにゃんが保護されたのも、何度目かの追跡任務の最中だったにゃん」
驚いて、時幸を振り返る。
「……【魔女】を捕らえて利用したがる組織や国家は後を絶ちません。事実、十六年前に【第五魔女】が誘拐されてますし」
「あっ……」
《ディヴィジョン》を生み出し、自然法則に逆らう様々な現象を引き起こす【魔女細胞】は、いまでも解明されていない。それを解き明かし、善悪問わず利用したいと思う者は大勢いるはずだ。強大な【魔女】であろうとも、元は人間。疲れや慢心から罠に嵌ることだってある。彼女達でさえ追い詰められるテロリストがいる。対立する【魔女】に売られることだってある。
そしてそういった者達は、【魔女】やその娘に非人道的な行いをすることをいともたやすく許容する。彼女達は「悪」だから。「敵」だから。「人間ではない」から。
ぶるぶると怖気が背筋を駆け巡る。
――だからこそ、【魔女】も人類に容赦がない。そうやって負の連鎖が繋がった結果、後戻りのできないところまでこの世界は歪んでしまったのではないのか。
「あ、サにゃん、いま追跡班は『四室だから死に近い』とか考えなかったかにゃ」
「え、や、か、考えてませんって、そんなこと」
「あったりまえだにゃあ! それだったら九室は訓練ばっかで苦しいみたいになっちゃうにゃあ!」
「それは間違ってない気もしますが……」
「零室にゃんて幽霊の集まりになっちゃうにゃあ!」
沢村のおかげで、緊迫した空気が少し円やかになる。それに釣られて早梛は笑う。
親友を亡くした沢村だからこそ、その話を悲劇で終わらせたくないのかもしれない。
「にゃ。でもユキにゃんは恨んでないにゃ」
不意に、時幸の肩に腕を回す。
「ちょ、ちょっと⁉ 沢村さん」
「にゃ~、ユキにゃんはかわいいにゃあ♪」
時幸は振り解こうと激しくもがくが、沢村は筋肉にものをいわせてなおもじゃれつく。微笑ましいなあ、などと思っていると、
「一期にゃんが保護するまで、ユキにゃん女の子だと思われてたにゃ」
「えええええええええええええ‼」
早梛の大きな瞳が見開かれる。
「そんなに驚くことでもないですよ。遠目でしか確認できなかったでしょうし、何より、【魔女】は男を産めないのがそれまでの常識でしたから」
「あ、そ、そっか」
【魔女細胞】は男性には適応しない。【魔女】或いは【一位眷属】の細胞を後天的に移植した場合、【魔女】よりも【眷属】よりも危険な【新生物】へと変貌し、寿命が尽きるまで破壊の限りを尽くす。唯一、先天的に【魔女細胞】を持って生まれた時幸のみ、破壊衝動を抱かず成長を続けている。だが、彼と同じ事例は過去に前例がなく、現在に至っても発見されていない。そもそも解明が進んでいない。いつ暴走の危険が訪れるかわからないのだ。
「わはは、しょんないにゃ。ユキにゃんいまでもかわいくてひょろっこいからにゃ」
「ぐっ」
気にしている筋肉のことを言われ、傷つく時幸。
「確かにきれいな顔ですけど、そんなにひょろっこくないですよ、かっこいいです」
「早梛さん……!」
ぱっと顔を上げて彼女を見る。本気で感動した。時幸の周りにいままでいたのは強い女性か、昔からの付き合いで頭が上がらない女性ばかりだ。早梛と出会えてほんとによかったと、心の底から思った。その温かさが、胸から腕、指の先、腹と、徐々に身体に満ちていく。
「顔赤いにゃ」
「沢村さん、いい加減放してください」
「にゃん」
と、ようやく解放される。が、
「サにゃ~ん♪」
「ふぁ!」
と、何をとち狂ったのか、今度は早梛に抱き着いた。
「えっ、えっ、えっ」
「ちょ、沢村さん、何やってるんですか⁉」
「サにゃんもかわいいみゃあ。すりすりするみゃあ」
頬ずりする沢村。早梛も驚きつつ、まんざらでもない様子だ。
「ほら、そろそろ次の訓練に移りますから。離れてください」
努めて冷静に諫めるが、沢村はガムのように早梛にべったりくっついたままだ。身体の熱が上がっていく。腹の辺りがむかむかする。早梛に抱き着いているなんて、それを許されているなんて、羨まし……いや、破廉恥な。女性同士であっても。いや、むしろ同性ならそんなスキンシップが可能なのか? くっ、本当に女の子だったなら……!
悶々とする時幸をよそに、沢村はそっと早梛に耳打ちする。
「後で伝えたいことがあるにゃ。時間のいいときに一人できてほしいにゃ」
「! はい」
早梛もこっそりと返事をした。
「さて、次はあたしが相手だにゃ」
ぱっと沢村が離れ、準備万端、とばかりに仁王立ちになる。
「どっちが相手だにゃ? なんなら二人がかりでも構わないにゃ」
「いや、さすがにそれは……」
言葉を濁しつつ、さりげなく解放された早梛の隣を素早くキープする。
「そういうにゃ。勝てる可能性は充分あるにゃん」
信じられない、と苦笑いを向け合う二人。息ぴったりだにゃん、とご機嫌になり、ヒントを与えてやる。
「“審判”には多くの引き出しがあるにゃ。どんな相手でも状況次第で優位を取れる安定性、戦闘中にいくらでもパターンを変更できる柔軟性、シンプルであるが故に先の読めない意外性、正しい選択ができればやりようはあるにゃん」
敵を無傷で拘束することをとことん追求されて編み上げられたのが一期の“審判”だ。たとえ体格で劣る相手であっても、自然法則や人体の構造を利用し、自分の流れに持っていくことで無力化することができる。
「確かに、さっきのはすごかった。警戒してたのに、まるで手品みたいに」
「……まあ、先ほどのは本当に手品のようなものでしたからね。タネも仕掛けもあるものを大げさにみせたり、逆に大掛かりに仕込んでいるのを悟らせないように敢えて単調なふりをしたり。ただ、“審判”は飽くまで拘束術です。それ故のデメリットもある」
「にゃ」
一つ目に、攻撃力がなく戦闘の決定打に欠けること。相手が殺しにかかってきたとして、こちらが傷つけずに捕まえる心意気であれば、どうしても不利な状況に陥ってしまう。相手を傷つけないようにするより傷つける方が、そして捕まえるより殺してしまう方が、遥かに容易い。
また、なまじ多くの型があるだけに、最適解に最短で、しかも戦闘中に辿り着き、状況に応じて変化させるのが至難の業である。本質は飽くまで「縛る」ことであり、シンプルであればこそ、極めるのが難しい。一期はそこら辺にあったものでも瞬時に利用して簡易拘束することができたが、型を覚えていても完成されていない時幸では、まだまだ浅い。
「にゃん。サにゃんの場合は、瞬時の判断が得意だにゃ。限られた選択肢の中で最短で答えに辿り着けるにゃん。でも選択肢がないときにちょーっと前に出すぎかもにゃん。今後の課題としては、選択肢を増やすことが大事かもにゃん」
例えば、と落ちたままの竹刀を拾い上げた。
「竹刀だから突く、打つ、弾くくらいしかできにゃい。そう決めつけて、取れる手段が限られてるにゃん。人間相手の戦闘では、パターンを読まれたらおしまいにゃ。あとちょっとお行儀よすぎるにゃ」
と、風を切る音。
早梛の顔から僅か数センチしか離れていない空間を、投擲された竹刀が貫いた。一瞬の虚を駆けて背後に回り込み、素早く拾い上げた竹刀を両手で横に持ち、
「はいどーん!」
とっさに振り向いた二人の首筋を同時に、強かに打っ……つ直前で、寸止めする。
「竹刀は鈍器であると同時に刺突武器で、投擲武器で、刃物で、ポールであり、物干し竿でもあるにゃん。間合いとか用法で『何ができるか』考えるんじゃなくて、戦う相手に合わせて『どう使うか』『何が必要か』考えるのも大事にゃん」
「は、はい……」
沢村が使えば何でも一撃必殺の武器になるのではないか、というのはさておき、確かに無意識に竹刀として使うことに拘って、沢村のような使い方をすることを考慮していなかった節はある。泥臭い手段を使わないというのも、追い詰められたらインファイトに持ち込みがちというのも、指摘されたとおりだ。
一月前の《フィフスボーダー》との戦闘や、“霹靂”討伐作戦において、緊迫した状態であってもとっさに行動できる早梛の強みは把握している。今後、弱点を克服できれば零室のエージェントとして充分通用するはずだ。
それにしても……と時幸は思う。ふざけたような言動でその実、隙がない。後進の育成に努めているが、有事の際には現役で前線に出ている。一期と同期というのは伊達ではない。沢村イオナ、古くからの付き合いではあるが、未だ底の見えない人物だ。
「おい、ユキ、サナ!」
と、訓練場の入口から、よく響く声で二人を呼ぶ者がいる。確かめるまでもない。早梛とは対極的な人物……強くて、時幸のことを昔から熟知しており、彼が落ち込んでいたら足蹴にする(発破をかけるというより、粗大ゴミの扱いである)女性。
「何かあったんですか、琴羽さん」
「何かあったから呼んでるに決まってるだろ馬鹿」
軽く訊いただけで罵倒された。機嫌が悪い理由は、恋人の不在だけではないだろう。
「とんでもない事態になった。こんなときに限って九岡は出かけてるし、寺坂はゴリラと対談中ときた」
琴羽ははあ、と五秒だけ肩を落とし、切り替えて真面目な顔で告げる。
「ノーマンが面会を申し出てきた」
*
十九年前、人類は《ディヴィジョン》との一方的な戦争を開始し、事実上敗北した。《ディヴィジョン》に殺された人命、壊された資産、奪われた時間を思えば、大多数が恨んでいる、可能であれば滅ぼしたいと願うのもおかしいことではない。
だが一方で、損益や宗教の観点から《ディヴィジョン》が地上を跋扈する現状を維持したいとする者達も存在する。《同盟》はそういった団体の一つであり、いままで接点がなかったというだけで、《機関》とは対立する立場だ。
そんな団体に所属している人物を本部内部に通すわけにもいかず、さりとてあからさまに無下にして戦争の口実にされるわけにもいかない。よって、会談は《機関》中枢からは離れたエリア9、地上部分の会議棟の一室で行われることになった。
「……それで」
その会議棟の地下、ロッカーの並んだ小部屋にて。ロッカーにはそれぞれ緊急制圧用の照明弾や拘束具が収められている。
「どうして俺達が会談の場に向かってるんですか。相手の母国語は英語のはずですし、通訳は必要ないですよね」
《機関》において外部との交渉事は専ら特務部一室の管轄だ。一室のメンバーなら皆英語なら話せるよう訓練を受けている。
「ああ。本来なら一室の仕事だ」
琴羽はこちらに目を向けず、J・Rを品定めしている。
「今日も初めは宮坂達が対応した。だが……開口一番、奴はこう言ったそうだ」
――《機関》で保管しているはずの、「ギフト」の返却を要請する。
「話によると、『ギフト』とやらは数週間前、連中の本拠地に侵入した《ディヴィジョン》が誤飲して持ち去られたらしい。その《ディヴィジョン》が日本で討伐されたと聞いて、死骸の引き渡しを要求されたそうだ」
「それって……!」
「……あの装置のことだろうな。だが、アレについては《機関》内部でも一部の者にしか伝えていない。あわよくばミラノ区画のことを聞き出そうとしていた宮坂にとっては完全に想定外の質問だった。すぐ室長を仲介してスズに相談した」
やや大きめのリールを手に取り、視線だけをこちらに向けた。
「スズは『そんなものはない』と返答した。だが奴は確信している様子だったらしい。『知らないのならば上の者を出せ。大人しく渡すのなら日本には手を出さない』だとさ。それで、とりあえず私が相手することになったんだが、向こうは汚れ仕事専門のエージェントだ。おまけに話の席だというのに大っぴらに《調律の彼女》らしき子どもを同席させている。私一人じゃいざというとき対処できない。事情を知ってる奴でいま動けて、そこそこ対人戦闘力もある……信頼の証だな」
消去法、貧乏籤、職権乱用という言葉が脳内に浮かんだが、振り払って前を向く。いまは目の前の問題が一番重要だ。琴羽の言うとおり、万一戦闘になったとしても、琴羽と時幸の二人がかりならノーマンの能力が未知数であっても抑え込める自信があった。それに、早梛の実力なら相手が何型であっても《調律の彼女》と一対一なら渡り合えるだろう。
むしろ、ノーマン、或いは彼の属している《同盟》にとって、あの箱がどんな役割を果たすのか、という方が気がかりだ。女の髪の毛の入った、開けることを想定していない箱。それとミラノ区画の例の事件……関連づけるのは早計だろうか。
部屋を出たところで、早梛も合流した。準備のできた一行は招かざる客の待つ部屋へと向かうと、ノックをしてから入室する。
室内には五人の人間がいた。手前の三人は見知った交渉班一室のメンバーだ。皆、緊張の面持ちでこちらを見ていたが、琴羽の指示で退室した。
正面のソファに腰かけた男性が、つと顔を上げてこちらを……唯一の大人である琴羽を見遣った。位置的には見上げる形となるが、目には蔑むような影が滲んでいる。
「……上の者を出せ、と言ったんだが。どうやら貴公らはつくづく我輩を虚仮にしたいらしいな。それとも日本語が正しくなかったかね」
流暢な日本語で言う。厳粛な響きを伴う声だ。話している内容自体は苛立ちや煽りを含んでいるように思わせるが、伝え方には感情が籠っておらず、それが却ってこちらの芯を揺らすようで落ち着かない。
「いえ、お上手です。……《機関》特務部監督主任、梅島琴羽と申します。先ほどは部下が失礼いたしました」
全く委縮されることなく、琴羽はローテーブルを挟んで向かい合う席に腰を下ろし、笑ってさえみせた。
「そちらのお嬢様も、よろしければお掛けください」
窓際の人物に呼びかける。
凡そこの場所には似つかわしくない年頃の少女だ。服装や雰囲気は大人びているが、せいぜい十代前半。なかなかに愛らしい顔立ちをしているが、こちらを興味なさげに見つめる眼差しは硝子のように冷たく、骨董品のように微動だにせず佇んでいる。
本来、交渉の席に明らかに戦闘要員と判る人物を同席させるのはマナー違反だ。いくら《同盟》と《機関》が対立する目的を抱えていようが、あからさまに《調律の彼女》を同じ部屋に入れるのは敵意を隠しもしないことと同義。とはいえ、入室する前に二人ともボディチェックは済ませ、武器を持ち込んでいないのは確認済みである。
「お構いなく。なに、社会勉強に連れてきたに過ぎない。そちらもそうだろう?」
何も反応を示さない少女に代わってノーマンが説明し、琴羽の背後に立つ時幸達を見た。交渉の場にふさわしくないのは二人も同じ、ということか。万一武力沙汰になっても制圧できるよう拘束具は用意してきたが、交渉の礼儀をとって時幸達も武器らしい武器は所持していない。
緊張していることを悟られぬよう、時幸は顔を崩さず、その場に屹立していた。気配を探ると、早梛も存外堂々としているようで、胸中のみで安堵する。彼女もこの場に来る前に技術班に立ち寄り、小型武装を受け取っているはずだ。
「さて、さっきの若造にも言ったことだが、《機関》は我が《同盟》に所有権のある資産を隠し立てしている、ということでよろしいだろうか」
ずばり切り出したノーマンに、琴羽は平然と受け答えする。
「いえ、滅相もございません」
時幸を叱るときよりも1オクターヴ上の声だ。
「確かに、《機関》では駆除された《ディヴィジョン》の中から人工物を発見し、保管しております」
「ほう?」
ノーマンの眼が、怪しく輝く。
「ならば即刻渡していただこう。それとも、できない理由でもあるのかな」
「ええ、お渡しいたします。ですが……あなたのいう《同盟》の資産とやらは、いったい何なのですか?」
男は鼻を鳴らした。
「貴公らが知る必要はない。渡せば後は他人だ」
「そうですか。それは困りました」
そこで琴羽は……笑みを不敵なものへと変化させる。
「毎日《機関》には何十体もの死骸が運び込まれます。壁外の人工物を取り込んでいる場合も珍しくありません。我々が回収したもののうち、どれがあなたの言う失くしものなのか判別がつきません。どうか特徴を教えていただけないでしょうか」
ノーマンの眉が、僅かに動いた。些細な変化ではあったが、琴羽は見逃さない。
「……数日前、都市の中で駆除された死骸に含まれていたものだ」
「それだけでは特定できません。そもそも、なぜ都市内部と判るのです? 壁外で《メイジャー》に駆除されたかもしれません。……その場合、あなた方の財産はいまも外で積み上げられているでしょうけれど」
「いいや。間違いなく一度トウキョウ内に入った。……もっとも、いまは町の外にあるようだが」
時幸はとっさに視線だけで早梛を見た。彼女は無表情で、正面やや左にいる少女を見つめたままだ。密かに感嘆する。交渉の席に立つのは初めてのはずだが、思っていたよりずっと、動揺を表に出さないことに集中しているらしい。
ノーマンの言う「ギフト」が例の装置であることがこれで確定した。夏来は万一に備え、都市の地下ではなく、壁外にある《機関》の第一危険物取扱研究室で開封作業を行っている。地上からはあることさえ判らない、《機関》研究部直通の地下鉄でしか行き来できない秘密の地下室。外部の人間には、日本政府にさえ知らされていない。
それを、目の前の男は言い当ててみせた。……いや、落ち着かなければ。深呼吸も許されない状況だが、ポーカーフェイスを崩さぬよう注意を払う。
《薪の塔》だろうと《赤の帝国》だろうと、秘密結社はどこだって何がしか口外禁止の実験場を作っている。そして危険な実験は都市内部では行えない。そうなれば場所は都市の外、廃墟の地下か人工衛星の二択しかない。相手のブラフだとしても何らおかしくないのだ。
「……仰っている意味がわかりかねます。であれば、《ディヴィジョン》は未だ駆除されてはいないのでは?」
「いいや。一度短距離を往復したものの、一定期間都市内部で保管された後、地下道を通って都市外部に出された。……東南、70キロメートルといったところか」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。
もう疑いようがない。この男は、あの装置がいまどこにあるのか把握している。発信機の類が付いていないはずなのになぜ、というのはいまは考えないでおく。
「……もし仮に」
琴羽が静かに切り出した。短く命ずるような、いつも時幸に話しかけるときのトーンで。
「あなたの言うとおりの場所に我々の施設があったとして、そこに運び込まれたものが、果たしてあなた方のものだという証拠はあるのですか」
「遂に欲望を隠さなくなったな。この期に及んで奪い取れるとでも思っているのかね」
「いいえ? ただ、あなたに渡した後に他から権利を主張されて、面倒なことになるのが嫌なだけです」
「……」
「……」
しばし、両者の睨み合い。
と、そこで、視界の端に動くものがあり、《機関》側の三人はとっさにそちらに視線が向いた。
それまで部屋のインテリアのように微動だにしなかった少女が、カッカッカッと靴音を響かせて席に近づいてくる。そのままノーマンの横につくと、再び彫像のように停止の姿勢に入った。
「証明することはできない」
先に静寂を破ったのはノーマンだった。
「箱の中身を述べたところで、貴公らに確かめる術がないからだ。そして、中に何が入っていようと、貴公らには使いこなすことができない」
「ほう」
琴羽は目を細めた。
「では、あなた方には使いこなせると? いったい何なのです、あれは」
「答える必要はない」
「そう。では質問を変えましょう。……いったい誰のものなんです、あれは」
ノーマンの瞳に、初めて感情が灯った。驚きもあるだろうが、むしろ感心しているように、数回瞬きを行う。
「……なるほど。この国の研究者は優秀らしい」
シフォンのハンカチに皺ができるように、ノーマンは口元を緩めた。存外柔らかな表情だ……と思ったのも束の間、
「だが、あれの中身を知られるわけにも、奪われるわけにもいかない」
少女が両手を頭の上に被せ、椅子の影にしゃがみ込む。同時に、ノーマンの手には銃が出現していた。ボディチェックを通過しているにもかかわらず、しかも取り出した動きさえ見せなかった。
発砲。
琴羽の反射速度もなかなかのものだった。刹那、ローテーブルを蹴り上げて盾にし、銃弾を防ぐと同時に腰の得物を抜く。しかし既にノーマンはそちらにいない。射撃で琴羽の注意を引きつけ、その隙に椅子を乗り越えて早梛との距離を詰める。
しゃがみ込んだ少女の動きに注目していたため反応の遅れた早梛を、とっさに時幸が突き飛ばす。バランスを崩しかけた少年の肘を男が掴んだ。反対側の腕で掴み返し、技を掛けようとするも、不安定な姿勢から劣勢に立たされる。
男の踏み込みで僅かに身体が浮く。とてつもない力だ。しかも、相手には容赦がない。グリップで強かに少年の顎を殴りつけ、間髪入れずに横っ面を張り倒し、腕を捻って背中から体重を掛ける。思わず苦悶の声が漏れた。
「……交渉の続きといこうか」
少年の腕をいまにも折ろうかというのに涼しい声で、ノーマンは話しかける。
「サナ、私の後ろへ」
短く指示を出す。早梛は素直に従ったが、左やや背後に注意を向けている。
ソファ裏の少女を捕らえて人質交換……は無理だ。不審な動きをすればたちまち時幸の身体が破壊されてしまうというのもあるが、銃口がもう一つ、こちらを向いていた。
ソファの死角から冷淡に見つめる機械の瞳。少女の手にすっぽりと収まるような小型拳銃だが、牽制には充分だ。
「お、俺に構わず」
余計なことは言うな、と言わんばかりにノーマンが時幸の首に手を回す。
「しくったな、ノーマン。そいつに人質の価値はない」
本当に使い捨ての人材だ、とでも言いたげな侮蔑の笑みを向ける。
「……であれば、こいつを五体満足で返してやる必要もないな」
対する男はさして気を悪くしたわけでもなく、徐々に腕を狭めていく。時幸の肩甲骨が軋みを上げた。悲鳴を洩らすまいと必死に歯を食いしばる。ノーマンは手慣れた風で、まるでブリーダーが不良犬を躾けるように淡々と時幸をいたぶっている。
「やめて!」
早梛は考えを巡らした。いくら時幸が、琴羽の言う「人質の価値がない」人間だとしても、目の前で傷つけられるのをのうのうと見ていることなんてできない。自分の手持ちの武器、少女の照準、取りえる手段を幾つか挙げ、同時に消していく。……無謀だが、いまはこれしかない。
「琴羽さん、援護を」
返事を待たず、早梛は上司の背後から滑り出ると体勢を低く保って三歩ノーマンに近づいた。近づきつつ、左手を前方に突き出した。未だ距離は離れており、その手は届かない。……飽くまで、手は。
彼女の左腕に巻かれたバングル……のように見える薄い金属板の帯が、遠心力で解けて一枚の細い金属片になる。伸びきったその先端が、男の手の甲に突き刺さった。思わず手が開いて拳銃を取り落とす。
同時に、家具を抉る獰猛な破壊音。早梛が飛び出した直後、琴羽は少女に向けて隠し持っていたJ・Rを振っていた。今回用意していたのは対人用の丁ではなく、小型の《ディヴィジョン》制圧用の丙だ。戦闘力が未知数のノーマンを警戒した故の備えだったが、それが功を奏した。
果たして、鞭のように撓った鎖は少女が隠れていたソファを直撃。猛獣を縛るような太さと重さを持った金属の塊が、内部の骨組みを凹ませ、表面の革をびりびり裂いて詰まっていた綿がポップコーンのようにそこら中に弾け飛んだ。少女はやむなく武器を捨てて飛び退る。あまりの破壊の惨状に怯えたのか、手を祈る形にギュッと握り締めた。
「Stop!」
鋭い声が響き渡り、少女はそちらの方を向きながら着地した。
ノーマンが早梛の右腕を掴んでいる。左腕から伸びる金属板は依然として手の甲を突き破っており、暗い色の血が滴っていた。
手を貫かれて力が緩んだ隙に、時幸は関節を外して脱出していた。しかし敵もさるもの、すぐさま今度は早梛の確保へと動きだす。悪いことに、ノーマンの手に刺さった金属板は早梛の手首に繋がっているため、思うように距離を開けられない。男が眼前に迫り、庇うように翳した反対側の腕を掴まれた。……しかしそこで、ノーマンの動きが停止する。
「Don`t move, or……suicide.」
早梛はノーマンから意識を離さず、少女に向けて短く言う。通じるか少し心配だったのは内緒だ。そうでなくても緊張して、すぐにぼろが出てしまいそうだ。けれど、しくじったら文字どおり命がない。
反対側の腕にもまた、別の意匠の腕輪が嵌められていた。こちらは機械が内蔵されていて、一見シンプルな腕時計のようだ。が、文字盤をよく見ると、数字が一秒ずつ減っている。
ノーマンはその正体にすぐさま思い至った。早梛のたどたどしい英語で、それは確信に変わる。――小型爆弾か。大胆だが無謀な一手に、僅かに眉を顰める。爆発の規模は不明だが、この距離では確実にノーマンは道連れにされるだろう。
「私も外れです。……残念でしたね。人質にするのなら、初めから琴羽さんを狙うべきだった」
「……」
褪せた灰色の瞳が、少女の顔の上を往復する。
しばしの間、誰もが静止。
氷を割るように緊迫した空気を破ったのは、号砲のように鳴り渡る開扉音だった。
先ほどの発砲音を聞いて駆けつけたのだろう、別室で待機していた一室のメンバーが続々と部屋に乗り込んできた。手に手に持った制圧用の武器を、ノーマンと少女に向けている。
「Stay, Sissy.」
ノーマンが静かに言い放つ。シシー、少女の名前だろう。手を握って身を固くしていた本人は、意外なことを言われたかのように目を瞬いた。膠着状態にあるノーマンと早梛を見比べ、渋々といった様子で手を解く。
掴まれていた腕が解放され、倒れ込むまいと早梛は二、三歩後退った。すかさず琴羽が受け止める。
一同が挙動を見つめる中、ノーマンは刺さったままだった金属板を無造作に引き抜いた。血がどぱどぱと出て部屋のカーペットに浸み込んでいく。もう一方の手で無理やり圧迫する。手に穴が開いているのだから、痛くないわけがない。だというのに、大したことはない、まるで蠅が止まっただけだとでも言わんばかりの無表情でこちらを見下ろしている。
「この場でことを進めるのは容易い。だが、そうまでして話し合いに拘る必要もない。この場は引くとしよう」
少女が駆け寄って、やはりいつの間にか用意していた包帯で手早く応急処置を施す。出血が収まると、きっと早梛の方に顔を向けた。憎しみを隠そうとしないその表情に、早梛も毅然と睨み返す。
一室の連中が武器を構える合間をすたすたと抜けて、言葉に偽りなくノーマンと少女は退室した。コツコツという平たい足音と、カツカツという硬い靴音が次第に遠ざかっていく。
「……主任、ご無事ですか⁉」
足音が聞こえなくなるや否や、一室のメンバーが蒼い顔で駆け寄ってきた。
「いい、全員大したことない。それより……事前の身体検査では、武器は持ち込んでいなかったはずだよな。どこに隠し持ってた? ボディチェックは裸で行うはずだろ?」
一室の職員が顔を見合わせる。
「はい。間違いなく実施しました。少女の方は女性職員が。上から下まで隈なく調べましたが、問題はなかったはずなんです。コートの内ポケットに隠していた可能性もありません」
「コートの裏にはなかった。じゃあ、中はどうだ」
「それもありません。見た目のわりに重量はありましたが、武器を隠している感触はありませんでした」
「布地を開きはしなかったんだな」
「それは……」
職員の顔が曇り、唇がわなわなと震える。
「主任、まさか、我々の怠慢だっていうんですか⁉」
「だが、実際持ち込まれてるだろうが。何らかの手段で出し抜いて、おまえ達は見破れなかった、そう考えるのが自然だろう」
「そんな! 我々は徹底的に調べました! 隠し持てる場所なんてありませんでした!」
担当者が口々に断言する。
「それだけじゃありません。空港での入国検査でも武器は一切持ち込んでいないことが確認されています。国内で調達したという記録もありません」
「入国審査……そういえば、一緒にいた少女のデータは?」
差し出された資料に目を通す。
「パスポートの記載はマチルダ=ルーズヴェルト、十一歳。四型の《調律の彼女》。空港でも今日の検査でも、結果は四型で間違いありません」
「妙だな」
「は……ですが、《機関》の血液検査は全型対応式で」
「そうじゃない。シシーはマチルダの愛称じゃない。偽名の可能性がある。まあ、奴らと日本の関係を考えれば素性を偽ってもおかしくはないが。武器を持ち込ませたことといい、一室の調査の笊具合がよく判ったな」
皮肉気味に付け加えると、再び抗議の声が上がる。琴羽自身、釈然としないところはあったが、自分は悪くない! の一点張りにいい加減、腹が立ち始めていたそのとき。
「そもそも出し抜いたというのが間違いなのでは?」
一人の職員の、静かだがよく通る声に、水を打ったように沈黙が訪れた。
「……どういうことだ」
「内通者がいたのではなくて? 協力者がいたのだとすれば、入国してから武器を調達するのも、検査を掻い潜るのも容易いでしょう。部屋の中に予め隠しておいたのかも」
「ちょ、仲間を疑う気か?」
別の職員が声を荒らげる。
「ありえない話じゃないでしょう。現にこの間、大規模な謀反があったばかりですし。それに、三年前の事件だって」
三年前。その単語が出た途端、重々しい空気が室内にいる全員に圧し掛かった。
現夜一期を謀殺した裏切り者は、まだ《機関》内部に潜伏している可能性がある。今回の件と関りがあるとはまだいえないが、ノーマンが装置の位置を言い当てたことからしても、内通者がいないとは言い切れない。先月、上層部の抜き打ちに近い形で離反者の大規模な検挙があったこともあり、皆懐疑的になっていた。
一室の職員が、疑心暗鬼でお互いを窺い始め……突然、けたたましいサイレンが天井近くのスピーカーから発せられ、室内の人間は全員浮足立つ。
「だ、大丈夫です‼」
小柄な少女が慌てて、腕に巻かれた装置を操作した。絞りを捻るようにサイレンが小さくなり、やがて鳴り止む。
「サナ、それ……」
琴羽が少女の腕を取り上げ、手首に巻いた装置を確認する。画面の数字は00を示していた。
「技術班が開発した新端末です。しょっちゅう迷子になること話したら、地図機能が充実してるからモニターしてほしいって。設備との連動機能もついてて、タイマーで操作する方法も教えてもらったんです。見た目もゴツイし、いけるかなぁって思ったんですけど……うまくごまかせて、よかった」
「よかった、じゃありません」
一つの声が、部屋に響いた。
それまで黙っていた時幸が、つかつかと早梛に歩み寄る。
「……もしも向こうが引かなかったらどうなっていたか、考えなかったんですか」
おそるおそる見上げると、興奮しながらも悲痛な時幸の顔がある。普段の冷静で温厚な彼とは大違いだ。
ノーマンが爆弾と誤認して引くのが早梛の目論見であり、事実そうなった。しかしそれは結果論であって、うまくいくという確証は低かった。
確かに、ノーマンが引かなかったとしてもサイレンが鳴り、その隙を突いての行動がとれたかもしれない。しかし、サイレンが鳴ると知っていたのは早梛だけであり、時幸達との連携が期待できるものではなかった。そして連携できなければ、たとえ隙ができたとしても、あの状況を早梛一人で切り抜けられたとは到底考えられない。もしも時計もサイレンもハッタリだとばれたら、相手がさらに武器を隠し持っていたら。割の低い、どころか、明らかに無謀な賭けだった。
「……そうだね。ごめん」
時幸はふるふると首を振った。早梛を見る眼差しは、怒りというより失望の色を宿している。
「……そもそも、なんで勝手な行動をとったんですか。琴羽さんの指示に従っていれば、もっといい策だってあったはずなのに」
「……あのまま誰かが人質のままだったら、応援が来ても無傷じゃ済まなかった」
「だったら俺が人質であるべきだった。そのほうがまだやりようはありました。それを、あなたが考えなしな行動で状況を悪くしたんです。危なっかしいとは思っていましたけど、あんな無茶をする人だとは思いませんでした。捨て身で挑むわりに後先考えないとか、少しはこっちの迷惑を考えてください!」
その言葉が、胸に刺さる。申し訳なさよりも怒りが沸き起こった。
「それだと、時幸くんが危なかった。時幸くんが傷つくことを前提にした策なんて、とるわけにはいかない。私はとりたくない!」
「あなたは何もわかってない。交渉事でも戦闘でも、あなたが一番経験がないんですよ。だったら俺や琴羽さんの指示に従うようにと、いつも言ってるじゃないですか、なんでいつもいつも考えなしな行動で迷惑かけるんですか‼」
「だからって、犠牲が出ること前提の作戦なんて間違ってる。前にも言ったけど、それはしちゃいけない、考えちゃいけないの!」
蘇生能力のある時幸に「人質としての価値はない」。たとえ首の骨を折られたとしても《機関》に損失はない。半端に痛めつけられたとしても、最悪こちらで死なせれば無事な状態に戻る。……だが、だからといって時幸が自分を粗末にしていいことにはならない。そんなことは、早梛の中ではあってはならない。
「この間だって、《ディヴィジョン》に噛まれること前提で飛び出してったよね。噛まれれば血が入って相手は死ぬから。けど、はなから噛まれるために動くのは間違ってるよ! 噛まれるからいいや、死んでも生き返るからいいや。そんな考え方で、初めから戦わないで」
早梛の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。雫はみるみると成長し、黒目がちの眼に豊潤な艶を飾る。
「時幸くん、前に言ってたじゃん。『死ぬのは怖い、何回やっても慣れない』って。なら、死なずに済む方法を考えなきゃ駄目だよ」
時幸の能力は万能の力のようでいて、実質リスクが高い。彼の肉体は蘇生すればそれまでの傷の一切が再生される。本来手術が必要な臓器の欠損も、流した血も、どこかからか補填される。どこでもない、どこかからか。
それは摂理に反する現象だ。時幸の身体は蘇生する度「人間離れ」していく。死を繰り返す度に、時幸は少しずつ時幸ではなくなっていく。けして安易に使っていい代物ではないはずなのだ。
いまにも泣き出しそうな、どころか半分泣いている早梛を見て、時幸の顔に躊躇いが浮かんだ。だが、元は彼女の無茶が招いたことだという思いが、次の言葉を止めてくれない。
「……だからといって、あなたが俺の代わりに飛び出したことは最善でも何でもない。むしろ、前に出たから俺達の策はいくつも駄目になった。そもそも、人に命を大事にと語っておいて自分が命を捨てるような行動に出るとか、あなたの言動は矛盾してます、わかってるんですか」
「私だって死ぬつもりはなかった! 私なりに生き延びることに頭を使ってた。安直に痛みを選択したりなんてしてない!」
「あたりまえです! 早梛さんの命に、次はないんですから。早梛さんは生き延びなくてはいけないんです」
「だからって、私を守るためにあなたが傷つくのは間違ってる!」
遂に、ふくよかな潤みが紅潮した頬を滴り落ちた。一度決壊した涙は次々連なって後に続く。
「そこまでだ。二人とも」
興奮して周りが見えなくなっていた二人に鎌首を擡げた鎖が伸び、文字どおり足を掬った。姿勢を崩した時幸を琴羽が、早梛を一室の職員が支えて引き離す。いつの間にかお互い、掴みかからんばかりに接近していたのだ。
「いいから少し落ち着け」
揺すられてさらに涙がぼろぼろ零れる。その向こうの、澄んだ視界の中で。
時幸は……痛ましげな顔で、こちらを見ていた。泣くのを堪え過ぎたせいで、いざ泣きたいのに涙が出ない。或いは、泣きたいのに、早梛が先に泣いたせいで泣けない。そんな、やりきれなさと後ろめたさと、諦めの入り混じった表情で。
ずっと向かい合っていたはずなのに、彼の顔を見ていなかった。
「……今回の件は、私にも反省すべきところがある。一度仕切り直すぞ」
「いえ。もういいです」
第三者の介入によって頭の血が冷えたのか。それとも、これ以上早梛と話していたくなかったのか。突き放すような口調で言い捨てると、琴羽の腕を振り解き、時幸は身を翻す。他の職員の制止も聞かず、無言のまま部屋を出ていった。
その背中を、見送って。
頭から真水を掛けられたように、感情が霧散していく。
「サナ……」
「……すみません。いまは、何も聞きたくありません」
早梛もまた、腕を振り解いた。
説教は聞きたくなかった。無謀な試みを行ったことも、自分が何を言ったかも、自覚している。わかりきっている。それでも訂正したくなかった。時幸が傷ついていいとは思わない、その気持ちに嘘を吐きたくない。
慰めも要らなかった。自分は慰められるべきではない。厳しい口調ではあったが、早梛を想って言ってくれた時幸を、散々傷つけてしまった。優しさを、踏み躙ってしまった。
言い争いたくなんてなかった。
やめたいのに、気持ちに反して、言葉はどんどん溢れ出てしまった。
痛い。辛い。言われた相手の方が辛いはずなのに。
この痛みを、相棒を続ける責任を負うとつい先日誓ったばかりだ。誓ったはずなのに。
*
拠点としているホテルの部屋で、適切な治療を済ませると、ノーマンはベッドの一つにどっかりと腰を下ろした。
「……まったく、日本人は野蛮だな」
大げさに肩を竦めてみせる。
少女の表情は浮かない。ようやく血の滲まなくなった包帯に覆われた手を見つめ、ぎちりと歯ぎしりしている。
「そう怖い顔をするな」
「ごめんなさい……私の反応が早ければ、怪我しないで済んだのに」
確かに彼女の能力であれば、傷を負わされる前に対処することができただろう。たとえ傷を負ったとして、その後爆破を無効化させることもできた。つまり、あの場を制圧するのはいとも容易かった。……だが、ノーマンの選択は撤退だった。
「そうなれば一瞬で正体を見破られていたさ。こんなところで明かしては、今後の活動が難しくなる。それに、あのまま場を制圧したとして、奴らが大人しく『ギフト』を渡すとも思えなかったからな」
こちらを上目遣いで見上げる。何か言いたげな様子だった。
「シシー」
深く息を吐く。
「……わかってる」
少女はふいと顔を逸らした。
「……『ギフト』の現在地は?」
「移動してない」
「そうか。空港か海に近づいたら報告しなさい。ナゴヤやオオサカに持ち出されたら厄介だからな」
「はい」
依然として表情に怒りと悔しさを貼りつけた少女の気を紛らわそうと、話題を変える。
「傷が治るまで観光でもするかね。この近辺に見るものがあるとは思えないが、少し行けばアサクサやウエノがある」
子ども特有の大きな目が意外そうに瞬く。我ながら珍しい提案だったな、と内心独りごちた。
「じゃあ……」
迷うように、視線が泳ぐ。
「なんだね」
「……おみやげ、買ってもいい?」
「なんだ、そんなことか。好きにすればいい」
ぱっと笑みが広がり、「何がいいか訊いてみる!」と鞄を引っ掴み、端末を取り出す。思いがけない休暇に胸を弾ませる姿は、十一歳になったばかりの少女そのままだ。時差も考慮せずに電話を掛けるが、相手はすぐに応答したらしい。楽しげな様子が伝わってくる。
そういえば、妻は旅行が好きだったな、と、らしくない考えが浮かんだ。初めて一緒に旅をしたのはスペインだったか。お腹の中で娘が息をしていないと知った後、彼女は長らく魂の抜けたような状態だった。仕事に同伴させる名目で半ば強引に連れ出して、ようやく、感情を徐々に取り戻していったのだ。もう随分と昔のことだな、と、思いを馳せる。
会話が弾んでいるのか、電話はなかなか終わりそうにない。我慢強い子だが、このところずっと仕事で拘束しすぎている。たまには羽目を外すのもいいだろう。しばしの平和なひとときだ……この都市にとっての。
「大人しく渡せばよかったものの……あれが最後の慈悲だったというのにな」
交渉が決裂した際の許可は、既にとってある。
標的を変更、数日後には、この東日本一区がミラノ区画と同じ運命を辿ることになる。
得体の知れないものだと積極的に手放すことを期待していたが、どのようにしてか、奴らは「ギフト」の中身を知っている様子だった。ミラノ区画との関連性にもそろそろ感づかれる頃合だ。実験的試みだったとはいえ、“メイフライ”の撃破が思った以上に早かったことには落胆を禁じ得ない。
一方で、あれがどのようにしてクラスⅠを都市に顕現させるものなのか、奴らには最後まで判るまい。あの情報を知っている者はごく限られているだろうし、さらに応用する手段を発見したのは《同盟》が一番乗りのはずだ。《機関》には、前触れなく出現した敵に慄き、無力を嘆きながら潰れていってもらうとしよう。
ノーマンは一人、酷薄な笑みを浮かべた。




