*第二章*
天井が高く、吹き抜けになった中空を幾つもの通路が横切り、白衣を着た男女が忙しなく立ち働いている。床には様々な機材が所狭しとばかりに並び、机の上にはきっちり整頓されたファイルと乱雑に積まれた資料がおしくらまんじゅう、起動しっぱなしのパソコンの上を立体映像が漂っている。
時幸は検査や治療で慣れていたが、早梛は研究棟の中枢に足を踏み入れたのは初めてだった。物珍しげに周囲を眺めている。
「あまり見ないように。要らぬ誤解を受けますから」
「ご、ごめん」
特務部と研究部は設立されたコンセプトなどから対立関係にある。さすがに戦場で足を引っ張り合うことはないが、研究者と現場に立つエージェントの言い争いも、無理難題な要望に対する苦情も珍しくない。それも、《ディヴィジョン》という規格外な敵に立ち向かう余裕のなさのせいかもしれないが。
「おっまたせ~」
と、二人をわざわざ居心地の悪いところに呼びだした人物が近づいてきた。
夏来が駆け寄ってくる、春の野の花のような笑顔で。白衣が血と臓物塗れで変色しているため、対比もあって実に猟奇的な光景だ。さすがの時幸も思わず後退る。早梛は口元を抑えて顔を背けた。
「いや~、ほんとすごいのよ、何が何だかわからないのに興奮するの。まるで天御柱ね。あ、ナンジャモンジャってことよ、知ってる?」
変なテンションでわけのわからないことをのたまいながら、夏来は軽やかに踊りだす。変人揃いの研究部では日常的に見られる光景だが、動く度に乾ききっていない血と臓物の臭いが飛び散るので正直すぐ止めてほしい。
「それで、ご用件は何ですか」
「せっかちねえ。そういうとこマコそっくりよ。最近ますますカリカリしてるみたいだけど」
ぷう、と頬を膨らませる。
夏来と琴羽の仲が悪いのは《機関》内部でも知れ渡っている。同時期に《機関》に加入し、片や特務部の過酷な任務の中で己を磨き、片や研究部で何不自由ない環境を整えられて研究に没頭。思考も価値観も時幸の扱いも、何もかも対照的な二人。それでいてちょくちょく言い争いをしているわりにけっこういい関係を築いている辺り、お互いを心の底から嫌っているわけではなさそうだが。
「どーせ彼氏が九州に行ってて男日照りしてるから欲求不満になってるんだわ。まあ九州は素敵な女性が多いっていうし、これを機に悪い夢も醒めるかもね~」
訂正。いまの発言を琴羽が聞いたら戦争は避けられまい。
「⁉ 琴羽さん、お付き合いしてる人がいるんですか」
早梛が目を瞬かせる。驚きもあるだろうが、それだけではなさそうだ。早梛も女の子だし、そういうことに興味があるのだろう。そう思うと、何となく胸がさざめいた。
「うん。お試し付き合いだけどね。職場内恋愛。ほら、総帥がマカオから帰ってくるついでに九州合併の視察に行ってるでしょ。それに同行してるの。出向した連中は直接帰ってきた奴もいるけど、まだ大多数あっちだからね」
それでどこもてんてこ舞いよ、と実際に踊りながら言う。
「なら手短にお願いします。あなたも忙しいでしょうから」
「そうだったわ~、じゃあ来て頂戴」
とそこで、夏来の顔つきが変わる。
「見せたいものがあるの」
通されたのは、中央に人間大の寝台が置いてあるだけの小部屋だった。何のための部屋なのかは敢えて考えないでおく。
「これよ」
夏来が寝台の上に置いたのは、黒光りする立方だった。重箱くらいの大きさで、おそらく金属製だろう。
「何だと思う、これ?」
「……箱のように見えますが、蓋の溶接跡が見られませんね」
「ええ、そうよ。箱の中に何かを詰めて蓋をし、溶接してさらに何重にもコーティングしてある。再び開けることを想定していない、完全に密閉された容器」
「何のために?」
「不明よ。この間あなた達に取ってきてもらった二型を解剖したら、胃の内容物から出てきたの」
驚き、早梛と顔を見合わす。再び立方に向き直る。
明らかに「人工物」であるこれが、《ディヴィジョン》から出てきた意味。それはもしかして……。
「……爆弾?」
「かもしれないわね」
顔の熱がさーっと引いていくのが自分でも判った。
「見た目損傷なし、故意に仕組まれたものとみて間違いないわ」
「中身は⁉ 判らないんですか?」
夏来は首を振る。
「特殊な素材が使われてて、スキャンがうまくいかないの。胃の中で溶けなかったのもそのせいね。無理やり抉じ開けたところで、ほんとに爆弾ならその刺激で爆発してしまうかもしれない。わたくし達にはいまのところ手立てがないわ」
「爆弾だとしたら……いつ爆発してもおかしくないですね。しかも爆発の規模も判らない」
「そう。誰がどこに送りつけたものなのかさえ判らない。“シェイプレスピジョン”は二型の“融合”の力を発揮するために、積極的に異なる因子を持つ《ディヴィジョン》を取り込んで自分の糧にするわ。だから、元は何に仕込まれていたものなのかはっきりしない。引き続き分析中だけど、何の《ディヴィジョン》に仕込まれていたのか判らない以上、目的地はどこか、どうやってそこまで運ぶつもりだったのかも判明しない。確実なのは、どんな方法を使ったにせよ、《ディヴィジョン》を利用してまで送りつけたいってことは、何か後ろ暗い目論見があるってこと」
《ディヴィジョン》は人間にはけっして従わない。たとえ卵から孵したとしても懐かない。奴らは一見独立した生物のように見えるがその実、【魔女】の端末なのだ。故に、大元のクラスⅠに【魔女】が与えた「一なる命題」にのみ遵守する。
反面、【魔女】が与えた命題を含め、餌となる下等種の分布、モデルとなった野生動物の本能など、行動パターンは多種多様に渡る。習性を理解していれば、簡単な誘導を行うことはできる。……もっとも、人間に利用されていると自覚できないほど知能が低いことと、「一なる命題」に違反しないことの二点を満たさなくてはならないため、本当に単純な誘導にしか引っかからないが。
とにかく、爆弾にしろ、機密文書にしろ、《ディヴィジョン》に仕込まれているなど事情を知らなければまず思いつかない。そしてそれはどちらにしろ、人間から人間への攻撃ないし受け渡しということになる。
「【魔女】なら仕込みも目的地へ到達させるのも容易いだろうけど、こんな回りくどいことをする必要がない。クラスⅠを生み出して運搬させる方が合理的よ」
「あの、いいでしょうか」
早梛が小さく手を上げる。
「沢村さん達から聞いたんですけど……クラスⅠを生み出すと、【魔女】の身体にも負担があるんでしょう? なら、こういう手段を使ってでも温存しときたいって思う人もいるんじゃないんでしょうか」
「そうねぇ。方法と動機が判明していない以上、可能性はゼロではないわ。けど、わざわざこんな方法を選ぶのと、クラスⅠを生み出すのとじゃ、後者の方がてっとり早いし遥かに確実だわ。確かに【魔女】にとっては大なり小なり負担だけど、文字どおり自分の一部だから、命令は絶対遵守かつ遂行する。途中で周囲の組織に討伐されて予定が狂うリスクも少ない。それに、クラスⅠといえどピンキリだしね」
ち、ち、ち、と指を振る。
「国を跨いで移動させたり、物理法則に反する破壊力を持たせたり、広範囲に渡る効果を発動させたり、とかね。そういう欲張りな個体を作ろうとすれば当然、それに見合った代償として肉体が持ってかれる。けど、軽い用事なら見た目一週間くらい若返るだけでそれなりの大きさのクラスⅠは作れる。クラスⅡ以下と明確な差があるとはいえ、あなたが思っているほど強大な存在でも、稀な存在でもないのよ。……まあ、どっちにしろ身体が縮むことに変わりないし、だったら個体数を絞ってその分強力な《ディヴィジョン》を作ろうとする【魔女】もいる。性格とか状況次第ね」
そこでなぜか、夏来は時幸の方をちらりと見た。何か言いかねているようだが、結局、彼女は口にしなかった。
「でも、今回の件は【魔女】が仕組んだものとは思えない」
振った指を、そのまま顎に添える。
「確かに、一度生み出した《ディヴィジョン》に追加の命令を出すことはできなくても、絶対的な味方として支配することはできるし、何より【魔女】以上に【眷属】の性質を理解している者はいないわ。でもこのやり方はあまりにも確実性がない。現に、こうしておそらく目的地とは違う場所で回収されている。素材の出所からどの【魔女】なのか、いまどこにいるのか足がつくリスクがある方法を敢えて選ぶとは考えにくいわ。クラスⅠを使って目立ちたくなかったのだとしても、【魔女】ならそもそも他にやりようはいくらでもある。あまりにお粗末なのよ」
「その盲点を突いてきたのかも。まさか【魔女】が……っていう」
早梛の意見を、夏来は否定する。
「ないわ。人類側の組織というより、他の【魔女】に居場所がばれることを恐れてね。だから【魔女】は強大な力を持ってはいても、表立っては動かないのよ。【第二魔女】の二の舞になることは避けたいでしょうし」
「【第二魔女】っていうと……」
「ドロシー。アメリカの【魔女】。四年前、ユキくんのお母さんに殺されたわ」
「……!」
【第一魔女】。他の因子の干渉を受けず、他の因子を一方的に殲滅できる一型因子の太源。実の息子にすべての《ディヴィジョン》を死滅させる性質と自らの角膜を与え、姿を消した後も世界中で暗躍を続ける女。
「他の【魔女】も大体同じね。おそらく誰もが彼女を恐れている。一応【第四魔女】とだけは友好的なようだけど、それも一方的な関係かもね」
それでね、と夏来は、時幸に立方を示した。
「わたくし達は、これの中身を早急に知る必要があるわ。爆弾にしろそうじゃないにしろ、誰かが故意に作成し、何かを意図して《ディヴィジョン》に仕込んだものに間違いはない。それを知らなくては対処のしようもない」
「なるほど。それで俺が呼ばれたわけですか」
「ええ」
早梛は不思議そうに時幸を見上げた。
「これの中身を、触れることなく知ることのできる人物に心当たりがあるんです」
運搬中に爆発しないといいんですが、と呟くと、本気と思ったのか、少女はぶるりと震える。
時幸は微かに笑った。ちょうど身を翻したところだったので、早梛には見えなかった。
*
窓の外ではいままさに、飛行機が離陸するところだった。黒光りする特殊な装甲に鎧われ、幾つもの砲を携えた武装飛行機は、その重量の分乗客数が限られる。補給もできず不安定な空上では長期戦も不向きで、長い距離を飛ぶこともできない。パイロットが失われることも珍しくなく、年々航空券の価格は上昇している。それでも渡航を希望する人間は後を絶たず、非合法の業者が横行する。
助走を始めた鉄の乗り物を、少女は興味深そうに眺めていた。彼女は感情を表に出さない訓練の真っ最中で、いまも傍から見たら普段とさして変わらないように見えるのだが、内心ではわくわくと興奮していた。
移動という点に関しては、彼女はいままで一度だって不自由することがなかった。しかし、だからこそ、自分にはないもの、要らないものにこそ憧れの気持ちがあった。武骨な機体や仰々しい空港の警備は、車椅子や義足の子どもをかっこいいと思うのと同じように、彼女に機能美への称賛と純粋な好奇心を抱かせた。
最近、わざわざお金と労力をかけて長旅をするようになったのも、不便ではあるが、真新しい刺激でもあった。何より彼女は旅自体には全く恐怖していなかった。彼女が乗る飛行機は《ディヴィジョン》による襲撃を受けることはないし、万が一墜落しても死ぬことはない。
故にまっさらな気持ちで、搭乗の時間をいまかいまかと待ち望むことができた。
「……なんだと」
そんな彼女をよそに、少し離れた場所で電話していた男が、やや焦った声を上げる。数日かかったが正規の航空券を手に入れ、あとはもう出発するだけのはずだ。目的地に着いてからがむしろ本番で、それだけが唯一の気がかりだった。
「《機関》に確保された? なぜもっと早くに……いや、そうか、日本はすべて奴らの管轄か……ああ、わかってる。あとはこちらで対処する」
電話を終えた男が彼女を呼び、窓の傍を離れて近くに向かう。
「シシー。どうやらギフトを『敵』に奪われた。適当な者を送り込んで取り返させろ」
静かに頷く。
次に出発する飛行機の行き先が、電光掲示板に表示されている。
SHIN‐NARITA・JAPAN‐EAST‐AREA:1。
*
「ここ、だよね……」
時幸から渡されたメモと、門札の文字を見比べる。
早梛の腕の中では、件の装置が、幾重にも緩衝材と袱紗に包まれた状態で抱えられている。この装置の正体を探れるという人物の屋敷は、どうやらここなのだが。
簡易的な地図と、相手の名前が書かれたメモを見返す。「菊織」とある。ところが、門に掛った表札は「続岩」。《機関》内部ではまだ迷いはするものの、早梛は地図が読めない類の方向音痴ではない。ここは大人しく時幸を待つべきだろうか。彼はいま、近隣の駐車場を探している。
外出する旨を上司に報告し、二人が向かったのは車庫だった。何をするのかと見ていると、なんと時幸が運転する、と言われて初めは戸惑った。もちろん彼は十五歳で、四輪運転免許は持っていない。だが本人曰く、《機関》のエージェントのライセンスは運転免許証や危険物取扱許可証も兼ねているとのことだった。相当する講義や実習は受けているから問題ない、車も半自動運転(完全自動運転だと緊急時に対処できないため)なので心配いらない、と言われはしたが、そうはいっても不安は残る。
事故を起こすかどうかもそうだが、警察に見咎められたらどうするのか。《機関》のライセンスを見せれば納得しなくても通してくれるかもしれないが、確実に好くない印象を与えるだろう。万が一装置の存在がばれて、町中に危険物を持ち込んだとパニックになったらと思うと、極力目立たないようにしたいと思うのも無理はなかった。
「い、いつも運転して向かってるの?」
「いえ、普段は地下鉄と歩きです。けど、本当に爆発物だった場合のことを考えると、今回は車の方が一般の被害は少なくて済むでしょう。嫌なら俺一人で行きますが」
と言われて、結局助手席に乗り込んだものの、車中ではお互い一言も話さなかった。
「一回りして停められる場所を探してきます。先ほど電話してから四十分経ってますし、もうお帰りになられている頃でしょうから、早梛さんは先に向かっていてください」
と、途中で早梛と装置は下ろされ、さして歩くことなく地図上の場所に辿り着いた。だが、ここが目的の場所であるという確認が取れず、入れないでいる。
と、そこで。
ひょこりと、門脇から顔が飛び出した。
「あ、あの、その……こんにちは」
突然のことに狼狽えはしたものの、引き攣った笑みを作って対処する。
早梛と同年代ほどの年若い女性だ。爽やかな薄緑のブラウスやデニムのスキニーから覗く手足はスレンダーで、均整の取れた体格をしている。背の低い早梛には少し羨ましい。艶やかな黒のショートヘアが愛らしく、毛先はカールしていて、小さめの顔を縁取っていた。大きく円らな瞳がチャーミングだ。
「あの……こちらのお宅のお嬢さんですか」
尋ねるが、返答はない。捜し物でもするかのように、落ち着かなげにうろうろと左右を見ている。相手は早梛よりも背が高いので、視界に入っていないのかと思い、少し大きめの声で自己紹介した。
「あのっ、《機関》零室の神橋と申します。一応、アポは取ってあるはずですが……」
しかし、相手は一向にこちらに顔を向けず、なおも周囲を見回すのみだ。
「あの! ここです、ここ!」
もしかしてからかっているのか。じれったくなり、軽く腕に触れる。
と、相手はびくりと肩を震わせ、やっとこちらを見た。まるで早梛がいることにいま気づいたかのように目を見開き、さっと身を引いた。
堂々としていればモデルを務めていても不思議ではないほどきれいな女の子だったが、身体を縮こまらせ、困り眉で早梛を睨む姿はいかにも怯えた小動物といった様子だ。
「お約束している《機関》の者です。中に入れていただいてもいいですか」
努めて平静に言ったつもりだったが、相手は困惑気に視線を彷徨わせ、ぱっと門の内側に引っ込んでしまった。
「どうしよう……」
時幸はまだ来そうにないし、ここにいても埒が明かない。
「すみません、お邪魔します」
一礼して、門を潜る。
正面は石畳で舗装され、大きな屋敷に続いていた。その石畳の上を、ギャルソンが竹箒で掃いているところだった。その後ろに隠れて先ほどの人物が、怯えと恐怖の入り混じった表情を早梛に向けている。
「どうされましたか、悠さん」
糊の利いたシャツに漆黒のエプロンとパンツ、臙脂色のネクタイを締めた背の高い男は、掃除の手を止めずに背後を見遣り、視線を追って早梛に気づいた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
今度は向こうから挨拶され、こちらも返すが、けっこうシュールな光景に顔がやや引き攣る。なぜこんなごてごての日本家屋の庭先にギャルソンが? いや、日本建築だからといって、何も住人が必ずしも和装を身に纏わなくてはならないわけではないが。
「初めまして。……うちの者に何か御用ですか」
完璧無比な対応で返す。さすがギャルソン、接客慣れしている。
「あ……あの、私、《機関》の神橋と申します。今日はその……」
「《機関》? あの、兄に何か」
「え? いえ、その……」
会話がうまく噛み合わず、言い淀む早梛に、ようやく助け船が来た。
「すみません、遅くなりました」
瞬間、先ほどの女性がギャルソンの影から飛び出し、一目散に門へ、そこから入ってきた時幸へと駆け寄った。
「お久しぶりです。悠さん」
悠と呼ばれた人物は答えない。しかしその顔には先ほど早梛に向けた不審の色は見られず、会えた喜びを表すかのように身体の前で素早く両手を動かしている。
すると、時幸も荷物を下に置き、話しながら、同じように両手を様々な形に動かした。一瞬、ヤバい宗教にでも嵌ったのかとぎょっとしたが、二人の様子を見て、ようやく早梛にも事情が察せられた。
「ユキくん!」
と、ギャルソンがこちらに駆け寄ってくる。
「すみません。史俊さん、まだお帰りになられていないんです」
「そうなんですか? まいったな……」
顎に手を当て考え込む時幸。ギャルソンは早梛に向き直り、にこりと笑った。
「すみません、ユキくん一人で来るとばかり思っていたので」
「いえ。こちらこそいきなりお邪魔して、ご迷惑ですよね」
「いえいえ。ぼくらも会うのを楽しみにしていましたから。ユキくんってば、一緒にお仕事される方をなかなか紹介に来てくれないでいましたからね」
「そ、それは、最近忙しくて、いずれご紹介しようかと……」
時幸はふいっと視線を逸らす。
「そういえば正職員昇格おめでとうございます。兄から聞きました」
「ありがとうございます」
「何かお祝いしないとですね。魚肉ソーセージとかで」
「結構です」
「好きでしょ、魚肉ソーセージ」
「いまはあまり」
「じゃあ何が好きなんです。あ、そちらのお嬢さんは……」
と、そこで何かに気がついたようだ。胸に手を当てて、改めて笑顔を早梛に向ける。
「申し遅れました。続岩榊と申します」
「あ、いえ、ご丁寧にありがとうございます。神橋早梛といいます」
榊が敬語で話すものだから、釣られてこちらも畏まってしまう。
「少し行ったところのカフェでアルバイトをしているので、よければ今度いらしてください」
「あ、ありがとうございます」
さなは わりびきけんを てにいれた!
「それでですね。史俊さん……そちらの悠さんのお祖父様なのですが、うちの父の代わりに寄り合いに出てもらってるんです。あとほんの少しで戻って来るはずなので、もう少々お待ちいただけますか」
「は、はい」
「すみません、わざわざ来ていただいたのに」
「いえ、こちらこそ、お忙しいのにすみません」
ぺこぺことお辞儀をする。
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」
榊はくすり、と笑った。そういえば先ほどから笑みしか浮かべていない。
「とはいえ、ただ待っているのも暇でしょうし……」
榊は掃き清めたばかりの石畳をちらりと見た。
「ユキくん、たしか学校では実力テストの時期でしたよね」
「はい。今日やっと全部終わって」
「そうですか。では最近鈍ってませんか? こっちもいまの時期試合がなくて、皆退屈してたところなんです」
「……そうですね。では、待たせていただいている間だけ」
存外嬉しそうに、腰に釣った拘束具を取り外す。
「お相手は誰ですか? 欅さん? 柾くん?」
榊は相変わらず笑顔のまま、無言だ。
「……」
「……」
「……いやいやいや」
「いやいやいや」
「なんで榊さんなんです。いじめじゃないですか」
「苦手分野を後回しにするのはよろしくないのでは」
「あっ、あー、新しい模型について相談されてるんでした!」
「いま下宿先ですよ」
「……」
助けを乞うように、早梛に目を向ける。ふと、先日早梛の訓練について口出しされたことを思い出す。燻っていた苛立ちがまた沸き起こってきた。
「……いいんじゃない、試合してもらえば。私の訓練にも付き合うつもりだったし」
「あれは……」
時幸は固まり、遂に観念した。
「……わかりました。お手柔らかに頼みます」
「ふふ」
榊はふんわりと笑った。入ってすぐこんな笑顔で案内してくれるギャルソンがいたなら、その店は大繁盛することだろう。
「ぼくが手加減できないことは御存じでしょう」
深く息を吸い込み、吐き出した瞬間、時幸は電光石火の早業でナイフを抜き放ち、榊目がけて投擲した。真っ先に迫ってきた顔面に向けての一本を箒の柄で弾き、続く二、三本を返した穂先で払い除ける。その間に時幸は走って距離を詰め、右足を軸にして半回転、背後から腕を伸ばす。その勢いを利用してJ・Rから一気に鎖が放出され、獲物に襲いかかる蛇のごとく榊の肩に迫る。
「ちっ」
「え?」
鎖を弾かれ、時幸は後方に跳び退って距離をとった。
「え、な、なにいまの⁉」
時幸の攻撃は榊の死角から狙ったものだった。にもかかわらず阻まれた。一連の様子をよそ見もせずに見ていたというのに、早梛には何が起こったのか理解できなかった。
榊の持つ一見何の変哲もない竹箒の穂先から紫がかった墨のようなものが溢れ出し、一瞬で膨れ上がって手のような形を作り上げ、時幸の鎖に逆に絡みつかんとしていた。
「背後からの奇襲なんて効きませんよ」
時幸に向き直った榊の持つ得物には、見間違いではなく、暗い色の靄が纏わりついている。相変わらずニコニコ笑っているが、その笑みは先ほどとは別種のものに変貌していた。早梛の背を悪寒が駆け巡る。
『榊の呪力。続岩家の人間は、武器に呪詛を込めて放つことができる』
と、目の前に端末の画面が翳された。SNSの文章作成画面に文字が打ち込まれ、早梛に現状を説明する。端末が引っ込められると同時に横を見ると悠が、続く文章を入力していた。
『私達の一族と同じように、榊の家も、古くからの血の呪いを受け継いでいる。科学ではまだ証明されていない超能力みたいなもの。日本ではたまに、そういった家系がいる』
「ええ……」
唐突にオカルティックな話をぶっ込まれ、早梛は狼狽する。表情で伝わったのか、さらに追加で表示された。
『《ディヴィジョン》が跋扈する世界だって、それまでの世界からすればおとぎ話みたいなものじゃない』
「……確かに」
生まれたときから《ディヴィジョン》が存在することがあたりまえだった早梛にとっては、《ディヴィジョン》がおらず、一般人の武器の所有が制限され、世界中の都市と行き来が可能だった世界は想像がつかない。
『それよりも』
と、再び顔の前に画面が差し出された。
『SNSのID教えて。いちいちめんどくさいし』
「あ……」
気まずげな様子に気づいたのだろう。再び、端末に文字を打ち込む。
『察しのとおり聾唖なんだ、私』
「ご、ごめん」
口に出してから、その言葉も届けられないことに気がついた。
これまで悠は一言も口に出していない。加えて、先ほど早梛が何か言っても構わず、至近距離に来てやっと気がついたような顔をした。手の動き、あれは手話だ。
『耳が聞こえないのは生まれつきだから、困ることはあっても哀しくはなかったな。声が出なくなったのは《調律の彼女》になった副作用だったから、しばらくは辛かったけど』
「《調律の彼女》の、副作用?」
悠は《調律の彼女》なのか。《ディヴィジョン》に生身で対抗できる《調律の彼女》には、その分デメリットも多いとは聞いている。同時に、彼女達が《調律の彼女》にならざるを得なかった、ということも。
と、軽い爆発音がして振り返る。
時幸が再度投げつけたナイフが黒い手に薙ぎ払われ、大げさなほど大きな音を立てて地に落ちた。鋼鉄製の刃が、焼け焦げたように煙を上げている。
「同じ手は効きませんってば。一撃で決めようと面倒臭がらず、真っ向からかかってきてくださいよ」
一定の距離を保ち続ける時幸に、焦れたように呼びかける。
「来ないならこっちから行きますよ」
榊は箒を両手で持ち、突きの構えをとった。目を瞑り、何か小声で呟き始める。
中距離は榊の間合いだ。かといって、長距離では黒い手に襲われる。時幸が取れる手段は一つ。
アレをやる気だ。早梛は居住まいを正し、試合を見守る。一回だけ見たことがある。この間、九岡に実演してもらった。身近にいた訓練官との実技だったが、現夜一期が編み出し、好んで使ったというその“奥義”に、早梛はひたすら見入ってしまった。
『ねえ、もっとお話しましょ』
相手をしてくれなくなった早梛を、悠が揺らすが、集中していて気がつかない。
時幸も覚悟を決めたのだろう。目を瞑り、短く息を吐き、――開くと同時に、駆けだした。鎖の残滓が銀色の尾を引き、まさしく放たれた矢のごとき速度で榊に向かう。
『おーい』
と、悠は腕に何か抱えていることに気づいたようで、袱紗に手を触れようとし、ようやく早梛も気がついた。
「って……だめえええええええぇぇぇぇぇ!」
中身は爆弾かもしれないのだ。思わず大声で制止し、全力で後退る。と、石畳に足がとられて危うく装置が手から離れそうになり、必死に空中で引き戻して抱え直したものの、滑って背後に大きく倒れ込む。
「早梛さん!」
「あ」
大声に振り向いた時幸がとっさに方向転換し、駆け寄ろうとする。が、榊の攻撃はすぐそこに迫っており、幾つもの黒い手に捕まれて転倒した。
「……いったぁ~い」
幸い、早梛は石畳に尻餅をつくに留まったが、それでも硬い石に勢いよくぶつけたダメージが腰全体を震わせる。大声の聞こえていなかった悠には何があったのかわからず、おろおろとこちらと時幸を見比べている。
「何事だ」
太く堂々とした、それでいて清くはっきりと響き渡る声がした。
早梛は目の前の、門を潜って入ってきたばかりの人を見た。一目見て老齢と判る、総白髪と顔に刻まれた皺。だというのに眼差しには鋭い光が宿り、まっすぐ伸びた背筋は樅か榎の大樹を思わせる。老いてなお矍鑠たり、という言葉はまさしくこういう人のためにあるのだろう。ひらりと着物の袖が揺れ、風に乗って杜若色を靡かせる。そこで気がついた。彼には、左腕がない。
「史俊さん」
箒に宿る呪詛を霧散させ、榊が呼びかける。
「おかえりなさい。お客様がいらしてます」
「聞いている。だが、これは……」
老人の視線が、早梛を射抜いた。本人はただ見知らぬ少女に目を向けただけかもしれないが、その眼差しだけで竦んでしまうような強い光があった。尻餅をついているみっともない姿勢であることも忘れ、固まってしまう。
視線が外れ、ようやく息が楽になった。老人は地面にもろに激突した時幸と、戸惑う孫娘を見比べている。
「……」
しばらくの間、誰も何も言えなかった。
東日本一区の中心部より西の郊外。続岩家の屋敷は広く、奥の母屋には榊が両親と多くの兄弟とともに暮らしている。その周りには下宿している親戚の住居や、武道場、武具をしまう土蔵などが点在している。以前早梛が暮らしていた屋敷もかなり広い日本家屋ではあったが、方向性は全く違う。続岩家は武芸に秀でた家柄なのだろう。……もっとも、それだけではないのは先ほど見たとおりなのだろうが。
門から入って向かって右奥に、こじんまりした離れがある。悠と祖父の史俊はここを間借りしているらしい。部屋はすべて畳敷きの和室で、窓の障子の向こうからは初夏の緑が透けていた。
「榊、悠を連れて向こうへ」
老人は二人を追い出すと、四方の襖と障子を閉めた。二人の前に腰を下ろす。
時幸はお手本のような正座での一礼を行った。早梛もそれに倣おうとするが、ぶつけたお尻が痛くて思わず顔が歪んでしまう。
「楽な姿勢でいなさい。きみには辛いだろう」
「すみません……」
はしたないが、横座りして、座布団の上に直にお尻が乗るようにする。これで随分楽になった。
「……久しいな。息災であったか」
「はい。おかげさまで」
当たり障りのない挨拶の定型文だが、ぎごちなく聞こえるのは気のせいだろうか。
ゆったりとしながらも泰然とした老人の前では、なるほど委縮してしまうのも道理だろう。しかし早梛は、傍から見ていて、それだけではないものを感じ取っていた。
時幸だけでなく……史俊老人の方も、なぜか、時幸との距離を測りかねているような。
「早梛さん」
「! はい」
名を呼ばれ、足を崩したままできるだけ背筋を伸ばす。
「はじめまして、神橋早梛と申します。ほ、本日は突然の訪問、誠に失礼いたします」
「カンバシ……」
老人は一瞬考え込むような顔をした。しかしそれはほんの僅かの間のことで、緊張していた早梛はそのことに気がつかない。
「いや、いい。……それで、今日はどのような用事だ」
時幸が史俊氏の前に件の装置を置き、粗方の事情を説明する。老人は深々と溜息を吐いた。
「申し訳ありません。あなたが【魔女】絡みの事情に関わりたがらないのは、こちらとしても重々承知の上です。ですが、お願いできるのはあなただけなんです」
よろしくお願いします、と、深々と頭を下げる。一般人には知らせていない【魔女】に関することを、既に知っているらしい。
「構わん。おまえも勤めだろう。だが……」
不意に老人が立ち上がり、障子戸に向き直る。一瞬追い出されるかと身構えたが、よく見ると隙間が空いている。開け放つと、案の定、榊と悠が覗き見ていて、老人は二人を再び追い払ってから元の位置へと戻った。
時幸が身を固くしたのが窺えた。早梛も固唾を呑んで、これから起こることを見守る。
静寂を裂く僅かな衣音。老爺が肩を回し、空の袖が舞い上がる。
それに、淡い蛍火のようなものが纏わりついている。光の粒が依り、波打ち、卵の中で雛鳥が鳴動するように小刻みに震えだす。
ふよふよと、徐々に輪郭が現れる。それは腕だ。五つの指と掌、前腕が繋がって、空の布地の下、老人の肩まで繋がっている。人の形をした、人のものとは思えない色をした、曖昧なカタマリ。それがふるふると、ゼラチンを掛けるように装置の上に覆い被さった。
早梛は息を飲んだ。先ほど榊が行った芸当を見ていなかったら、声を上げていたかもしれない。架空の腕はゆらゆらと揺れながら、泳ぐように色を変えていく。蒼白く、黄色く、淡紫に、濃緑に……。榊の武器に纏わりついていた視覚化された呪詛は、明らかに善くないものだった。これはそれに比べればかなり穏やかな動きと色合いで……だからこそ、危険だと感じた。
剥き出しの悪意ではない、砂糖衣にくるんだ害意でもない。方向性のない純粋な力の具現。地震のように、嵐のように、或いは黙示録の天使のように。愉しみも憐みもしない「現象」または「機構」そのもの。
これが行使できる謂れはない。だから、これが何を起こそうとも、そこに不思議はない。
それは、とても、恐ろしく、そして――。
「……はっ」
最後、一際激しく輝いた光の先で、よく見知った誰かを見た気がした。誰だったか確かめたかったが、あまりの眩しさに目を開けてはいられない。
「……あれ?」
目を開けたときには、蠢く腕も、眩い光も消え失せていて。相対的に暗く沈んだ和室と、虚しく垂れる衣の端と、静まり返った空気だけがあった。老人と時幸は、何事もなかったかのように平然としている。
やがて、老人が低く口を開いた。
「髪の毛だ」
「……は」
一瞬、時幸が呆けた顔をした。
「毛の束が入っている。おそらくは女のものだ。それ以外は入ってない」
「髪の毛……」
もしや危険物かもと大騒ぎし、あれほど大仰に鑑定してもらったにしては、あっさりとした結果に拍子抜けする。もちろん、誰のものなのか、何の意図で誰に宛てたものなのか依然として判明してはいないが、それは《機関》の領分だ。
「ありがとうございました。お手数をおかけして、申し訳ありませんでした」
形式に則った礼をするが、老人は時幸を見ようとはしない。
「……言われずとも、今後、このようなことは控えます。失礼しました」
早梛は二人の顔を見比べた。史俊氏は別に不機嫌そうには見えない。時幸の顔を見ようとはせずに彼方に目を遣ってはいるが、その横顔にはむしろ、寂しさややりきれなさが浮かんでいるように思えた。むしろ時幸の方が、会うのを避けているように、壁を作っているように見える。
そんな早梛の心情などいざ知らず、時幸は装置を抱え上げ、早梛に立ち上がるよう促してさっさと玄関側の襖を開ける。
榊と悠が転がり出てきた。
悠の持つ端末はアプリが起動されている。音声を瞬時に文章に変換するアプリのようだ。
「……何をやっとるんだ」
老人が呆れたように孫娘達を見遣った。
「……悠、おまえはこの件に関わるな」
ちらりと時幸を流し見る。意図を汲み取り、手話で通訳する。
悠は口元を尖らせ、大きくはっきりと動かした。
い、や、で、す。
老人は溜息を吐き、
「榊、おまえからも伝えておけ」
と、立ち上がって奥の部屋に消えていった。
*
早梛:確認するけど……はるかさんって、《調律の彼女》なんだよね。
悠:そうだよ。あと、悠でいい。
早梛:いや、年上だし……。
先ほど連絡先を交換したばかりのSNSを早速活用し、後部座席の二人は会話を続けている。
早梛:で、さっきの話だけど。《調律の彼女》になったことの、副作用って?
悠:それなら時幸くんに説明してもらって。私聞こえてないから遠慮しなくていいよ。
「時幸くん」
助手席にいる時幸に呼びかける。
「何ですか」
「悠さんの体質っていうか……《調律の彼女》になったことで、その」
「ああ、それですか」
一度、悠の方に顔を向ける。彼女は気にしないとでも言うかのように頷いた。
「以前少しお話ししたと思いますが、【魔女】は【眷属】に受け継がれる性質とは別に固有能力を持っています。そしてそれは、肉体のある部位に宿るとされています。その能力に関連して、《調律の彼女》になった際、稀に埋め込んだ対立因子が肉体機能をも阻害してしまうことがあるんです」
時幸は説明する。
「悠さんが襲われたのは六型でした。【第六魔女】の固有能力は声帯に起因します。彼女由来の因子を否定したことで、声帯機能をも損傷させてしまったんです」
「そんな……」
着信音がして、トーク画面が更新される。
悠:気にしてない。命があっただけよかったと思ってる。
「でも……」
悠:むしろおじい様みたいな異能がないから、菊織の家では恵まれてる方だよ。
悠の顔を見ると、明るい笑みを返した。
悠:菊織の血は、続岩家や他の家みたいに、同じ力が代々受け継がれるんじゃない。個人個人で違う力が発現するの。でも、力に目覚めなかった人は、その代わり聴覚や耳の器官に障害を持って生まれてくる。私みたいにね。
早梛は次にかけるべき言葉を失くした。異能を抱えて生きていくこと、異能を持たない代わりに障害と付き合っていくこと。どちらも、幸福とも正常ともいえないのではないか。拒むことはできず、選ぶことさえできず、生まれると同時に刻まれる呪い。そもそもそんなものがあるとも知らずに生きてきた早梛には、その重みは実感できない。故に、どんな言葉をかけようと薄っぺらく、勝手な思いになっているのではないか、と迷ってしまう。
そんな心境を察したのか、悠が笑顔で、軽く肩を叩いた。
悠:そんな気にしないで。私はその分、家族に恵まれたから。続岩家に比べたらずっと恵まれてるもの。
「榊さんち?」
呟き、慌てて同じ内容を送信する。
悠:続岩家は一族の中で最も呪詛の強い人が跡継ぎになるの。だからどの派閥も骨肉の争いが絶えないんだって。榊はけっこう有力らしいよ。次男だけど、お兄さんは血が薄かったから家を出て、いまは《機関》に就職して働いてる。会ったことある?
早梛:いえ、ありませんけど……。
悠:榊とは違って物腰の柔らかい紳士だよー。榊は呪いが濃いから、見るからに陰険で胡散臭そうでしょ? いい年してフリーターだし。
「ん? もしかしてぼくの話してます?」
「していないので前を向いて運転してください」
運転席を奪われたことをまだ気にしているのか、時幸の言葉は少し冷たい。
「そもそもどうしてお二方まで一緒にいるんですか」
「いまさら訊きます、それ?」
軽快にハンドルを操る。早梛にしても、正式に運転免許を取得しており、もし警察などに事情聴取されても何らやましいことのない榊に運転してもらうほうが安心できる。しかし時幸は、そういった早梛の心情を信用されていないと受け止めたらしく、諸々も含めて不機嫌だ。
そんな考えも早梛は知らず、そんなに運転したかったのか、やっぱり男の子だな、とぼんやり考えていた。
早梛:ところで、榊さんって……?
悠:《マイナー》だよ。資格を取って《ユニゾン》を組んでる。おじい様は反対してるけどね。……私は《調律の彼女》になって生きられたけど、お母さんたちが、死んじゃったから。
「‼」
悠は、家族共々襲われたということだろうか。気になったが、詳しく踏み込んではいけない気がした。
悠:屋敷もなくなっちゃったけど、続岩家に居候させてもらっていまは穏やかに暮らしてる。だからもう危ないことはしてほしくないって。四型の《調律の彼女》は日本では少ないから、普段から戦いに慣れておきたいのに。
悠の祖父の気持ちは理解できた。家族と折り合いのいいとはいえなかった早梛でさえ、喪失感に苛まれている。これ以上家族を失いたくないという悲愴はよくわかる。
同時に、その絆を、少しだけ羨ましく思った。彼女の家族はもう誰も残っていない。この人だけは失いたくないと、まだ思える二人を見て、胸の奥が、しゅん、と寂しくなった。
悠:でもやめる気はない。私が戦わないことで、他の人が傷つくのは嫌だから。それに榊もいるし。陰険で何考えてるかわからなくて顔はいいけど恋人にしたくない男ナンバーワンだけど、腕は立つしね。
先ほどから、なぜか榊に対してのみ悪口のキレがいいというか、躊躇いがない。彼女の事情や家のこと云々よりもとっつきやすく思って、早梛はその話題を選択する。
早梛:相棒じゃないんですか。
悠:まあね。でも遠慮はないよ。さなと時幸くんだってそういうもんじゃないの?
その言葉に、胸を突かれる。自分は時幸の相棒だ。けれどそれはそう決められただけで、早梛の意志でも時幸の意志でもない。早梛としては嫌々やっているつもりはけしてない。けれど、時幸は? 早梛は果たして、最良の相棒だといえるのか。
早梛の無言に気づかず、悠はメッセージを送信した。
悠:時幸くんといつもどんな話するの? 滅多に会いに来てくれないし、彼のこと全然知らないんだ。よかったら教えて?
早梛の返事がないので、腕を掴んで軽く揺する。
「っは」
気がついて、画面を見た。
「ご、ごめん」
急いで返信しようとする。けれど、打ち込めない。この頃はあまり実のある会話をできていない。
それに……どうして悠が、そんなことを知りたがるのか。時幸とはどれくらいの付き合いなのか。いや、むしろ知り合ってまだ一か月も経っているかいないかくらいの早梛よりも長い付き合いのはずだ。彼とどんな話をしたのか、彼のことをどれくらい知っているのか。気になって、知りたくて……でも、悠からそのことを聞くのが、怖くて。
悩んで白紙のままの画面が、突如アラートの赤に塗り潰される。
他三人の端末からも一斉に警戒音が鳴り響く。警報の種類は「敵接近」。
路肩に急停止、同時に下車。早梛はトランクを開け、自分の刀を掴むとともに榊が積んだアタッシュケースを投げ渡す。ケースを開けた榊は、フルートの頭部管、胴部管、尾部管を組み合わせる要領で分解されていた得物を組み立てる。
時幸は悠を車の影に隠れさせ、端末で通信班に電話を掛けた。
『こちら五室、種別階級ともに不明。けど、猛スピードでそっちに近づいてる。警戒して』
スピーカーから生天目の声が響いた。遠藤でなくてよかった、と早梛は密かに安堵した。
『でもこれ、ちょっと妙かも。レーダーの反応が、点滅しながら……これってもしかして』
とっさに時幸は悠を、榊が早梛を抱えて左右に散った。車の上部が薙ぎ払われ、鉄の塊と座席の残骸が数メートルの距離を飛ぶ。
大きさからしてクラスⅣ。六本の脚で小さな胸部を支え、矮小な頭部にはそれに似つかわしくない大きく獰猛な顎。大きさを無視すれば、外来種の兵隊蟻に近いだろうか。
常日頃から戦いの場に身を置いてきたが故の反応速度がなければ危なかった。何の前触れもなく出現した《ディヴィジョン》は頭部に生えた、ぴこぴこと小刻みに動く触覚で周囲を窺っている。
「あいつ……空から飛んできた?」
「いえ。上は警戒していましたから」
と、目当ての反応を見つけたらしい。無傷だった車のトランクに脚を掛け、顎で砕こうとしているのか、顔を近づけようとしている。トランクには例の箱をしまってある。
出現方法はともかく、《ディヴィジョン》はトランクに夢中でこちらに注意を払っていない。好機と見て、時幸がJ・Rから鎖を引き出し、フリスビーのように二、三回振ってから投げ上げた。見事、鎖は脚の一つに巻き付く。
飛び出しかけた早梛を、榊が制止した。
「ここはぼくが」
そう言ったときにはもう走りだしている。彼の武器……身長ほどもある長槍を携えて。
《ディヴィジョン》はこちらに顔を向けるが、巻き付いた鎖が逃走を許さない。清涼な空気を貫く一閃。榊の槍が勢いよく突き出される。
その、一拍前。《ディヴィジョン》の巨体が、煙のように消失した。しゃらん、と鎖が、気の抜けた音を立てて地に落ちる。
「なっ」
空を貫いた穂先を見て呆気にとられる榊の、背後に再び《ディヴィジョン》が出現する。とっさに早梛が飛び出すが、間に合わないと察し、反射的に刀を投擲する。胸部の真ん中を貫いた。不意打ちに《ディヴィジョン》は気をとられる。その隙を、構え直した榊の槍が突く。顎に向かって突き出された一撃は、だが、再び空を切った。
中空に投げ出された刀をキャッチし、早梛は周囲を油断なく見渡した。時幸と悠も合流する。四メートルほど後方に、再び現れた《ディヴィジョン》。警戒するようにこちらを見、顎をがちがちと打ち鳴らす。
右手に巻き戻したJ・Rを、左手に拳銃を持ち、時幸は相手の姿を見据えて冷静に分析する。姿を消した。攻撃は空を切り、離れたところに現れる。短距離瞬間移動能力。考えられるのは……。
『だれかーっ、返事してーっ』
少し離れたところで生天目が叫んでいる。通信中の端末は、初撃を躱した際に落としてしまった。
『そいつは七型! 気をつけて! どこからくるかわからない!』
やはり、予想したとおりだ。
早梛の刀は、最上位の五型の力を持つ。その性質は“反転”。対立因子となる五型以外に、二型、三型、六型、八型にも、致命傷には至らないが多少のダメージを与えることができる。それが全く効いた様子がないということは、つまりはそういうことだろう。能力的にも矛盾がない。時幸は七型と遭遇したことがないので確証はなかったが、これではっきりした。
ただ、判明したところで対策が取れないのも七型の特徴である。「人海戦術の三型、絨毯爆撃の七型」とはよくいったもので、七型は数が少ない代わりに一体一体が厄介な能力を持ち合わせていることが多い。さて、どうしたものか。
「来ます!」
対峙する《ディヴィジョン》が、真っ向から突進してきた。飽くまでトランクを諦めるつもりはないようだ。そっちがそのつもりならてっとり早い。時幸は武器を捨て、最前衛に進み出た。顔の前で腕を交差させ、身構える。
《ディヴィジョン》の凶悪な咢が眼前に迫った、まさにその瞬間。横っ腹に衝撃を受け、そのまま早梛とともに地面を転がる。転がる途中で彼女を庇うように抱きしめ、足を踏ん張って停止した。
「なにするんですか⁉」
「そういうことは止めてって言った‼」
まっすぐ清純な怒りの眼差しが、時幸を睨み返す。
「……っ」
目を合わせているのが辛くて、顔を背けた。
金属板が拉げるメリメリという音で我に返る。《ディヴィジョン》が、車の後部にしがみつき、トランクを無理やり抉じ開けようとしていた。榊と悠はそれぞれ横手に散って逃れたらしい。
時幸はすぐさま発砲するが、要害のように堅固な脚に弾き返されるだけで、気にも留められない。
「ちっ!」
いやに響く舌打ち。
数メートル離れた場所で、頷くのは悠だ。
「カッ」
今度は上顎も使って別の音を鳴らす。
「カッ、ちっ、ちっ、カッ」
「な、なに?」
早梛が戸惑ったように、音源を探している。
「悠さんです。モールス信号で伝えようとしてくれてるんです」
「モールス?」
「はい。筆談では間に合いませんから」
《ディヴィジョン》は巨大な脚が邪魔で、最大の武器である顎でもってトランクを開けられず手間取っていたが、車を起こすことを思いついたらしい。縦に持ち上げ、上から齧りついた。トランクの半分ほどがめちゃくちゃに食い破られる。
「はっ」
榊が駆け、槍を突き出す。その穂先には黒い靄が、百足のように絡み付いている。
その先から刹那、銀の切っ先が閃き、《ディヴィジョン》の脚の一つを貫く。トランクの破壊が優先事項だったために、敢えて避けなかったのか。ようやく異変に気がついたときには既に遅く、槍の刺さった箇所が抉れ、この世のものではない色の渦を巻きながら腐蝕を始めていた。
すぐに転移し、槍を引き抜こうと試みる。だが――鈍い。先ほどの、手品のような鮮やかな消え方とは雲泥の差だ。徐々に《ディヴィジョン》の輪郭が揺らぎ、薄まり、たっぷりの時間をかけて消えつつあった。
それを悠長に待つ悠ではない。脱兎の勢いで駆けだすと、飛び上がって《ディヴィジョン》の頭上をとり、脳天にダガーを突き刺した。着地と同時にすぐ目の前の脚の関節に第二の刺突。電光石火の動きで背後をとり、胸部と腹部の間を第三のダガーが貫く。《ディヴィジョン》が脚を鳴らして振り返ったときには既に側面に回り込み、それぞれの脚の付け根に向かって投擲を終わらせていた。
《ディヴィジョン》の脚が一瞬、内側に窄まる。そして返す勢いで蹴り上げた。だが、悠は垂直に跳んでこれを回避している。そのまま上下に揺れるメリーゴーランドの木馬のように、脚の間、蹴りのタイミングを縫い、腹に、胸に、脚に、頭に、次々と攻撃を繰り返す。
悠は常に《ディヴィジョン》の先を行っている。さらに先へ、先へ、徐々に《ディヴィジョン》を引き離していく。速くなっているのではない。彼女の動きは早梛の目にも追えるほどの速さでしかない。《ディヴィジョン》が遅くなっているのだ。
ようやく、水に溶ける一滴の絵の具のように《ディヴィジョン》の姿が掻き消えた。悠は思いきりバネをつけて跳び上がる。彼女がいた場所に出現した顎は虚しく空を噛み、空中で身を捩らせた悠が残りのダガーを降らせる。一本は弾かれたが、もう一本は右眼に突き刺さった。《ディヴィジョン》が怒って頭を上げるが、落下した悠は突き刺したばかりのダガーの柄を足場に数秒姿勢を保つと、軽やかに跳んで猫のように危なげなく着地した。
《ディヴィジョン》はその動きを追おうとするが、既に戦闘開始時の滑らかさは失われている。脚はがたがた震え、生まれたての小鹿の方がまだしっかりとした足取りといえるほどにおぼつかない動きで何とか様相を保っていた。僅かに輪郭がぼやけるが、少しも希釈されることなく、その場に留められている。
時幸が自ら前に出たとき、後方の悠はダガーで自らの腕を裂き、溢れる血をトランクに塗りたくっていた。《ディヴィジョン》がトランクを噛んだ瞬間、彼女の血が体内に入り込み、作用しだした。投擲したダガーにもすべて彼女の血が塗ってある。彼女の血が入れば入るほど、《ディヴィジョン》の動きは鈍化していく。
「ぴゅい!」
下準備が済んだ合図の口笛とともに悠は後退し、入れ違いに榊が突撃する。悠が撹乱し、仕込みを行っている間、練りに練られた呪いは槍だけに収まらず、彼の両腕にまで這い上っていた。
「――逝きなさい、居てはならない者よ――」
見た目の禍々しさとは裏腹に、寝物語でも聞かせるような安らかな声で唱えると同時に、深々と槍を突き刺した。《ディヴィジョン》が一瞬びくつき、そして緩やかに、早々と霞と化して宙に散っていく。
後には、破壊の形跡だけが残るのみである。
悠が弾むように駆けだした。相棒であるはずの榊を無視して、一目散に時幸の元へ向かう。そのまま有無を言わさずにハイタッチした。
「さすがです、悠さん」
それが済むと、すっと、頭を低くした。お辞儀をしているようにも見えるが、一向に顔を上げない。
時幸が苦笑して、手を伸ばす。実に優しい手つきで、頭を撫でてやる。
「よくできました」
それを見て。
(……あれ?)
早梛の胸の奥が、僅かに疼いた、ような気がした。
年齢を考えれば少し幼稚とも呼べる振る舞い。しかし二人とも気にするそぶりはない。そのことに対して自分は偏見を覚えているのかもしれない。そう自分を納得させようとするも、胸の痛みはなかなか引きそうになかった。
*
何とはなしに窓の外を眺めていた少女は、静かに目を瞬いた。彼女が派遣した【眷属】が一体、この世からいなくなるのを感じ取った。三型の因子でもって討伐されたときとは若干感覚が異なってはいたが、無視できる範囲の違和感だ。それよりも、返り討ちにされたことの方が問題だ。
飛行機の周囲に散開している【眷属】達にも赴かせるべきだろうか。有象無象の《ディヴィジョン》に襲われたところで、彼女の脅威にはなり得ない。
相談しようと、隣席に目を向ける。
男は珍しく、寝入っているようだった。相変わらず眉根には皺が寄っているが、口元から微かに聞こえる寝息は穏やかだ。
「……」
待機状態だった【眷属】達に静かに警護を任せ、彼女もまた、短い休息に身を委ねた。
*
「……はぁ」
「スズ、いい加減くどい」
話し始めてから二十五回目の溜息を吐いた夏来を諫め、琴羽は四人に向き直る。
「確認するが、間違いなく七型だったんだな」
「はい」
「はああああああああぁぁぁぁぁ」
叫び交じりの二十六回目。
小会議用の狭い部屋は、六人も入るといささか狭苦しい。
「なんでしゅーくん弟の呪詛で消し飛ばしちゃったかなぁー。まだユキくんの細胞で内臓だけ壊せばあとは無事だったのにぃー」
「ぼくの名前はしゅーくん弟ではありません。そもそも兄の名前もしゅーくんではありませんし」
訂正する榊だが、さすがに悪いとは思っているらしい。眉を八の字に歪め、困った顔で笑っている。
日本には三型の襲撃が圧倒的に多く、対して七型はほぼ皆無と言っていいほど来ない。獲得した三型の死骸は特殊加工を施した後、専ら海外への輸入に回される。そしてその見返りとして、物資や情報、何より七型の死骸を輸入している。
それほどまでに稀少かつ貴重な七型を跡形もなく消滅させたというのだから、夏来の落胆は大きいだろう。何とか話を逸らそうと、早梛は話題を探す。
「それにしても……榊さんの呪い? で、《ディヴィジョン》を倒せるんだね」
「はい。種類に関わらず滅せるという点ではユキくんと同じですね。呪いの練度や相手の強さにもよりますが」
「それについては総帥も研究しててね。有力な仮説として、二十三年前」
「相棒の悠さんが四型の因子持ちですからね。うまくサポートしてくださるんです」
夏来の長くなりそうな話を遮って続ける。
「四型の《調律の彼女》の能力は運動阻害。六型以外には致命傷になりませんが、一型以外すべての敵の動きを鈍らせることができます。さらに悠さん自身の身体能力の高さも相まって、相対的にかなりの速さを実現できるんです。こう見えてぼくたち、国内でも三十位以内に入る成績優秀な《マイナー》なんですよ」
「そうなんですね」
素直に感心する。
「はいはい、じゃ、優秀なお二人は御退席しなさい。報酬はいつもの口座に振り込んでおくから。何か用があってきたんだろ」
「はい。九州に行っている間に、兄の部屋を片付けようかと」
「ん? しゅーくんおうち帰ってないの」
「ええ」
榊は笑みを寂しげなものに変化させる。
「仕事が忙しいのもあるでしょうけど、その……会うのを避けられてるみたいで」
「ふーん。まあ複雑な家系だものね。……『あの人』みたいにならないといいけど」
「そうですね……」
『榊が嫌な奴だから会いたくないに一票』
「ははは、ひどいですね悠さん」
榊は一礼すると、部屋を出ていった。悠も後に続いたため、部屋の中ががくっと広くなる。
「……さて。七型といえば、先日話した件だが、先ほど決着がついたらしい」
つまり、七型‐クラスⅠが討伐されたのだろう。もしくはミラノ区画は跡形もなく壊滅したか。
「討伐されたとのことだ。……もっとも、喜ぶべきことなのかはわからないけどな。イタリアは《魔女狩り》の力を見限って《薪の塔》に助力を要請した。知ってのとおりこの二組織は根本からして在り方が違う。今回貸しを作ったことが後々響くかもしれないな。《機関》としても無関係ではいられないだろう」
まあそれは交渉班の仕事だけどな、と話を戻す。
「やはり新種だったそうだ。“メイフライ”と名づけられたこいつの身体を解剖したところ、新たな事実が判明した。僅かだが、人工物らしき破片と……ヒトのDNAが検出された」
「「は?」」
「照合の結果、ミラノ区画に住むリッカルド=サリエリのものと判明した。数か月前にローマ区画に向かったまま行方不明になったらしい。DNAはヒトでないものに変化した後だった」
「……ミラノ区画に来る前にリッカルドさん……の成れの果てを食べていた、なら説明もつきますが……区画内部で発生したというなら、外にいたはずの人の細胞が検出されるのはおかしいですね」
「もう一つ判ったことがある。旅行客のうち一人の素性が割れた」
琴羽は端末を操作し、立体写真を出現させる。
「ウィリアム=オーガスト=ノーマン。開戦前から世界各国の中枢に入り込んでは火種を仕込んでいた工作員だ。組織のためには暗殺や拷問、隠蔽などの汚れ仕事も平然と行う冷徹な男。そのくせ、組織が傾き始めたら後腐れなく捨て去るという一面も持っている。……いや、そもそもこの男が内部から潰したのかもしれないな」
写真の下の経歴に目を通す。立場を変え、所属を変え、一定の地位を築き上げるとともにそれまでのすべてを捨てて一からやり直す。いままでこの男が仕えてきた組織に共通点は特になく、ときには以前加盟していた団体と対立する主義主張を掲げる結社に鞍替えすることもあったようだ。この男自身の一貫した目的が見えてこない不気味さがある。“壊れた歯車”や“檻姫”ほど有名ではないが、ベクトルの違う注意人物であることは間違いないだろう。
「それでな……そこには載ってないんだが、一室の調べではどうやら現在は《同盟》に属しているという噂だ」
時幸の表情が変わる。早梛にとっては知らない単語だったので、素直に説明を求める。
「《機関》や《薪の塔》、【魔女】と【眷属】を地球上から排除しようとしている組織とは反対に、営利や宗教のために【魔女細胞】を保存・利用しようとしている団体の一つです。【魔女】が世界中で暗躍できているのも、多くは彼らからの援助がある故といわれています」
「じゃあやっぱり、《魔女狩り》に打撃を与えるために【魔女】を送り込んだってこと?」
「《同盟》側の動機はそうだろうな。だが相変わらず、手口の全貌は見えていないし、【魔女】が動いたという形跡もない」
気になることはもう一つある、と、机の上に置かれた装置に手を乗せる。
「この箱だが、中身は女の髪だそうだな」
「はい」
「スズ、おまえはどう思う?」
研究者である夏来は、やっと自分に興味のある話題になったと真剣な表情だ。
「そのことなんだけど、まず、この箱自体に発信機の類はついていない。さらに解剖を進めて判ったことなんだけど、胃の内容物に、溶解してたけど機械の部品を発見したわ。おそらくこの箱とは別々に、仕込んだ《ディヴィジョン》に植えつけたのね。どうしてそんなことをしたのか、わたくしなりに仮説を立ててみたんだけど」
くるり、といつの間にか手に持っていたペンを回した。
「多分、発信機が機能しなくなることが受け取りの合図なのよ。つまり仕込んだ《ディヴィジョン》は、目的地で撃破されることを前提に送られた。相手に予め撃破するよう連絡がいってたんだと思うわ。そして、初めから撃破することが決まっていたのだとしたら、どんな習性を利用したのかも大した問題じゃなくなる。現地に着けばいいだけだもの」
ぴ、とペンを今度は縦に持つ。
「最もありえるのは、研究機関から研究機関への輸送ね。《ディヴィジョン》の死骸を回収しても怪しまれないし、内容物から見てもこれで間違いないと思う。国際条約に違反する内容であれば、リスクを冒してでもこんな回りくどい方法を使う理由も理解できる」
【魔女細胞】及びその研究成果については、国際法によって厳しく管理されており、各国の専門機関以外では取り扱うことが禁止されている。故に、空港などでは蟻の這い出る隙もないほど厳重な密輸対策が敷かれている。まして、人体実験はどの国でも現在では御法度だ。
「“シェイプレスピジョン”自体に仕込んだっていう線は潰えたわ。発信機は機能しない状態だったもの。つまり、これを仕込んだ連中にとって、これがここにこの状態であるのは想定外ってこと。そしてわたくし達にとっては、送り主なり受取人なりが取り返しに来るだろうことは予測できた……問題は」
夏来はペンの先で机をカツカツ叩いた。
「これを狙って現れたのが《ディヴィジョン》だってことよ。それも日本ではまずお目にかかれない七型、しかも下位。人為的なものだとしたら、いったいどんな習性を利用すればそんなことができるのか……」
七型の習性を人間が利用することは可能だ、前例がある。
しかし、時幸達の話によると件の《ディヴィジョン》はこの装置のみに執着し、脚と顎を使ってトランクを抉じ開けようとしたという。そんな器用な芸当をやらせるのはまず不可能だ。かといって、クラスⅠではない《ディヴィジョン》には【魔女】でさえ直接の命令は与えられない。クラスⅠの「一なる命題」にそもそも組み込まれてでもいない限り、今回のようなことはまず起こらない。
「ふむ」
じっと聞いていた琴羽が顎をそっと摘まんだ。
「これの中身が問題だろうな。生物の一部なら、信号なりフェロモンなり発信していたとしてもおかしくない」
「そうね。もしも《ディヴィジョン》の方に変化が起こっているのだとしたら問題だけど……どっちにしろ、これの中身を解析してみないことには何とも言えないわね」
けど、と続ける。
「ユキくん達には言ったけど、開けることを想定してないのよ、これ。受け取った側に専用の器具とか鍵があるのかしら。これからすぐ解錠作業に取りかかる予定だけど、どれくらいかかるか予想できない」
「急がせろ」
琴羽は空を睨みつけ、静かに述べた。
「ミラノ区画の件といい、【第七魔女】周辺の情勢が変わりつつあるのかもしれない。慎重に、迅速に頼む」
話し合いが終わり、部屋を出ると、既に榊と悠が待っていた。
「やあ、終わりましたか」
「ええ。そちらは……」
「思ったよりも片付いていたのでね。案外早く終わりました」
もしかして聞かれていたのかと顔を強張らせた時幸を見て、またいつものように緩く笑う。
「機密事項なので言えないことはわかってます。けど、困ったときは何でも言ってくださいね。友達ですから」
「……ありがとうございます」
時幸の言葉は歯切れが悪い。機密情報云々以前に、心情的な隔たりを早梛は感じ取った。「友達」という関係自体を否定したわけではないが、どうも榊のいうそれと時幸の考えは一致していないらしい。
榊もそう思ったのか、少し不貞腐れたように横目で睨んだ。
「なんです、その『頼りたくありません』みたいな気のない返事は! いくらユキくんが『特別』でも、ぼくらの友情に何も差支えなんてないんですからね。最近ユキくん、以前に増して怖いもの知らずになってますし」
「?」
榊の選んだ言葉のニュアンスに、早梛は一瞬考え込む。
「そういうわけじゃ……ただ、お二人に何かあったら、先生や史俊さんに申し訳が……」
榊が何か言うより先に、悠がずずいと進み出た。触れようと思えば少年の胸に手が届くほどの距離で、見つめ合う。
早梛の心にまた、波打つように鈍い痛みが奔った。重要な何かを忘れていて、直感が警告を発しているのだろうか。そう思うと、正体のわからない不安がさらに胸を締めつける。
少年の顔を見つめたまま、悠は手話で意志を伝える。
(おじい様は関係ない。私は私。自分のためにも、戦場に立つことを止めはしない)
聞こえていなくても、時幸の話したいことは伝わっていたらしい。
「わかっています。頼りにしています」
時幸は、ごまかすように笑った。その笑顔の裏に何か隠されている気配を感じ取り、(何がそんなに心配なの?)と返す。
少年は笑顔のまま眉を下げ、憂うような眼差しだけ、傍らの早梛に向けた。
それだけで察した悠は、くるりと身を翻して榊の後ろに回り込む。
「わ、な、なんですか、悠さん⁉」
どうやら背中を回転させようとしているらしい。だがそこそこ体格のいい青年はそれこそ榊の幹のように押しただけでは動かない。
「ちっカッ・ちっカッ・ちっカッちっちっ・ちっちっちっ!」
背中をぽかぽか叩きながら、怒ったように舌打ち、否、モールス信号を送る悠。何と言っているのか、榊はやれやれ、と首を振る。
「まったく、傍若無人なところは昔から変わっていませんね」
その言葉に、早梛はふと興味が湧いた。
「あの……皆さん、どれくらいの付き合いなんですか」
訊いてしまってから、やっぱり知りたくない、とも思った。しかし、もう口に出してしまったのだから仕方がない。
早梛の心境などいざ知らず、榊は朗らかに話し始める。
「うちと菊織家とは何代も前からの付き合いなんです。悠さんのご両親にもよくしていただきました」
いまさらだが、悠の苗字の読みを初めて聞いた。ククリ。……どこかで聞いたことがあるような気もするが、思い出せない。
「ユキくんとは一期さんを通じて知り合ったから……たしか、七年前ですね」
時幸が事情を説明する。
「俺に日本語を教えてくれたのは、榊さんのお父様なんですよ」
「へ、そうなの」
「はい。師匠が交友関係を当たってくれまして。なので続岩家のご兄弟とは長い付き合いなんです」
言われてみれば、時幸と榊の話し方や佇まいには似たところがある。
「ええ。時幸くんってば、小さい頃はとーっても行儀の悪い子だったんですよ。暴れるわ、片付けないわ、叱られたら汚いスラングを使うわ……父がかなり搾って、人並みにしたんです」
「ちょ、や、やめてください! 早梛さんの前でそんな……」
慌てだす時幸。先ほどからのどこか思いつめた表情が束の間乱れた。
「はいはい。ふふっ」
貼り付けたような笑みではなく、本当に楽しそうに、榊は笑う。
それにしても……暴れん坊で散らかしたがり、説教されて悪態を吐く時幸……想像がつかない。いまの彼しか知らない早梛にとっては、昔から行儀のいいお坊ちゃんだったような風情がある。
「え、じゃあ、悠さんとも」
「……いえ」
時幸は顔を逸らした。
「初めてお会いしたのは、三年前でした」
「へえ……」
それにしては、随分深い付き合いがあるように見える。悠はまるで幼馴染のように接しているし、時幸は遠慮している様子だが、付き合いが短くて謙遜しているというより、何らかの理由で下手に出ている状況、といったところだ。悠は言葉を話さないがおしゃべりだし、お淑やかそうに見えて強かな面もあるし、案外男を尻に敷くタイプなのかもしれない。
時幸は悠と話すとき、顔を見て話す。悠も同様に、時幸の手話と同時に彼の顔も見ている。対して早梛は、最近、時幸の顔をまともに見れているだろうか。任務一つごとにしょっちゅう喧嘩をして、言い争って。早梛は相棒だというのに。……早梛が相棒だというのに。
「あ、山本さん!」
通路の先に見知った顔を発見し、榊が駆け寄る。そのまま話し込み始めたので、彼と悠とはここで別れた。
「……」
「……」
通路をしばらく行ったところで、不意に時幸が立ち止まった。早梛も歩を止める。
「早梛さん」
硬い声で、名を呼ばれた。
「っ、は、はい!」
時幸が振り向いた。てっきり機嫌が悪いと思っていたが予想は外れて、困ったような、迷っているような顔をしている。
「どう、したの?」
時幸は無言で、一歩距離を詰めた。躊躇うように、さらにもう、一歩。
「な、なに」
緊張で鼓動が早まる。唐突に様子が変わったことで、彼が心配でもあった。
「先ほどのことで、お話ししておこうと思いまして」
意をけしたように、少年は顔を上げる。
「【魔女】は身体の部位ごとに固有能力を持つという話ですが……【第一魔女】の場合、眼球だそうです」
「あっ、え――まさか‼」
思い至り、早梛は小さく叫んだ。
「ええ。あの人が俺に自分の角膜を移植したことに関係があるはずなんです。親子とはいえ、コレが【魔女】の細胞であるにもかかわらず【魔女の息子】の身体に適応していること、蘇生してもこの状態のままであることにも関わっていると思われます」
時幸は自らの右眼を指し示した。それは彼生来の眼ではない。実母によって無理やり開かれ、切除され、代わりに【魔女】の角膜を埋め込まれた、【魔女】が来たるべきときに息子を利用するために仕込んだ装置だ。
「コレの使い道は判りませんが、判っている特徴として、元の持ち主といまも繋がっている。前触れもなく痛み出して色が変わるのは、あの人が左眼の能力を使っているときではないかと」
「……痛く、ないの」
以前瞳の色が変わったときの様子を思い出す。時幸は吹っ切れたような顔をしてはいたが、その様子は痛々しくてたまらなく、早梛には思えた。
そのときの感情を憶えていないのか、意外な質問に、時幸はきょとん、となる。次いで、安心させるように微笑んだ。
「いまは痛みはありません。ありがとうございます」
そして再び真面目な顔になる。
「……なぜいま話すのかというと、榊さん達は知らない、そして、知らせたくない力だからです。ただでさえ【魔女の息子】であること、蘇生能力があることを明かしていますから、これ以上懸念を増やしたくない」
先ほどの隔たりの正体に気づいた。
つまり時幸は、巻き込みたくないのだ。《機関》の任務や、時幸自身の事情に。
親しくないわけではない。逆に、時幸なりに彼らを大事に思っているからこそ、距離をとろうとしている。彼の傍にいることで否応なしに直面する危険や迫害に、関わらせまいと守ろうとしている。
不器用な少年はされど、次の言葉を、選ぶように、はっきりと口にしていく。
「けれど、早梛さんは、俺と一緒に戦場に立つ人ですから。一番近くにいて、多分、俺の能力のどれが暴走しても、一番早くに影響を受ける人だから。知っていてほしかったんです」
そう言って、時幸は。寂しげな笑みを浮かべた。零室に飾られた数多の写真の中で、彼の父親が最もよく浮かべている表情だ。
「すみません、ご不快な思いをさせてしまって」
「なに言ってるの」
努めて明るく言い放つ。
「むしろありがとう。言ってくれて」
《機関》の『秘密』を知っているということは、やはり、時幸にとって榊達はただの友人ではない、一歩踏み込んだ関係なのだろう。彼らがそうであることに羨ましさと少しの寂しさを抱く。一方で、時幸に《機関》以外で悩みを共有できる人々がいることに、安堵を覚えもした。
その上で、彼らにも打ち明けていない、上からの命令だけでなく、おそらく時幸自身が伝えたくないことを、早梛には明かしてくれた。それも、時幸の判断で。それはつまり、早梛を信頼しているということだ。そしてそれは、これからも相棒を続けていきたいということだ。
「――決めた!」
早梛は自分をしゃんとさせるため、パチン、と柏手を打った。
「私、ちゃんと勉強する。《ディヴィジョン》の生体のこととか、因子のこととか、歴史も、もっともっと学びたい。たくさん勉強して、もちろん、訓練も任務も頑張って……もっといま以上に、時幸くんが頼れるようなパートナーになりたい」
「早梛さん……」
時幸は顔を伏せ、口元をもごもごさせた。色白の頬に、ほんのりと朱が滲んでいる。
「いまだって、信頼しています、よ……?」
「うん知ってる。でも、戦闘でもそれ以外の任務でも、もっと連携できるようになりたいもん。そのためには知識をつけないとね」
そう言って早梛は――笑った。
例えるなら――花。
台風が過ぎ去るまで、その豪雨と風勢に耐えて、耐えて、耐え抜いて……ようやく過ぎ去った晴れの日に一斉に開いた蕾のような。
時幸はそれを、はっきり見た。ばっちり目に焼き付けた。
彼が見たことのない早梛の、おそらくは一番の笑顔。
瑞々しく、晴れ晴れしく、一点の曇りもない、力強く、明るく、朗らかな笑み。
この世の春を称える言葉すべてを尽くしても言い表せないような眩しさ。
とても美しいものを見た。――とても、珍しいものを見た。
なぜなら、初めて会ったとき以来、彼女は常に気を張っているところがあったから。気が緩んだときは、恐怖や不安、驚愕で、思わず弱々しさを見せた場面であり、故に、時幸の知る早梛の表情には常に、寂しさや遠慮、或いは痛々しいほどの拒絶があった。強く危うく、だからこそ、彼女を守りたいと思わせた。
いまの笑顔は、そのどれとも違っていた。
そしてそれは、とても……素敵だった。
新たに垣間見た少女の一面に、少年の胸が高まる。
この笑顔を守るためなら何でもする、世界さえ救ってみせる、そう断言できるほどに。
*
日本、東日本一区新成田空港。十八年前の【紅鹿事変】の後、最速で奪還された千葉の土地の一部をそのまま改修し、現在でも利用している世界的に見ても古い部類に入る空港だ。もちろん設備などは定期的に取り替えられ、常時新型の機械と武装が訪問客を出迎える。最新設備を一から取り揃えて建設された、西日本一区の六大都市複合新近畿空港と比べても、そう見劣りするものでもない。
入国の手続きを終え、エントランスに出た直後、少女の報告を聞いた男は僅かに眉を顰めた。
「……迎撃された?」
珍しく苛立った様子で続ける。
「なぜ早く言わなかった」
詰問するような口調に、肩を竦ませた。怯える少女の様子に我に返った男は、静かに首を振る。
「……いや、横着した我輩の落ち度でもある。任せておきなさい、手はいくらでもある」
悠然と身を翻し、空港を後にした。




