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プロローグ




 白とか、灰色とかいうよりむしろ、墨絵の空白のような色の空だった。

 くすんだ天、それと大して変わらない彩のない地。境界さえ曖昧な二者の間を、それらよりかは幾ばくか白みの強い欠片が往き過ぎる。

 地に横たわる、彼の上に降り積もる。

 場所も、時刻も、何もかもが不確かな世界の中にあって、彼はあまりにもちっぽけだった。大地に投げ出されているのは十にも満たない稚い身体。つい先ほどこの場を離れた者が、せめてもの情けだろうか、その小さな身を覆い隠すほどに分厚く衣類でくるんではいたが、この極寒の地ではそれもあまり功を成さないようであった。

 自然の力は何もかもを等しく白の中に覆い隠していく。自らに降りかかるものを払う気力さえないのか彼は、ただただ茫然と空を仰ぐ。その水墨画のように閑寂な風韻を理解することはできない。未熟ゆえに情緒がわからないというより、心の余裕がないせいだ。

 ほんの数日前に始まり、先ほどまで続行していたそれは、あまりに唐突で、あっけなくて。彼の長いとはいえないいままでの生涯の中ではまず間違いなく一番衝撃的なことであり、さらに、これからの生涯でも、おそらくはけして癒えない傷となる……ひりつくような、右眼の痛みとともに。

 もう少し大人だったらわかったのだろうか。納得できたのだろうか。どうして自分達は追われていたのか。どうして今回に限って、追っ手を退けなかったのか。何か事情があったのか。彼が幼かったから話せなかったのだろうか。話しても無駄だと思ったのだろうか。それとも、知られないように、逃げられないように、隠しておいたのか。わからない。考えてもわからない。考えたところでどうにもならない。どうしようもない。どうでもいい。

 ただ、自分が手ひどい裏切りを受けた、という事実だけがある。

 裏切り。

 信じていた者に、棄てられた。

 慕っていた人から、傷つけられた。

 愛してくれていると思っていた相手に、奪われた。

 それらとともに、過去までが塗り替えられていく。

 いままで、愛したのは、尽くしたのは、傍にいたのは、すべて“こうするため”だったのだ。このとき、痛みを植えつけて、この場所で、手を放す、すべてそのための準備だった。それがわかっていたら、自分は抗っただろうか。それとも無駄だっただろうか。いまとなってはわからない。考えても何もかもが遅い。

 ただ、依然として続く肉体の痛みと、

 行き場のない想いが、胸にある。

 息を吐いた。それとともに、何かを吐き出した。それは彼を裏切った者に対する、世界に対する、呪詛のようなものだった。

 楽しい思い出も、嬉しい思い出も、そうではない思い出も、たくさんあった。だが、いずれの根底にも共通する感情があった。時間を共有する喜び。確かな愛情への信頼。それに対して応えようとする、小さな背伸び。しかし、それらの一切は先ほど決定的に壊れてしまった。大切にしていたもののはずなのに。

 そして、抜け落ちた空っぽの隙間に……代わりに、何かが沈殿する。

 絶望、憎しみ、怒り、諦め、悔しさ、惨め、それらがないまぜになり、どす黒い「全」に落とし込まれていく。右眼が痛む。瞼が、筋肉が、血管が収縮し、白とも灰色ともつかない景色が濁った色に染まる。そして、彼は、彼が――

                           ――する、


「哀しいのか」


 直前に。


 虚を突かれ、それまで溜まっていたものが霧散する。哀しい、寂しい、辛い、切ない――、黒が白に置き換わっていく。同時に、肌に当たる冷たさを体感する。自らの鼓動を思い出す。

 力の籠らない身体を無理に動かし、辛うじて首だけを巡らせた。

 男性は這って、いつの間にか彼の傍らにいた。前髪を伝って滑り落ちたものが、世界に初めて色を載せる。

 最後に見たときと変わらず、ぼろぼろで目も当てられない状態だった。額だけでなく、腕からも、腹からも、錆びた臙脂色を零している。頬も服も煤けてくしゃくしゃだ。だというのに。誰が見たってみっともなく、弱々しく、死にそうなのに。

 へらへらと笑っている。あまりにも疲れている人の笑みだった。つられて彼の口元が幾ばくか開いた。さすがに笑いはしなかった。なぜなら彼も疲れていたから。

 男性はさらににじり寄り、彼の顔に手を伸ばした。それで気がついた。頬を伝う液体は溶けた水ではなかったのだ。依然として痛む右眼と同じくらい熱を訴えるそれを、温かい他人の体温が掬い取る。

「おまえ、名前は」

 訊いた男性の前に、白が舞い落ちる。

「……ゆき」

 その白の名前を、少年はまず、呟いた。

「とき、ゆき」


 それが、現夜(あらや)時幸(ときゆき)の始まりだった。


七年後


 外郭より侵入の疑いがあるとしてエリア39~44が封鎖される二十分前に、最終試験が開始された。

 琴羽(ことう)から、一般市民や《マイナー》に公開されるよりはやや詳しい情報を受け、いち早く滑り込んだ。おかげで、他の《マイナー》が許可証とともに封鎖地区に侵入する頃には既に武装を整えて三エリアを回り終わっていた。

 封鎖から既に一時間以上経過。せっかく琴羽が先んじて流してくれた情報も、広大なエリア41の住宅街を駆けずり回っているうちにその価値を減らしつつある。通常ならば安全が確認されたエリアを《機関(オルガン)》に報告し、未確認地区との隔離壁を起動して獲物を追い詰めるのがセオリーなのだが、今回は別だ。他の誰かに先を越されるわけにはいかない。よって、他の《マイナー》には申し訳ないが、しばらくエリアの中をうろついてもらっている。

 装備を確認する。J・R(ジャッジメントリール)丙、一巻き。警戒レベルから察するにクラスⅤか、せいぜいⅣだろうが、やはり乙の方がよかっただろうか。いや、確かに鎖の太さも強度も乙の方が上だが、その分重く、扱いも難しくなる。普段討伐よりも対人戦闘を主としている時幸にとっては丙の方が扱いやすい。それに、今回のミッションは時幸にとっては試験だが、通常の討伐任務と同じく民間の《マイナー》もかなり参加している。《機関》が開発した道具はあまり見せびらかさないほうがいいだろう。やはり丙の方が目立たなくていい。

 それから、拳銃が一丁、アシダ社の9ミリオートマチック、通称オカリナ。生身でも奴らに対抗できる《調律の彼女(ストリングス)》に張り合うためか、武器メーカーはしばしば商品に弦楽器以外の楽器の名前をつけたがる。

 と、そこで制服の内側が振動する。端末を取り出して通話を確認。琴羽からだ。

「はい」

『首尾はどうだ? ユキ』

「いまのところ問題ありません」

 手近な壁に背を押しつけ、端末を肩に挟みながら物陰を窺う。

『手短に言う。エリア44が封鎖解除され、隔離壁が起動した。これによって探索エリアは18パーセント縮小する』

「了解です」

『……頑張れよ』

「ありがとうございます」

 いつものミッションならばまずかけられない言葉に、思わず頬が緩む。琴羽も時幸の成功を祈ってくれているのだ。ならば、それに応えなければならない。

 通話が切れ、端末をしまい直す。エリア44に《ディヴィジョン》がいないのは確認済みだ。ただ、捜索範囲が狭まったことで他の《マイナー》が先んじて獲物を見つける可能性は高まってしまった。急いだほうがいい。

 残された試験期間はあと僅か。その間に成績を修めなければ、時幸は《機関》の正式なエージェントになるチャンスを失う。それは、彼の目的を果たすうえで絶対にあってはならないことだった。


 ア、アアアアァァッァxxxッァァアアアアア


 木霊。絶叫。消防車のサイレンにも似た、怪獣の欠伸のような、間が抜けているのにおどろおどろしい雄叫びが幽かに聞こえた。

「そちらですか!」

 踵を返し、聞こえた方角へ疾走する。彼の向かう先、遥か彼方に、縦に高く、横に延々と、灰色の巨壁が見える。彼の横にも、背後にも同じような景色がある。十九年前のあの日から、人類の生活は一変した。奴らによって、壊された。

 壁よりもかなり近く、街並みの隙間から姿が見えた。体長4メートル、高さ3メートルといったところだろうか。上部に鹿の角じみた突起がある。

「アアァァァアアアアァァ」

 さらに近づく。先ほどよりもはっきりと鳴き声が聞こえる。家々の角を曲がって正面に出る。全身を捉える。物が腐る悪臭がする。それから10メートルほどの距離まで来てやっと、一旦立ち止まる。

 特に形はない。緑色の、作ってから三日目に突入した鍋の底に残ったシチューのようにどろどろ溶けているものがそこにあった。胴体の、流動している表面からうっすらと、濁った灰色の両眼が覗いている。そのすぐ下に表皮の流れとは異なる動きをする箇所があり、口だと見当をつけた。横からは、その大きさに見合わないほど細い肢が伸びている。向かって左側に五本、逆側に九本。数も長さも不揃いで見るからにバランスが悪く、事実、胴体を支えきれずに何度も傾き、頽れそうになっている。その度に新しい肢らしきものがにゅっと飛び出すが、大半が団子のように短いか、或いは小枝よりも細く頼りない。

 不完全とはいえ自己改変能力を持ち合わせている。大きさと照らし合わせて判別、三型‐クラスⅣ。《ディヴィジョン》に変化してから日が浅いのか、或いは変化させたクラスⅢが半端な能力しか与えなかったのかは定かではないが、とにかく《ディヴィジョン》として人を襲うどころか、まともに立つこともできなさそうだ。好都合といわずしてなんといおうか。

 でき過ぎているようにさえ思えるほど整った状況だが、時幸は万全を期すことにした。

「恨まないでくださいね」

 拳銃を構える。何の反応もなし。人間だった頃の記憶も知識もトンでいるらしい。三型の殆どが元人間だが、変化する際に人間だったときの記憶や自我を持ち合わせていることは稀だ。いや、そうだったら悲惨なのでむしろありがたい。時幸にとっても、彼ら自身にとっても。

 照準を、比較的丈夫な肢の一本に合わせる。バランスを崩してくれれば後は容易い。引き金を引く。シアーが外れてハンマーが撃針にぶつかる。撃針が飛び出してブライマーを叩き、最初の銃弾を弾き出す。

 その直後。狙いをつけたはずの肢が動いた。いや、その肢だけではない。胴体から短冊のように伸びた細い肢が一斉に揺れ動き、持ち上がり、ターンする。表皮の緩慢な流動からは想像もつかないほどのステップさばきで肢を組み替え、弾丸を回避した。

「っ」

 一瞬だけ目を瞠り、獲物を睨みつける。《ディヴィジョン》の顔に当たる部分は依然としてどろどろに溶けて人らしさの欠片もないが、心なしか「残念、ハズレ」とでも言いたげに見えた。

 何度か連射するが、その度に素早く回避される。ならばと照準を変えて頭を狙う。すると今度は、無数の肢が大きく撓り《ディヴィジョン》の身体が沈み込んだ。地面にぎりぎりまでへばりつき、結果、銃弾は胴体を飛び越え、上部に生えた角に当たってキン、という硬い音を立てて弾かれる。

 偶然ではない。故意に避けている。しかもけっこう柔軟だ。これだけ大きければまず外さないだろう、と見くびっていたが、迂闊だった。形がない、ということは、的がない、ということだ。どれほど攻撃を続けても、当たらなければ意味がない。

 だが、いまのやりとりで既に大体の攻略法は見えている。

 一旦、《ディヴィジョン》と距離をとる。腰のフックからフリスビー大の道具を取り外す。厚みのある円盤型をしていて、端に手錠がついている。

 手錠を右手で持ち、時幸は《ディヴィジョン》目がけて駆けだした。

 走りながら手錠を引くと、何かを掻き回すような音が辺りに響き渡った。円盤内部に格納されていた子供の腕ほどの太さの鎖が、宵に向かう太陽の残滓を浴びて冷ややかな光を放つ。そのまま、時幸は跳んだ。

 背面跳びの要領で《ディヴィジョン》の上を跳び越える。《ディヴィジョン》は自己改変の結果かなり低身長になっており、どうにか超えることができた。跳びながら、手錠を獲物の角目がけて放つ。左の角にうまく引っ掛かり、枝分かれした中程まで嵌った。

 着地と同時に地面すれすれを撃つ。すると、敵は瞬間的に肢を伸ばして胴体を持ち上げて回避した。J・Rの本体を顎に挟み、その下を駆け抜ける。一瞬前まで《ディヴィジョン》と密着していた地面はつやつやとした粘液に塗れており、走るというより滑って通過する。

 猛スピードで滑走しながら、上着の内ポケットに手を突っ込む。取り出したのは、赤黒い銃弾――よく目を凝らせば、それは金属の色ではなく、銃弾内部に満たされた赤黒い「何か」が透けている――をシリンダの最後の一発と交換する。

 時幸が抜けた直後、それまで彼がいた場所に衝撃が打ちつけられる。タイミングが合いきらず、落下する《ディヴィジョン》のぬるぬるする感覚がうなじを掠めてひやひやした。

 振り返った。狙いどおり、《ディヴィジョン》は鎖の上に乗っている状態だ。J・Rを低い位置で持ち、揺らしながら鎖を引き出す。引き出した鎖の半ばほどが輪になるように持ち、カウボーイのロープよろしく振り回した。一度、二度。三度目で手から放す。遠心力に従って鎖が宙を舞い、《ディヴィジョン》の眼前に迫る。《ディヴィジョン》は顔に当たる部分を、なんと陥没させて回避した。

 しかし、当たらなかったわけではない。再度、硬音が耳を打つ。

 鎖はもう一本の角に引っかかっていた。《ディヴィジョン》は眼前に垂れ下がる鉄の連鎖を不思議そうに眺めている。時幸はJ・Rのスイッチを、無慈悲に押した。

 その途端、引き出した鎖が瞬間的に巻き取られていく。ガギガギと金属同士が触れ合う音が機械的に連続する。本体と手錠の間に渡された鎖が短くなり、当然、その間に挟まれた《ディヴィジョン》は……急速に圧迫されていく。


 イイいィィぃぃぃッイイィツツゥウウ


 台風のときに窓に吹きつける風のような悲鳴が《ディヴィジョン》の口から搾り出た。

 いやいやするかのように顔を、胴体をぶるぶる震わせるが、肝心の鎖は外れない。先ほど頭部を狙った際、角だけは弾を弾いて変化しなかった。だから角に引っ掛けておけば逃げられないのではないか、と考えたのだ。予想どおり、《ディヴィジョン》は締め上げられ、身動きが取れない状態だ。一気に畳みかけるならいましかない。

 一旦鎖を少しだけ引き出し、片手だけでもう一度、スイッチを押す。再び巻き戻される鎖の勢いに乗って、時幸は《ディヴィジョン》に接近する。狙うはゼロ距離からの連射。内臓を傷つけられないにしろ、最後の一発が入ればそれで終わりだ。

 《ディヴィジョン》はもう目の前に迫っている。拳銃を構え、時幸は勝利を確信する。

 突然のことだった。

 視界の端を、青色が通り過ぎる。

「……え」

 振り向くと、


 鮮烈なその青が、視界いっぱいに広がった。


 突如として降ってきた、長い髪を持つ人物が、持っていた得物で《ディヴィジョン》を斬りつける。

 銀光一閃。

 夕日の最後の一欠片が得物に反射して眼球を焼き、とっさに瞼を閉じた。

 そっと開いた瞬間……絵画のような光景が目の前に広がっていた。

 醜く蠢く巨大な化け物。それに立ち向かう小さく、されどしゃんとした立ち姿。

 小さな、本当に小さな少女だった。おそらくは時幸の肩ほどの上背しかないだろう。しかしその顔立ちは幼さを感じさせない。控えめに言っても美しいその顔には、この世の無情を知りながらもそれを嘆くときを過ぎた、何かを変えようと、或いは何かを守ろうとする大人の女性の兆があった。それでいて、真珠のように白い肌や桜色の唇にはその年頃の娘にしかない瑞々しさがある。いまは湖面のような無表情だが、笑えばきっと愛らしいに違いない。そう確信させた。

 昼と夜の境界の空。その瑠璃とも群青ともつかない青い艶めきを照り返す長くまっすぐな黒髪。頭の高いところで一括りにした、所謂ポニーテールというやつだ。同色の瞳は見開かれ、怒り、或いは決意の強い光を宿している。

 存在それだけで充分印象的な少女だった。が、さらに、その手に持つものが圧倒的に、突如現れた彼女が「常の者ではない」ことをありありと物語っている。それは……日本刀。よく研がれていることが見てとれる鋭利な刃。戦うための鋼。華奢な少女には似つかわしくない凶器だった。

 その刃も、彼女自身が放つプレッシャーによって違和感はない。むしろ纏っている、飾り気のない安物のジャケットとジーンズの方が不自然なほどだ。

 中世の救世主じみた登場をした、あまりにも庶民的な、謎の美少女。時幸の両眼は彼女に釘づけになった。

 もしここに彼の師匠か、その後輩がいたら、即座に頭を殴りつけて説教するだろう。

 油断するな、せめて片目は敵から目を逸らすな、と。

 しかし、我に返った時幸が見たのは、


 のたうち回り、肢を出したり引っ込めたり忙しなく形を変えながら、確実に崩壊していく怪物の姿だった。


 《ディヴィジョン》はいまや自らの身体をコントロールできないでいる様だ。半液体状の身体が周囲に広がっているのは変化のためにそうしているというより、制御が効かなくなって垂れ流れているようにしか見えない。口の凹みからは苦しそうな喘ぎ声が漏れ、頭頂部分は溶けたアイスクリームのようにぐずぐずと崩れかけている。そのせいで生えている、直立していたはずの両角の間がどんどん空いている。弾みで掛けていた鎖が引っ張られて時幸のバランスも崩れかける。慌てて構え直し、鎖を手繰る。胴体部は広がっていくのに、幾本もの肢はいまも落ち着きなく引っ込んだり伸ばしたりを繰り返す。せっかく行った変化をやり直しているようだ。しかし完全に戻すことは叶わず、また途中で変化させようとして何かの力に阻まれているかのよう。不調だ。明らかにさっきまでの様子とは違う。

 そこまで判っているにもかかわらず、鎖を持っていかれないようにするのに手一杯な時幸をよそに、謎の少女は日本刀の先を下に向け、静寂の構えをとる。

 再びの銀光一閃。今度は連続の斬撃。

 一拍の間ののち、崩落。

 形の定まっていなかったモノは、最後まで何にも成れないまま、ただ切られた跡に従って地面に垂れ落ちた。ぶつ切りになり、思い思いに地面に広がる、もう命のないものを少女は無感動に見下ろしている。

「あなたは……」

 鎖を引っ張る先がなくなり、茫然としている時幸を後目に、少女は地面に広がった《ディヴィジョン》の残骸に足を踏み入れる。安物のスニーカーの裏に緑色の吐瀉物じみたものがぴちゃぴちゃと貼り付くが素知らぬ顔だ。かつて《ディヴィジョン》の特徴だった、一対の枝分かれした角の前に来る。依然として屹立したそれらは亡国の旗に似た寂寥感を抱かせる。

 その一本を、少女は徐に引き抜いた。絡まっていた鎖がじゃらじゃらと大げさなほど大きな音を立てて解かれる。

「? 何をする気ですか」

 信じられないような目で、時幸は少女を見つめる。

 少女は答えない。時幸の言葉が聞こえていないわけではあるまい。《ディヴィジョン》を拘束している誰かがいて、言い方は悪いがまんまと利用して功績を上げたのは少女自身も自覚しているだろう。しかしそれだけのようだ。少女にとってはいま行っている作業が重要で、時幸はただ「居る」という認識しかないようである。別にそのことに不満があるわけではない。ただ、少女の行為は見過ごせない。

「……《マイナー》の方であるのなら、いえ、そうでなくても《ディヴィジョン》の死体に接触することが厳禁だということは御存じのはずです。あなたの行っていることは《機関》によってペナルティを与えられかねない。すぐ中止してください」

 飽くまでも丁寧に、しかしはっきりと時幸は警告した。自身が《機関》に所属していることは隠し、一介の《マイナー》のふりをして、だが。しかし、少女はお構いなしに、結局角を根元まで抜いてしまった。

「あなた、」

 見ていられず、時幸は少女に近づいた。

 そこで、少女が振り向いた。それだけだった。自分以外にその場に、ただ「居る」人間に目を向けただけ。しかし初めてだった。少女が時幸を見たのは……時幸が、彼女に見られたのは。

 雑り気のない黒の瞳は大きく、そこにいまは憤怒も憎悪もない。自分以外に《ディヴィジョン》に立ち向かった人を見る、素直な眼差しだけがあった。先ほどまでの殺伐とした雰囲気とは一転、年相応のあどけない女の子の表情だ。あまりの愛らしさに、少年の胸がときめいた。

 少女が時幸をどう思ったのかは判らない。もしかしたら煩わしいとは思っているかもしれないが、それでも「居る」だけの認識から昇格した気配がない。弁明もせず、引き抜いた角を軽く振って緑色の付着物を払い落とした。

 そのまま小脇に抱えて、踵を返す。

「っ、待ってくださいっ」

 触れるだけなら警告で済むが、持ち去るとなると話は別だ。時幸は少女の肩に触れようとした。だがそれは果たせなかった。

 至近距離からの剣戟が少年の鼻先2センチのところを掠め、とっさに躱すが踏ん張りが効かず、尻餅をつく。

 時幸は言葉を失った。こちらを見もせずに日本刀を突きつけ、いままた何も言わずに走り去りつつある少女に文句の一つも言いたい気持ちはあったが、口を噤んだ。そうしたことは自分でもよく判らない。ただ、時幸は少女を、この場ではもう追わない選択をした。

 少女のことは見過ごせない問題ではあったが、深追いして先ほど《ディヴィジョン》を斬った刀で傷つけられるわけにはいかなかったし、さらにはこの状況を放っておくわけにもいかなかった。《ディヴィジョン》を駆除した際には原則として、《機関》の処理班が到着し、一連の始末を終えるまでその場を離れてはならない。

 よろよろと立ち上がり、傍らの地面を見る。

 そこら中に広がりきった《ディヴィジョン》の残骸。西日が照らす、すっかり崩壊し、象徴である角まで片方捥がれたその姿は、工業廃棄物の小山のようだ。何も言われなければ、生き物の死体だとは気づかれないかもしれない。無残だった。かつて、人間の敵であり……そのさらに前は、人間そのものであった、はずなのに。

 嘆息し、空を仰ぐ。壁によって切り取られた深い藍。その中で白い星々が、囚人のように寂しく瞬いていた。



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