あるうたの手記
総合へ向けた断片
善を実践すること。一般に道徳と思われている福祉とは別に、自ら意識する社会批判として、直観的であること。またはその認識を目指すこと。許されていること。
善を為そうと意識した瞬間に、それは偽善的になる。善は自発的であるが、それは既存の社会に対して積極的という意味にはなく、一般の自然に対して、それが自然に見える信仰において、その意味で無関心である。むしろ為すことが善である可能性に自覚的であろうとする意志がそうである。
善を為そうと意識した瞬間に、それは偽善的になる。善は自発的であるが、それは既存の社会に対して積極的という意味にはなく、一般の自然に対して、それが自然に見える信仰において、その筋で無関心である。むしろ為すことが善である可能性に自覚的であろうとする。ただ意志は弱い。だから原理がある。
心(物自体としての)に、合理的な現実原則が、心それ自体(現象としての)の協調的社交性によって紛れ込むことによる困惑が、アトピーの比喩に適うかどうか。つまり心はある一面で自由(倫理)であると同時に、現実に忠実な洗練(道徳)を耐えて愛そうとする。
物自体としての心が、現実的な個人の経験の総和によって理解されたと思われてしまうこと。「物自体」という概念が何かを介して(例えばこの言葉自体)実体を持ったものとして想定される時、それはそう理解しようとする現象としての心の側面に過ぎない。
例えば仏陀が実体がないというのは、単に無を法の根拠にしているのではなく、実体に頼ることのない心の自立を言っている。さらに言えば仏陀の言葉でさえ、それが実体的なものとして利用されるのであれば、すなわちそれこそが空である。
現実に、自分の観念が存在しないからといって、その観念を恨むとしたら滑稽だろう。そしてそれは容易いことである。責任は観念にはなく、観念が実際にどうあるべきかを内容の吟味だけに終始せず、体系的に自覚した上で、それでも必要であると認められる場合に、むしろ現実的である。つまり実際を知るのは神のみであって、神はその自然ために必要な快感かもしれないのだが。
観念はそれが観念だというだけで否定されない。この場合、「それが観念」の「それ」が社会的に実際に貢献していないという理由で裁かれる。ところで観念が現実に貢献するとはどういうことか。それはその観念を現実が求めているという状況だが、それはまったく商品化した物質の名前であって、人が観念を持つということの矛盾には当たらない。観念とは、現実に存在せず、また貢献もせず、頭の中だけで考えられた独断的な夢想の世界だろうか。時に人はその非現実的な空想に浸って、城を築いたり、籠に揺られたりして、心安らぐこともある。しかし観念とはその程度の「領域」の話で終わるものではない。観念が、「観念の領域」として意識されることがすでに観念的である。
私の理想は、私に理想があるということだ。
知ることのできないものについて沈黙するというのは変だ。それは暗に何か知っていると言っているようで変だ。知らないことをしゃべることなどできないのだから。それは知らないというよりも、知るということができるものが確かにあるということの神秘でしかない。知ることのできないものは神秘ではなく、常識であることが理想である。
人工的な結果には人工的な進歩で対応する。しかし自然は何かを言う。結果には原因を。進歩には目的を。自然はこの意味で、人間にとって自由の比喩として、詩人を魅了する。風とか、空とか、詩人が自然に見ているのは原因や目的の人間の心の原理である。
人工的な結果には人工的な進歩で対応する。しかし自然は何かを言う。結果には原因を。進歩には目的を。自然はこのように、人間にとって自由の比喩として、詩人を魅了する。風とか、空とか、詩人が自然に見ているのは原因や目的の人間の心の「このような」としか思われない原理である。
自分の求める表象が対象として現実に存在するということが快の感覚を起こさせるとすれば、表現には様々な意図や目的があるにしても、芸術の場合はまず自らが意思する表象、想像が前提となっている。そして想像は確かに疑い得ないひとつの能力、力であり、その内容の優劣に関わらず、たとえばそれが空想と呼ばれる場合にも、現実には存在しないという点では等しい素朴さの中にある。そこで表現の場合、自分の意識する想像が、なぜ他人に向けたものである必要があるのか、というおかしなことがある。それは他人の想像が自分の求めるものと異なっており、それを同じものにしたくないという欲求からくるのだろうか。あるいは同じものにしたいという欲望からだろうか。同じものにしたいとすれば、それは形態の一部の模倣をともなう学習であり、想像の形についての方法の機会として試される。同じではないこと言う場合、その差異を事細かに言及するのは滑稽だ。それは結局どんぐりの背比べのようなもので、想像されたどんぐりについて言うだけで、どんぐりが想像することを忘れているのである。経済の観点からして売れなければ存在しない、知られなければ意味がない、自己満足的に完結し他人のことを考えていない・・・これらの認識はある現実的な全体像を知っていて、そのことを公に主張する。しかし自己愛の無邪気さが商業的に成功することは通俗的な芸能、また文学において今や常識的である。むしろそれが常識であって欲しいという消費の効率化のようにも思われる。ところで、自分の想像を何らかの表現によって投げかけることで他者と関係することは、それは他人の反応を考慮し、またそう考えることがすでに他人に依存しているのだから、それは自分のために他人を私的していることになる。想像することを形にする、ただそのことで不可避的に同等であってしまうことに自覚的であるように拘りのないこと、他人がはじめからいることの当然が自由であって、それは例えば顔の違いや民族、個人というものが、想像であり、想像する人間であるというだけのことという退屈、つまらなさであるが、だからこそ「自分の求める表象が対象として現実に存在するということ」は意志によって可能であり、それゆえ表現は常に生きることだ。存在しないのではない。奇妙だが、むしろそれはもっととことん想像しないのだ。
私は自分を主張するのではない。自分の考えていることを主張するのであって、さらに自分が生きていることを提示しているのだ。この意識には責任がある。自分を主張できるとすれば、それは無責任である。
想像と空想の違いは何か。想像は現実に対象を持ち、そうあってしまうものである。空想は対象を想像に持つ、そうあって欲しいものである。
現実を空想するのではなく、想像を現実にするべきである。
世の中を暗く考えることはできない。世の中の暗いところを実際に生きることで考えることが、想像できなくなることはできる。単にそれが暗いのだ。しかしそれは暗いのではなくて、眩しくて目を瞑っているだけかもしれない。明るいほうへ行くのが名案だ。
私は自分の夢を整えているのではない。そのように整えられた夢の中にあって、その安住の心地よさを餌にしているのではない。
芸人や芸術家が現実というとき、それはそれ向きに加工されている。それがバレナイように見せるのが技の魅せ所であるといえば、余裕がない。
意味を見せるために用いられるものは、意味をそのことのために限定する。
「言葉」というよくわからないものを選ぶよりも、肌の穴から吹いて出ているような自然さで、恥じることなく意志をもって行いたい。
書かれたものは学んだ後に、展開され、さらに別のものになる。それが何のために書かれたのかが、言葉を超えているために、未来のものに自分は消えて向かっている。
私の「考え」などどうでもよい。それは自分の考えではなく「誰か」が書いたことであり、考えに執着しないために吐き出されているに過ぎない。痕跡すらない。
私がどのように思い、考えようが、はじめに詩と音楽の間の関係は矛盾である。音楽のために、詩を書くことは、音楽以上に退屈である。なぜならそれなら音楽が詩を必要としないまでに完成されていればよいからである。
また詩のために、音楽を奏することは、言葉を使う以上に余計なお世話である。なぜなら詩は言葉で構成されたものであって、感覚の訴えではないからである。
音楽と詩が合わさったような、歌ということは奇怪である。この奇妙な統一を実践することは、だから常に妥当しないが、考えることはできる。その意味で私は自分の考えというものを放棄したい。
嘘をついてはいけない。本当になるまでは。
私の「考え」などどうでもよい。それは自分の考えではなく「誰か」が書いたことであり、考えに執着しないために吐き出されているに過ぎない。痕跡すらない。
歌をあえてそのような奇怪なものとして考えるならば、それを実践しようとする私も奇妙な存在というほかない。それは癪なので、奇怪とは言わず、存在しないものへの関係の形、遊び自体、独自かつ普遍的、理性的なコミュニケーションの方法だと言いたい。
多くの人に聴いてほしいとは思うが、それを目的には一切したくない。遊びの目的は、単に多くの人と経験的に関係することではなく、多様な関係自体が普遍的な規則であるように自由を交わす同時性の意識にあるからだ。
思弁的な理性の生活習慣に、肉体がついてこない場合、感性的に開き直って見るということは、ただ感覚的なものに思想を許容して推進することではなく、現象の現に及ぼしている感覚的作用を全的に贈与の洗練として見る笑い話として、ユーモアの可能性を必然的に要請する。
歌うことが理念ではない。理念は値するしないに関わらず、すでに歌われている。その意味でのみ、歌うことを理念的に自由の証明として思弁の餌としても良い。
感覚的なものにやっかむ理性は、すでに感覚的である。
感覚を利用するのではなく、目的でもなく、ただ直接的な方便として許された攻撃であること。
私の活動が、傾向的なものであると思われること。これは我慢できない。
(しかし傾向のないものとはいかなるものか。流れが、一切が省かれたもの。)
自己原因的な心意にとって、傾向的なものを相手にすることは疲れる。
(そのように把握しているかのように扱う傾向的なるものに、しかし自分は無自覚に、特に創作について、芸術について、そうなのではないだろうか。)
すべてを自由に注ぎ込んだところで、はじめから失う価値のあるものなど存在しない。
(すべてを自由に注ぎ込むと言うことは、すでに自由ではない。そしてこの詭弁の白眉は、あたかも自由が意識的に操作できる目的であるかのように、予め計画されていることだ。自由は目的ではなく、それを単に可能にする関係の有り様であるような形式だ。)
理性的かつ自由(倫理)に意識的あれば、それ自体がすでに実践をともなっている。意欲はそこから生じる、目的と同時に手段である。創作を、ここから切り離して独立した目的として仮定するならば、はじめの意欲は創意のための手段として隔てられる。王様と家来のように。しかしそれでは芸術に目的があるというよりも、芸術的な目的に意志が執着しているような不自由を感じる。自由な実践の傍らに、遊ばれるものが芸術であるほうが望ましい。芸術的な専攻の周辺で、遊ばれるものは自由ではなく気晴らしであり、それこそ芸術の真意にとっては耐え難い退屈のはずであるのに、みずから自由な体系の一部を独占して意志を強制するために、目的が恣意的になった結果である。また傾向的に、このことに無自覚であるばかりか意識的にそうあるべきだと信じ込んでいる場合、この状態は理性的であったとしても、およそ不安定な自信を常に相手にする、根拠のない信仰に近い。そして不自然な反復によって創意にもどこか機械的な、事務的な距離が生まれる。それは目的に芸術を置くことの曖昧さから来る。芸術は、自由の下位にある。それを転倒することは微妙に危うい。まずは自由の根拠であり、芸術はそこから生まれる理性の遊びである。遊んでばかりはいられないが、それは必要なものであり、必要になるのだ。その「なる」ことのなり方が頗る重要、大切な批判の発揮される普遍的な統制であり、決して必要だと任意に思い込んで経験的に軽々しく仕事にするのではない。
創作と宣伝の間にある違和感は、宣伝によって創作されたものの内容が変質されてしまうといった妄信による。創作されたものはそれ以外の何物でも一切ない。むしろ変質的なものは宣伝それ自体の体制であって、またそれを意識することは徹頭徹尾、創意と無関係である。しかし血は流れる必要がある。創作は宣伝してほしいのだろうか。宣伝とは何だろうか。あたかもそれは誰かの入用を多く見込んで流布される経済的範疇に、その商品体系に足を踏み入れるような突き放された自然さである。そして、創作されたものと同じように、市場的な宣伝はそれ以外の何物でも、意志では一切ないと言うことができる。
虚無と、仏教の無と、何が違うのか。虚無は意味の修行であり、仏教の無は悪を哀れむものである。
不快な表象を排除したいのであれば、それがただの表象でしかないということを知るだけでよい。実体に関しては、それは不快なのではなく単なる不都合に過ぎないのだから、意志に適合しないものとして判断するだけでよい。
カントを真似をして学んでいるのだ。学びは単なる模倣にとどまらない。それは例えばこういうことに似ている。造花はあるが、造種のようなものはない。なぜなら花を真似ても枯れることはないが、種を真似ると花がない上に、興味が枯れる。また、人は同じ言葉を話している。それは真似ているのではない。
感覚的なものによって内容を伝えることはできない。
感覚的表現によって伝えることができるものは、感覚的なものに限られる。それには一切の内容は含まれ得ない(苦痛の唸り声に内容があるとすれば別だが)。ただし、それがあたかも前提にあったかのような連想を可能にするだけである。だからそのほとんどは習慣から内容を抜き去ったものの美観に内容を求める傾向性である。
感覚的表現は意志に忠実なのではなく、簡潔に感覚に影響するものである。またこの影響から何か客観的なものを見出すことは不可能である。それはまったくそのまま感覚に依存している。美学と言っても、ただ芸術の範疇というものをその領域内で批判することしかできない。
感覚によって感覚を批判することはできない。自らが感覚をもって自壊するような形式を、その奴隷として再現するよりほかない。すると批判だけが残る。そして批判はある法則に突き動かされていることに思い至るかもしれない。
もしもしていれば、しなくてはいけないという命令はない。しなくてはいけないことを、していなくてはいけない。
音楽は、要するに情緒なのだ。それ以上に何か付け加えるとすれば、それは音楽ではなく、音楽論になるだろう。
道徳に情緒は無用である。
自由に遊ぶことはできない。自由を行使する理性が、一切の傾向性を度外視して自律的であろうとすることがそのように見えるのであって、あくまでもそれは理性の振る舞いである。
意志が可能が試されている法説に近い。
死に際して何か後悔するだろうか。それは生きている間にできなかったことだろうか。生きていない間は後悔はないのだろうか。それはつまり自分のことなのか、他人のことなのか、それが問題だ。答えは解っているが、解き方が問題だ。むしろ問題がすでに解く方法なのだ。
漂白は、それが漂白することによって権力を意識している。そして別種かつ同種のそれに見入られようとしている。すべてが漂白している中で、社会という形式を自然として見ること自体、ある力の傾向性の中で確保された怜悧である。
漂白することの内に社会的な安定を求めるよりも、予期せぬ社会の内にあって漂白的な理性の、その規則で遊ぼうとする方法のほうが、自由に適っている。なぜなら自由の根拠は、社会ではなく人間だからである。
酒を飲んで書いたものは、それを酒のせいにしてはいけないし、素面のせいにしてもいけない。誰のせいでもなく、自分のせいであることが本当さ。自分で飲んだのだから。
理性を行使することの障害となる傾向性とは何か。
それは経験的なものを経験的に処理する自然のことである。経験的なものに理性的な批判を加えることは容易い。しかし経験的な領域を出ない人は多く、その人の多さがつまり傾向性の具象である。それが世間であり、そこで生きている以上、傾向的な仕事があると同時に、傾向的な遊び、社交にも自然の概念が紛れ込む。そしてその経験の連鎖という自然が、理性にとってはまったく不自然なのである。
あらゆる傾向性と闘争し続けることだけが、詩を可能にする。
傾向性から完全に脱却することはできない。理性による理念としてあり続ける、目的としてあるというよりも、実体的なものを保有している、理念や目的を保有していると考えてはならない。それはあくまで一時的な結果としてそう見えるだけであって、さらに言えばそれもある種の感情的な傾向性に過ぎない、空想的な他人を相手にした自己欺瞞である。
自分を表わすことはできない。自分はすでに表わされているのであって、それ以前から自分に現れているものの自覚を介して、それに忠実であろうとする際の判断が、自分というものの価値のように見えるのである。
自分に現れているものに自覚的であれ。そして最後に必要なものを採り、うわべの自分が表わそうとするものが意識的であってはならない。
確かに私にしかできないものがあるように思う。それに一生を賭けるような確信と同時に意志が、必要なのかもしれない。つまりそれが、私にとって唯一の自由であるように。それだけを、為せたら。もうそんなに、時間もないのではあるまいか。
私は自分の自由を、放棄しているのではないか。傾向的なものに愛着を持つようにして。
なぜ実践しないのか。なぜ自由を放棄するのか。それにはどのような困難があるのか。それは一切の社会が傾向的かつそこを生きている他人もすべて自由に関心がない、その概念すら持っていないということへの、働きかけの不毛を感じるからである。では自由とは、他のものが自由ではないということによって、その意義を失うようなものだろうか。断じて否。だからこそ、自由にとっては実践が不可避的なのだ。
もしもすべてが一続きなら、何一つ繰り返すことはできない。
私の歌は 理性の働きのないところ、理性的認識の休止休息したものとは 凡そ無関係である。目を覚ましているように 明らかな言葉で語れ。 そしてこの意志が ややもすれば単なる形だけの主観に成り下がることを意識して 法則を実践し また感覚にも心地よいものであるように 音楽は 使用される 休息には切りがない むしろ無用なものを常に休止させておけ かかり患うこと少なく 目的であることに努めよ 秩序だたせよ
思いを凝らそう 凝らしていよう
足るを知ること 真面目になりきらないこと 真面目というのは自分の理想なのだ それを客観的に 楽観的に 批判すること
思うようにはならないということを 自分のこととしてではなく 世界に関する自然として理解すること
思うようにならないことのために、続ける。ことの、喜び。
自分は手段であり、世界は目的である。人は、世界の手段であるための、自分を生きることを求めている。自分は世界の手段であり、世界は自分の目的である。自分の目的のために世界が手段とされるなら、それは詭弁であり、破滅的な児戯に等しい。
我は 世界の主
我こそ世界 我こそ自分の主 我は世界
自由のために行う。戦うともいえる。これは主体的であり、客観的である。
自由によって行う。防御ともいえる。これは客体的であろうとすることによって、主観的である。自由という概念から演繹された観念に対する感覚から反省された認識は独断的である。なぜなら概念は何かのための根拠ではなく、根拠となるものが概念だからである。つまり自由を、その言葉の一般的な印象のために、概念から逸脱した単なる奔放や自然と解してはならない。自由のことを、人間的自然であるとか、超自然、真理だと考えてはならない。それは信仰であり、そのように考えることが自由ではないのだ。
体系のなかに自らを配置することは、体系を求めるよりも自由である。形自体が自由であることはない。しかし形のないものも自由ではない。形の内にあって、形ないものが形を目掛けていることが、形である。形のないものは、形のないものを形だと思っているに過ぎない。
自由に関する認識の転回。
原理に内在する自由を仮定した場合、人間に内在したものとして暗に他人に強要してしまう。このタイプの自由は、自由にある原因を求めているが、自由を根拠としたところでその概念を超えて希望したところで根源的には明らかに不明であり、受動的、内部依存的、観想的、抽象的、主観的な芸術である。ただしそれが自由を紛らわすことはある。
自由のため(for)だと考えた場合、その自由の概念的な真偽が前提だが、真の場合、自由については不明であっても、自由の概念は明確、規定的なので、それが規範であるならば、行いは自ずと自律的、遂行可能であり、かつ自分の外部においてこそ実効的であり、実際的に際立って客観的であることができる。自己の内部に自由を宿していると思っているうちは楽なのだ。それを勝手に他人に勧めていればいいだけなのだから。重要なことは、それを世界のための、ある意味で「単なる概念」に落とし入れることだ。
自由によって行われるのではなく、自由のために行うことの方が、論理に敵っている。
自由によって行うことは主観的である。
自由のために行うことは客観的である。
人間に内在する自由を理論的に証明するものや、自由によって導かれる可能性について、つまり自由が根底にあって、そこから派生するような社会の様相に関心をもっていたが、自由であることではなく、自由のために行うことの突っぱね感の心を感じる。そのために書いたりもした。そして理解できるものは理解のために形になって忘れるための生理であるようだ。それは理解を貪る無理解のようだ。言葉との距離は、感情から生まれるのではなく、書くことによって生まれるし縮まるし、なくなることはなくても忘れることはできる。他人との距離が、埋まることもなく、繋がることもなく、書かれることもなく、しかし感情でも言葉でもないもの、無関心であることは、しかししかし、心に据えて置かなければいけないほど、根源的なことではないかしら。人に関心がないというのは、人は関心と関係なく、むしろ人そのものを想像させる。大体、他人に関心があるというのは自分のことで、他人には関係ない。他人とは関係ではなく、関係と関係なくあるのだから、関心に無関心にある、それは人間だ。全部の人間だ。決して人間の全部ではない。それが心だ。
「自由であれ」ということと「自由のために行え」ということの違いは、前者は自分が自由であるように意識的に考えるのに対して、後者は自分の限界をわきまえており、自由そのものではなく、自由という概念を知っていて、そのことのために意志を持って行動できる範囲を知っていることにある。
自由のために行う場合、自由である必要はない。
世界は一人の自由で成り立っている。自由は世界の人によって試みられている。
余計なことは、いちいち学術的に気取って語ることだ。要点を抑えれば、その他の影響がある分野の瑣末な連想まで御解説する用はない。
意味を考えるならば、無意味を恐れてはならない。あたかもお化け屋敷に、本当のお化けがいないことを知っているように。
アトピーは無駄な考えだ。無駄に考えなくてもいい決定的な考えが普遍的だ。それは考えるのではなく、その他に考えさせられるだけで、すでに決定されている。
もっと簡潔に!
自由を説明することは自由ではない。自由に必要なのは、いや、自由に必然的に起こるものは行いである。
実践と言うと、何か事前に学習されたものの実際的な確認のようだから、行いと言いたい。
内部に宿るものが自由ではなく、客観に働きかけることが自由なのだ。
行わないのであれば、それを信じているにすぎない。
等しさは、原理による。原理とは、等しさについてである。
言葉によって忘れられるのが、言葉である。
言葉によって忘れることができるのは、言葉で済むものである。言葉で済まないものは感情ではなく、理性である。
言葉によって忘れることができるのが、言葉の形である。言葉によって考えさせられるのは、言葉を可能にしているものである。覚えるのではく、知ること。
超越論的とか、自己を高みから見る二重化という認識はよくない。それは言葉通り純粋に観念的である。そこから普遍的な体系が分析の結果によって統合されても、その思考が魅力的で説得力があったとしても、それは観念的な理論が明晰に現に起こっている現実を教えてくれるというだけで、人を救いはしない。救いは理論ではなく(理論は手段であって)、実際の人(この盲目に目があることが目的)である。
きかなくても、うたっていればいい。感覚を求めなくても、実践していればいい。感覚は切がないと同時に、感覚の域を出ない。実践は常に限界であって、他人と閉じこもることがない。私は自分の表わしたものに、感覚的に、またその意味についても満足することは終にないだろう。また表わしたと思っているものよりも、常に表れているものごと以上を望んだ結果であることが、はじめから不満の原因となるだろう。
そしてそれは別に、うたに限ったことではないのだから。むしろ、それ以外である。揺るぎない法がなくては、本当にリラックスすることはできない。もしも目の前の人が倒れていたら、うたなど歌いはしない。それは、それ以外であり、倒れていないということなのだ。そしてま自らも倒れまいとする、その均衡、心的法則の確固とした判断と、そのことに由来する困難と引き比べても、規律させるに足る。法がなければリラックスすることができない。自分が意識して守るべき法ではなく、それによって守護されている心的な規則の存在について、明瞭であること。人を規定する私は規定されており、私を規定している規則は人を規定せよと言っているわけではないので、何か他人に対して断定的である場合、それは自分の理想に反するものに対しての感情が優位にあって、その正当性を論じようとしているのである。しかし規則は、自らの衝動や思念、自己の思惑の外に見いだされる普遍性から確認されるものとしてあるから規則なのであり、まず自らが服従して、その実践がすなわち人を自他ともに規定しているのである。
うたは存在しない。歌っているときの姿勢が、自分の意思を超えたものに連鎖されたある体系の意識に忠実である場合が、その無条件な人間の存在について微笑んでいるのである。
不快な思考があるということ。思考が不快なのではなく、ある対象に関する思考が、その行為が不快であることの直感は、確かに実感される。
まったく私ひとりで自律的に歌う必要がある。経験的な普段の領域にある自然な人間関係に何一つ期待することなく、また嫌悪の念もそれが経験的な拘束の中にあることを知って、それとは無関係に常に新たな人間の現実に則り想像される、自由のために行われなければならない。結局はそのことが救いであると同時に唯一の自由な目的なのである。経験的な人間に必要以上に煩うことはない。
悪口というのは、それを話している当の口が悪いというだけで、対象は何も言われていないに等しい。あたかも自覚のない怯えた子犬が吠え立てるように。ただ徳のない言葉に対する嫌悪があるのみである。
自分の仕事に集中しよう。
もしも感覚から採るのなら、不快なものから始めて正当を思念するよりも、快適なものから始めることで妥当しないものを実際と見るほうが適っている。理性には、快も不快もない。それらは感覚と詭弁なので、それをもって理性に関わろうとしてくる、むしろ対象自身のことでしかない。
仏陀が梵天に出会ったこと。それは梵天が過去に仏陀に会ったことがあるということである。そしてそれは仏陀が思い出したことではなく、梵天が仏陀に話しかけたことである。
経験的なものから出なくては。経験的なものが言ってくるものから、出なくては。
無駄な中傷は、自分に集中することを教えてくれる。
続く