95 パンドラの箱を開けてしまった②
翌日、ブルノンヴィル辺境伯領に帰る日。
この国を揺るがす事態が起きている事を知らない私は、王都にいつも一緒に来るアンディ、レオン、リリ、そして、仕事と祐について調べるために私達と同行していたウジェーヌとロザリーと共に、ヴェルディエ侯爵邸のエントランスホールに集まっていた。
「宰相閣下は昨夜からお帰りではないのね」
「ええ。この日は、あなたが帰る日だと知っているはずですが」
私達を見送るためにジャンとヴェルディエ侯爵家の使用人達が勢揃いしているが、主であるアレクシスだけはいない。
息子の婚約者でありブルノンヴィル辺境伯であるためか、邸の主であるアレクシス自ら私達の出迎えと見送りをしてくれていたのに。
「お気に入りのあなたの見送りにこないなど、父上に何かあったのでしょうか?」
互いに肉親の情など抱いていないのが丸わかりだが、それでも親子だ。ジャンは心配そうな顔になった。
「私を気に入っているかどうかはともかく、無断外泊は気になるわね」
やばい類の人間だが一国の宰相だ。常に命を狙われる立場で、そのために護衛がついている。大抵の事は対処できると思うのだが……なぜだろう。胸騒ぎがした。
「……帰るつもりだったけど、宰相閣下の無事を確認してからにするわ」
将来の舅(今現在、婚約破棄か解消を考えているけど)だが、絶対に好きになれない人間だ。アレクシス自身を心配している訳ではない。人間としてはアレでも宰相としては有能だ。公人としてのアレクシスを失うのは惜しいのだ。
そこまで考えた時、呼び鈴が鳴る事もなく扉が開かれた。
最初はアレクシスが帰って来たのかと思った。
深くフードを被ったマント姿でも、その均整の取れた長身は窺い知れる。その体格から最初はアレクシスかと思ったのだ。
けれど、違う。
あまりにも纏う空気が違い過ぎるのだ。
研ぎ澄まされた刃のごとく鋭く、真冬の夜のように冷たく冴えた、他の誰も真似できない独自の空気、存在感。
私は固まっていた。
顔は分からなくても、私には分かってしまったから。
目の前の男が誰か――。
「手間を省かせてやる」
音楽的なその声は、今生で聞き慣れたものだ。
けれど、同じ声のはずだのに、口調が以前より落ち着いて聞こえた。……人格が変わると些細な所も変化するのだろう。
「あいつは別邸にいる。無事ではないがな」
扉の向こう側から私達の会話を聞いていたのだろう。私達がアレクシスを捜す手間を省いてくれたようだ。
「宰相を殺したのか?」
私の隣にいるアンディが警戒心も露に尋ねた。
「ああ」
彼は、あっさり認めた。
「……私を殺しにきたの?」
私の科白に、彼とアンディとウジェーヌ以外のこの場にいる人間全員が驚いた顔になったが私は気づかなかった。この時の私は、突然現れた目の前の男にしか注目していなかったからだ。……私は「彼」が係ると途端に周囲を見られなくなってしまうようだ。
「いいや。今日は挨拶だけだ」
「今日は」と彼は強調した。
いずれ必ず殺すという事だ。
前世だけでなく今生の彼にした事を考えれば、「彼」が報復しないはずがない。
たとえ、今生の彼が今生の私にした事を思えば、私が何をしても文句を言われる筋合いがない事であってもだ。
やりたいようにやる「彼」に、そんな理屈など通じないのだから。
「今の君を殺しても楽しめないからな」
自分の登場で動揺して固まっている私に対して彼はそう言った。
「目覚めたくなかった俺を無理矢理目覚めさせたんだ。せいぜい俺を楽しませろよ」
彼はフードを払った。
今生で見慣れた完璧な美貌だが、顔つきがだいぶ変わった。
肉体は同じだのに、「今の彼」を見て、ジョセフ・ブルノンヴィルだと思う人はいないだろう。
「――リリス」
「彼」しか呼ばなかった私の呼び名。
リリスは女夢魔だ。
サキュバスは、夢の中に現われて、その男の理想の女の姿になって誘惑し性交する下級悪魔だ。
「リリス」は、前世の私の母、莉々のコードネームだった。母は名前と美貌から、そう呼ばれていた。母はとっても嫌がっていたけれど。
そんな母と違い、どれだけ男達に体を弄られても快楽も苦痛も何も感じず、むしろ私を抱いた男達のほうが狂う様を見て、母親よりも祥子のほうが夢魔だと、彼だけは私をそう呼ぶようになったのだ。
「――祐」
目の前にいる男の肉体は、まぎれもなく今生の私の父親、ジョセフ・ブルノンヴィルだ。
けれど、今、その体で生きているのは、今生の人格ではなく、彼の前世の人格、武東祐、《バーサーカー》なのだ。
アンディやウジェーヌが危惧していた通りだ。
……私は手間暇かけて、武東祐、《バーサーカー》というパンドラの箱を開けてしまったのだ。
次話はウジェーヌ視点です。




