9 あなたはクズですね。お父様
ジョゼフィーヌの誕生日のちょうど一か月後、五月三十日が祖母ジョセフィンの誕生日だ。
今日、お祖母様は三十六になる。加齢は彼女の美しさに陰りなど見せない。むしろ、積み重ねた歳月、その経験に磨かれ美しさが増してさえいる。
朝食の席に着いたお祖母様は、ひどく憂いに満ちていた。その様子さえ麗しいが。
「……ジョセフも来るわ。覚悟しておいてね」
孫娘に「覚悟しておいて」と言いつつ、本当は自分自身に言っているのかもしれない。それだけ息子に会うのが憂鬱なのだ。
「私はジョゼフィーヌではないので、何を言われても平気ですよ」
今生の父親は、ジョゼフィーヌの誕生日会には来なかったくせに、反発していても母親の誕生日会には来るのだ。
まあ、ただ母親の誕生日会だからというだけでなく貴族にとって重要な社交場にもなるからだろう。国王の寵姫でブルノンヴィル辺境伯である彼女の誕生日会には、ラルボーシャン王国の主要な貴族が集まるのだ。
なので、お祖母様の誕生日会は、毎年かなり盛大になる。
(……いよいよ、今生の私の父親に会うのか)
一生会わないならそれでもよかった。
ジョゼフィーヌの記憶から心温まる肉親の交流など期待できないのは分かっているから。
ひどい言葉を投げつければいい。暴力も構わない。
けれど、私はジョゼフィーヌではないから泣き寝入りなどしない。
きっちり倍にして返してやる。
誕生日会は夕方から始まるが、家族であるお祖父様と父親は一足先にやってきた。
私とお祖母様、アンディとメイド達が二人を出迎えるためにエントランスホールに集まっている。
「会いたかったぞ! ジョセフィン!」
お祖父様は会うなりお祖母様を抱きしめた。ジョゼフィーヌの記憶では、これはいつもの事。
「一月前に会ったばかりですわ」
お祖母様の声音は呆れているようだ。
「本当は傍にいてほしいんだ。けれど、君がブルノンヴィル辺境伯である以上は無理だろう?」
滅多に会えないからこそ、会うと嬉しくて嬉しくて、お祖父様はお祖母様を抱きしめずにいられないのだ。
お祖父様とお祖母様のやり取りを皆、微笑ましそうに見守っているというのに、ジョセフがその空気をぶち壊した。
ジョセフは冷ややかな視線を私と私の隣にいるロザリーに向けると、ジョゼフィーヌの記憶通りの音楽的な声で、こう言った。
「離れている間に少しはましになるかと思ったのに、相変わらず、お前に似て貧相な顔だ。ルイーズは、あんなに可愛いのに。姉妹で、どうしてこう違うのだろうな?」
お祖母様やジョゼフィーヌと同じ銅色の髪と赤紫の瞳。均整の取れた長身。お祖母様の男性版のような超絶美形だ。
ただし、素晴らしいのは見かけだけだ。
(……こいつがジョセフ、今生の私の父親か)
我知らず体が震えた。
どんな強敵を前にしても武者震いはしても、「私」が恐怖に震えた事はなかった。
これは、ジョゼフィーヌの恐怖だ。
記憶には二つある。頭が憶えている記憶と体が憶えている記憶だ。
ジョゼフィーヌの体は憶えているのだ。父親から受けた暴力による恐怖と痛みを――。
だから、父親を前にすると条件反射で体が震える。
確かに、ジョゼフィーヌの記憶で見た。こいつは、幼い彼女を罵倒するだけでなく何度も殴ったり蹴ったりした。
……ジョゼフィーヌの人格は消えたというのに、体の記憶に残るほど、こいつは彼女に恐怖を植えつけたのだ。
それでも、ジョゼフィーヌは父親から「愛されたい」と願っていた。
その気持ちは、私には全く理解できない。
魂が同じでも、記憶があっても、私はジョゼフィーヌではないから――。
それでも、この体は、この魂のために在る。
ジョゼフィーヌの体であり私の体だ。
こうなるほど私の体に恐怖を植えつけてくれた「礼」は、させてもらおうか。
「……あなたも相変わらずですね。ジョセフ様」
ロザリーもジョセフに劣らぬ冷たい声音と眼差しで言った。
ジョセフに惚れて、お祖母様の命令とはいえ彼の子まで身籠ったのに、どうやら今のロザリーには彼に対する恋情は全くないらしい。我が子への態度で、ロザリーのジョセフに対する想いが消滅したようなのだ。女としての恋情よりも母としての愛情が勝ったのだ。
私を庇うように前に出ようとするロザリーの袖を私は引っ張ってとめた。
私はジョゼフィーヌではないから庇われたままではいない。
それに何より、私自身がやり返さなければ気が済まなかった。
怪訝そうな顔で私を見下ろすロザリーに構わず、私は今生の父親を見据えた。
「何だ?」
いつもだったら自分を前にすると、おどおどして決して目を合わせようとしなかった娘のいつもとは違う様子にジョセフも怪訝に思ったようだ。
私は目を眇めた。
「お祖母様が仰る通り、あなたはクズですね。お父様」
ジョゼフィーヌからの思ってもいなかった科白に、ジョセフは絶句したようだ。
ロザリーを含めたメイド達は目を丸くしている。
お祖父様とお祖母様は噴き出した。
「……今、何と言った?」
ジョセフは強張った顔、震える声音で尋ねた。
聞き間違いだと思っているのだろうが、生憎違う。
「あなたはクズだと言いました。人間としてクズなだけでなく耳も悪いんですね」
この場でただ一人、前世のコードネーム、氷人形らしく無表情を保っていたアンディだが、とうとう堪えられなかったらしく噴き出した。氷人形も形無しだが、こういう顔も魅力的ではある。
「お前! 父親に向かって!」
怒鳴りつけるジョセフに、私はきょとんとした。
「おかしな事を言いますね。ジョゼフィーヌを娘だなんて思ってないんでしょう?」
本当に、何を言っているのか、この男は?
「だのに、こんな時だけ父親の権利を主張するだなんて図々しい」
私の心底からの軽蔑のこもった眼差しを「お父様」に向けた。ジョゼフィーヌでは絶対に「お父様」に向けなかったものだ。
ジョセフの拳が震える。祖父と祖母の前でなければ、容赦なくジョゼフィーヌに拳を振るっていただろう。
お祖父様もお祖母様も息子の孫娘に対する行き過ぎた発言や行動はとめるので、ジョセフも両親の前では自制していた。クズ野郎も、国王である父親と、いくら反発していても母親なので、両親の言う事だけは聞くのだ。
整い過ぎた顔は怒りのあまりか表情をなくしている。そのせいで結構迫力がある。
ジョゼフィーヌであれば、いや、心の弱い人間なら恐怖するだろうが、生憎、私はこの程度では動じない。前世で見かけも中身も極上の人間をたくさん見てきた。見かけだけのクズ野郎の怒りなど怖くもなんともない。
「どれだけ邪険にされてもジョゼフィーヌは父親を慕っていた。その彼女の気持ちを、ずっと踏みにじってきたくせに」
少し悪態を吐かれたくらいで父親の権利を主張してきたジョセフが許せなかった。
この怒りはジョゼフィーヌのためではない。
記憶で見た父親からの虐待など今まで気にしてなかった。
同じ魂でも記憶があってもジョゼフィーヌがしてきた体験は、私にとっては映像に過ぎず実感がなかったからだ。
けれど、父親を前にして芽生えた恐怖、この体が憶えていた記憶――。
ジョゼフィーヌが生きていた体だが、これから私が生きる体でもあるのだ。
この体に消えない恐怖を植えつけた事が許せなかった。
だから、「お父様」。
あなたの体にも消えない恐怖を植えつけてあげる――。