61 「愛人になれ」
いつまでも玄関で話しているのもどうかという事で私達は居間に移動した。
貴族の館ほどではないが庶民にしては広い家には家主であるウジェーヌとロザリーしか住んでいない。
前世で《マッドサイエンティスト》のコードネームを持っていた彼は、今生でも人と交流するより閉じこもって興味のある事柄を研究するほうが好きだ。けれど、放っておくと家が汚れるし生きていくのに食事は必要だ。それで仕方なく以前は通いの家政婦を雇っていたが今はお祖母様の頼みでロザリーが住み込みの家政婦だ。
家を継ぐ長男でこそないが国と民に命と人生を捧げる貴族として生まれて現在のウジェーヌの生き方は普通なら許されない。
けれど、ウジェーヌは、この世界よりもずっと文明が進んだ世界の知識と天才的な頭脳を持つ転生者。自分が独り立ちできるだけでなく実家と領地が困らないくらいの資金も稼いだ後、家を出た。
「祥子」以外はどうでもいい彼でも幼い頃の自分を守り育ててくれた家族に恩を感じる心はあったらしい。いくら精神は大人(老人)で天才的な頭脳を持っていても体は生まれ落ちてしばらくは無力な子供だ。家族の庇護がなければ生きていけない。
それでも家を出る際、「私を飼い殺そうと思ったら、どうなるか分かっているよな?」と家族を脅したらしいが。ウジェーヌの危惧は当然だと思う。彼ほどの知識と天才的頭脳ならば、血の繋がった家族だろうと飼い殺しにしようと考えるだろうから。
幸いそうはならずウジェーヌは現在、悠々自適に暮らしている。
そうできたのは、ウジェーヌが家を出た際脅したからだけではないだろう。今生彼の家族となったアルヴィエ子爵家の人達は分かっているのだと思う。彼を怒らせると自分達だけでなく周囲にも甚大な被害が出ると。
今生の家族に恩を感じる心を持っていても、唯一の存在にしか価値を見出せない、その人の思想だけを唯一の正義とする、そんな人間がまともな訳ない。
天才である事を抜きにしても、あの《バーサーカー》とは違う意味で彼もまた人間の範疇から大きく逸脱しているのだ。
「……私がどう思っているかより、あなたはどうなの?」
私達のために用意した紅茶とお菓子をテーブルの置いたロザリーが対面のソファに座ると私は尋ねた。先程のロザリーの質問をはぐらかしてしまったが答えられないのだから仕方ない。
「ウジェーヌ様が望まれるのなら、どんな顔になってもいいと思いました」
ロザリーは私のはぐらかしについては言及してこなかった。はぐらかしに気づいていないのか、気づいた上で言及しないでいてくれているのかは分からないが。
「……でも、その顔は」
「この顔がウジェーヌ様にとって唯一無二の方の顔なのは分かっていますわ。お嬢様」
ウジェーヌは「話す義理はないだろう?」と言ったし、実際、その顔の女性について話してなどいないだろう。けれど、彼の様子などからロザリーもそれくらいは見抜いたのだ。
それでも惚れたウジェーヌが望んだから彼にとって唯一無二の女性の顔になったのだ。
けれど、もし、その顔が前世の娘の顔だと知っていたら彼女は整形を承知しただろうか?
その考えを私はすぐに振り払った。ロザリーが、私の今生の母親が、その顔になるのが嫌なら教えておくべきだったのに私は黙って彼女をウジェーヌの元に行かせた。こんな事は考えるべきじゃない。
私はカップを手に取ると紅茶を一口飲んだ。懐かしい味に顔が綻ぶ。
偶々なのか、そうしてくれたのか、使われている茶葉はいつも私が飲んでいる物、淹れたのはロザリーだ。「私」となる前からこの体が慣れ親しんだ紅茶の味だ。
ロザリーがいなくなった後、他のメイドや自分で紅茶を淹れても彼女と同じようにはできなかった。お祖母様の言う通り彼女は有能なメイドで、いなくなっていろいろと困った事が多いが、何より、あの紅茶の味を二度と味わえなくなったのが一番残念だった。
「女として美しくなったのは嬉しいのですが……困った事が起きてしまいました」
ロザリーが話そうとしているのは電話で言っていた「困った事」の詳細だろう。
美しくなって「困った事」ならストーカーだろうか?
今のロザリーの顔だった前世の私は何度かストーカーに遭った。前世の私は秘密結社の実行部隊員だったので苦もなく撃退できたが、ただの家政婦であるロザリーでは無理だろう。
いくら愛せなくても今生の母親だ。彼女が殺されたりストーカー被害に遭う事態など考えたくもない。
「この顔になって近くの市場に買い物に行ったら、ジョセフ様に会ってしまいました」
「お父様に?」
あの男は良くも悪くも貴族だ。庶民が生活必需品を調達する市場になど行かないと思っていたのに。
「あ、でも、顔を整形したのだから『ロザリー』だと気づかれなかったのでしょう?」
「ええ。ですが……いきなり私の手を摑むと『愛人になれ』と言ってきました」
「は?」
手に持っていたカップを取り落とさなかった自分を褒めたい。私は慎重にテーブルにカップを置いた。
人様の物なので壊す訳にはいかない。まして、前世では秘密結社の総帥、今生では貴族令息であるウジェーヌの持ち物は高級品ばかりだ。このカップも高価なのは一目で分かる。貴族令嬢に転生したので舌と物を見る眼が無駄に鍛えられたのだ。
「……最初は何を言われたのか理解できなかったのですが」
ロザリー同様、私も理解できない。というか、したくない。
けれど、しなければ話が進まないので、私は仕方なく、本当に仕方なく確認した。
「……お父様が、あなたに、愛人になれ、と言った?」
私は思わず少しずつ区切って訊いてしまった。
「……はい。その時は何とか振り切って逃げたのですが、それ以来、ジョセフ様は市場で私を待ち伏せして毎回『愛人になれ』と迫ってくるのです」
「……あなた、あいつの愛人になどならないわよね?」
「なりません!」
恐る恐る訊いた私に、ロザリーは間髪を容れず、しかも、いつもおとなしい彼女にしては珍しく怒鳴った。
「初恋で娘の父親でも、娘を疎んじるだけでなく暴力を振るう姿を見て気持ちが醒めたどころか大嫌いになりました。あいつの愛人になるくらいなら死んだほうがマシです」
普段は「ジョセフ様」だが今は「あいつ」呼ばわりだ。心の中ではいつもそう呼んでいて、つい出てしまったのだろう。
ロザリーは現在ウジェーヌに惚れている。けれど、それを抜きにしても彼女にとって「ジョセフの愛人」だけは忌避したい事なのだと気づいて私はほっとした。




