56 私にとっての信頼
「アンディ、悪いのだけれど、執務室からアレ持ってきて」
アンディとは前世からの付き合いだ。大抵の事は熟年夫婦のように「アレ」だけで通じるのだ。今回も彼は、すぐに私の望む物を間違えずに持ってきてくれた。
執務室の隠し扉に隠していた物。
この隠し扉は特殊な構造をしていて開け方を知っているのは、この館の主である代々のブルノンヴィル辺境伯と家令のみだ。
私がブルノンヴィル辺境伯に襲爵してからは、さらに隠し扉を改造したので現在の家令であるアルマンでは開けられないだろう。
現在、あの隠し扉を開けられるのは、ブルノンヴィル辺境伯となった私と私が最も信頼しているアンディだけだ。
アルマン・グランデは有能な家令で人格者だ。アンディの今生の父親という事を抜きにしても人として好ましく思っている。
けれど、私はアルマン・グランデという人間を心の底から信じてはいない。
アルマンの忠誠は私個人ではなくブルノンヴィル辺境伯家、ジョゼフィーヌを含めた主家の人間に対してだからだ。
だから、主がクズでも脳内花畑でも主家の人間であるというだけで誠心誠意仕える事ができる。
自分が主だと定めた人間以外には決して従わない息子とは真逆だ。
その人間の地位や与えられる褒賞だけに従う人間を私は信じない。
地位が転落したら、褒賞が与えられなくなったら、裏切るからだ。
けれど、情によって結ばれた絆だけは信じられる。
情によって結ばれた相手を裏切るのは、自分自身を裏切るのと同じ事。
自分の魂と命を殺すのも同然なのだ。
「お父様にお見せして。ああ、見せるだけよ。奪い取られないようにね」
もう一度これを貰うために、ただでさえ忙しい国王の手を煩わせるのも気が引けるし、第一、同じ手順を踏むのは面倒だ。
アンディは頷くと、無言でジョセフの鼻先に持ってきた物を突きつけた。
最初は怪訝そうな顔をしたジョセフは、それを見ているうちに顔色が面白いくらいに変わった。
当然だ。
アンディが持ってきたのは、勅書。
この私、ジョゼフィーヌ・ブルノンヴィルを新たなブルノンヴィル辺境伯に襲爵すると書かれた。
国王陛下直筆で御名御璽まであるので、ジョセフでも誰でも異を唱える事などできやしない。
だのに、ジョセフは訳の分からない事を喚き始めた。
「……ぎ、偽造だ! 兄上が私を差し置いて、お前などを新たなブルノンヴィル辺境伯に据えるなどありえない!」
私だけでなくこの場にいる全員がジョセフに呆れた視線を向けている。それくらいジョセフの発言は馬鹿馬鹿しいのだ。
「御名御璽の偽造は死罪だのに、わざわざそうまでしてブルノンヴィル辺境伯になる気は私にはありませんよ」
復讐のためでも生まれによる義務や責任のためでもなく私自身のために生きたいのだから。
悲惨な前世だったレオンからすれば、復讐に身を捧げても、それなりに幸せな前世だった私が「今生では人生を謳歌したい」などと宣うのは許し難い事だろう。
何より、私は前世で数多くの人間を殺した。
そんな私が人生を謳歌するなど本来なら決して許されない。
けれど、どういう運命の悪戯か、今生の人格は消え、前世の人格が目覚めたのだ。
ジョゼフィーヌ・ブルノンヴィルとしての今生の人生を終えた後、煉獄に堕とされても構わない。
人生を謳歌したい――。
まあそれでもさすがに、クズや脳内花畑に辺境伯を押しつけて領地がめちゃくちゃになったら、お祖母様や領民に申し訳ない。
彼らよりは、まだ私のほうがマシだろうから辺境伯になろうと思ったのだ。
私以上に辺境伯に相応しい人がいるのなら喜んで譲っている。
「何より、陛下は、あなたを生物学上以外で弟だとは思っていない。だのに、どうして『兄上が私を差し置いて、お前などを』という発言が咄嗟に出るのか理解不能ですね」
誰が見ても国王となったフィリップが異母弟に無関心なのは明らかだのに。
お祖母様、ジョセフの生母、ジョセフィンには国王も敬意を払っていた。彼女が美しく聡明で強い女性で、何より自分の最愛の女性、レティシア妃が敬愛する叔母だったからだろう。
「私と兄上は母親は違っても、同じ父上を持つ兄弟だ!」
「血の繋がりを根拠にするのは間違っていますよ。お父様」
王侯貴族が王や当主となるために血族同士でも争うのは、この世界でも前世の世界でも歴史が証明しているというのに。
「あなたは私の事もルイーズの事も、生物学上以外で娘だと思っていないのでしょう」
今生の人格は誤解していたが、ジョセフは異母妹の事も娘として愛していない。
ただ疎んじている娘が傷つくから彼女の目の前でルイーズを可愛がっていたに過ぎない。
今生の記憶を持っていても主観は「私」だから気づいた。
ジョセフのルイーズに向ける眼差しに愛情など欠片もなかった事に――。
「娘を愛せないくせに兄から愛されていると思えるとは、何とも不思議ですね」
これは皮肉ではない。純粋に疑問に思った事を言っただけだ。
「黙れ! お前とあの馬鹿は、父親に愛されるだけの器がないだけだ! 私は違う!」
「……器ね」
私は鼻で笑った。
「見掛け以外何の取り柄もないくせに。幼い娘を虐待していたクズのくせに。そんな風に仰るなんて笑ってしまいますわ」
私は言葉通り、わざとらしい笑い声を上げてみせた。
「お前は! 父親に向かって!」
憤るジョセフに、私はこれまたわざとらしい溜息を吐いてみせた。
「だから、あなたに、そう言う権利はないと何度言えば分かるんですか? 本当に頭悪いな」
私がそう言った瞬間、思いがけない事が起こった。




