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「ありがとうございます。メイヴェルは殿下との婚約が破棄された後、実は、王都の平民街で暮らすことになりました」
「…何?」
「王子殿下との婚約破棄は少々騒ぎになっておりまして、メイヴェルは侯爵令嬢として貴族界にいることが難しい状況でした。ですからほとぼりが冷めるまで」
「メイヴェル嬢を平民落ちさせたというのか?貴族の御令嬢が平民として生きていけるはずがないだろう!」
ぴく、と人知れずヴィンセントの拳が揺れる。
「それが父としての沙汰なのか、侯爵!見損なったぞ!」
「いいえ、決してそのようなことは…!本当に一時的なものだったのです。そして、平民として暮らすことはメイヴェルの意思でもありました」
「なんだって?」
「社交界は殿下とサラ様の噂で持ちきりで、メイヴェルは大変肩身の狭い思いをしておりました。少し羽を休めたいと申し出たので…」
ジュリアス王子はカップに口をつけた。
侯爵家御用達の紅茶は、昔バーネット邸を訪れる度に口にした懐かしい味だった。
「…なにも平民街でなくても、どこか別邸で過ごしてもよかっただろう」
「貴族とは口さがないものです。そしてその下に支える従者たちも、ともすれば…」
侯爵は穏やかに目を細めた。それは娘を想う父親のもので、王子はそれ以上何も言えなかった。
「それで、メイヴェル嬢は今もまだ平民として?」
それならこの重苦しい邸宅の雰囲気はなんだろう。
娘を想うあまり夫人が倒れた?
いや、それだったらもっと大騒ぎになっているだろうし、国王夫妻に報告があるはずだ。
屋敷の他の誰かだろうか?
彼女には妹君がいたはずだ。しかしそれだって夫人と同様、控えめすぎる。一方で、もし侍従たちになにかあったとして、これだけ大仰にするだろうか。わからない。どこか中途半端だ。
「その先は私からよろしいでしょうか?」
ヴィンセントが切り出して、ジュリアス王子はそちらに目を向けた。
どこまでも黒い男だった。
衣装も黒いが、そのウェーブがかった艶のある髪も漆黒だ。どことなく空気が重く、体格もいいせいか威圧感がある。何も読み取らせない表情をしているくせに、明るいグリーンの瞳だけがいやに強く光を湛えている。
つい目を反らしたくなったが、王子の矜持からどうにか耐える。
「殿下はレアード商会についてご存知でしょうか?」
「冗談だろう?国を代表する大きな商会のひとつではないか。『他国の珍しいものを手に入れたいなら、まずはレアード商会に聞いてみろ』と、城でも合言葉のようになっているほどだ」
「ありがとうございます」
「良いものを扱っているとはわかっているのだが、今回サラの婚礼衣装を用意するにあたっては、御商会を頼らなかった。この国の伝統技術を扱う職人を擁したからな」
「いえ。恐れながら、その職人も我が商会が斡旋した者です」
「どういうことだ?」
「レアード商会は他国からの仕入れで成長したと言われがちですが、本来は違うのです。自国の商品を他国に売って益を得ました。そのため職人は私どもの宝です。彼らを守るような組織でありたいと、我が商会と取引がある職人たちには、組合というものに参加してもらっています。今回お声掛けいただいた職人たちもそうでございます」
「ほう」
「ちなみにドレス職人だけではなく、宝飾品も、食材も、形は違えど数多の品物に携わらせていただきました。誠に感謝しております。殿下およびサラ様へ改めて御祝と御礼を申し上げます。」
流れるように頭を下げられ、鷹揚に頷いて応えたジュリアス王子は、顔色の優れないバーネット侯爵を見てハッとした。
「それはわかった。それよりメイヴェル嬢についてだ!」
「そうです。メイヴェル様についてです」
黒い男、ヴィンセントは頷いて続ける。
自分のように慌てていない様を見て、王子は少し歯噛みした。
「メイヴェル嬢は平民街に下りて、レース編みの店をはじめられました」
「レース編み?」
「メイヴェルはレース編みが得意だったんです。趣味にしておくには惜しいほどでした」
バーネット侯爵が目を細めて懐かしむ。
「先ほども申し上げたように、下町の職人や商店は多くが私どもの組合に入っておりますので、私も顔役としてご挨拶に向かいました。残念ながらいいお返事はいただけなかったのですが」
ようやくここで元婚約者と大きな商会の会頭が繋がった。
「メイヴェル嬢はいま下町でレース編みの店をしているのか」
なるほど。かなり意外だったが理解した。
納得する王子へ、ヴィンセントは顔を顰め、ますます重いオーラを纏いながら首を横に振る。
「いいえ。それは違います、殿下。いまはもうレース編みの店はないのです」
「なんだって?」
庶民の店はそんなにすぐ潰れるのか?
だが、ヴィンセントが告げたのはまったく予想しない内容だった。
「燃えたのです。メイヴェル嬢のレース編みの店は、跡形もなく燃えてしまいました。」
「なんと…!?」
ジュリアス王子は言葉を失った。
バーネット侯爵はきつく目を閉じて耐えている。
「ならば、この屋敷の黒は……!」
導き出される答えに血の気が引く。
すべてを口に出す前に「あああっ!!」とそれまで気配のなかったメイドが突然崩れ落ち、ジュリアス王子はびくりと肩を跳ね上げた。
「メイヴェル様…!!わたくしが、わたくしがメイヴェル様を御守りしなくてはならなかったのに…っ!」
「落ち着きなさい、エステル。殿下の御前だ」
「ですが、旦那様…っ!!」
バーネット侯爵が人を呼んで、慟哭するメイドは連れて行かれた。
「お騒がせしてしまい申し訳ありません。ですがエステルは、娘が幼い頃から付き従ってくれた侍女なのです」
静寂が戻り、顔色の悪い侯爵は静かに息をつく。
「エステルはメイヴェルが町に下りた後も側におりました。ですがあの日は、エステルはこの屋敷に戻っていました」
「エステルさんは定期的に侯爵様へメイヴェル嬢の様子を報告していらしたんですよね」
「はい。いつかメイヴェルはこの屋敷に戻すつもりでおりましたから」
ヴィンセントの言葉にバーネット侯爵が頷く。
「ですが店に戻ったエステルが目にしたのは、燃え盛る炎だったそうです。半狂乱になったエステルを保護してくれたのは、下町の者とレアード様でした」
ぼんやりとしていまいち動きの悪い頭をなんとか回転させて、王子は問いかける。
「そのエステルが店に火を放ったということは…?」
「それは絶対にあり得ません。姉妹同然に育った二人ですよ。メイヴェルが辛いときはずっとエステルが側にいたのですから」
バーネット侯爵にきつく見据えられ、ジュリアス王子はばつが悪くなる。侯爵令嬢が何に心を痛めていたのかなど明白だった。




