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ジュリアス王子は、愛しい恋人との婚約の手続きをようやく一段落させたその日、そういえばとある令嬢のことを思い返した。
王子が愛しているのはサラという柔らかい雰囲気の美しい少女だが、彼女と出会うずっと前、ほんの幼い時分に両親により決められた婚約者がいた。
名はメイヴェル・バーネット。
国王の忠実なる臣下、バーネット侯爵の長女だ。
メイヴェル嬢も美しい御令嬢だったが、金というよりプラチナに近い髪も、透き通る硝子細工のような青い瞳も、なんだか冷たくて少し苦手だった。
その点、サラの柔らかくふわふわとしたクリーム色の髪は撫でると穏やかな気持ちになるし、温かみのある菫色の瞳はいつも笑みを湛えていて、ときに憂いでしっとりと濡れれば、あまりに美しくて飴玉のように舐めてやりたくなる。
親しみやすいサラとは違い、メイヴェル嬢はどこか近寄りがたい。そのくせ、たまに顔を合わせれば不安の混じった目を向けられて、随分ひやひやさせられたものだ。こちらは何もしていないというのに。
正直彼女との婚約は窮屈で、サラと運命の出会いを果たし、無事に婚約関係を解消できたときには、大きな解放感に包まれたものだ。
父である国王陛下の忠臣バーネット卿の息女ということ、侯爵令嬢ということ、一方のサラはシーアン男爵の娘で己との身分差から。多少の悶着はあったが、ついにはこうして無事にサラを花嫁に迎える準備が整った。いや、本当に手間取ったけれど。
とはいえ、メイヴェル嬢が憎かったわけではない。自分の周囲が落ち着いた今、彼女はどうしているのだろうと気にかかった。
自分の好みではなかったが、とても美しい令嬢である。引く手数多ですぐに新しい婚約者が用意されているだろう。
それとも第一王子の元婚約者ということで、敬遠されてしまっているか…。貴族社会はその辺とても残酷だ。もしかしたら社交界に顔を出せなくなっているかもしれない。一段落するまで、そう、例えば自分とサラの婚儀が滞りなく終わるまで。
なんとなく心にわだかまるものがあり、ジュリアス王子は愛しいサラにメイヴェル嬢について訊ねてみた。
サラは驚いたのか、愛らしく目を丸くして「私もメイヴェル様の現状は存じ上げません」と首を横に振った。
「ですが…そうですね。ジュリアス様を奪うような形になってしまったのは心残りですし、それにもし御了承いただけるなら、是非メイヴェル様にも私たちの婚儀に参列していただきたいです」
サラは愛らしい笑顔でそう言う。
自分の夫になる男の元婚約者にまで気を使えるなんて、どこまで心が広いのだと王子は感激に心を震わせた。
煩わしいことはさっさと片付けてしまおうとばかりに、ジュリアス王子はさっそくバーネット卿に手紙をしたためた。
そして翌日には極僅かな供を連れて侯爵邸へ馬を走らせるという徹底ぶりだった。
***
久しぶりに訪れたバーネット侯爵邸はひどく静まり返っていた。
子供の頃は何度か訪れていたが、こんな様子だっただろうか?
もっと庭だけでなく邸宅の中も美しく賑やかに花で溢れていなかったか。侯爵夫人が趣味を兼ねて花を飾っていると、昔メイヴェル嬢が話していたはずだ。
馬から飛び降りると、少し慌てたように侯爵家の執事が出てきた。
「お待ちしておりました、ジュリアス王子殿下」
少しくたびれたような執事の姿に瞠目しながら、王子は促されるまま馬の手綱を手渡す。
邸宅の中に案内されて、ますます驚いた。
「これは…」
後に続いた供の者も言葉がでないようだった。
閑散とした室内は花がないというだけでなく、そこかしこに黒い布が下がっている。
それが意味するのは、つまり――…
「ご足労いただいてしまい大変申し訳ございません。ジュリアス殿下におかれましては…」
「挨拶はよい!なんだこれは、まさか誰か…」
現れたバーネット侯爵は随分やつれた表情をしており、黒い上下に身を包んでいた。まるで喪服のような。
「殿下はメイヴェルのことを聞いていらしたのでは…?」
「メイヴェル嬢になにかあったのか!?」
声を上げる王子に、侯爵はしばし息を止めて、そしてそっと嘆息した。
「いえ…ではお話いたしますのでこちらへどうぞ。それから先客がいるのですが、同席をお許しいただけますか」
「客?」
侯爵に続いて入った応接間には、黒い三揃えを着た男が立っていた。ネクタイまで黒い。やはりこれは、と言葉を飲み込む。
「バーネット侯爵、こちらは?」
「レアード商会会頭のヴィンセント・レアード様です」
「お初にお目にかかります、ジュリアス王子殿下。ヴィンセント・レアードと申します」
「ああ…レアード伯爵の三男だろう?噂は聞いている」
「恐縮でございます」
ヴィンセントは深く頭を垂れる。
ジュリアス王子の向かいに侯爵とヴィンセントが並んで腰を落ち着けた。
「それでどうして彼がここに?この状況と関係があるのか?」
「それについて少し説明をさせてください」
侯爵が切り出すが、やはり顔色が悪い。
しずしずと入ってきたメイドが茶の支度を始める。メイドのスカートも真っ黒で、そんな色だっただろうかと王子は内心で首を捻る。
「我が娘、メイヴェルのことです。殿下には少々御気を悪くさせるかもしれませんが…」
「いい。気にするな、進めろ」
ヴィンセントは両膝の上に拳を置いてじっと目線を落としている。