「細雪」について 豊穣なる耽美
03.09記
谷崎潤一郎の細雪を最初に読んだのは、20歳代の半ばであったろうか。
当時、私が読む本には、明らかな嗜好があった。
・歴史小説。中でも、その題材が国家の興亡あるいはそれに準じるだけのスケールをもったもの。
・ひとりの少年が、徐々に成長していく、その精神の過程を描いたもの。
・人間の想像力の限界に挑んだと思われるもの。思考実験的なSF。超常的な宗教書、観念的な哲学書など。
といったところである。
「細雪」は、言うまでもなく、上記のどれにも分類されない。
当時の私であれば
「どうでもよい事柄を縷々、述べているだけの意味のない小説」とあっさり投げ捨ててしかるべきもののはずであった。
ほぼ、同じ時期に「源氏物語」の現代語訳も読み始めたので、その時期の私に上記とは別の嗜好が生まれた、と解釈すべきであろう。ただ、「源氏物語」については、戦争こそないものの、この国のトップの階層に所属する人々の権力争いに係わる記述もあり、拡大解釈すれば、上記に分類されるべき書物、と逃げられないこともない。
が、「細雪」はどう解釈しても、上記の分類からほど遠い。
私がそれ以前に、本というものから得てしかるべきもの、と考えていたことは、「細雪」からは、何も得ることはできなかった。
この書物は、いささか頭でっかちで、理屈っぽかった私にとって「分析」することを拒絶する書物だった。
「これは、私が好きになるような小説ではない」その意識を脳裏に持ちつつ、「細雪」は、それを読む私にとって、ただ快かった。
そして、そういう種類の美があるということ、
むしろ、美とは、本来、そのようなものである、ということを私は「細雪」によって教えてもらったと思う。
付け加えれば、私が「細雪」を読んだ、そのほぼ同じ時期に、映画「細雪」も放映された。
映画館ではなく、その後出たビデオで見た、と記憶しているが、その画面に、思いを揺曳させることは実に快かった。豊かで、贅沢な時間を過ごさせてもらった、と感じた。
その「細雪」は、
長女 鶴子、岸恵子。
次女 幸子、佐久間良子。
三女 雪子、吉永小百合。
四女 妙子、古手川祐子。
という配役であった。
30歳になっても、40歳になっても、そしておそらくは、50歳になっても、綺麗な女性は綺麗なのだ。ということも、私はこの映画「細雪」で教えてもらった。
そう思う。