女嫌い
オーランドの女嫌いの理由を、誰も知らない。正確に言うと、オーランドの母親だけは知っていたかもしれないが。しかしそれも十年前にあっけなくこの世を去った。
母親は若く、美しかった。すれ違うどんな男も振り向かせずにはいられないほどに。その雌としての魅力は、いつだって男を貪欲に求めていた。ズーデン公の娘としての権力を濫用し、自分以外の妻妾を城から追い出して夫を独占しただけでは、とても足りないほどに。
かと言って、母親は、男なら誰でも手を付けるほど馬鹿ではなかった。彼女は、一番近く、一番若く、一番父親に事を告げることがないだろう男を、生贄に選んだ。
精を放つ事すら知らない年齢の、オーランドを。
まだ母親よりずっと小さく、ずっと非力で、母親に歯向かう術を何も持たなかったオーランドは、数え切れないほど母親に犯された。毎夜毎夜、オーランドの寝室から出てくる母親を、父親は一度も疑ったことがなかった。ただ仲のいい親子だと思っていたようだった。
オーランドは、誰にも母親とのことを話さなかった。誰にも話せなかった。父親にも、デリックにも、友人にも。芯のところで、オーランドはいつも孤独だった。
母親が死んだ時、オーランドはやっと開放されるのだと思った。けれど、それは間違いだった。
毎夜毎夜、母親は死んだときと同じ若く美しい姿のまま現れる。オーランドの夢の中に。オーランドは夢の中では非力で小さい体のままで、どんなに止めてくれ放してくれと叫んでも、母親の手技の下に、あっけなく陥落してしまうのだ。
その夜も、オーランドは悪夢を見た。いつものように母親は妖しい笑みを浮かべて現れて、その滑らかな肌を、豊満な乳房をオーランドの身体にこすりつけ、オーランドは全身で拒否しているのに、一番反応して欲しくないところは全力で反応してしまい、そして目覚めて、下着の不快感が敗北に追い打ちをかけるはずだった。
だがその夜は、そうならなかった。
『起きて、起きて、これは夢よ、しっかりして、起きて!』
聞き覚えのある声だった。昼間、光る石が詰まった筒に触ろうとしたときと、同じ女の声。
オーランドは汗だくになって目を覚まし、しかし、今夜に限っては、己が敗北していないことを知った。これまでになかったことだった。
翌日も、その翌日も、オーランドは誰ともしれない女の声に、すんでのところで助けられた。
数日後、デリックがオーランドに告げた。
「先日の、あの光る石の大工ですが、今、ひどく病気しているそうです」
「病気?」
「医者が言うには、食あたりに似た症状らしいですが、それよりもっとひどいとか……あの大工だけでなく、下の者たちも病気になったそうで。伝染病かもしれません、あの時、早く帰ってよろしゅうございましたね、オーランド様」
あの声は言っていた。それは毒みたいなものだと。近づいてはいけないと。
あの声は何なのか。あの警告は何だったのか。事実をどう受け取っていいものか、ひどく迷ったが、結局オーランドはこう言った。
「あの光る石には、誰も触るなと言っておけ。中央教会のものが引き取ると言うなら、その後どんな病気をしても、こちらは責任を取らないと言え」
デリックはきょとんとした。
「あの石に、何かあるのですか?」
「……ある、かも知れない」
いきなり聞こえだした声。病気を起こしているかもしれない毒。それを知らせた声。自分を悪夢から目覚めさせた声。一体、誰なのだろうか。オーランドは誰にも聞かれたくないのだ。夜、うなされる自分の声を。悲鳴を上げて飛び起きる自分の声を。
だから、オーランドはあのどこの誰ともしれない声の主をなんとしても見つけるつもりだった。あの声の主は、おそらくはオーランドがうなされる声を聞いて、そして彼を起こしたはずなのだ。後々、領主となる男が毎夜毎夜、何かの悪夢にうなされているなどということは、決して知られたくなかった。断固として口止めするつもりだった。声の主が何者であろうと。
『起きて! 起きてよ、夢よ、大丈夫だから!』
「誰だ?」
その声で、何度目かに悪夢から飛び起きた時、オーランドは声に向かって誰何する決心をした。
返事はなかった。人影もなかった。
「お前は誰だ? 何度も声を聞いたぞ、一体誰なんだ?」
やはり、返事はなかった。
「おい、あの光る石が毒だと言ったのはお前だろう? ここ最近、俺を起こしているのはお前だろう?」
寝室は、静まり返ったままだった。
オーランドは頭を掻いた。声が怖すぎたかもしれない。自分の声が普通の男より数段低く、そのつもりがなくても恐ろしげに聞こえがちなことを、オーランドはつい忘れがちなのだ。
「……何か言え。怒ってるわけじゃない。ただお前に、俺がうなされていることは誰にも話して欲しくないだけだ」
長い間、何も声はしなかった。駄目なのかとオーランドが思った時、不意に女の声がした。
『あの……誰にも言わないし、言えないと思うの。私の声を聞いてくれたの、あなたが初めてだと思うから』
オーランドは部屋を見回した。当たり前だったが、声の主は見当たらなかった。
「どこにいる? お前は誰だ?」
再び、女の声がした。
『あなたの胸元……だと思う。たぶん、あなたが首に下げてる幸運のお守りに宿ってるわ、私』
オーランドは胸に手を当てた。そこには、確かに教会のチャリティで買った、白い蛾がぶら下がっていた。オーランドはそれをつまみ上げた。
「お前、蛾なのか?」
女の声は憤慨したように言った。
『人間よ! 気がついたら蚕の成虫に宿ってたただけ!』
「カイコ?」
オーランドは首を傾げた。
「何だそれは。この蛾の名前か」
当惑したような女の声がした。
『え? 蚕って言ってわからない? ほら、絹を吐く虫よ、この蛾は、その成虫』
「絹?」
オーランドはさらに首を傾げた。
絹とは教会が管理している布で、神が授けた布だとされている。その光沢と肌触りの滑らかさは、全ての人間が欲するものだが、教会は断固として聖職者以外にこの布を触らせようとしない。
「何を言っているんだ? 旧世界の時代ならともかく、絹が作れるわけがないだろう。しかも虫が絹を作るだなんて、嘘も休み休み言え」
『本当だもん! この蛾の幼虫が作る繭を茹でて、そこから糸を引き出して、灰汁とかでまた煮て綺麗にして、それを織って絹を作るの!』
「作り方はどうでもいい」
『どうでもよくない!』
「それよりだ、お前は誰だ? 一体何でこんなところにいる? 何故あの光る石が毒だとわかった?」
『質問は一つに絞ってよ、女嫌いの次期領主さん』
ふてくされたような声がした。
『なんでこんな所にいるかって、私が聞きたい……。死んじゃったかと思ったのに、気づいたら真っ暗な所にいたの。そのうち明るくなって、火事だとかなんだとか騒ぐ声がして、知らない男の子に拾われて、いつの間にか売り物にされてたわ。それくらいの時に、自分が蚕の成虫に宿ってるって気づいたの。それを買ったのが、あなた』
オーランドは眉根を寄せて、つまみ上げた白い蛾を見つめた。確かに、これは港の教会の火事の焼け残りで、これを買ったのは自分だが。
オーランドはもう一度聞いた。
「あの光る石が毒だと、何故わかった?」
『えっと、あのドラム缶に放射能のハザードシンボル……その、私が生きてた時代、特別な毒性のある物質につける、キケンですってマークがついてたから。物にもよるけど、危ないものはすごく危ないの。あなたが触ろうとしたんで思わず叫んじゃった、大工さんたちは間に合わなかったみたいで、気の毒だけど……』
「間に合わない? どういうことだ」
次期領主として、領民のことは聞いておかなければならない。オーランドが蛾にむかって聞くと、すまなさそうな声がした。
『あの、治療法がほとんど無いの。吐き気だけで済めばいいんだけど、光る石を触ったり何日も近くに置いてたりしたら、はっきり言って手の打ちようがなくて……今すぐじゃなくても、亡くなることがあってもおかしくないの……』
「……置いておくだけで、侵される毒なのか?」
『そういう毒なの、だからすごく取扱い注意なのよ、だから元あったところに戻して、あとは絶対に近づいちゃダメ』
「お前は何で、そんなことを知っているんだ」
『今あなたが生きている時代では、いろんな事が忘れられちゃったみたいだけど、私が生きていた時代では、普通に知られてたことよ』
「一体、いつの時代に生きてたんだ、お前は」
答えが返ってくるまで、少し間があった。
『……西暦二千二十年。たぶん、あなたが旧世界って言ってる時代』
旧世界時代とは、この国に氷河期が襲い来る前の時代のことだ。
旧世界の悪徳が呼び出した悪魔の力によって、大地はじわじわと氷に覆われ、人の住める場所も食料も減っていった。強欲の悪魔と傲慢の悪魔に煽られ、限られた資源を巡って、人間たちは激しく争ったのだという。
発達した文明がその醜い争いに拍車をかけた。ただでさえ住める場所が減っていると言うのに、島一つ吹き飛ばすようなことまであったそうだ。
やがてその文明も降りしきる雪に埋もれて消えてなくなったという。今でも、地面を掘ると燃える水から生成したという火に溶ける石が出てきたり、海に潜ると空を飛んだという大きな金属の塊が見られたりするが、それらは悪魔に依って地上に顕現した地獄を神が癒しきれなかった跡だという。不用意に触れば魂が悪魔に取られ、死後地獄に行ってしまうと教会は戒めている。
全てが氷の下に消え、やがて氷が溶けたあとも、大地は人間の文明に嫉妬した、嫉妬の悪魔に飲み込まれ、神に守られたこの国以外は全て海に消えたという。この国は、人間が住む最後の土地なのだそうだ。
教会は、旧世界時代を忘れるように唱える。発達した文明が争いを生んだのだと。文明は地を汚し、海を汚し、空を汚した。そして、大罪の悪魔を呼び出した。再びその時代に立ち返るべきではないと。
だが、馬よりも早く地を走り、帆船より早く海を行き、空さえも飛べたという旧世界の時代に、憧れを抱く者は少なくない。教会はその芽を見つける度に悪魔の手先として弾圧しているため、おおっぴらにそれを公言する者はいない。
その旧世界時代を生きた人間? それが今、自分の胸元にいる?
途方も無い話に、オーランドはため息をつくしかなかった。
「……教会に、ばれないようにしないとな」
『教会?』
「旧世界時代をえらく嫌ってる」
『そうなの……』
女の声はしばらく黙ったが、やがて意を決したように言った。
『あの、お願いがあるの』
「なんだ」
『その、私がただでさえ厄介者で、あなたが女の人嫌いなのはわかってるけど……ここに置いてもらえないかしら。いつもあなたの胸元にぶら下げておいてくれないかしら。引き出しの奥になんか置かないでほしいの。暗くて狭いところでひとりぼっちは、嫌なの』
「…………」
『あの、うるさかったらずっと黙ってるわ。もう変な時に口出したりしないし。夜に起こしたりもしない。だから、お願い』
「……起こさなくなるのは、困る」
『え?』
オーランドはベッドの上に座り直した。
確かに厄介者だし、女は嫌いだ。しかし、悪夢から目覚めさせてくれて、きっとオーランドの夜の秘密を誰にも口外しないだろう〈これ〉には、利用価値がある。
オーランドは言った。
「俺が夜うなされていたら、すぐに起こせ。絶対に起こせ。それを守れば、お前を首にぶら下げておいてやる」
女のはしゃいだ声がした。
『本当!? ありがとう!』
「普段は黙ってろよ」
『うん、あ、でも光る石みたいに危ないもの見つけた時も黙ってたほうがいい?』
「そういう時は流石に言え」
『はーい』
そして、その密やかな契約は、彼女の方からは決して破られることはなかった。