次期領主
鎧兜に身を包んだ騎士が二十人、城から教会へ向かって馬を走らせる。その半分が女だということが、オーランドには信じられなかった。オーランドは平服のままブリュンヒルドの横を馬で並走していた。町ゆく人々はオーランドを見て驚いた様子だったが、彼の横にいるのが女だと気付く様子はない。
確かに鎧兜に身を包めば男も女もない、ブリュンヒルドさんの言うとおりだ。そう言えば、今までの改革もカーラとブリュンヒルドさんの言うことを聞いていただけのような気がする。その前、幼かった頃は母親に――。オーランドは思考を止めようと頭を振った。それでも、記憶は勝手に巻き戻る。
俺は無力だった。どれだけ叫ぼうと、俺の意志は母親の欲望にかき消された。毎晩。母親が死に、俺の前から実体が消えても、まだいる。単なる記憶の残響だとは思えないほど、なまなましく俺にのしかかり続ける。夢だ。そうわかっても、目が覚めた時には、下着は汚れている。お前は無力だ。いつまでたっても女の肉体に勝つことはできない。お前は女の物だと、白い染みを証拠に母親は嘲笑い続ける。男らしいことをすればこの悪夢から脱却できると考えたから、剣の鍛錬にも励んだ。困った領民がいると聞けば、東奔西走した。しかし、俺が男らしく行動すればするほど、母親の方も強さを増し、努力の分だけ、目覚めた時の絶望が増しただけだった。
曲がりくねった石畳の道から、薄い色の空と傾いた太陽が見えた。あと少しで夕暮れだ。教会の地下で殺されかけてから、一日が経とうとしていた。日が落ちてしまえば、夜が来る。女の時間だ、とオーランドは思う。
ここ数年は悪夢から離れられていたが、俺が強くなったわけではなかった。悪夢を見せているのも女なら、悪夢から俺を逃れさせたのも、女だ。これは悪夢だ、目を覚ませ、と俺を起こしたのはカーラだ。彼女は俺を母親に敗北する前に逃げられるようにした。カーラは俺の夢を覗けた。母親に犯される俺を見て、母親から俺を奪いたくなったのだろう。きっと。ノーデンに役立つ技術の話も、カレーとコーヒーとチョコレートを手に入れるために俺を操っていただけの事なのだろう。だから、俺が自分の思い通りにならないと知ると、ニールを使って去って行ったのだろう。
オーランドは下を向いたままの自分に気が付いた。前を見ずにどうやって馬を走らせたのだろうか? 耳を澄ませば、その答えはすぐ横にあった。蹄の音をもとに、無意識にブリュンヒルドの馬と歩調を合わせていたのだ。次はブリュンヒルドか、オーランドは投げやりに思う。教会は女人禁制なのに、鎧兜をまとえば男も女もないとのたまって、教会に突入しようとしている。どうかしている。俺は破滅に続く道をひた走っているのではないか。自分を取り巻く環境の激変に、オーランドの精神はついていけなかった。
結局、女に好き勝手されるのが俺の人生か。オーランドがいじけている間に、一行は教会の地下室へ着いた。ブリュンヒルドが壁一面の画面の前に立ち、祭文を唱える。
「ウリエル、神の御前に立つ四人の天使の一柱。神の光にして神の炎よ。裁きと預言の解説者よ。焔の剣を持ってエデンの園の門を守る智天使よ。懺悔の天使として現われ、神を冒瀆する者を永久の業火で焼き、不敬者を舌で吊り上げて火であぶり、地獄の罪人たちを苦しめる者よ。最後の審判の時には、地獄の門のかんぬきを折り、地上に投げつけて黄泉の国の門を開き、すべての魂を審判の席に座らせる者よ。我が声に答え給え」
『キーワード、クリア。臨時監督者として認証します』
祈りの言葉によって、機械仕掛けの天使が再び目覚める。ウリエルが起動するや否や、ブリュンヒルドは命令を下す。
「願わくばウリエル、中央の監視カメラ画像の転送を」
『何故か。中央のシステムは問題なく動いている』
画面に、文字列といくつかの図が表示される。その中に動く絵があり、右上にLIVE、という文字が表示されていた。
「中央のリアルタイム表示が可能なのか? 監視カメラの記録情報にもアクセスは可能か?」
『どちらも可能だ』
「ウリエル、緊急事態だ。中央が敵に乗っ取られた可能性がある。目視にて敵味方の判別を行う。中央に感づかれないよう、極秘に全ての監視カメラ映像のログを5年前の分から転送せよ」
ウリエルとブリュンヒルドは何を言っているんだ? オーランドはさっぱりわからなかった。オーランドにわかったのは、映像という言葉くらいだった。カーラが言っていた、旧世界の動く絵。カーラに聞けばブリュンヒルドが何を言っていたのか分かるかもしれない。オーランドは胸元を探ったが、何もなかった。ウリエルもブリュンヒルドの言っていることが分からないかもしれない。ウリエルが聞き返すことをオーランドは期待した。
『了解した』
「転送終了後、年少者が映っている場面のみを選択し、表示せよ。その後、妾の部下が選択した映像データを、中央で動画再生可能な物理媒体に出力せよ」
『了解した』
現実は非情だった。ブリュンヒルドとウリエルのやり取りは途切れなかった。
「以上。転送作業にかかれ、ウリエル」
『了解した』
「以上。転送が終了したら知らせろ。命令終わり」
『了解した』
ウリエルとの会話を切り上げ、ブリュンヒルドは部下に向き直った。
「ピクシー! ピクシーはいるか!」
即座に男装した下女が答える。
「炭坑の図書館です」
「呼び戻すのには?」
「一週間かかります。映像編集なら、私シルフィードにエアリエルを付けていただければ、三日で出来ます」
下女の言葉に呼応し、騎士が一歩進みだす。
騎士たちは今までのやり取りを理解していたのだ。俺にはさっぱりわからなかったのに。オーランドを疎外感が襲った。カーラに教えられて、旧世界の事はよく知っているつもりだった。ところか、この騎士たちは旧世界の事をよく知っているどころか、旧世界の道具を使いこなせるのだ。俺がここにいる意味はあるのだろうか。凛とした騎士の声がオーランドの耳に痛い。
「やらせてください、サイファー様」
「分かった。二人とも、三日で監視カメラに映った児童虐待の現場のみを纏めた動画を作り上げ、中央と繋がりがある聖職者と一緒にゼントラムに叩き付けるぞ。次期領主殿、聖職者を集めるよう、命令していただけるだろうか?」
「俺が命令を下す必要があるのか?」
この場で一番知識が無いのは自分だ。知識があるブリュンヒルドの判断のみでいいのではないのだろうか。俺は女に運命を操られる、嫡男でもないのになぜか次期領主の位にいる男だ。オーランドは、自分がここにいる必然性さえあやふやになりつつあった。
「ある。オーランド殿と情報を共有できなかったことは謝罪する。今のノーデン領主はローレンス殿だ。争いも変化も好まぬ。旧世界についての知識も浅い。ローレンス殿に我らの情報を知られた場合、オーランド殿に何も伝えなければ、我らだけが異端として処刑されるだけで済む。オーランド殿が処刑されるなら、それはノーデンの危機だ」
「俺は、現領主の嫡男じゃない」
ブリュンヒルドは歯切れよく言い切る。オーランドは気後れした。俺に彼女のような自信は無い。ついでに言うなら血筋もない。デリックの、自分はノーデン領主の嫡男ではない、という言葉は、貿易が出来るかもしれないという興奮が去ってから、ずっとオーランドの脳内で響き続けていた。昨日、ちょうどこの場所で言われたのだ。ノーデン領主の血筋を引くものは他にいる、とも。ブリュンヒルドは言葉を重ねる。
「偶然だとしても、現在次期領主としての立場にいるのはオーランド殿だけだ。そして、次期領主としての教育を受けてきたのも、オーランド殿たった一人だ」
「ルーシが、情報を伝えないのは、主人をリーダーだと認めていないからだ、と言っていた」
ふてくされたオーランドの言い草に、ブリュンヒルドは目を伏せた。
「オーランド殿を次代のリーダーとして認めたが故に、オーランド殿に災いが降りかかる可能性を減らすため、このような行動に出るしかなかった。我らとて隠し続ける気はなかった。オーランド殿が領主の位に就いた際に全てをお伝えしようと考えていた。しかし、事態が急変した」
「フォーサイスが来たからか」
ブリュンヒルドは頷く。
「そうだ。今、ノーデンは岐路に立っている。教会との関係を悪化させる代わりに、ノーデンを富ませる可能性がある、危険な道。もう一つは現状維持だ。教会に客人を差し出して、今まで通り平穏に過ごす道だ」
「教会にフォーサイスを突きだしても、今まで通り平穏に過ごせるはずがない! 爆撃機だって来た。人間が、外から来ているんだぞ!」
オーランドは反射的に噛みついた。ブリュンヒルドは子供に言い聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。
「今までも、それは同じだ。教会が密かに異人を殺すことを黙認し、今まであった事全てを無かったことにして過ごせる可能性はある。ノーデンを富ませられる可能性と同じくらいな」
「どういうことだ?」
「オーランド殿、ウェステンに貴殿が何をしたのか分かっているのか? 外国との交易は、ノーデンがウェステンと同じ目に遭う可能性が十分にあるのだぞ?」
「それは――」
オーランドは絶句した。反論しようとしたが、考えてみればブリュンヒルドの言うとおりである。
貿易は国を富ませることもあれば、国の富を根こそぎ奪い去ることもある。だからこそ民の暮らしぶりに気を配れ。幼いころ、父に叩き込まれたことだ。どうして今まで忘れていたのだろう。オーランドは思い出した。カーラだ。
――「ウェステンが糸に関税をかけてきました!」
――「関税など多かれ少なかれ、かけるものだろう。もしや、法外な関税なのか?」
――「はい。元の値段の千倍の関税だそうです!」
――『安いものはよく売れるからなあ。ウェステンはノーデンの糸の方がよく売れるのが面白くないから、恨んで法外な関税をかけたのかな?』
――「そうなんだろう、な」
カーラの解釈なら正しい、と思考を止めてしまったが、あの時自分はウェステンの意図に気付けたはずなのだ。
やせた土地と鉱産資源しかないため、民を富ませようとして早織り機を作ったウェステン。布を作って民を食べさせようと、麦畑をつぶして放牧地にし、羊の数を増やした。結果、ウェステンの中では麦が足りなくなる。だからウェステンの民は、ノーデンに麦を買いにやってくる。ノーデンが布を買うなら、元は取れるとウェステン領主は思ったのだろう。
だが俺は、製糸機械を開発した。そして、安さを武器に糸をウェステンに売りつけた。更には蒸気で動く早織り機を導入した。ノーデンの技術革新によって、布で民を富ませるというウェステンの希望は叩き潰されたのだ。ウェステンは目減りする富を少しでも減らすための方策を取っただけなのだ。千倍の関税であり、硫酸銅の価格つり上げであり、ウェステン領主によるクリスマスパーティーでの抗議だったのだ。
――「布を大量に売りつけ、貧しい農家の収入源を潰し、生きていけなくさせたのはノーデンだ! ノーデンの富は、すべてウェステンの民が流した涙と言ってもいいだろう!」
ノーデンの富は、すべてウェステンの民が流した涙と言ってもいいだろう、というウェステン領主の言葉も一つの真実だったのだ。ウェステンを守るために彼が取った行動の是非は置いておいて。オーランドがやったことのせいで、意図はしていなかったとはいえ、ウェステンの女たちは体を売るしかなくなった。ノーデンでも、製糸工場は物乞いに仕事を与えた一方、糸紡ぎ女の生活の糧を奪い、彼女たちを娼婦にしてしまった。民と対外交渉に気を配っていれば、こうはならなかったかもしれないのだ。
――これは、俺が招いた、悲劇だ。カーラに判断を丸投げしていたがゆえの。
オーランドは痛みとともに現実を突き付けられた。カーラは技術をよく知っている。しかし、ハーヴィーは救えなかった。全知ではないのだ。カーラは政治についても無知だった。
――『領主としての政治的なことはさっぱり分からないから、最近の書類には助言が出来ないの。ごめんなさい』
政治やノーデンの地理については、俺の方がよく知っている。それなのに、カーラは自分よりものを知っている。カーラは世界で最も頼りになる、カーラは自分を裏切らない――その証拠に、カーラは俺と夜の秘密を共有できる。そう信じ込んで、思考を止めてしまったのは、ウェステンとの貿易だけではなかった。
工場建設で、凍傷で足の指を失ってしまった職人。あの年は特に寒さが激しい年だったのだ。死人が出てもおかしくなかったのに、工事を強行してしまった。
石油採掘の使節として、ルーシと、彼の愛してやまない子供を引き離してしまった。それに対する詫びもしていない。ページが何度も擦り切れるほど絵本を読み聞かせていたのだ。数カ月の間引き離されて、寂しくなかったはずがない。実際に、手紙には彼が家族を心配する気持ちが切々とつづられていた。石油が採掘できるようになったということだけに気を取られて、気にも留めなかったが。
酷い事をしてしまった。カーラの言うことだけを気にかけていたせいで、それ以外の人々に気が回っていなかった。その結果が、大小さまざまな悲劇の山だ。
「ノーデンの未来を決められるのは、オーランド殿だけだ。どうかご命令を、次期領主様」
今までにない丁寧で真摯なブリュンヒルドの態度に、オーランドはたじろいだ。
「俺は、俺が民にとって最良の未来を選べるとは思わない」
過去を振り返れば振り返るほど、自分の過失ばかりが目につく。ブリュンヒルドに任せてしまったらいいのではないかとも思える。ブリュンヒルドはオーランドに逃げを許さなかった。
「最良の未来につながっていると思う方をお選びください。次期領主様。教会に頭を押さえられたままの現状維持か、大成功か大失敗のどちらになるかは分からないが、全く新たな可能性である対外貿易か」
ブリュンヒルドは跪く。オーランドは目を閉じた。
交易をしようと思ったのは、カーラにそう言われたからだ。それが正しいと信じて疑いもしなかった。そんな風に、俺はカーラに判断を投げてしまったから、悲劇を招いてしまった。オーランドは熟考する。今、カーラはここにいない。俺は俺のやりたいことを、改めて見つめなおせる場にいるのだ。オーランドはカーラと出会う前の記憶を手繰り寄せた。
窮屈な世界だった。不作が続き、いつ蓄えが尽きるかの予想ばかりしていた気がする。教会の貪欲に寄付を求める態度にも閉口していた。教会は富があるから天国への道は険しくなる、と説くが、貧しさゆえに罪を犯した民がいることを考えれば、富がなければ天国への道が閉ざされてしまうと思っていた。だから、ノーデンを栄えさせることによって地上の国でも神の国でも民に幸福をもたらそう、と思っていた。決定的な手段は何も思いつかなかったが、民の声を聞いて出来る限りのことはやってきた。それでも、閉塞感は拭い去れなかった
そんな俺に、カーラは俺のやりたいことの形を示してくれたのだ、とオーランドは思い至った。技術と、外国との交易の可能性の二つで。つまり、俺はカーラに操られていたのではなくて、俺自身がカーラの方法に乗ると決め、決断をカーラに投げていただけなのだ。ひどい責任転嫁だ。ずっと俺は、俺の意志で、ノーデンをよりよくしたいと思っていたのだ。単純な事実に、オーランドは激しい衝撃を受けた。未来の選択肢は外からやってくる。それでも、何を選び取るかは自分次第なのだ。自分だけではない。嫡男ではなかったとしても、次期領主としてノーデンの未来を決められるのは、自分次第なのだ。あの復活祭の日、教会の地下で爆撃機を攻撃すると決めた時と、同じように。あの時俺は思い知ったのだ。現状維持だけでノーデンを守ることはもうできない、と。オーランドは瞼を開ける。
悲劇を招くのも、ノーデンを富ませるのも、俺次第だ。覚悟は決まった。オーランドはブリュンヒルドを見据える。
「次期領主として命じる。聖職者を集め、ノーデン領内から追放せよ。貿易の邪魔をさせる訳にはいかないし、少女を凌辱した者の同類など、ノーデン領内に居てほしくない」
「よし。ならば、ウリエルからの託宣を理由に、ノーデンにいる、ゼントラム滞在経験がある聖職者を全てここアフェクに集めて頂きたい。まとめてゼントラムに送り返す」
「わかった。上申を容れよう」
「その後、聖職者が入って来ないよう関を固めて頂きたい。教会が何か言ってきても、ウリエルが良いと言うまでは何もできないと言って追い返せ。天使の言葉は、この国では最上の力を持つ。ウリエルの名を存分に使え」
「貴女にそう言われると、とても心強い」
からからとブリュンヒルドは笑う。オーランドもつられる。
「ウリエルから託宣の石版とお言葉を賜った、といって、映像の入った媒体をオステンに送ったのと同じような見かけ倒しの箱に入れて、中央の教会に送ってやれ。教会に一泡吹かせることが出来る日が来るとはな。痛快だ」
彼女はひとしきり笑うと、真剣な表情になる。
「これから大嵐が来る。作戦を立てるために、情報共有をする必要があるぞ。お前が拾ってきた赤ん坊の事も、話さねばならないしな」
赤ん坊。カーラに操られて去ってしまったニールの友達、ハーヴィーの忘れ形見だ。オーランドは思い出した。どんな名前になったのだろうか。それよりも先に、情報共有だ。オーランドはノーデンの事を考える。作戦会議をするのならカーラの知恵を借りたい――オーランドは胸元を探った。そこには何もなかった。そうだ。カーラは去ってしまったのだ。自分を助けてくれたのに、何一つ彼女に報いることが出来ず――いや、もっとひどい。恩を仇で返してしまった。
自分の中でどれだけカーラが大きな存在だったのかオーランドは気づいた。自分を操っているのではないかと錯覚するほど。このままカーラと離れてしまうのは嫌だ。それに、ニールの事も心配だ。
「その前に、ニールを探してくれ。彼は自分の意志で地下室を出ていった。どこに行くのか、俺には全く心当たりがないんだ」
「承知した、オーランド殿」
ブリュンヒルドの精鋭の力を以てしても、ニールは見つからなかった。やっと彼が見つかったのは、オーランドがアセルに戻った日の夕方だった。アセルの飛脚屋の近くだった。ニールは正気に戻っていた。彼の手に白い蛾の首飾りはなかった。




