テンペスト
裏切られた。オーランドは反射的にそう思った。俺はカーラの事をずっと信じていたのに、カーラは初めから俺の夢を覗くという裏切りをしていたわけだ。きっと、最初から。
オーランドは力任せに白い蛾の繋がった鎖を千切っていた。母親が何を俺にしていたのかは、よく分かっている。心臓をえぐられるかのような痛みが胸を走る。今だけじゃない。近親相姦の罪を犯した者は、地獄で永遠の烈火に焼かれ続ける。聖書にだって、そう書いてある。だからずっと隠してきたのに――!
勢いを殺さず、オーランドは白い蛾を床に叩き付ける。彼を突き動かしたのは絶望だった。どこまで行っても、母親からは逃れられないというわけか。オーランドは靴の踵を白い蛾に振り下ろした。分かり合えたと思った相手に、自分が無力で汚されているちっぽけな人間であると知られていた。そんなものを見た奴は口を塞いでしまいたい。その一心で、彼は右足を振り下ろし続けた。しかし、白い蛾は岩のように固く、潰れる気配は全くなかった。業を煮やしたオーランドは白い蛾を拾い上げた。外に投げ捨てるため、窓に一歩近づく。
『やめて! お願い捨てないで、私、私に触れてる人通さないと何も見えないし何も聞こえないの、一人は嫌!!』
指先からカーラの悲鳴が聞こえた。オーランドは動きを止めた。この白い蛾を誰かが拾ったら、カーラがその誰かに自分が近親相姦の罪を犯していることを伝えてしまうのではないか? それは絶対に嫌だ。ならば、こいつを手元に置いておくしかないのか。
オーランドは舌打ちした。彼は白い蛾を鎖で縛るように何とも固く巻き付け、引き出しから取り出した携帯の薬入れに白い蛾を突っ込んだ。そして、薬入れのふたを閉めて元の通りに薬入れを引き出しの奥に放り込んだ。オーランドは、念を入れて誰にも引き出しが開けられることの無いよう、引き出しにカギまで掛けた。
オーランドの心情を天が写し取ったかのごとく、白い蛾を封印してから三日三晩、猛烈な嵐がノーデンを襲った。真っ暗な雨雲にノーデンは包まれ、石つぶてのような雨粒と、立っていられないほどの強風が思う存分暴れまわっていた。嵐が去ってすぐに、オーランドは各地に早馬を飛ばし、被害状況の確認に努めた。
「今は麦の刈り入れが終わった頃だから、作物への影響は少ないはずだ。しかし、屋根を飛ばされるなどの被害は出るだろう。農村への支援が必要だな」
「次期領主様、顔色が悪うございます。天気のせいで体調を害しておられれるのではないでしょうか。何か薬湯などをお持ちしましょうか?」
デリックが心配そうに言う。オーランドの両目の下には、すっかりクマができていた。嵐の間、ずっと性的虐待を受ける悪夢にうなされて、途切れ途切れにしか眠れなかったとはとてもではないが言えない。オーランドは作り笑いをした。
「なんともない」
二人がオーランドの執務室で地図を広げ、被害の報告がある場所に印をつけていると、ドアが勢いよく開けられた。顏を上げると、焦った様子のニールがいた。
「ノックもせずにどうした?」
「アセルの漁村より早馬が参りました! 緊急の伝言があるそうです!」
「俺の部屋に通せ!」
早馬の使者はニールのすぐ後ろにいた。一礼して、オーランドに上申する。
「嵐明けのノーザン沿岸に、異常な人間が流れ着きました!」
「異常な人間? 病でも持っていたのか?」
オーランドの疑問に、使者は口ごもった。首をかしげながら、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「病、かもしれません。信じられないくらい肌の色が黒くて、目もやけに細くて長くて、髪も黒く、炎であぶられたかのように縮れています。男、のはずです」
「人間がそんな姿をしてるはずがない……悪魔……じゃないのかな?」
呆然とニールが呟く。黒人だ。オーランドは気づいた。カーラから聞いた知識だ。裏切者だったが、役には立っていたな、とオーランドは感じた。
「他に気になった点は?」
「頭も、おかしいのかもしれません。沿岸の村人に介抱されたときに、『外国から来ました。取引をしたくて来ました。この辺のえらい人と会わせてください』と言っておりました」
外国から来たのが本当なら、この国にとって非常に重要な人物ではないか。会わねば。オーランドは質問を重ねる。
「そいつは、名乗ったのか?」
「はい。ハジメ・フォーサイス、と名乗っていました」
「フォーサイス、か。会ってみたいな。デリック、馬の用意を」
「承知しました」
デリックと使者が出ていった後、オーランドも立ち上がって二人を追おうとした。椅子を机にしまったとき、オーランドは考え直した。カーラから黒人について聞いていたから、彼が外国から来た人間だということは分かった。彼はノーデンの言葉も喋れるらしい。しかし、彼はいったいどんな人間なのか? 貴族なのか、農民なのか、はたまた王族なのか。それを判断するためには、カーラの知識が必要不可欠だ。カーラを連れて行かないといけない。しかし、自分の秘密を知っている者を肌に触れさせるなど、オーランドは耐えられなかった。
散々悩んで、彼は中間の判断を下した。引き出しのカギを開け、ニールに白い蛾を詰めた薬入れを渡した。
「俺の薬入れを持ってろ、ただし決して中身は触るな」
「承知しました」
何はともあれ、フォーサイスとかいう男に会わないと何も始まらない。オーランドはニールとデリックを伴い、彼が漂着した村へと馬を走らせた。
オーランドたちがフォーサイスが見つかった漁村についたとき、村の内部は異様な雰囲気だった。村の中心にある教会の前に、大勢の老若男女が集い、ぼそぼそと何か話し合っていた。オーランドは馬から降り、近くにいた男に話しかけた。
「この村に外国から来た男が来たと早馬から知らせがあった。今、彼はどこにいる?」
「次期領主様……実は、ここにはおりません。連れ去られてしまいまして――」
「何があった?!」
男は下を向き、こぶしを握りしめた。
「ゴドフリー・パーソン率いる異端審問官たちが、外国から来た男と、彼の介抱をしたり、話したりした村人たち――あの男が、外国から来たと聞いた人をひとまとめに異端としてとっ捕まえて連れて行ってしまいました。俺の女房もです。家族を助けたいんですが、教会に逆らったらこの世での神の加護もなくなるし、来世でも地獄に落ちてしまうんじゃないか、という話になって、みんなで集まって話し合ってるんです」
「――手遅れだったか」
オーランドは蓄音機を拾った漁師の言葉を思い出した。異端審問とは、それは苛烈な物らしい。
――勝手に、音が鳴る箱が流れ着いたんです。蓋を開けたら、聴いたこともないような音楽が流れるんです。それが……旧世界の物そっくりで。でも、どう見たって新品なんです。こんな箱を拾ったってばれたら、教会にばれたら家族全員縛り首……ならましです。村全員異端審問にかけられて、拷問されて地獄みたいな苦しみの末に死ぬかもしれねえんです。
罪もない善良な民が、善意で人間を助けたがゆえに地獄のような苦しみの中で死ぬ。そんなことは間違っているとオーランドは思う。
「デリック、村人を奪還するぞ。人を助けて罰せられるなど、間違っている」
案の定、デリックは仰天した様子で反対した。
「しかし、それは明確に教会に逆らうことでございます! 異端審問か破門でございます!」
「ああ。表立って配下を集められないな」
「オーランド様!」
オーランドはデリックに背を向け、群衆に向かって宣言した。
「全ては俺が責任を持つ。家族を無事に連れ戻したいものは協力してくれ! 教会に逆らうことを恐れるな! そのように考えたのは、家族を取り返すよう、そのように神が俺たちを作ったのだ!」
「次期領主様、女性がお嫌いなのは重々承知ですが……嫁と娘でも助けてくれますか?」
おずおずと声が上がる。オーランドは大きく頷いた。
「領民の命の瀬戸際だ! 女も男も関係ない! 取り戻してやる」
ハーヴィーの壮絶な死にざまは、オーランドの中でまだ色褪せていない。淫乱な母親は憎んでいるが、毎日を善良に生き、隣人を助けただけなのに、理不尽な苦しみを受ける人間がいたら、もし女であっても――流石に寝覚めが悪い。しかし、女とこれ以上積極的に関わる気はしない。
「ただ……連れて帰るのはお前たちがやれ」




