悪夢
いくら熱心に仕事をしても、剣の鍛錬に励んでも、衝撃的なハーヴィーの死にざまはオーランドの脳裏から離れなかった。何をしても血みどろの罪のない少女を思い出してしまうというのなら、眠って意識を落としてしまうのが一番だ。カーラと寝る前に語らう気にすらなれず、オーランドは布団をかぶるや否や目を閉じた。
白い部屋の中にオーランドはいた。夢の世界だ。オーランドはほっとした。自分は椅子に座っていて、目の前に白い服を着た金髪の女がいた。ハーヴィーには全く似ていない、たれ目の穏やかな女だ。ハーヴィーの死にざまに影響を受けた夢ではない、と女の顔を見て安心する自分自身が、オーランドは不思議だった。
オーランドの意志と関係なく、オーランドの口が動き、女の声が出る。
「ジェシー、ウイルスの具合どんな?」
「なしのつぶて。卵に注射した方がいいかもって教授は言ってた」
「絹をさらに良質なものにするにせよ、蚕に有用タンパク質を作らせるにせよ、遺伝子を操作するのは変わんないもんねー」
オーランドは周囲を観察する。ジェシーは自分にそっくりのブロンドに空のような青い目だった。肌の色も自分そっくりの白だ。それに比べると、自分が入っている女は、顔こそ見えないが腕や足の肌がやはり黄色っぽかった。
「ほんとそれ。なんでこんなことやってるんだろう。あなたがこの道に進んだきっかけって、何?」
「お父様には、蚕に無害な桑に使える肥料や農薬を開発して、って言われてたんだけど、気づけば蚕自体を研究してたなあ」
「頭いいのね。私は教授の手伝いしてて、なんとなく研究を重ねてきたら、気づいたらここにいたのよね。だから、あなたみたいな目標がある人は尊敬しちゃう」
オーランドは首を横に振る。
「ううん。わたしも、気づいたらそうなってた。嫌々勉強していたが、褒めてくれるのが先生だけだったせいで勉強が好きになってた」
ジェシーと会話を続けていると、プルルル、プルルルと、小鳥か虫の鳴き声のような不思議な音がオーランドの腰の辺りから鳴った。
「ごめん。電話なったから出るね」
オーランドは腰のポケットから石版を取り出し、耳に当てた。深刻な声が聞こえてきた。
『――お嬢様。お父上が亡くなられました。すぐ日本に帰ってください』
――暗転。
世界が明るくなったとき、オーランドは草で編まれた絨毯の上に座っていた。外は雪が降っている。暖房器具として、オーランドの横には火鉢が置かれている。部屋の奥には、黒い服を着た黒髪の女が座っていた。
「婿養子を取りました。四十九日が明けたら、すぐに祝言を上げます」
有無を言わせぬ口調で女は言う。オーランドは反発した。
「お母様、でも私、やりかけの研究がまだアメリカに……」
「お黙りなさい! 退学届は、もう出しました!」
「成人した娘に対して断りもなく! 私を何だと思ってるの!」
かっと頭に血が上る熱い感覚があった。オーランドが女に怒鳴りかえすと、女はヒステリックに叫んだ。
「女は結婚して家にいるものなのよ! 女が学問をするなんておかしいのよ! 外国なんて、もう行かなくていいのよ! だから、これはもういらないの!」
胸元から取り出した赤い手帳を火鉢に投げ込む女。木や革が燃えるのとは違う、妙に鼻腔を刺激するツンとした匂いがした。ひどい! 燃え尽きる前に拾わなきゃ。オーランドは素早く立ち上がった。
「なにをするの! 私のパスポートを返して!」
「お嬢様! おやめください! お嬢様!」
火鉢に手を突っ込もうとするオーランドを、下女が止める。――暗転。
オーランドは殴られていた。足元には、割れた皿と、白と茶色の料理。彼はどうしてカレーライスが気に入らないのだろう。強い困惑をオーランドは感じる。
「日本の女が気取って西洋の食いもんをつくってんじゃねえ! 偉くなった気でもいるのか! 女の分際で!」
「違うんです! 最近和食が続いたから気分を変えてもらおうと……やめて!」
止めるよう哀願するオーランドをよそに、男の罵倒と殴打は続く。
「コーヒーとかいう泥水に! 美味くもないチョコレートだの! お前は金の無駄遣いしか出来んのか! しかも蚕から薬を作る手伝いとかいう世迷い事をほざいて米軍基地に入り浸って! 毛唐に媚を売ってるんじゃねえ! 女は家から一歩も出るな! 妻なら! 俺に! 従え!」
「ごめんなさい……痛い! やめてください!」
男は散々にオーランドを折檻し、捨て台詞を残して部屋から去った。よろよろとオーランドは立ち上がる。
オーランドは二階の蚕を飼っている部屋に行き、白い芋虫の世話を始める。芋虫たちは雨のような音を立てて凄まじい勢いで大ぶりな緑の葉を食べていた。あっという間に無くなった葉を補充するため、オーランドは芋虫の入った平たい木箱を棚から引き出す。不意に先ほど殴られた傷が痛み、オーランドはよろけた。その拍子に、手に持っていた平たい木箱から白い虫が一匹転げ落ちた。オーランドはそれに気づかない様子で、一歩前に歩き出す。
ぶち、と嫌な音が足元でした。ほぼ同時に、ぶどうを踏みつぶしたような、皮が破れて中の柔らかい実が溢れ出す感覚が左足の裏に広がる。まずい。オーランドは箱を近くの棚に置き、しゃがんで左足の裏を見る。
案の定、足の裏には白い虫の無残な姿があった。真っ白な体は押しつぶされ、中から黒みがかった深緑の内臓が飛び出していた。内臓ではなく、芋虫が食べた葉のなれの果てかも知れない。その気味が悪い液体は、オーランドの白い靴下にはっきりと染み込んでいた。
――おカイコ様を、踏み潰してしまった。
女の後悔が、オーランドにも伝わってくる。靴下を脱ごうとオーランドが足へ手を伸ばしたとき、異変は起こった。
緑色の体液らしきものが、ざわざわと意思を持って蠢き出す。
靴下についた色が少しずつ縮んでいき、黒みがかった肉の塊になり、弾けた皮に戻っていく。見る間にもとの白い虫の姿になり、何事もなかったかのように靴下の上をもぞもぞと這い始めた。まるで時間が巻きもどったかのようだった。聖書に載っている『不死の娘』にそっくりだ。オーランドはそう思った。
オーランドはその白い虫を小箱に入れ、別の虫とは分けて観察し始めた。虫は白い糸を吐いて白い塊になり、動かなくなった。しかしある日、白い塊を食い破って小さな白い蛾が出てきた。それは、オーランドが首に下げている蛾にそっくりだった。――暗転。
「ねえあなた、大発見よ! 死なないカイコを見つけたの!」
白い蛾を男に見せるオーランド。
「ふざけたことを言うんじゃねえ!」
男は白い蛾を握りつぶす。しかし白い蛾は無残な姿になったのも一瞬だけで、すぐに元の優美な白い姿になった。
「嘘じゃないでしょ? これから米軍基地に行って、博士に報告してくるわ。報告書とかも、もうまとめてあるの」
信じられない光景を見て動けない男に、自慢げに自分の鞄を示すオーランド。男は白い蛾を小箱に入れると、オーランドに殴り掛かった。
「なんでテメエが! 女の分際で、いい気になりやがって!」
「どうして? やめて!」
オーランドはでたらめに殴られた。それでも起き上がろうとするオーランドを突き飛ばした。その先には火鉢があり、受け身をとることもできず、オーランドは右半身で火鉢に突っ込んでいった。髪と肌が焦げる匂いが鼻腔を襲った。かおが、あつい。目の前の陽炎にさえぎられて、現実が遠くなる。
暗くなるオーランドの視界に、白い蛾と資料が詰まった鞄を持っていく男がみえた。――暗転。
右側が塞がれた視界で、オーランドは四角い文字が並んだ紙を読んでいる。オーランドには読めない文字だったが、不思議なことに意味は分かった。
――河原■■氏が不死のカイコを発見――
――世界的な科学誌、――にもこの発見は取り上げられ――
――現在不死の蚕は、■■基地の研究所に保管されている――
オーランドは手に持った大判の紙を握りつぶし、腕に繋がれている管を引き抜いた。そのまま寝台から立ち上がり、白い病室から抜け出した――暗転。
オーランドは走っていた。その右手には不死の蚕を握っている。暗い廊下に、熱を持たない赤い光が等間隔に並んでいる。
「侵入者はどこだ!」
「いたぞ!」
「蚕を取り返せ! 侵入者の生死は問わん!」
濃い色の装束で全身を固め、円く飾りのない兜に、切っ先の無い槍を持った男が数人で彼を追っていた。渡すものか。オーランドは蚕を口に放り込んだ。触覚や羽根が舌に触れて不快だ。息を吸い込む勢いで、オーランドは蚕を飲み込んだ。
兵士がいないほうへと逃げるうちに、オーランドは開けた場所に出た。屋上だ。追い詰められたか。非常階段を使えば逃げられるか? オーランドは低いフェンスの横を駆け抜ける。あと一歩。非常階段に踏み出そうとしたとき――背中に強い衝撃を感じた。体が宙を舞い、フェンスを乗り越える。錆びた手すりに伸ばされた手を、虚無がすり抜ける。
オーランドは、なすすべなく地面に落ちていった。浮遊感はいやに長く感じられたが、おそらく十秒もかからずにオーランドは地面に叩き付けられた。
びしゃ、ともぼき、ともつかない嫌な音が体から聞こえたのとほぼ同時に、吐きそうなほど濃密な潮の香りを彼はかいだ。
全身が熱い。服が濡れてまとわりついて気持ち悪い。薄れる意識の中、オーランドはこう思った。
――ジェシーにカーラって呼ばれてた頃が、一番楽しかった。
――ああ、どうしてわたしは。
――女に生まれて、しまったんだろう
――暗転。
オーランドは目を覚ました。
普段の悪夢ほどではなかったが、吐き気がするほど嫌な夢だった。女が、男に暴力で捻じ伏せられ、すべてを失う様を見せられた。
しかし、誰だったのだろうか。オーランドは夢で見た女に心当たりがなかった。話したことがある女は母親を除けばブリュンヒルドさんと天に召されたハーヴィーくらいだ。肌が黄色みがかった女など、見たことすらない。だが。オーランドは思い出した。カーラは自分より肌が黄色っぽいと前に言っていた。
「今の夢は、カーラ、お前か? お前が見せたのか?」
しばらく沈黙があった。
『……私の夢があなたに混線したみたい、昔の夢、バカだった私の昔の夢。ごめんなさい』
と言われたので多少納得しかけるも、あることに気づいた。
カーラの夢を自分が見られるということは。
自分の夢をカーラが見られるということではないか?
誰にも知られたくないこと。
誰にも見せたくない記憶。
気づけば、思考は口から零れ落ちている。
「カーラ、まさかとは思うが……俺の夢を、覗くことが出来たのか?」
『……ごめんなさい』




