過去と未来
アフェクからの使節がやってくる前日の夜、オーランドは興奮で眠れなかった。こんな時はカーラの寝物語に限る。気づけば、カーラはオーランドの日常に居て当たり前の存在になっていた。カーラが女であることさえ、気にならないほどに。
今夜は燃える水――石油について聞いてみよう、とオーランドは思いついた。
「なあ、カーラ。石油が船の燃料になるのは知っているが、そのまま石油用の炉に注げば、燃料として使えるのか?」
『いいえ。原油のままじゃ使えないの。蒸留しないと』
「どうやるんだ?」
『高さが50メートルもある蒸留塔の中に、加熱炉で350度に熱した原油を吹き込むの。沸点の差によって、灯油、軽油、重油とかの各種石油留分に分けるの』
「油の種類を分けて、いったい何に使ってたんだ?」
カーラはすらすらと答える。
『灯油は飛行機のジェット燃料、軽油は戦闘艦の燃料、重油は商船の燃料に使われてたわ』
「そうか」
他にもたわいのない話をしているうちに、カーラの声が遠くなった。自分を包む布団と、ベッドの感覚が遠くなっていく。――そして、オーランドの世界はだんだんと変質していった。
大勢の青い服を着た人間に囲まれ、オーランドはざわめきの中で座っている。横には、どこかで見た茶髪の女がいる。彼女の髪は夕日に照らされ、朱色に光っていた。
「ハンナ、彼氏さんと試合を見に来なくて良かったの? 野球の大ファンなんでしょ?」
「うん。彼、急に艦長に呼び出されたってさ。軍人は辛いねえ」
ハンナは首を振る
「そっか」
「白油タンカーとか、燃料がどうのこうのって言ってたわ。よく分からなかったけど」
「ハクユ?」
「ああ、軽油かジェット燃料の事でしょ。船か戦闘機の餌よ」
「え、軍艦って軽油で動くの?!」
「そうよ。全部が原子力ってわけじゃないの――あっ! ホームランよ!」
どっと周りが沸き立つ。騎士に号令をかけるラッパに似た音が聞こえてくる。それに合わせて、ハンナも歌い始める。
「されば港の数 多かれど この横浜に 優るあらめや!」
何度かそんなことがあって、気づけば夜になった。どうやら試合は勝ったらしい。浮き立った球場のあちらこちらから、同じ歌が聞こえてくる。
わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連りそばだつ島々なれば
あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど
この横浜にまさるあらめや
むかし思えば とま屋の煙
ちらりほらりと立てりしところ
今はもも舟もも千舟
泊るところぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を
飾る宝も入りくる港
「まずい。独立集会と間違われて憲兵来るかも。逃げなきゃ」
オーランドはハンナに腕をつかまれ、人込みをかき分け走る。ああ、素敵な歌だと思いながら――そして、目が覚めた。
アフェクからの使節の歓迎行事は、無事に終わった。力織機は技術開発班に預け、オーランドは儀礼に集中した。
晩餐会の後、内密に話したいことがあると騎士に言われ、オーランドは騎士と彼の従者を自室に招き入れた。彼らは、巻物が入った箱を持ってきた。
「次期領主様は燃える水を必要としているとのことでしたので、我々アフェクの民もその熱意に応えることにしました」
騎士の指示で、羊皮紙が広げられる。設計図が姿を現す。カーラが息をのむ気配がした。
「燃える水を使いやすくするための、蒸留装置にございます」
『なんなのよこれ! 私が知っている石油蒸留装置より高性能じゃないの!』
「蒸留装置、か」
オーランドはカーラの言葉を繰り返すことしかできなかった。噂をすれば影と言うが、まさかカーラと話して一日経たないうちに、石油蒸留装置の設計図を目にするとは。騎士は蒸留装置について、滔々と説明をしている。オーランドはカーラの説明を聞いていなければ、全くついていけないと思うほどに理論的で緻密な話だった。説明がひと段落したとき、カーラが口を開いた。
『どうして、アフェクの人はこんなに旧世界の技術を再現できるの? ねえ、オーランド、私以外に旧世界の人を知っているんじゃないの? そうなら一回、知らないなら二回私をつついて』
否、の意味でオーランドは蚕のペンダントを二回つつく。
「次期領主様? 何か、失礼でも致しましたでしょうか?」
不安そうな騎士団長の声色に、オーランドは次期領主の顔を作り直した。威厳たっぶりに彼に応える。
「いや……とても素晴らしい。素晴らしすぎて、逆になぜアフェクには知恵者が多いのか、不思議に思って、考え込んでしまっただけだ」
騎士は顔をほころばせた。嬉しそうに口を開く。
「簡単な話です。ノーデンの守護天使にして裁きと預言の解説者、つまり知恵を司る天使のウリエル様がアフェクを祝福された土地にしたからです」
「初耳だ。詳しく聞かせてくれ」
オーランドは身を乗り出した。騎士は滔々と語った。
「アフェクの古い言い伝えでは、ノーデンの守護天使ウリエル様は、ノーデンで最も天に近いアフェクに降り立たれたそうです。だから、アフェクには領都アセルと同じように城が建てられたのです。その時に、自分が降り立つべき場所として、ウリエル様はアフェクを知恵に満ちた地として祝福し、アセルは地上の国の民を養うため、麦と魚の豊かな実りに満ちた地として祝福なさったそうです。これは領主の家に伝わる言い伝えとして、今は亡き現領主様の姉、シグルド様のお母上様が仰っていたことでもあります」
「父上から、そんな話を聞いたことはない」
騎士団長は一瞬驚いた後、堰を切ったように話し始めた。
「ナント・ガ―ディン様の晩年にお生まれになったのが現領主ローレンス様ですからね。領主の家だけに伝わる言い伝えは、ご存じなくても不思議ではありません。ナント・ガ―ディン様――次期領主様の御祖父様は、公式には30歳で病死したとなっています。しかし、本当のところはゼントラムの政争に巻き込まれて、暗殺された可能性が高いです。それが、シグルド様と奥様、そしてハロシェテ伯ルーシ・デレウリャーネ様が出した結論です。ハロシェテ伯の奥様も、ゼントラムに居ては命が危ないので、政争が無く、一番暗殺されるリスクが少ないノーデンに降嫁を決めた、と伺っております」
「待て。では、質実剛健はノーデンの伝統ではなかったのか?」
「現領主、ローレンス・ガ―ディン様の方針です。ローレンス様は成人前の若い頃、ゼントラムに居て、今でも当時の知己と文通をなさることはあるようです。しかし、成人と同時に第一夫人ジュリエッタ様――子供がいないことを理由に、フレーデグンデ様に追い出され、失意のうちに亡くなってしまいましたが――を迎えられてからは、華やかなことをすっかりやめ、ゼントラムとの関わりもほとんど絶ってしまいました。その後、亡くなった兄上の後を継いで、ノーデン領主の御位に就かれた、と私は存じ上げております」
「初耳だ」
「ノーデン領主に即位してから凶作続きで、その対策の為にローレンス様はノーデン中を飛び回っていらっしゃいましたからね。ここ十年は落ち着きましたが、食い詰めた民が夜盗や山賊になってしまうことも、多々ありました」
騎士団長は下を向いて黙る。アフェクは小麦がとれない。畑にできない山地と、石だらけの草地があるばかりだ。だから、明日の食事の蓄えを無くした民は容易に山賊になり、他者から奪うことでしか生きられなくなる。オーランドも、成人前に何度か山賊制圧に出た。きっと彼は、手にかけるしかなかった、罪を犯さねば生きられなかった民の事を考えているのだろう。オーランドは目を閉じ、息を吸い込んだ。
「今までの働き、大儀であった。騎士であるという事は、その分だけ殺生もする。その代わりに、騎士しかできない働きという栄誉がある。そう、気を落とすな。汝は騎士の本分を全うしただけである」
「……そのお言葉が、何よりの栄誉です」
そう言って、オーランドの部屋から騎士一行は去った。数日騎士たちは技術解説の為にアセル城に滞在し、それからアフェクに帰って行った。彼らと入れ替わりに、オステンからルーシの手紙がオーランドの下へやってきた。
――楽器と引き換えに、燃える水の泉の採掘許可を得た――
この一文を読んだ瞬間、オーランドは躍り上った。今まで読まされていた、子供と会えない寂しさの事など忘れ、椅子から勢いよく立ち上がった。衝撃で椅子がひっくり返り、大音響を立てる。彼はそれさえかき消すような大声で叫んだ。
「これで交易の品が確保できたぞ!」
『本当にね! 力織機で、布もたくさん作れるし!』
嬉しそうなカーラの声。カーラが嬉しいと分かると、オーランドは喜びで全身がいっぱいになった。歓喜は留まることを知らず、オーランドの言葉となってほとばしり出た。
「布が安くなれば、貧しいものが凍えずに済むようになる。工場を作れば宿無しの貧民に仕事と寝床を提供できる。そして、輸出した糸はノーデンの蓄えになる! きっと、これから何もかも良くなっていくに違いない!」
『ええ。きっと。きっとね』
半身も同然のカーラが言うのだから、自分の予想は正しいのだろう。前祝いとして踊りたい。思わず、オーランドは真面目に言ってしまった。
「踊ろうか、カーラ」
『どうやるの? 私、蚕なのよ?』
カーラの声は笑いを含んでいた。そうだった。カーラには体が無かった。オーランドは今更その事実を突き付けられた。
「すまない。調子に乗りすぎた」
『気にしなくていいわ。石油を手に入れられて、それを精製する技術もある。私だって、体があったら大喜びして町中踊り歩くわよ』
「ありがとう。カーラは、優しいんだな」
『どういたしまして』
明るい未来に向けて、その夜は二人でいろいろなことを話し合った。いつ寝たのかは定かではなかったが、オーランドが翌朝思い返すと、一度も母親の事を思い出さなかったことに気付いた。
カーラとなら、あの色欲の獣の幻影にも勝てる。きっと二人でどこまでも進めるのだろう。オーランドは、その確信を胸に新たな朝を迎えた。




