第4章ー11
だが、共産中国内部において、都市から農村への住民の移動が行われたのは、別の理由もあった。
「お前ら、爆弾を落として、それによる建物崩壊や火災で、女や子どもが泣き叫び、死んだり怪我をしたりするような光景等、決して思い浮かべるな。自分が正気を保ち、愛国心に燃え、祖国の為に尽くしたいなら、そんなものは忘れ去ってしまえ」
米陸軍航空隊による初の中国本土戦略爆撃が実行される前、ルメイ少佐は、そう部下達に言い聞かせた。
「今から、俺が先頭に立って出撃し、祖国から命ぜられた任務を果たした後、最初に帰投するつもりだ。自分の後に必ず付いてこい。付いてこない奴は、祖国に対する裏切り者として軍法会議に掛ける」
この発言を終えた後、ルメイ少佐は、自分が搭乗するB-17に向かい、米陸軍航空隊による初の中国本土戦略爆撃の任務に就いた。
その後にルメイ少佐の率いる80機のB-17の搭乗員達が付いて行った。
「最初の目標としてはやむを得ないか。本当なら共産中国の臨時首都である成都に爆弾の雨を降らせたいものだが。ここになるのは仕方ない」
攻撃目標にたどり着いたルメイ少佐は、そう呟くと爆撃を開始した。
事前に喝を入れられていた爆撃隊員達も、ルメイ少佐の後に従って爆弾を投下した。
だが、80機足らずのB-17では、400トン程の爆弾を投下するのが精一杯だ。
ルメイ少佐の期待する程の戦果を挙げることはとても無理だった。
「後10回、いや少なくとも20回は爆撃を繰り返す必要があるな」
ルメイ少佐は、そう呟いて、出撃した蘭州近郊の飛行場に引き返した。
そして、ルメイ少佐は、その言葉を違えずに20回以上に渡り、その都市を爆撃した。
西安市は、中国では、いや世界的にも歴史のある都市として知られている。
中国の王朝は、古代の周から唐が滅亡するまで西安(当時の名称は長安)を、多くが首都と定めた。
だが、西安市は、第二次世界大戦に際して、米陸軍航空隊により執拗な爆撃を受け、1万トン以上に達するのではないか、という爆弾の雨が降らされた。
そのため、第二次世界大戦が終わった後、西安市は完全な廃墟と化しており、歴史遺産とされるものは全く遺っていないといっても過言ではない有様になっていた。
日本では三蔵法師として知られる玄奘三蔵の舎利塔を始めとする宗教施設や、始皇帝が建設した阿房宮の跡等の西安市にあった歴史遺産は第二次世界大戦の際に、米国陸軍航空隊の空襲により全てが破壊、焼失してしまったといってもそう間違いではなかった。
ある歴史学者に言わせれば、もしも第二次世界大戦による空襲の被害が無ければ、西安市は各種歴史遺産に満ち溢れていただろう、と哀惜に満ちた発言が為される程である。
(なお、米国政府等は、その主張をほぼ否定している。
確かに空襲による被害は否定できないが、実際にはその多くが第二次世界大戦後の混乱の際に行われた中国の民衆による略奪等によるものであり、空襲による被害はそんなに大きくないというのである。
だが、中立的な学者、研究機関の間でさえ、中国の民衆による略奪があったのは否定できないが、それより圧倒的に第二次世界大戦による空襲被害が大きい、という見解が絶対多数であることからすると、真実はどこにあるのか、おのずと明らかだろう。)
こういった米国陸軍航空隊による共産中国が統治する都市に対する無差別爆撃が、1940年11月から始まったことが、都市から農村への住民の大規模な移動を、共産中国内では招いた。
何しろ都市に対する無差別爆撃が行われ、更に都市を支える物流が阻害される事態が引き起こされてしまったのだ。
大規模な空襲被害の始まりにこの年はなった。
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