第3章ー14
この世界におけるこの当時のいわゆるモンゴル国の呼称についてですが、悩んだ末に外蒙古政府と呼称しています。
何故かといいますと、史実でもそうでしたが、この世界で、この当時にモンゴル国が事実上の国家として暗黙の裡に認められてはいても、実際に独立国としてどこまで認められているのか、というと作者の私としてはかなり悩ましい問題になってくるのです。
(史実の満州国や現在の中華民国が、どこまで独立国として承認されているかを考えると更に悩ましい問題になります。)
作者の私としては、全く政治的意図はなく、小説上の呼称、描写という事で、読者の皆様にはご宥恕くださるように平にお願いします。
ハルビン近くにまで、日米満連合軍がそれなりに順調に進撃できたのは、それなりの訳があった。
徳王らが率いるモンゴル民族主義者達は、日米からの大量の武器弾薬等の提供を受け、早速、イルクーツク方面からの補給路に対して、破壊工作を多発させた。
また、他のモンゴルの人々にも、自らに同調するように呼び掛けた。
こういった工作に疑心暗鬼になったソ連軍や外蒙古政府は、容疑者に拷問を加えたり、密告を奨励したりすることで、それを阻止しようと試みたが、そのことは燻っていたモンゴル民族系の住民の反感を煽り、逆に日米満側に奔らせる効果をもたらした。
外蒙古建国以来ソ連は最大の外蒙古政府の後援国だったが、その関係は極めて微妙なものが続いていた。
モンゴル民族主義者にしてみれば、外蒙古というモンゴル民族の独立国家の建国自体は喜ばしいことだったが、ソ連はしばしば内政に対する干渉を行った。
外蒙古に住むモンゴル民族系の人々にしてみれば、これでは完全な独立国家だとは言えない、という感情が徐々に高まっていたのである。
特に1930年代に入り、満州事変や中国内戦の勃発は、ソ連の外蒙古政府に対する干渉の度合いを高める方向につながった。
ソ連にしてみれば、外蒙古政府が不安定になって、日米満韓側に寝返るという事態が起きては、共産中国に対する武器等の支援が困難になり、また、中国本土から産出される資源の入手が困難になるからである。
更に時のソ連政府の指導者はスターリンである。
その性格もあり、スターリンは、外蒙古政府に対する積極的な干渉を決断した。
1936年当時、外蒙古政府の首相はゲンドゥンであり、国家元首といえる人民小会議幹部会議長はアマルだった。
共に外蒙古唯一の政党、モンゴル人民革命党の党員ではあるが、穏健派、対外宥和派として国内外に知られており、ソ連政府が提唱するラマ教弾圧やソ連軍の国内駐留に反対していた。
スターリンにしてみれば、この二人の態度は共産主義に反してソ連に敵対するものに他ならなかった。
スターリンは、軍事的恫喝を行い、強硬派、親ソ派として知られていたチョイバルサンを、外蒙古政府の内相に更に全軍司令官に据えさせ、外蒙古政府の首班に事実上据えた。
チョイバルサンは秘密警察を創設し、スターリンの意を汲んで、外蒙古国内の穏健派、対外宥和派、ラマ教僧侶の大粛清を開始した。
1936年中にはゲンドゥンが、まず病気療養の必要があるとされ、ソ連に事実上追放されて、翌年にソ連政府により日米と組んでスパイ行為を行ったとして処刑された。
また、アマルはソ連政府の圧力の前に屈服してチョイバルサンに服従したために、傀儡首相として暫く余命を保ったが、1939年春に日米のスパイとの冤罪を掛けられ、チョイバルサンによって処刑された。
これは、2年余りのチョイバルサンの大粛清により、ゲンドゥンやアマルを支持していた穏健派、対外宥和派が壊滅したために、アマルを生かしておく価値が無いとされたためだった。
チョイバルサンは、スターリンの意を受けてソ連軍の大規模な国内駐留を認め、その後援によりアマル処刑後に自らが外蒙古政府の首相に就任した。
徳王らのモンゴル民族主義者が広範なモンゴル民族系から支持を集めたのは、こういった背景もあった。
ラマ教僧侶を大量に処刑したことにより、保守的な宗教主義者の民心は急速にチョイバルサン率いる外蒙古政府から離れていた。
更に新たなるモンゴル民族主義者へのソ連と外蒙古政府の弾圧の発生は、外蒙古に住む国民の間に新たなる反感の種を播き、日米に心を寄せて反政府運動に参加し、積極的な武力闘争を引き起こすようになっていたのである。
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