第3章ー6
こういった事情から、ペトロパブロフスク=カムチャッキー市街地への攻撃が行われるのは、6月8日までずれ込むことになった。
万が一に備えないといけない、ということで、戦艦を含む米艦隊への補給(主砲弾の補充等の関係もあり、一旦、ダッチハーバーまで下がる必要性があった。)を十二分に行ったことから、2週間も余分に掛かる羽目になったのである。
勿論、スミス提督以下の米海兵隊にしてみれば、他の思惑もあった。
何だかんだ言っても、こちらの方が1個海兵師団という量はともかくとして、質的には圧倒した兵力を保有しているのである。
時間をかけて、ペトロパブロフスク=カムチャッキーに対する攻囲陣を敷き、徐々に圧力をかけつつ、ペトロパブロフスク=カムチャッキー守備隊及び市当局に対して降伏勧告を行うことで、市街戦を戦わずして、投降させてしまおうという思惑があったのである。
しかし、市当局や守備隊の上層部は、ペトロパブロフスク=カムチャッキー市街で戦わずして降伏した場合には、ソ連政府に最終的には身柄を渡され、自分は祖国に対する反逆罪として死刑、家族全員が強制収容所送りになると判断して、降伏をあくまでも拒絶した。
(第二次世界大戦勃発直前まで行われていた大粛清の恐怖が、彼らを縛っていた。)
これは、スターリンからの命令でもあった。
ペトロパブロフスク=カムチャッキーに対する米軍の攻略作戦が行われたことを聞いたスターリンは、孤立しているペトロパブロフスク=カムチャッキー守備隊が英雄的抗戦を行い、クリミア戦争時と同様に守り抜くことを確信している旨の事実上の死守命令を下し、その旨の電文を送った。
(クリミア戦争時、ペトロパブロフスク=カムチャッキーは制海権を失って孤立した状況下にも関わらず、3倍近い英仏軍の攻撃をはねのけた歴史があった。)
このようなスターリンからの命令を受けている以上、ペトロパブロフスク=カムチャッキー市当局や守備隊には、戦わずして降伏という選択肢は無かったのである。
クレメンス少尉にしてみれば、気の重くなる攻撃だった。
一般市民も立てこもるペトロパブロフスク=カムチャッキー市街に対して、攻撃を掛けねばならない。
一般市民の被害を避けるために、ソ連軍は一般市民をペトロパブロフスク=カムチャッキー市街から脱出させると考えていたのだが、脱出させる気配はない。
こうなっては、我々米海兵隊としては、ペトロパブロフスク=カムチャッキー市街を強襲するしかない。
6月8日朝を期して、米海兵隊は攻撃を開始した。
クレメンス少尉にしてみれば、民兵は戦いの素人で戦わせるべきではなかった。
民兵は戦場の駆け引きというのが全く分かっておらず、我々が目に入り次第、無闇やたらと発砲して、存在を暴露している。
我々が身を隠し、適切に撃ち返したり、迫撃砲や機関銃の支援を受けたりしていると、民兵は緊張に耐え切れなくなるのか、突撃してくることが多発してくる。
そうなっては、我々が火力に優越していることから、民兵隊はやられてしまう。
とは言え、我々にもそれなりの損害が出るし、一般市民に銃を向けたという罪悪感に苦しむ(自分もそうなりつつあるが)部下も出てくる。
クレメンス少尉は苦々しい想いをしながら、戦う羽目になった。
日本空軍の戦闘機部隊や米艦隊からの艦砲の支援もあり、6月11日夕刻、ペトロパブロフスク=カムチャッキーの市街地がほぼ米海兵隊の制圧下におかれる状況となったことから、米軍からの降伏勧告を守備隊は受け入れた。
最終的にソ連軍の守備隊、民兵隊併せて2万人近くが死傷し、米海兵隊1000人程が死傷するという損害がこの戦いで出ることになった。
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