第2章ー9
欧州方面においては、このような航空作戦が展開されていたが、アジア、極東方面ではどうなっていたのか。
こちらでは、日米満韓の航空隊が共闘して、ソ連空軍に対し徐々に優位を確立していた。
(共産中国空軍が存在していない訳ではなかったが、自前で軍用機の製造が、共産中国では行われていない以上、独ソからの輸入に共産中国空軍の軍用機は頼らざるを得なかった。
だが、第二次世界大戦勃発により、独からの軍用機の輸入は完全に途絶え、ソ連からの軍用機の輸入も激減したことから、共産中国空軍は、軍用機をほぼ保有しない状況に陥り、地上部隊にほぼ転用されてしまうことになるのである。)
とは言え、それはあくまでも徐々にというレベルだった。
ソ連空軍による日本本土空襲は、1940年夏にも散発的な夜間空襲であったとはいえ、やはり行われていたし、ソ連海軍には後述するが、一大打撃を与える作戦が米海兵隊が中心になって行われたとはいえ、相変わらずソ連の潜水艦部隊による損害は減少しつつあるとはいえ、絶無という訳には行かなかったからである。
米満韓の航空隊の協力があったとはいえ、日本空軍は、こういった対策に四苦八苦したのであり、満州上空が最大の戦場だったとはいえ、それ以外の空でも戦わねばならなかった。
そのため、いわゆる珍兵器まで考案、試作されるという笑えない冗談が起きた。
「いっその事、探照灯を積んではどうか」
散発的とはいえ、ソ連空軍の重爆撃機による夜間の日本本土空襲を放っておくことはできない。
国民の間に、それによって実際に死傷者が出ているのだ。
しかし、その対策となると文字通り、暗中模索の有様だった。
そういった状況から、山本五十六空軍本部長から上記の鶴の一声が発せられた。
山本空軍本部長が、こういった発想に至ったのは、幾つかの原因があった。
まず第一に、国民の被害を減らさねばならない、という課題である。
そして、それにより、友誼のある米内光政首相が、衆議院等で攻撃を受けているのも、山本空軍本部長としてはつらいことだった。
野党の立憲民政党の議員からは、天皇陛下の御宸襟を安んぜられていないのではないか、とまで国会の質問において米内首相は非難されたという。
第二に、意外と夜間戦闘機に搭載する電探開発に手間取っているという現実がそれを後押ししていた。
幾ら米英の協力を受け、更に(史実よりも遥かに)民需の裾野が広がっているとはいえ、当時の日本の技術力では、夜間戦闘機に搭載する電探開発は難事だった。
かと言って、電探無しで夜間迷彩を施したソ連重爆撃機部隊を夜間戦闘機部隊が探すのは、中々困難だったのである。
それならば、探照灯を積んだ航空機を飛ばし、それによって、夜間戦闘機を支援してはどうか、という発想を山本空軍本部長は思いついたのである。
候補機としては、旧式化した96式中型爆撃機が挙げられた。
新型の99式シリーズは、前線から1機でも多く求められる以上、旧式機からの改造ということになったのである。
では、その結果はどうなったのか?
「こんな機体、試作で止めろ。役に立たないにも程がある」
試作機の試験運用をした小園安名空軍少佐は、そう言って周囲に説いて回る羽目になった。
探照灯を積んだ96式中型爆撃機は、その代償として、全ての武装を下す羽目になった。
更に、幾ら無線通信のレベルが向上したとはいえ、この96式中型爆撃機の誘導で単発戦闘機の99式戦闘機が、敵重爆撃機を襲うのは、小園少佐の見る限り無理難題にも程があった。
小園少佐が懸命に周囲に訴えた結果、探照灯を積んだ航空機が実戦投入されることは無かった。
だが、こんな珍兵器まで作られる程だったのだ。
上記の探照灯を搭載した軍用機については、夜間空襲対策用の軍用機です。
対潜用の探照灯を搭載した軍用機を実際に出すかは、まだ未定です。
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