第2章ー4
それ以外にも様々な点について、源田実少佐とジミー・ドーリットル少佐は、ベルリンに対する空襲計画の詳細を詰めることになった。
例えば、重爆撃機部隊は、ホーンチャーチ等の英本土の各基地から順次、出撃していくことになった。
日本海軍航空隊の戦闘機部隊はオスロ近郊に展開し、予めの計画に従い、順次、出撃して行って重爆撃機部隊の護衛を行うことになった。
更にベルリンに対する空襲により損傷等を被った重爆撃機は、オスロ近郊の飛行場で一時、着陸等の保護を行うことになった。
実際のベルリン空襲において全ての重爆撃機を、英本土から直行させて、更に直接の帰還を図っては、搭乗員が多数、損耗するという心配する声が高かったためである。
(実際、第一次世界大戦においては、様々な航空作戦の結果、多数の搭乗員が戦死傷するという悲劇に見舞われていたことから、そのような事態が頻発するのでは、と懸念されていた。
また、この第二次世界大戦でも、類似の事例が頻発することになる。)
かと言って、オスロ近郊に重爆撃機部隊を前進させて、そこから爆撃を加えるという考えについては、源田少佐もドーリットル少佐も否定的だった。
ノルウェーに重爆撃機部隊を展開させて、そこからの爆撃作戦を展開しては、その部隊への補給等が大変なことになるからである。
源田少佐の本音としては、オスロ近郊に日本海軍の戦闘機部隊を展開するのも補給整備等等の観点から、消極的意見を唱えたいくらいだったのだ。
それに付け加えるなら、オスロ近郊に大規模な航空基地を設けた場合、そこへ独空軍の爆撃機部隊による反撃も加えられる可能性がある。
念のために、米陸軍航空隊から戦闘機部隊を割いて防空に当たらせるとは言え、リスクを避けるためだった。
とは言え、長時間飛行を搭乗員に強いては、搭乗員の疲労困憊も大きなものになる。
特に単座機の場合、交代の操縦士もいないので、搭乗員の疲労は特に大きい。
こういったことから、米陸軍航空隊の重爆撃機部隊は英本土から、日本海軍の戦闘機部隊はオスロ近郊のノルウェーから出撃して合流するという段取りになったのだ。
ドーリットル少佐と源田少佐が実際の中心となって立案したベルリンに対する空襲計画は、米日双方の軍上層部から裁可され、6月25日に泥縄的な手段まで取られた末に強行されることになった。
6月25日の日の出と共に、英本土の基地から米陸軍航空隊の重爆撃機B-17から成る部隊、約120機は続々と出撃していった。
北海を横断し、オスロ近郊で日本海軍航空隊の零式艦上戦闘機、約120機と合流する。
スカゲラク海峡を北から南へと渡り、コペンハーゲンからキール軍港の間を抜けて、ベルリンへと合計約240機の日米合同の戦爆部隊は向かった。
この大戦爆合同部隊が、ベルリン上空に差し掛かったのは、正確に言うなら昼前だったが、気分的には白昼堂々たる敵首都空襲だった。
当然、独空軍戦闘機部隊も大々的に迎撃した、と書きたいところだが、そうではなかった。
当時の独空軍戦闘機部隊の多くが、西方戦役に投入されており、ベルリン防空に充てられる戦闘機部隊は全機稼働可能な状態だったとしても、100機に満たなかったというのが現実だったからである。
しかも、精鋭といってよい搭乗員は、西方に多くが赴いていた。
万が一に備え、極少数の精鋭搭乗員が首都ベルリン防空の為に遺されていたとはいえ、日米の戦爆合同で約240機もの空襲が行われるとは想定しておらず、彼らは苦戦を強いられることになった。
「まさか、ここを狙ってくるとは」
その残されていた数少ない精鋭搭乗員の長であるガーランド少佐は半ば慌てて出撃する羽目になった。
史実と異なり、ガーランドはスペイン内戦に参加していませんが、ベルリン防空に当たる搭乗員の中では飛行時間が長いベテランという趣旨だとご理解ください。
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