第1章ー24
しかし、現実問題として、我が独陸軍の戦車で、日本海軍の戦車に正面から戦って勝てるのか、と考えれば考える程、ルントシュテット将軍としては勝算に乏しいと自ら認めざるを得なかった。
何しろロンメル将軍率いる第7装甲師団が、事実上は日本の第1海兵師団の前に、バストーニュ攻防戦において、一敗地に塗れる始末なのだ。
ロンメル将軍は、戦車に関しては専門家ではないが、決して無能な将帥ではない、とルントシュテット将軍自身は評価している。
その報告等を読む限り、日本海軍の戦車は、独陸軍の戦車を圧倒していると言っても過言ではなかった。
更に問題があった。
西方戦役開始以来の独陸軍の戦車の損耗が無視できないレベルに達していたことである。
西方戦役開始から僅か10日余りで、独陸軍の戦車のかなりが損耗したのには、幾つかの理由があった。
まず第一に、独陸軍の戦車が機動力を重視する余り、火力、装甲ともに劣弱だったことである。
機動力の優位で、火力、装甲の劣弱は補える、というのが独軍の判断だったのだが。
仏軍の対戦車能力は極めて高く、到底補いが付くものではなかった、というのが現実だった。
(独軍の突撃砲と違い、仏軍の砲戦車は対戦車戦闘をより優先して製造されていたといっても過言ではなかったために、防御戦闘において独軍戦車と互角以上に戦っている。)
第二に、戦車の特性上、進撃すればするほど、どうしても壊れるということである。
勿論、進撃しながらも整備を怠らねば、それなりの稼働率を戦車は維持できる。
しかし、特にアルデンヌ地方を経由して進撃した独A軍集団の装甲師団の戦車は、後方、独本国からの補給物資が最前線まで届きにくかった(具体的にはサン・ヴィットを落とせなかった)ために、整備も難しい事態が多発したのである。
更に戦場における独軍側の航空優勢の確保が困難であったことから、独戦車部隊が直接攻撃されるのみならず、いわゆる段列部隊が攻撃されることが多発したことも、独軍の戦車部隊の活躍を阻害した原因となったのである。
こういった事情から、詳細を後述するサン・ヴィット近郊の戦車戦は、数々の伝説に彩られてしまい、真実が極めて分かりにくい戦闘となっている。
例えば、サン・ヴィット近郊の戦車戦を、零式戦車伝説の極致ともいえる話で語るある小説家によれば。
「日本海兵隊が保有する約300両の零式戦車が、約1500両以上の独軍戦車と正面戦闘で戦って勝ったのだ。これは、5倍以上の兵力差を質的優位によって正面からの戦闘で粉砕したものであり、世界戦史に遺る伝説の勝利といえる」
ということになる。
だが、日本海兵隊から公開された資料、更に戦後に独から公開された数々の資料から考察する限り、上記の「伝説の勝利」は、眉唾物である。
確かにサン・ヴィット近郊において、サン・ヴィット救援を目指す日本海兵隊6個師団と、それを阻止しようとする独6個装甲師団が激突したのは間違いではない。
しかし、師団数だけ見れば全くの互角なのが分かる。
更にミューズ河の渡河を独装甲師団の多くの部隊が完了した後で、引き返してきたのであり、その行軍過程における損耗もかなり出ていた。
そして、日本海兵隊もそれなりに損耗していた。
もっとも確実性の高いとされる考察によれば、独軍戦車500両近くと零式戦車200両余りが激突したというのが、真実に近いとされる。
(なお、独軍戦車は部隊集結にかかった時間の問題もあり、逐次投入に近い形だったともいわれる。)
そして、日本海兵隊の戦車の質的優位を既に把握していた独軍側は、正面からの防御と側面攻撃を組み合わせることにより勝利を掴もうとしたという事実もあるのだ。
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