第1章ー18
とは言え、このような空爆を行えば、いかに精鋭をもってなる日本海軍航空隊と言えども損耗していく。
江草隆繁大尉(当時)の回想によると、日本を出航してから、日本海軍航空隊は、グラフ・シュペー攻撃、ノルウェー救援作戦、更にこの6月から7月に掛けての対独航空戦等々と激戦に投入され続けた結果、7月半ばまでには部下の半数近くが失われてしまい、他の部隊もほぼ同様に損耗した、となっている。
勿論、戦果も抜群で、北白川宮大将から感状が出されるほどだったが、損耗も無視できなかった。
そのため、7月後半以降、小沢治三郎中将率いる第三艦隊まで投入されて日本本土から運ばれてくる航空機や搭乗員が補充される秋まで、日本海軍航空隊は後方に下げられる始末になった。
そのような損害を出しても、日本海兵隊が急進撃を図らねばならなかったのには、訳があった。
まず、アントワープを目指す独A軍集団の攻勢は、自らの血を引き換えとしながらだったが、進撃を続けており、ミューズ河の渡河を何か所かで果たす状況にあった。
英仏軍は、ミューズ河を独軍が渡河するには、重砲部隊を後方から運ぶ必要があり、それまでに後方から味方の部隊がミューズ河岸沿いに駆けつけることで、ミューズ河の渡河を阻止できると主張していたが、日米及びポーランド軍が、予め警告していた通り、重砲部隊に頼らず、航空攻撃を駆使することで、独軍はミューズ河の渡河に成功していた。
そして、独A軍集団の先鋒部隊は、ベルギーに展開している英仏軍の側面を衝いて、B軍集団の攻勢と協調しつつ、ベルギー軍や英仏軍を徐々に押し込みつつあったが、その矛、独A軍集団の力は事前の想定より弱い状況だった。
何故かというと。
「ここ、サン・ヴィットを固守する限り、アルデンヌ地方を突破して進む独軍の補給路は充分とは言えず、進撃は困難になる」
そう自ら主張して、率先垂範の精神から、レヴィンスキー将軍は、サン・ヴィットに赴いていた。
そして。
アルデンヌの独仏対峙の最前線から、1940年6月10日を期して開始された独軍の初期攻勢により半壊して退却してきた仏軍3個師団程(実戦力は、合計しても1個師団余りだったという)が、レヴィンスキー将軍自らによる再編制の末に、サン・ヴィット防衛軍を構成していた。
サン・ヴィット防衛軍は、レヴィンスキー将軍の陣頭指揮により、独A軍集団の文字通り火の出るような攻勢に対処しており、当時としては鉄壁の防衛戦を展開していた。
このサン・ヴィット攻略のために、予備も含めれば10個師団余りを独軍は投入する羽目になっており、更に補給路の確保も十分とは言えなかったために、ミューズ河の渡河に成功したとはいえ、独軍の攻勢衝力は想定より弱い状況となっていたのである。
こういった状況に鑑み、独A軍集団司令官のルントシュテット元帥は、バストーニュから日本海兵隊が、サン・ヴィット救援のために反攻を開始したことを知ると、サン・ヴィット防衛軍に投降を勧告することで、この状況を打開することにしようと決断した。
独A軍集団からサン・ヴィット防衛軍に派遣された軍使は、思わぬ展開に戸惑う羽目になった。
白旗を掲げてサン・ヴィット防衛軍に投降勧告を行えという、上官の命令を受けたことから(内心では渋々)自らが行ったのだが。
敵軍は、想像以上に丁重な対応を自分にしてくれている。
更にレヴィンスキー将軍自ら、自らに面会対応をしてくれるとは思わなかった。
そして、私自身ができる限りの弁舌を尽くしたのだが。
「モーロン・ラベ」
サン・ヴィット防衛軍のレヴィンスキー将軍は、その一言で私の言葉を斬った。
「意味が分からないのなら上司に聞け」
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