第5章ー24
ルーデンドルフ鉄橋が、日本海兵隊により確保されたことは、独軍にとって衝撃を与えた。
ライン河という大防衛線に綻びが出たのだ。
そして、ルーデンドルフ鉄橋の爆破に失敗したということで、ヒトラー総統直々の命令により、5人の士官が即決裁判で銃殺刑になった。
(なお、その内の1人は裁判時までに日本海兵隊の捕虜となっていたので、実際に銃殺刑が実施されたのは4人である。
そのため資料によっては、4人が銃殺刑になったと書いてある。)
ルーデンドルフ鉄橋を破壊しようと、独軍は空襲を加えたり、特殊部隊による破壊工作を試みたりした。
また、直接、ルーデンドルフ鉄橋の奪還まで独軍は図った。
この戦闘は、ほぼ1月余り続き、連合軍側も増援の米軍やポーランド軍を投入した。
そして、日本海兵隊だけで2万人近い死傷者を出す激闘となったが、ルーデンドルフ鉄橋は確保され続け、その周辺部に零式重戦車でも使える仮設橋2本が、連合軍の手によって掛けられたことから、終に独軍はルーデンドルフ鉄橋の破壊、奪還を事実上断念することになった。
なお、この間の激闘において、土方勇中尉も、搭乗していた零式重戦車が破壊された際、右腕を骨折し、全治約1か月という重傷を負い、後方に下がる羽目になった。
(なお、土方中尉自身は、妻の千恵子に心配を掛けまいと、手紙にこのことを書かなかったのだが。
岸総司大尉が、千恵子への手紙に書いてしまい、土方中尉は、千恵子に夫婦間で隠し事をするなんて、と手紙で叱られる羽目になった。)
もっとも、ルーデンドルフ鉄橋の破壊、奪還を独軍が諦めたのは、他の要因もあった。
ルーデンドルフ鉄橋の破壊、奪還に力を注ぐ余り、相対的に他の方面(具体的には主にライン河西岸)の戦力を独軍は削らざるを得なくなった。
そのために、オランダ、ベルギー方面の英仏軍主力の攻勢は更に順調に進むようになり、12月初めには、ほぼオランダ、ベルギーから独軍を追い出し、アルンヘムでライン河の渡河にも英仏軍は成功した。
また、アーヘン攻防戦も、完全に独軍に不利な状況となってしまい、11月末にはアーヘンの解囲作戦はほぼ中止状態となってしまい、その後はじりじりと孤立した独軍のアーヘン守備隊は攻囲されていき、12月初めには、独軍のアーヘン守備隊は連合軍への無条件降伏に応じる羽目になった。
こういったことから、ライン河西岸から独軍は、ほぼ姿を消しつつあった。
そして、ルーデンドルフ鉄橋のみならず、アルンヘムでも連合軍は渡河に成功し、他の地点複数でも、連合軍はライン河渡河作戦を試みるようになり、12月上旬から中旬に掛けて、ヴェーゼルやコルマールでもライン河は渡河される有様となったのである。
このような戦況を受けて、連合国政府は協同して大宣伝戦をクリスマスイブの夜に行うことにした。
「ライン河という独の巨大な防衛線は崩壊した。そして、アーヘンを始め、ザール地方等のライン河西岸部は連合国側の支配下に入り、オランダ、ベルギーから独軍は姿を消した。今や独の終わりが始まった。
そして、ソ連軍も全て自国領内に退却している。ソ連も終わりが始まったのだ」
1940年12月24日のクリスマスイブの夜、英のBBC放送、米のVOA放送、日のNHK放送等の連合国側の国際ラジオニュースは、一斉にそのような報道を流した。
そのラジオニュースを聞いた世界の諸国民の多くが思った。
第二次世界大戦は、第一次世界大戦のように長く続くことは無く、早期に終わるのではないか、いや、そうなってほしいものだと。
同じようなことを、戦場にいる連合国の兵士の多くも想った。
その中には土方中尉や岸大尉、ダヴー大尉らもいた。
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