第5章ー20
こうした国際情勢の悪化も、独の戦況悪化をもたらすことになっていた。
東南欧の中立諸国に対して外交努力により資源等の確保を独政府は図るが、それこそ通常の国際価格より遥かに高い価格での取引等を余儀なくされるという事態が招来されたのである。
独の軍事力に余裕があれば、軍事的恫喝により東南欧の中立諸国から資源等が低廉な価格で独は入手できたかもしれないが、既に南風競わずならぬ独風競わず、という状況では、独が軍事的恫喝をしても逆効果にしかならない。
下手をすると、英仏米日等の連合国側に立っての参戦を、東南欧の中立諸国が公然と図るという事態(実際に、この1940年秋の時点で、伊はそのように動き出していた。)が起こりかねないことからしても、独は軍事的恫喝を行うことができるものではなかった。
そして、第二次世界大戦開戦前から独では、いわゆる外貨準備高、金準備高はかなり低下していたという実態があった。
(そのために独は、外貨による支払いの代わりに兵器等によるバーター取引に応じてくれる共産中国からの資源確保を重視せざるを得なかった。
更に、このために反共を国内に対しては訴えつつ、資源確保のために共産中国やソ連との友好関係をヒトラー率いる独政府は重視し続けた。
こうしたことが1930年代に見られた反共という一点共闘に基づく独と日英米等の協調、連携を崩壊させてしまい、独ソ中の連携による第二次世界大戦を引き起こす原因の一つになる。)
ただでさえ、外貨、金が不足している中で、取引価格の高騰が引き起こされたのである。
ソ連が友好関係に基づき、低廉な価格で資源を提供してくれれば、独は英仏米日等に対して、まだまだ抗戦できたと思われるが、ソ連にしても、独とは敵の敵は味方の論理で手を組んでいるに過ぎない。
資源提供は国際取引価格でという態度を、ソ連は独に対して決して崩さず、戦略爆撃による打撃も相まって、1940年秋の頃から、独軍は兵器等の不足が徐々に生じるようになっていた。
このために、1940年秋のオランダ、ベルギー方面での英仏軍の攻勢に、独軍は圧迫されつつあった。
こういったことから、この当時、ハルダー将軍以下の独軍参謀本部内部では、かなりライン河を防衛線として部隊等を再編制することで、独の長期不敗態勢を構築するという意見がかなり強かったらしい。
そのためにライン河以西の部隊を全てライン河東岸に引き上げてしまい、ザール地方等の放棄も止む無しという声まで出ていたらしいが。
ヒトラーの猛反対(余は、ライン河以西のドイツ領から断じて退かぬ、という名言まで発せられたという伝説がある。)により、独軍は兵器等の不足に苦しみつつ、ライン河以西を死守するために苦戦を続けるという事態が招来されたのである。
そして、1940年秋から冬に掛けて、ライン河以西の独軍の苦戦の象徴となったのが、皮肉なことにアーヘン攻防戦ということになる。
「無闇に突っ込むな。突撃と支援を組み合わせろ。機関銃班と擲弾筒班は、自分達の役割を考えろ」
アラン・ダヴー大尉は、指揮下にある歩兵中隊を率いて、アーヘン市街に突入し、独軍と死闘を演じる羽目になっていた。
本来ならフランス外人部隊の一員であるダヴー大尉の歩兵中隊に、日本軍の制式兵器である擲弾筒がある訳が無いのだが。
皮肉なことにフランス外人部隊にとって、いざという場合に備えて員数外の兵器を確保するのは、従前からの得意技である。
ダヴー大尉は、そういった伝統もあり、更に従前からの知己、つながりを活用して擲弾筒を半秘密裡に入手して指揮下の歩兵中隊に装備させていた。
実際、アーヘン市街戦において擲弾筒は役立っていた。
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