第5章ー19
とは言え、アーヘンを攻め落とすというのも、連合軍にとって中々困難な話だった。
独軍も易々とは落とせないように、第9軍司令官であるシュトラウス大将自らが、アーヘン防衛の指揮をとり、約6個師団、約10万人の兵力をもってアーヘンに籠城していたのである。
更にアーヘン市民の一部も防衛戦に際して、自発的に協力しているという実態があった。
(実際にどれだけのアーヘンの市民が協力したかは不明だが、最大で約3万人、おそらく2万人近い市民が防衛戦に際しては独軍に協力したという説が最有力である。)
更に連合国の軍、政府と独の政府、軍の宣伝合戦もあった。
連合国の政府、軍は、
「アーヘンは、歴史的にも独帝国の最大の象徴であり、アーヘンの陥落は独の落日の象徴となるだろう」
と積極的に宣伝した。
それに対して、独の政府、軍は、
「アーヘンは、独にとって歴史的にも重要な街である。アーヘンを我々は死守してみせるだろう」
と積極的に宣伝した。
こうしたことから、アーヘン攻防戦に独軍、連合国軍は共に力を入れることになった。
アーヘンに対する直接攻撃を開始したのは、仏軍外人部隊1個師団、英本国1個師団に加え、ポーランド軍10個師団といったところだった。
更にポーランド軍、米軍併せて20個師団が交替要員、及び独軍の救援部隊阻止のために展開した。
独軍も上記のように6個師団プラスアルファが、アーヘン防衛に展開した。
そして、連合国軍がアーヘンを完全に包囲できないように、解囲作戦を展開することになった。
最終的にだが、独軍は装甲師団4個を含む16個師団を解囲作戦に投入した。
だが、このアーヘン攻防戦は、独軍にとってつらい作戦となった。
どうしてもライン河を渡河して、救援部隊や物資を展開しないといけないのである。
ライン河を渡河して独軍に届けようとする物資等は、連合国軍の空襲の絶好の的だった。
(大雑把に言ってだが)更に1940年9月以降、坂道を転げ落ちるように独国内の各種生産は落ち込むようになっており、アーヘン攻防戦等の損耗は、独軍に更なる打撃を与えることになった。
これには幾つかの要因が絡んでいた。
独軍の仏方面への侵攻作戦の事実上の失敗、更に米英を主力とする独本土への戦略爆撃の本格化は、独の国力に直接的な打撃を与えると共に、周辺諸国の動向に与えた影響も大きかった。
既にスウェーデンは、1940年春の時点で、ノルウェーが連合国側に立って参戦したことから、独への通商路が閉ざされたことを表向きの理由に、独への鉄鉱石等の輸出をかなり差し止めるようになっていた。
イタリアやスイス、ハンガリー、ユーゴスラビアといった東南欧の中立諸国を介した交易活動によって、独は軍需等の生産活動の維持を、第二次世界大戦開戦以来果たしてきたのだが。
1940年9月以降、独の戦況悪化という状況から、東南欧の中立諸国も独への協力を渋るようになってきたのである。
こういった東南欧の中立諸国の非協力的な態度は、直接的な資源や食料等の提供といったレベルに止まるものではなかった。
例えば、バイエルンや旧オーストリア地域では、スイスやイタリア、ユーゴスラビアからの電力提供により生産活動のかなりの部分が維持されていたが、この頃からスイスやイタリア、ユーゴスラビアは自国の産業活動に必要になったという口実で、独への電力提供を拒むようになった。
当然のことながら、このためにバイエルンや旧オーストリア地域の生産活動は低下することになる。
更にイタリアに至っては、勝ち馬に乗らねばと、対独戦の準備を図るようになり、このために独軍はイタリアとの国境の防御を強化せねばならない状況に陥ったのである。
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