第5章ー13
ハンブルク市を襲った悲劇は、1940年秋から本格化した連合軍の空襲の被害の象徴といえた。
他の独の都市も連合軍の空襲の目標となり、独の軍需生産はガタガタになり始めた。
重爆撃機部隊だけでの空襲なら、まだ独空軍は善戦できただろうが、戦闘機部隊の護衛が連合軍の重爆撃機部隊には付き物だったし、重爆撃機そのものの生残性が高いものだった。
特に厄介だったのは、米陸軍航空隊の重爆撃機B-17で、(当時の型は)防御火力不足という非難があったが、ともかく落としにくいことで著名だったのだ。
搭乗員も、ヘルメットを被り、防弾ジャケットを着こんで、独軍戦闘機の銃火対策をしており、当たり所が良ければ(?)、20ミリ機関砲弾の準直撃にも耐えられたという。
被弾によりエンジンが2発止まった状態でも、ノルウェーの前進基地まで生還する例がB-17では稀ではなく、米陸軍航空隊の搭乗員から生残性については絶大な信頼が寄せられていたという。
こういった空の戦いの劣勢に追い打ちを掛けるように、英仏米日等の連合軍の独軍への地上への反攻が始まろうとしていた。
長期戦になるほど米国等の生産力が生かされ、独ソ中は不利とはいえ、長期戦となっては世論に厭戦感情が高まりかねない。
英仏米日等の連合軍も、速やかに戦争終結を図ろうとし、独本土への地上侵攻を図ろうとしたのだ。
「ライン河か」
連合軍上層部にとって、独本土侵攻を図るのに大河であるライン河渡河は難問だった。
基本的に、オランダ、ベルギーの解放という主攻勢は英仏に事実上任せ、米日ポーランドの三国は、助攻勢として独本土侵攻を目指そうとしていた。
ザール地方等、ライン河西岸地帯を制圧するのは相対的に問題は少ない。
問題は、ライン河をどうやって渡河するかだった。
この当時、空挺部隊を英米仏日が持っていないことは無かった。
だが、どの国も精々が独立大隊を複数といった規模であり、連隊以上の編制を持っていなかった。
これは皮肉にもノルウェー戦での連合軍の大勝利が影響していた。
独軍のノルウェー侵攻は、独空挺部隊にとっては、ある意味では墓場となった。
日本の海兵師団を主力とするノルウェー救援部隊等によって、独空挺部隊は大打撃を受けたのだ。
この戦訓は、英仏米日等の連合軍にも影響を与えた。
連隊、師団規模といった大規模な空挺部隊投入は、大規模な地上部隊等との連携が無いと戦果を挙げるのは難しいのではないか。
空挺部隊は、むしろ、小隊、分隊と言った特殊部隊(コマンド)として活用した方が効果的なのではないか、と多くの連合国の上層部士官が考えるようになったのである。
また、当然のことながら、空挺部隊を編制するのには、歩兵部隊を編制するよりも手間がかかる。
こういったことから、この当時、大規模な空挺部隊編制を、英仏米日等の連合軍は推し進めておらず、師団どころか連隊規模の空挺部隊は無かったのである。
それが却って、現在のライン河渡河の妨げになっていた。
大規模な空挺部隊があれば、渡河地点の東岸に空挺部隊を降下させ、それによって渡河地点を確保し、地上部隊を渡河させるのだが。
それが無い以上、他の方法で連合軍は、ライン河の渡河地点を確保するしかないのである。
「取りあえず、渡河用の機材を整えるとしても。できたら、ライン河の橋を確保したいものだな」
日米ポーランドの軍上層部は、そう考えた。
何しろ昔と異なり、戦車や重砲といった重量物が多々あるのだ。
簡易な木製ボートでは、戦車や重砲をライン河を越えて渡すことはできない。
勿論、そういった重量物を渡河させるための機材もあるが、できたら橋を確保できた方が効果的なのは間違いない話だった。
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