第5章ー12
10月2日の昼が来ようとしていた。
丸一昼夜近い火災との死闘から、ハンブルク市の消防隊員は疲労困憊しつつあった。
そして、言うまでもなくハンブルク市民の多くも丸一昼夜以上、空襲とそれに伴う火災から、安眠できない状況が続いていた。
そこにポーランド空軍の戦闘機部隊と米陸軍航空隊の重爆撃機部隊からなる第三次空襲部隊が、ハンブルクに襲い掛かってきた。
ガーランド中佐にしてみれば、米英等の物量の脅威を改めて骨身に感じる羽目になっていた。
損耗を補充するために、西方戦線から一部の精鋭戦闘機部隊を急きょ引き抜いて、ハンブルク近辺の防空体制を再編しようとした矢先に昨日と同規模の大規模空襲がハンブルクに対して襲い掛かってきたのである。
ガーランド中佐としては、戦闘機部隊を迎撃に出撃させるべきか、昨日と同様の損害を被っては、後、最悪の場合、二日でハンブルク近辺の戦闘機部隊がほぼ消滅する、とまで考えてしまい、戦闘機部隊を出撃させるのを躊躇うことになった。
似たようなことを独空軍上層部も懸念せざるを得なかった。
源田実中佐は、まだまだ独空軍は余力に満ち溢れていると考えていたが、実際には西方戦役以降の航空消耗戦により、独空軍もさすがに余裕を失いつつあったのである。
とは言え、全く迎撃しないという訳にもいかず、独空軍はガーランド中佐率いる約120機の迎撃戦闘機部隊を、最終的に差し向けることになった。
スタニスワフ・スカルスキは、零式艦上戦闘機を手足のように操って、迎撃に向かってくるBf109に襲い掛かっていた。
P-40戦闘機ならば、到底、不可能だった低速での格闘戦が、零式艦上戦闘機なら悠々と可能なのだ。
「艦上戦闘機だから陸上戦闘機に劣ると最初は想ったが、こんなに優秀とはだ思わなかった」
そう思いながら、スカルスキはBf109に対して単機格闘戦を挑み、20ミリ機関砲を浴びせ、あっさり撃墜した。
弾道性能が悪く、弾数もそう20ミリ機関砲は多くないという欠点はあるが、充分に接近した上で胴体部に一撃を浴びせれば、Bf109は確実に落とせる。
スカルスキら、ポーランド空軍の戦闘機乗り達は、2倍近い数的優勢をもって、この日、独空軍の戦闘機部隊と戦うという僥倖に恵まれたこともあり、重爆撃機部隊の防御銃火による戦果も併せれば、独空軍の戦闘機約50機を撃墜、又は再出撃不能な損害を与えることに成功。
自らも全部で約20機を失うという損害を被ったが、このような2倍以上の損害を被り続けては、独空軍が先に消滅するのは明らかだった。
そして、米陸軍航空隊の重爆撃機部隊は、ハンブルクへの爆撃を行ったが、この時、悲劇が起きた。
この日、ハンブルクでは強風が吹いていた。
そして、消防隊は一昼夜に渡る消火活動で既に疲労困憊していた。
そこに新たな大爆撃が加えられたのである。
爆撃により大規模な火災が発生して、ハンブルク市街では更に火災旋風が起き、それによって、市街地の大半が焼失して、数万人の市民が焼死等した。
第二次世界大戦が終わった後、独語の辞書に「ハンブルギーレン」という単語が加わった。
日本語に翻訳する際には、「空襲で無茶苦茶になる」とか、「無差別爆撃で破壊される」とか訳される。
それは、この時のハンブルク空襲による大規模な被害が契機になってできた独語の新語だった。
第二次世界大戦後、ハンブルク市にはこの時の連合軍による空襲の被害者を悼んで慰霊碑が作られた。
また、ハンブルク市を訪れると、多くの建物に「1940年被災により再建」と書かれた記念額が付いている。
その建物は、空襲により破壊された跡に建てられた建物であり、空襲の被害を今に伝えている。
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