3月―許容
ひどく退屈な卒業式だったが、それでも僕たちは真面目な顔をして、ラストの卒業生退場までを乗り切った。学校行事の多くは忍耐力を鍛えるために行われているのだと信じて。ゆっくりと音楽に合わせて歩き、体育館を出て、光にあふれる渡り廊下を進み、ほぼ無人の校舎へと戻ってくると、ようやく緊張をといて、めいめいが口を開く。
「ああいう式典ってどこまで行っても自己満足だよね」
「でも、形式というのは大切ですよ。組織の面子にかかわりますから」
「そりゃあ国事行為とかだと形を重視してもらいたいけどさ、それをところ構わずやろうとするから、クオリティや意識が下がって、間延びしたものになるんじゃないか」
「文句を言っているわりに、鏡一朗さんはキリっとした顔つきでしたよ」
「乙姫ほど格調高いシーンが似合う女子生徒はいないね」
卒業生たちがざわめき合う廊下で、僕と乙姫もまた、教室へ向かいながら雑談を交わしていた。そこに、背後から声がかけられる。
「やだ、この人たち、とってもナチュラルにお互いを褒め称えてる」
百代が口元を抑えて芝居がかった驚愕のポーズをとっていた。
「ヨーコはきっと泣くと思っていたのに……、なんだか普通ね」
乙姫が残念そうにため息をつく。
僕が思うに、卒業式特有のしんみりした空気の七割くらいは、パッヘルベルのカノンの、あの荘厳な音楽によるものだ。小学校、中学校と続けて刷り込まれてきた記憶が、高校生活のラストで、堰を切ってあふれ出すのだ。それはある種の教育成果といえるだろう。
百代は涙をこらえるどころか、逆に唇を尖らせる。
「涙なんか出ないよ、あたしちょっと怒ってるんだから」
「晴れの日にそんな顔は似合わないわ」
「ヒメの答辞が聞けると思ってたのに、なんで別の人がしゃべってたの?」
それはたぶん、すべての生徒が感じた疑問であろう。実際、卒業生代表が呼ばれたときは、生徒席が少しざわついていた。
本来なら、答辞は前代の生徒会長が行うのが慣例となっている。
しかし今回、乙姫の名前はそこでは呼ばれなかった。
理由はもちろん、不純異性交遊に関する厳重注意を受けたせいだ。
問題の性質ゆえにプライバシーに配慮して公にはせず、しかし問題行動を起こした生徒を、神聖なる卒業式の壇上に、代表者として上げるわけにはいかない。そんな学校側の苦慮が察せられる対応だった。
乙姫は仕事が減ったと喜んでいたが、周囲の反応はそう簡単にはいかない。事情を問う視線がそこかしこから向けられていた。
僕たちは無言で目を合わせ、同時に苦笑いを浮かべた。
「あー、またなんか二人だけで通じ合って!」
「ちょっとヨーコ指をささないで」
「きちんと言うから」
百代の剣幕に二人して応じる。
これはとてもプライベートなことで、おおぜいに打ち明けるような話ではないのだろう。だけどせめて、クラスメイトくらいには話しておこう。説明責任という言葉は嫌いだが、これは責任ではない。義務とも違う。そうするべきだと思っただけ。つまりは義理だ。
「――ちょっと、話があるんだけど」
教室に戻ると、僕はクラスのみんなに呼びかけた。ガラじゃないけど教壇に立って、僕たちの間に起こった事の顛末と、先の展望を、シンプルに伝えた。
「やっと言いやがったな」
赤木のひと言が、そのままクラスメイトの反応だった。
みんな大体のことは察していたらしい。
3学期の初日に二人そろって呼び出された件や、乙姫の不自然なまでの厚着や、たびたび産婦人科に出入りする若すぎる男女二人の目撃情報など――それらを総合して考えると、結論は簡単に出てくる。ただ、内容が内容なので、直に聞くのはためらいがあった、ということだ。気を遣っていたつもりが、逆に気を遣われていたみたいだ。
「事情を聞いてみんなすっきりしたところで……、ねえヒメ、何か話をしてよ」
百代が無茶振りをしてくる。
「幻の答辞ってやつ?」「あたしも繭墨さんの聞きたかった」「前会長がやらないと締まらないよな」「たしかに、裏の卒業生代表なのは間違いない」
卒業式のあとの奇妙な一体感と高いテンションのせいか、誰も彼もノリがいい。しかし、乙姫は申し訳なさそうに首を左右に振った。
「ごめんなさい、実は、本当に考えていないの」
えーっ、とアンコールを断られた聴衆のように残念そうな声が上がる。
それに微笑を返しつつ、乙姫は僕の肩に手を置いた。
「そういうことは、旦那さまにお任せしているから」
そして、静かな足取りで教壇から下りる。
「え?」
教室中の視線が僕を向いた。
それはもう発火するんじゃないかというほどに集中した。
まいった。これは逃げられそうにない。
というか、逃げてはいけない。
乙姫の代わりを務めるのは、間違いなく僕の責任だ。
意を決して口を開く。
「ええと……、ひとまず皆さん、ご卒業おめでとうございます」
ベタだ、と仲のいい友人たちからヤジが飛ぶ。
そして話が続かない。
続かないので、とりあえず思い浮かんだことをしゃべっていくしかない。
「えー……、何も考えてなかったけど、ひとつ、伝えることがあるとすれば、それはありがとうという言葉しかないと思います。で、何がありがとうなのかというと、やっぱり、今まで何度か私事でいろいろお騒がせしてしまったから、そのおわびです。
去年の夏休みの同棲疑惑があって、修学旅行には班行動を破ったことが署名問題に発展したし、そういうはっきりした問題以外にも、思い返すと、場所をわきまえずに2人でベタベタしていたことも、けっこう、なきにしもあらずというか……。
そして最後にまた、皆さんが受験勉強で忙しいときに、ちょっとした騒ぎを起こしてしまいました。
それ自体は悪いことだとは思ってないけど、騒がせてしまったのは事実で。これは周りの反応次第で、もっと大ごとになっていた可能性もありました。
でも、みんなはそっとしておいてくれた。傍観というほど冷たくはなくて、親切というほど押しつけがましくもない態度――許容というのがいちばん近いでしょうか。そいうこともあるよな、くらいの軽さで受け容れてくれた。
その距離感は僕たちにはちょうど良くて、そのときは気づかなかったけど、振り返ってみると、ああ、助けられていたんだなと感じます。……だから、ありがとうございました」
頭を下げると、ぱち、ぱち……とまばらに拍手が飛んでくる。それはだんだん増えて、大きくなって、やがてトタン屋根に叩きつける通り雨のように激しくなる。
万雷の拍手を浴びると、人はおかしくなってしまうらしい。〝良い話〟が求められている、もっとしゃべらなければという義務感が湧いてくる。なるほど。政治家の失言が後を絶たないわけだ。わかっていても口は動く。調子に乗る、という魔法にかけられたかのように。
「えー……、それと、現在、世界のいたるところで社会の分断が起こっております。格差問題や移民問題も、元をたどれば自らの利益のみを追求し、それを脅かす他者を排斥する、資本主義的な不寛容が生み出したものであり……」
「おいおい、さっきまで等身大って感じのいい話だったのに」「いっきに教師の説教っぽくなってきたぞ」「小難しい話はあたしちょっとわかんないなぁ」「真面目ぶるな、このインテリもどきめ」「インテリで何が悪い、僕はもどきじゃなくてれっきとしたインテリだ」「もういいから胴上げしようぜ」「それがいい」「よっしゃ、みんな集まれ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
鏡一朗さんが壇上から引きずり降ろされ、赤木君や進藤君を筆頭とした、主に男子のクラスメイトに取り囲まれていきます。
それを教室の隅から眺めていると、曜子がそっと近づいてきました。
「ヒメの狙いどおりって感じだねぇ」
「わたしは別に、あいさつなんてどうでもよかったのよ」
「そうじゃなくて、キョウ君のこと」
「え?」
「スパルタ教育の結果が出てるなぁ、って思って」
「……気づいていたの?」
わたしは息を呑みます。
確かに曜子には、鏡一朗さんに妊娠を告げてからの、すべての出来事を話しています。2人で出産の決心をしたこと、両方の家の親へのあいさつ、校長室への呼び出し――それらの、子供から大人へ至ろうとする決意の過程を。
「そういう話を聞いてたら、なんとなくね」
曜子はのどを撫でられて喜ぶ猫のように、目を細めて笑います。
「ヒメが大人しかった理由って、具合が悪かったせいだとは思うけど、それ以上に、キョウ君を矢面に立たせて、がんばらせるためだったんじゃないかなって」
相変わらず、妙なところで鋭い子です。
曜子の言うとおり、わたしはしばらくの間、自らの立ち位置を、意図的に鏡一朗さんの斜め後方に設定していました。
彼の決意は本物でしたが、同時に、現状での力不足はいなめないと感じていたからです。だから前に出て、実戦で力をつけてもらいたかった。
「まだまだよ。最後がまるで締まらないわ」
「だよねぇ、ぐだぐだになっちゃったし」
二人して笑い合い、胴上げされている鏡一朗さんへと視線を転じます。
「でもね、ヨーコ。全部が打算というわけでもないの」
「何かうまく行かなかった?」
「ううん、その逆」また冷やかされるかもと思いつつ、わたしは親友に本心を打ち明けます。「大好きな人が頑張っているのをすぐそばで見守るのって、なかなか、素敵なものよ」




