12月―厳しさの形
時間を二日巻き戻して、12月22日。
僕たちは制服姿で、伯鳴市北部の高級住宅街の、ゆるやかな坂道を登っていた。
目的地は繭墨邸。
妊娠の報告と、籍を入れる許しをもらうためだ。
今朝からずっと緊張していて、頭の芯が痺れていた。
どんな反応をされるのかと気が気ではない。
乙姫の父である秋浩さんの性格からして、いきなりぶん殴られる可能性は低いだろう。だとしても、まだ若い愛娘をたぶらかした馬の骨の言葉を、やすやすと受け入れてくれるとは思えない。
どういう風に切り出せばいいのだろう。『娘さんを僕にください』とシンプルに頭を下げれば、『お前なんぞに娘はやれん』と返されたりするのだろうか。古いドラマのようで現実感がない。だめだ。テレビで今年一番の寒さと報じていたのに、身体のあちこちに汗が浮いている。
「鏡一朗さん」
乙姫に肩を叩かれた。着ぶくれしたコートがモコモコしている。妊婦には冷えが大敵ということで厚着をしているのだ。
「どうしたの」
「実はわたし、両親の名前から一文字ずつ取った名づけというものに憧れているんです」
なんの脈絡もない話題を出されて、頭の切り替えに2秒ほどかかった。
「……ん、ああ、涼介と花子を組み合わせて涼子、みたいな」
「鏡一朗と乙姫だと、いろいろな組み合わせが考えられますね」
「男の子の名前は壊滅的な気がするけど」
「女の子の名前は可愛いものができそうじゃないですか。乙も姫も女性的な漢字ですから」
「一と姫で一姫とか?」
「鏡と姫って字面がきれいですよ」
「確かにそうだけど、でも読み方はどうなるの」
きょうきだと狂気みたいでアレだし、かがみひめ、も人名としてはイマイチ語呂が悪い。逆転させて姫鏡で、ききょう、だと桔梗とおなじだから響きはよくなるが、それでも無理している感じは否めない。
頭の中であれこれこね回してみても、良案は浮かんでこない。あきらめた方がいいんじゃないかと隣を見ると、乙姫は満を持してとばかりに人差し指を立てて、得意げに口元を上げた。
「二つの漢字から連想するものといえば」
「いえば?」
「白雪姫です」
「……まさか鏡姫って読ませるの?」
「ダメでしょうか」
「発想が中二! キラキラ!」
きっぱり否定しても、乙姫はあきらめ悪く唇をとがらせる。
「でもわたしだって小学校のころは、おい乙姫、浦島太郎はどうした、とさんざんからかわれたんですよ。おかげですべての男子が五歳児にしか見えなくなってしまいました」
「その悲劇を次の世代に受け継がせなくてもいいから」
「……では、鏡の国の――」
「鏡姫もダメ! 同レベル!」
むしろ捻りすぎているぶん、鼻持ちならなさがアップしている。
「名前はとんちじゃないんだから、強引に僕たちの名前を組み合わせて、無理に仮名を当てなくてもいいんだよ」
しかし乙姫は食い下がる。
「あっ、乙姫の乙と鏡一朗の一なら……」
「字面だけでダメ! 糸くずみたいに見えるから!」
そんなやり取りをしているうちに繭墨邸へたどり着いた。久しぶりの屋敷の威容は相変わらずだったが、何もしないうちから圧倒されてはいけない。きれいな姿勢を意識して、胸を張り、背筋を伸ばす。
「名づけについては今後も要相談ですね」
乙姫はメガネを持ち上げつつ、まだ諦めませんから、とでも言いたげな視線をよこす。
「あれが許されると思えるセンスはちょっと……」
乙姫があのネーミングにどこまで本気だったのかはわからない。ただ、ひとつ、はっきりしているのは、彼女が僕を立て直してくれたということだ。
「でも、ありがとう。だいぶ落ち着いた」
「どういたしまして。それじゃあ、行きましょうか」
◆◇◆◇◆◇◆◇
広い広い応接室の、高級なソファ・テーブルセットに腰かけて、僕たちは秋浩さんと対面する。
「それはよかった。おめでとう」
乙姫のお父さんは、ほどほどに弾んだ声と、ほどほどにうれしそうな笑顔で祝福してくれた。
「……はい、ありがとうございます。……ええと、なので、乙姫さんと、籍を入れることを――」
「ああ、2人が決めたなら、ぼくは異存ないよ。気が早いと思わないでもないが、相手が君なら悪くない」
「はい、ありがとうございます」
僕はふたたび礼を言いながら頭を下げる。
話が早いのは助かるし、反対がないのは気楽でいいが、あまりにもあっさりしすぎではないか。
まるで乙姫に――自分の娘に関心がないみたいに。
横目で乙姫の様子をうかがう。彼女は背筋をのばした美しい姿勢のまま、まっすぐ前を向いていた。無表情にならない程度に、口元が軽く結ばれている。
一見すると堂々たる態度だ。
だけど目線はどうだろう。秋浩さんは僕の正面に座っている。乙姫の前は空席だ。だから、まっすぐに前を向いていても、実は、父親と目を合わせてはいない。
こんな大事な場において、乙姫は父親から目を反らしている。それは彼女らしくない〝逃げ〟を感じる態度だった。
そういえば、僕は乙姫と秋浩さんの関係をよく知らない。
産みの母親である春香さんとは前にいちど3人で会っていて、そのときの感じでは、母娘仲は悪くなさそうだった。おだやかではなかったが、険悪というわけでもない。二人の間には、遠慮なくなんでも言い合える気安さがあった。
では、父娘の仲はどうなっているのだろう。
僕はこれまでに何度か、秋浩さんと話をしている。
去年の夏休みに、僕と乙姫の同棲疑惑が持ち上がり、その噂を打ち消すために助けてもらったとき。
同年の修学旅行で、旅程が終わったあとも乙姫が嘘をついて僕の部屋に泊まったとき。
どちらのシーンでも、秋浩さんは一人娘をかわいがり、気づかう言葉を口にしていた。これが親バカというものかと思ったりもした。
しかし逆に、乙姫の口から秋浩さんの話を聞くことは、あまりなかった。
――いや、そういえばつい最近……、
『中学のころ、父がわたしとどう接したらいいのか距離感を測りかねているらしい時期があって、いろいろな習い事をさせられました。たぶんコミュニケーションのつもりだったんでしょう――』
文化祭のフォークダンスのとき、乙姫が語った言葉だ。
おぼろげだった違和感が、少しずつ形になっていく。
もしかして。
秋浩さんと乙姫は――この父娘は、相手への気持ちをはっきり言葉にして伝えていないのではないか。
秋浩さんは『娘はかわいい』『立派に育った』と僕には自慢げに言うくせに、それを乙姫に面と向かって話していない。習いごとや高価な買い物で、伝えたつもりになっている。
乙姫は父親の遠回しなメッセージを察しつつも、たぶん、昔からの積み重ねで、そういうものなのだとあきらめている。僕に対してはずけずけものを言うくせに、父親相手にはそれができないでいる。
親子関係には、そういうぎこちなさや行き違いが付き物なのかもしれない。僕にだって心当たりはたくさんある。
だけど今は、未成年で妊娠した娘が、そうさせた男を連れて、実家へ会いに来ているのだから。
いくらスムーズに話が終わりそうだからって、物わかりのいい表面的なやり取りで片づけるのはよくないのではないか。気づいてしまった以上、何も言わずに素通りするのは卑怯だろう。
「……あの」
「うん?」
秋浩さんは首をかしげる。
僕は相変わらず澄まし顔の乙姫をちらりと見てから、再び秋浩さんに向き直る。
「どうしてそんなにすんなりと認めてくれるんですか? 自分で言うのもなんですけど……、僕は、怒鳴られたり、殴られたりしても仕方がないと覚悟してここに来ました。だけど、失礼ですが、こんなに反応が薄いと、こちらに興味がないんじゃないかと不安になります」
「鏡一朗さん?」
乙姫が僕の肩に触れる。何故そんな余計なことを言うのか、と困惑の表情だ。
「ふむ……」
秋浩さんはこちらの反抗を面白がるように足を組み直す。
「阿山君は、この家が裕福な理由を知っているかな」
「たしか、地価の急騰と資産運用で……」
「そう、土地成金が、配当でひと山当てた一発屋だよ」
そんな簡単なものではないはずなのに、秋浩さんはひどく俗な言い方をする。
「そこで質問だ。投資で大切なことはなんだと思う?」
「……将来有望な企業を見定めること、ですか」
「ふむ、その答えでは50点というところだね」
「じゃあ、残りの50点は?」
「見込んだ企業がコケたら潔くあきらめること。損切りっていうんだけどね」
「損切り」
と僕は繰り返す。ひどく無情な響きの言葉だ。
「野球で打率十割の打者がいないように、どれだけ投資の経験を積んでも、確実に伸びる株なんてわからない。経験が逆に足を引っ張ることもあるしね。だから、失敗への処し方が大切なのさ」
秋浩さんの言いたいことがわかってきた。冷たい水が服の中に染み込んでくるように、じわり、じわりと。
こちらの表情から、理解の色を読み取ったのか、秋浩さんは話を続ける。
「ぼくは君を買っている。しかし、これは無理だと感じたら、そのときは容赦なく切らせてさせてもらうよ。今ここで認められたくらいで、ゴールしたと思わないでほしい。むしろ厳しい査定がスタートするんだ。阿山鏡一朗君。君は、君が乙姫の隣にいられるだけの価値を、一生示し続けなくてはならない」
冷徹な言葉に鳥肌が立った。
一年前の夏休みに初めて顔を合わせたときから、この人は僕を――娘の隣にポツンとついてきた冴えない男子生徒を、ずっと品定めしつづけていたのか。
そして今日からは、査定のレベルが上がる。
狭き門でつぶさに選別するのも厳しさだろう。だけどそこには、中に入れば締め付けがゆるむという甘さもある。
その逆に、最初の入口がゆるやかであるぶん、常に一定の水準を要求されるのは、いっときも気が抜けないということだ。
これが、秋浩さんの厳しさの形。
気づき、気圧され――、されど耐える。
腹筋に力を込めて、ゆっくりと深呼吸をする。
「――はい、見ていてください。お願いします」
「ああ」
始まりはおだやかに、将来への決意を込めて。
形のない契約が、この人との間に交わされた気がした。
「お母さんと離婚したのも?」
前触れなく、静かな問いかけが割り込んだ。
女性の声の鋭さを強く感じるのはこういうときだ。
乙姫の言葉が、ほどけそうだった緊張を別方向に締めつける。
「お父さんは、お母さんを切ったの? 将来を誓った相手を、失敗だったとあきらめて、一方的に切り捨てたの?」
ついさきほど僕をたしなめた乙姫が、一転、父親に向かって牙をむいていた。
淡々と、両親の傷を暴こうとしている。
なぜこんなタイミングで、と乙姫を見やるが、彼女の目には父親しか映っていないようだった。まっすぐ秋浩さんをにらみつけ、隣からの視線など意に介さない。
唐突な豹変に驚きはしたが、その理由には見当がついた。
乙姫の両親が離婚したとき、彼女はそれを淡々と受け入れているようだった。だけど、心の中では納得しておらず、放置していた不満が今になって噴出した。
あるいは、彼女の価値観が変化したのかもしれない。
僕との関係がこういう風に深まったせいで、離婚という行為への考え方や、受け取り方も変わってしまったのだ。『そういうこともある』のひと言で流せないくらいに、彼女にとって身近な出来事になった。
乙姫は今、本当の意味で、両親が離ればなれになったことを実感しているのかもしれなかった。
秋浩さんは、さっきまでとは打って変わって、眉をハの字にして言葉をしぼり出す。チューブの底にわずかに残ったマヨネーズを使い切ろうとするみたいに。
「……ぼくが春香を切ったんじゃない。春香がぼくを切ったのでもない。このまま一緒にいてもお互いのためにならないから、せえの、で手を離したんだよ」
その返答が乙姫の望むものだったのかどうかはわからない。
ただ、そこそこ付き合いの長い僕は、『あ、吠えるな』と彼女のリアクションを察した。
「だったら……!」乙姫は勢い込んで立ち上がる。「鏡一朗さんを切ったお父さんを、わたしが切っても仕方がないってことでしょ」
むちゃくちゃな言い分だった。まったく理屈が通っていない。秋浩さんも反応に困って苦笑いを浮かべている。
「うーん、そいつは……、さみしくなるね」弱々しい目がこちらを向いて、かかげた指をくいっと傾ける仕草。「今晩、一杯つきあってくれないかな?」
「鏡一朗さんは未成年よ」
乙姫が僕をかばうように腕をかぶせる。なんだろうこの流れは。
「……あの、明後日うちの家族が田舎から出てくるので、会ってもらえませんか。父はそれなりに飲むので、そこでお願いします」
どさくさに紛れて重要な約束をねじ込むと、秋浩さんは感じ入ったようにうなずいた。
「ああ、そうか、家族ぐるみの付き合いになるのか……、ちなみにお父さんは何党?」
「日本酒が多いです」
「それじゃあいいお酒を用意しておくよ」
「いや、お構いなく……」
「晩酌の話は置いておいて、夕飯くらいはウチで食べていきなさい」
近い将来の義理の父にそう誘われたら、断るわけにはいかない。
「あ、はい、それだったら、ありがたく……」
「寝るところも用意させるよ。ああ、娘と同じ部屋がいいかな」
さっきまでのやり取りが嘘のように、緊張感が抜けていく。一度は立ち上がった乙姫も、なんなのよもう、と頬を膨らませて乱暴にソファに座り直した。
さすがに宿泊は辞退したが、豪勢な夕食をごちそうになった。
その場で明君や母親の晶さんにも同じ報告をすると、思いのほか、すんなり受け入れられた。あとで聞いた話では、乙姫の体調不良と原因に晶さんは気づいていて、いろいろと世話を焼いてくれたらしい。
食事中の父娘の態度は険悪――というよりも、乙姫がひとりでピリピリしており、秋浩さんはどこ吹く風でひょうひょうとワインを飲んでいた。大丈夫かしら、と晶さんが心配したとおり、やがて秋浩さんは酔いつぶれてしまう。赤ら顔の父親を、乙姫が肩を貸して部屋まで運んでいった。
戻ってきた乙姫はおだやかな顔をしていたので、たぶん、彼女の中では何かしら心境の変化があったのだと思う。ため込んでいたものを吐き出して、すっきりしただけなのかもしれないが。
それでも僕は忘れないだろう。乙姫の隣にいられるだけの価値を、一生示し続けなくてはならない――そう告げたあの人の、眼光の鋭さを。




