ツッコミを禁止します
前回のあらすじ
女子の知人からは誤解され、恋人からは疑念を向けられ、店内には『3年目の浮気』が流れている。
「これからしばらく、わたしと彼女の言動に対するツッコミを禁止します」
乙姫はすれ違いざま、僕にだけ聞こえる声で言って、灰谷へと近づいていく。
「初めまして、灰谷さん」
「え? あ、どーも……」
「わたしは阿山乙姫といいます」
僕はさっそく、ツッコミたくなるのをこらえた。
「阿山……、あ、キョーイチローのお姉さん?」
灰谷はキョトンと首をかしげていたが、名字が同じことに気がつくと、納得した顔でうなずいた。
僕の立ち位置からは乙姫の横顔しか見えないが、その口元はかすかに上がり、薄い笑みの形を作っていた。否定も肯定もしていない、ただほほ笑んだだけの反応。それは灰谷の誤解を誘うには十分なものだった。
「えっとぉ……、はじめまして、アタシは灰谷明日海っていいます」灰谷はいつもより大人しい、露骨に猫をかぶった声で名乗った。「キョーイチローとは同じ塾で、ときどき勉強を教えてもらってて……」
「なるほど、そうだったんですか。ところで今日はひとり暮らしの鏡一朗さんに夕食を作ろうと思っていたのですが、よければ灰谷さんも一緒にどうですか?」
僕はツッコミたくなるのをこらえた。
なんで灰谷を誘う!?
せっかく久しぶりに乙姫と二人きりになれると思っていたのに、
それに普通は誘っても来ないだろう。
最近知り合ったばかりの男子の家に行くってだけでもハードル高いのに、夕食なんて距離感の近いイベントに加わるわけががないじゃないか。
姉(偽者)も一緒となればなおさら……、いや、異性と一対一よりは、複数人の方が警戒心が薄まることはあるかもしれないが、どちらにしても、有り得ない話だ。
「え? キョーイチローって一人暮らししてんの?」
僕はツッコミたくなるのをこらえた。
なんでそこに食いつくの!?
僕の生活事情よりこの状況のおかしさに気づいてほしい。
だいたいどうして乙姫は灰谷の名前を知っているんだろう。乙姫だから、で納得してしまいそうな自分が怖いが、灰谷の方もどうせ僕がしゃべったんだろうな、くらいにしか思ってないらしくスルーしていた。
「んじゃ、お誘いに乗っちゃおっかな。キョーイチローの部屋とか興味あるし」
乗っちゃおっかな、じゃないよ!
興味も持たなくていいよ!
「灰谷さんのお好きな食べ物は? リクエストがあれば作りますよ」
乙姫もなんでもてなす気マンマンなの!?
「え? ホントに? じゃあ、ちょっと子供っぽいけどハンバーグとか……」
灰谷もホント遠慮ないな!?
「鏡一朗さんもハンバーグが大好物なんです。わたしの手作りがいちばんおいしいって言ってくれて」
そういうこと言わんといて!?
実際、前に乙姫がハンバーグを手作りしてくれたことはあったし、一番おいしいとも伝えた。だけど乙姫の言い方だと彼女が彼氏に手料理を振る舞った感じじゃなくて、完全に姉と弟のハートウォーミングな感じになってしまっている。しかもシスコン気味の。
灰谷は案の定、へー、お姉ちゃんと仲いいな、みたいな顔でこっちを見ていた。
やめてほしい。なんかいろいろとつらい。
僕を精神的に苦しめるのが乙姫の狙いなんだろうか。
責め苦は続いた。
僕は話の中身が聞こえないよう、2人から少し距離を取って歩いた。
二人は店内を回って商品を買い物かごに入れていく。そのあいだ、乙姫は灰谷に、僕との関係についてあれこれ尋ねているようだった。その様子は完全に、弟の色恋沙汰を面白がる姉のノリだ。僕という共通の話題を使って、2人の距離感はあっという間に近づいていった。
その間、灰谷の表情は目まぐるしく変わった。チラチラと何度もこちらを見て、ニヤニヤと面白がるように笑ったり、慌てて何かを否定したり、かと思えば心底楽しそうに笑ったりとせわしない。
一方の乙姫はというと、表情こそずっと笑顔だったものの、目はあまり笑っておらず、淡々とした視線を灰谷に向けていた。試験管を手にした研究者が薬品の反応を確かめるような、そういう静かで隙のない視線だった。
荷物持ちはもちろん僕だった。
いくら三人前の食材が入っているとはいえ、ちょっと重すぎではなかろうか。乙姫はいつも大きめのエコバッグを持参しているが、それがパンパンに膨らんでいた。底のあたりに触れてみると、なにやら硬い感触がある。袋の中をのぞいてみると、2リットル入りペットボトルのミネラルウォーターだった。2本入っていた。
少なくともこれは、今日の夕食で使うものではないだろう。
しかし、僕はなるほどと納得していた。
緊急時のための飲料水は何よりも大切なものだ。人は食事を抜いても一週間以上生きられるというが、水がなければ三日と持たない。水は命の源であり、つまりこれは乙姫のやさしさ、僕の生命を気遣う無言のメッセージなのだ。無意味に重い物を持たせてしんどい思いをさせようという嫌がらせでは決してないのだ。
その重みは僕にイエス・キリストを思い起こさせた。
聖人として活躍した彼ではなく、磔刑に処されたその最期を思った。キリストは処刑場に向かうまでの間、自らをはりつけにする十字架をかついで、晒し者にされながら街の中を引きまわされたという。手に食い込むエコバッグの重みは、さながら罪をあがなう十字架の重みか。
キリストは人類の原罪を背負って磔刑を受け入れたが、それでは、果たして僕はいったいどんな罪を背負っているというのだろう。
長谷川さんは僕が浮気をしたとでも思っていたみたいだけど、灰谷の勉強を見ただけで浮気というのは大げさじゃないだろうか。お互いそういう気はないのだから、特に問題ないはずだ。
今の状況に胃がキリキリ痛むのも、アパートの階段が断頭台のそれのように感じるのも、ただの気のせい――
「ひとつ、聞いておきたいんですが」
403号室の前で立ち止まった乙姫が、鍵を手にしたまま、こちらを向いた。
「え? 何?」
「わたしの聞き違いでなければ、スーパーで灰谷さんは、鏡一朗さんにこう尋ねていましたよね。――あなたはわたしのことが好きなのか、と」
「あー、うん、聞いてた、かも」
「そう思った根拠を教えてください」
「……うぅ」
乙姫はド直球に問いかけるが、灰谷は歯切れが悪い。うつむいたり髪の毛先をいじったりして落ち着きがなく、ちらりと肩越しに僕をうかがったりする。それは助けを求める視線に見えた。あまりに意味深で、誤解を与えかねない仕草だったので、つい口を出してしまう。
「ああ、それはたぶん僕が」
「鏡一朗さんは黙っていてくださいと言いました」
ぴしゃりとさえぎる鋭い言葉は、僕だけではなく間にいる灰谷をも貫いて、びくりと身体をふるわせた。
ノリが変わったのだと、理解するには十分すぎる変化だった。
「ええと、なんていうか……」
灰谷は言葉を探して、
「アタシの友達が、アタシのことを馬鹿にする――っていうか、からかうようなことを言ってて、それを聞いてたキョーイチローが怒ってくれたんだよね。注意してくれたっていうか……。アタシはあとでその話を聞いて、友達が、あいつお前に気があるんじゃないか、って」
「そういうことでしたか」
乙姫が眼鏡の位置を整える。
小さくうなずいて、ちらりとこちらに視線を向けた。
理解できました、という表情に、こちらもホッと一息である。
「――それで、実際のところ」
まだ何か!?
僕はツッコミたくなるのをこらえた。
「灰谷さんは、鏡一朗さんのことを、どう思っているんですか?」
「ぅえ?」
灰谷が素っ頓狂な声を上げる。
「どうって……、フツーの友達っていうか」
「そうですか、それはよかった」
「どういう意味?」
灰谷は首をかしげずに、静かな口調で言った。
「鏡一朗さんには恋人がいるので、もし仮に、万が一そういう感情を抱いてしまっていたら、どうしようかと心配していたんです」
「恋人? 付き合ってるコがいるの? キョーイチロー」
灰谷は話をしていた乙姫ではなく、僕の方を振り返って尋ねた。
黙っていろと制限されていたが、ここはもう解除していい場面だろう。
「ああ、いるよ」
「誰? 同じ学校?」
「乙姫と付き合ってる」
「いつき――ってええ?」
灰谷はバッと乙姫を振り返り「え?」また僕の方を見て顔をしかめる。
「姉と? ……近親?」
「いや、あれ嘘だから。本当の苗字は繭墨だから」
「嘘? なんで?」
次から次へと出てくる事実に灰谷は困惑していた。
乙姫の考えは想像できる。たぶん姉を騙ったほうが灰谷の本音を引き出せるという計算があったのだろう。しかし乙姫は微笑を浮かべたまま答えない。その本性を知らない灰谷には、乙姫のことが得体の知れない生き物にでも見えているのかもしれない。ちょっと顔が引きつっていた。
「それでは夕食を」
と乙姫がドアノブに触れるが、灰谷はぶんぶんと首を振って後ずさりする。
「いやいや! カレカノが一緒のところを邪魔できないって」
「そうですか」
「んじゃアタシは帰るから!」
灰谷はほとんど駆け足で通路を通り抜け、階段へと消えていった。
アパートの階段がカツカツカツとテンポの速い音を立てていた。
「これで邪魔者はいなくなりましたね」
乙姫は手すりに近づき支配者のごとく地上を見下ろしていたが、僕の視線に気がつくと、気まずそうに目を逸らした。
「……そんな顔をしないでください。とても嫌な態度をとったことは自覚しています。反省も後悔もしていますが、同じことが起きればきっとまたわたしは同じようなことをしてしまうと思います」
「いや……、乙姫は悪くない、とは言わないけど、この一件は僕の方にずっと大きな責任があるから」
「そうですね」乙姫は迷いなくうなずいた。「その責任について、鏡一朗さんはどれくらい把握していますか?」
「正直、ついさっきまではわからなかったんだけど、でも、こういう事態を招いたってことは、たぶんそういうことなんだろうなと――」
「――ではその辺りについて、反省会をしましょうか」
僕のあやふやな言葉をさえぎって、乙姫は無表情に部屋の鍵を差し込んだ。
錠前の上がる音が、法廷の木槌のように響く。




