ダメになるところが見たい
――繭墨乙姫視点――
2学期の中間テスト週間に入りました。
みなさん先生の『ここテストに出るぞ』発言を待望してか、とても集中して授業を受けています。こういう緊張感のある雰囲気は、嫌いではありません。
そんなある日の放課後、曜子が阿山君に声をかけていました。
「ねえキョウ君、一緒にテスト勉強しない?」
「いいよ、図書室?」
あっさりと同意する阿山君を反射的に睨みつけてしまいます。彼はこちらに気づきませんでしたが、代わりに2人の隣で帰り支度をしていた赤木君と目が合いました。赤木君はなぜか、怯えた表情で身体を引きつらせます。とても失礼な反応ですが、今は見過ごしましょう。
「あたし的にはキョウ君の部屋でもいいんだけどぉ」
「――ヨーコ」
猫なで声の曜子に背後から呼びかけると、彼女はビクリと肩を震わせます。
「ひぅ……! ど、どしたのヒメ」
「それはこちらのセリフよ。どうしたの? 声をかけたくらいで大げさに驚いて」
「あ、あたしって小心者だから」
「そうかしら。とても強心臓の部類だと思うわ」
「それってホメ言葉なの?」
「ええ、心臓に毛が生えているに違いないわ」
「それもホメ言葉?」
「ええ。特に男性に使うと効果的よ。体毛というのは雄々しさの象徴だから」
「ふーん……」曜子は阿山君を見、次いで赤木君に目を向けます。そして首をかしげます。「……うーん」
「ひどく貶められた気がするぜ」とショックを受けている赤木君。
「毛深い男を嫌う勢力は一定数いるはずだよ。大丈夫」と言い聞かせる阿山君。
現代男子の深刻な雄性不足は放っておくとして。
わたしはここに来た目的を果たすことにします。
「ヨーコ、勉強ならわたしが見てあげるわ。阿山君はアルバイトもあって忙しいでしょうし」
おそらくテスト期間中は休みを取っていると思いますが、ここは建前を押し通します。
「えっ、でもキョウ君さっき……」
「ほら、行くわよ」
わたしは問答無用で曜子の腕をつかみ、阿山君から引き離します。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ねえ妬いてる? 妬いてるの? 妬いてんでしょ? ヒメも嫉妬するんだぁ~」
そんな追及を黙殺してわたしたちは図書室へ移動しました。
ちなみに〝ヒメ〟という呼称は、わたしの名前である乙姫の1文字から取られています。いささか尊大にも感じられる愛称ですが、今さら変えてというのも自意識過剰に思えて、そのままにしています。決して気に入っているわけではありませんし、わたしが自分で呼ばせているわけでもありません。
窓辺の席に向かい合って座ると、しばらくは静かに勉強に励んでいましたが、曜子はやがて勉強とは関係のない文字や記号を書き始めます。
「何をしているの」
「勉強」
「落書きじゃない」
「恋の方程式ってやつ」
「ふっ」
「あー、は、鼻で笑った! 彼氏持ちの余裕ってやつ?」
曜子の言葉に他意はないのでしょう。しかし、わたしは勝手に負い目を感じてしまい、視線を外してしまいます。
「……そんなことは、ないけれど」
わたしの態度の変化から、曜子も自らの発言が当てつけめいていることに気づいたようです。二人の間に気まずい沈黙が流れます。
しかし、それもつかの間。
紛らわせてくれたのは彼女の方からでした。
「でも、やっぱりあたしから見ると、いつものヒメとちょっと違うと思う」
「……どう違うというの?」
「余裕がない感じ。文化祭の準備でピリピリしてたときに、ちょっと近いかなって。何かあったの?」
別に……、と誤魔化そうとしますが、すぐに考え直します。ここはひとつ、曜子の突拍子のなさを参考にしてみるのも、悪くないかもしれません。
「……ちょっと阿山君が慌てふためくところを見たいと思っているだけよ」
「そんなの簡単だと思うけどなぁ」曜子は首をかしげつつ、阿山君に効果的であろうと思われる色仕掛けを指折り数えます。「手をつなぐとか、名前で呼ぶとか、身体を密着させるとか」
「ヨーコ。わたしがこの世で最も嫌いなもののひとつが、周囲の視線を気にすることなく、ところ構わずベタベタいちゃつく男女――すなわち馬鹿ップルと呼ばれる存在よ」
「えぇ……。それだけでバカップル呼ばわりって、ヒメのイチャイチャに対するハードル低すぎじゃない? なんでもかんでも風紀の乱れを叫ぶ、強引なキャラ付けをされた古いマンガの風紀委員みたい」
「言うようになったわね……」
「そりゃもう、口の達者な人が周りに多いもん」曜子はニヤリと口元を上げ、それから一転、思案顔になります。「でも、人前でいちゃつくのがダメなら……、瞬間的にやるしかないんじゃない?」
「瞬間的?」
「キスとか」
わたしたちがそういう行為に至っていないことが、当たり前のように前提としてある――そんな曜子の口ぶりでした。『もちろん、まだなんでしょ?』とでも言いたげな顔をしています。
もうとっくに済ませているわ、と見返してやりたい自尊心と。
そんなことを大っぴらにしたくない羞恥心がせめぎ合って。
わたしはとっさに返事ができませんでした。
しかし曜子が察するには、その逡巡だけで十分だったようです。
「えっ、ウソ……」曜子は目を丸くして口元を押さえます。が、すぐにその表情がほころびました。初孫のいたずらにさえ目を細める祖母のような、包容力のある笑顔を浮かべます。
「相手の出方をうかがって、ぜんぜん前に進まない二人だと思ってたのに……、やることやってたんだねぇ」
「ちょっとその言い方はやめて」
「でもしたんでしょ? キス」
「ノーコメント」
「ふわぁ~」と曜子は奇妙なため息をつきます。「それでもキョウ君はうろたえなかったってことでしょ? じゃあもう次へ行くしかないよね」
キスが駄目ならその次へ――それはどこか既視感のある発言でした。
自分の発想が曜子のそれと同次元であることに若干のショックを受けつつ、わたしは問いかけます。
「……次というのは?」
「やだなぁ、皆まで言わせなさんなって」
ニヤニヤ笑いを浮かべる曜子に、わたしは真っ向から反論します。
「わたしは、そういう行為がなくても、男女交際というものは、成立すると、思っているわ」
「カマトトぶるのもいいけど、キョウ君だってオトコノコなんだから」
「そんなことよりテスト勉強よ」
「オオカミなんだから」
「わたしが教えるのだから、せめて平均点は超えてもらわないと」
「あたしはキョウ君に見てもらいたかったんだけど……」
まだゴネますか。
「だから駄目だと言ったじゃない」
「やっぱり嫉妬?」
「違うわ、……ねえヨーコ、どうしてわたしより阿山君がいいの?」
探るような質問を投げると、曜子はこちらを気遣うような苦笑いを浮かべます。
「えっとね、ヒメよりキョウ君の方が、教え方がわかりやすいかなぁ、って。あ、もちろんあたしにとっての話だけど」
それはある意味、想定していた答え――阿山君のことがまだ好きだから――よりもショッキングな返事でした。
「そ、そう、なの。わたしより阿山君の方が、上ということなの……?」
「あと、キョウ君の方が言い方がやさしいし……」
「ああ、そういうこと」安堵のせいか言葉が投げやりになってしまいます。「阿山君のあれは、優しさじゃなくて甘さよ。甘い男は女をダメにするらしいから、そういう意味でも、ヨーコはやっぱりわたしが教えることにするわ」
「えー、じゃあヒメはどうなの? 甘い男とつきあってダメにならないの?」
「わたしはいいのよ、きちんと自分を律することができるから」
「むぅ……、言い返せない……」
机上にぺたんと頬を付ける曜子。
彼女が反論できないことには理由がありました。
――先日、食欲の秋だよねと言いながら秋限定スイーツをむさぼっていた曜子は、その数日後、体重が増えたことにショックを受けていました。
『ひ、ヒメもちょっとくらい、体重増えたよね? ね?』
救いを求めるような顔の曜子に、わたしは現在の体重を告げると、彼女は深井戸の底から響いてくるような「へえ……」というつぶやきを残して、しばらく呆然と立ち尽くしていました。
自分を律する――という言葉から、わたしはそのやり取りを思い出しました。曜子もきっと同じなのでしょう。だから反論できないのです。
「……ヒメがダメになるところが見たい」
机に頬をつけたままこちらを見上げながら、曜子は物騒なことをつぶやきます。
「テストの点が下がるということ?」
「それだけじゃなくてぇ……」と曜子は考え込むような仕草。「何をおいても彼氏優先になって、友達付き合いが悪くなったり、遅刻が増えたり、あとアクセが増えたりスカートが短くなったりする感じ」
「ああ、そういうこと」
「そこんとこ、どーなの?」
「どーもしないわ。わたしはいつもどおりよ」
「えー」
不服そうに唇を尖らせる曜子に、わたしは首をかしげます。
「そんなわたしを、阿山君が認めると思う?」
こちらとしては何気ない問いかけだったのですが、曜子は何に驚いたのか、目を丸くしています。
「……え、ヒメ、キョウ君が自分のことを認めるかどうか、なんて常に考えてるの?」
「別に、常にじゃないわ。ごくたまに、ほんのわずかよ。1ナノ秒だけ、シナプス1個だけ」
というこちらの言葉にも耳を貸さず、曜子はため息をつきます。
「はー、キョウ君って束縛する男だったんだ、いっがーい。そしてヒメはそれを受け入れちゃうオンナだったんだ……」
「わたしは束縛なんてされていないし、仮に束縛されそうになってもそれを受け入れる気もないし、相手の要求のままに自分を変えるつもりもないわ」
「ふふふ……、ヒメがダメになる日は、あんがい近いのかもしれませんなぁ」
口元に手を当てて含み笑いをする曜子に向けて、
「その前にあなたの成績をダメにしてやろうかしら……」
と睨みつけてみても、楽しそうな笑顔は揺らぎませんでした。