拗れて縺れて絡まって
運ばれてきたコーヒーのカップを顔の近くまで持ち上げて、芳ばしい香りを鼻孔から吸い込みます。おいしいコーヒーは香りから違うものです。続いて、少量だけ口に含んで舌の上で転がし、苦味と酸味の絶妙なバランスを楽しみます。
それを何度か繰り返していると、とても罪深いことですが、至高の味にも飽きが来てしまいます。同じ刺激を繰り返していると、やがて慣れてしまうのです。どれだけおいしいコーヒーであっても、その性からは逃れられません。
しかし、人は自らの飽き性を克服するすべを編み出しました。
わたしはカップをソーサーに戻すと、隣の小皿に乗ったシフォンケーキをひと口サイズに切り分け、頬張りました。
シフォンケーキの控えめな甘さが舌の上に広がり、コーヒーの苦味を上書きしていきます。さらにケーキ生地が口内の水分を奪い取り、コーヒーを飲んでいた痕跡を消し去ってしまうのです。
技巧を凝らしたどんでん返しのある小説を読了したあと、その記憶を消してもう一度読みたいと思ったことは、誰にでもある経験でしょう。
もちろん叶うことのない絵空事です。
しかし、コーヒーに限ればそれができます。
追加で用意するものは上質のスイーツだけでかまいません。コーヒーとスイーツを交互に口にすることで、繰り返し、まっさらな舌で苦味と甘みを楽しむことができるのです。まさしく悪魔的発想。
このような安直な快楽を神様は決して許さないでしょう。人が堕落する要因は、快楽の強さよりもむしろ、墜ちるまでの早さ、すなわち即効性にあります。人間は拙速を悦ぶ。利便性を追い求めて肥大を続ける現代社会は、着々と魔境に近づきつつあるようです――
「……ヒメ、落ち着いた?」
曜子が割れ物を扱うような声で話しかけてきます。
「わたしは最初から冷静よ。ひとまず、さっきの写真をもう一度確認して、状況を把握しましょう」
「浮気者って言ってたじゃん」
「そう? まだ確定したわけではないわ」
「っぽいね。二人ともペン持って書き物してるみたいだし、これって勉強会なんじゃないの?」
曜子がスマートフォンをこちらに向けてきます。確かに、画像の中の二人とも、ペンを手に持ち視線は机上と、勉学に励んでいる姿勢です。
わたしはカップを口元に運んでかたむけ、しかし空っぽになっていることに気づいてソーサーに戻します。
「……そういうことなら、あまり追及しなくてもいいのかもしれないわね」
「あれ、意外と手ぬるい……」
「なんでもかんでも突っかったりしません。事情くらい汲むわよ」
「でも、浮気じゃないとしても、彼女がいるのに、知らない女の子と二人きりで会うのってあんまりよくないことだと思うし……」
曜子にしては低い声で不満を漏らします。
鏡一朗さんの行動について、わたしよりもむしろ曜子の方が反感を持っている。それが少し驚きでした。
わたしはカップを口元に運んでかたむけ、しかし空っぽになっていることに気づいてソーサーに戻します。
わたしにだって、怒りや不信がないわけではありません。
今すぐにでも電話をかけて追及してやろうかしら、という衝動はしかし、引き波のようにあっさりと引いてしまいました。
かつて、両親の不仲に気づいたとき、浮気について調べたことがあります。浮気を察した配偶者の行動にはいくつかのパターンがあるようですが、何も言わない、という選択肢を取る方が相当数いることが意外でした。
泳がせておいて、もっとも効果的な場面で切り札として追及する、という理由ではなく、ただただ、現在の関係が壊れるくらいなら見逃そうという、消極的な考えなのです。それが当時のわたしには信じられませんでした。
ですが、今は少し、理解できます。
鏡一朗さんの性格からは考えられませんし、可能性はほぼゼロだと思いますが――得たものを失う怖さを、わたしは想像せずにはいられませんでした。
早くなる動悸を落ち着かせようと、コーヒーカップを口元に運び――しかし空っぽになっていることに気づいてソーサーに戻します。
「ちょっとヒメ、さっきからどしたの? ヤンデレ?」
◆◇◆◇◆◇◆◇
その日は一日じゅう視線を感じていた。
こちらにプレッシャーをかけてくるような視線の出どころは、乙姫だけではない。百代もだ。二人そろって出走直前の競走馬のような、蓄積されたパワーを感じさせる。チャイムが鳴ったら即座にこちらへ詰め寄ってきそうな雰囲気だ。これがウマ娘というやつだろうか。違うか。
ところが、意外なことに放課後になっても何もなく、かといってこちらからなんの用かと問いかけるのは危険な気がして――そう、興奮している馬の後ろに立ったら蹴られて死んでしまう――、僕はそそくさと教室を後にした。
予備校の自習室でひたすら英文読解に打ち込んだ。切りのいいところでペンを置くと頭の芯が痺れるような、心地よい疲労を感じる。ウマ娘たちの圧力もすっかり忘れて集中できていた。
それから休憩スペースへ移動して、紙コップのコーヒーを片手にしばしくつろぐ。そこはシンプルなテーブルと椅子が並んでいるだけの飾り気のないスペースだが、僕と同じようにひとときの安息を求める受験生たちでにぎわっていた。
聞こえてくる話題は、直近の模試の成績や志望校の悩み、効率の良い暗記方法など、受験生らしいものばかりだ。場所が場所だけに騒ぎ立てる者もいない。休憩していても、ある程度の緊張感が維持されている。そんな空間にあって、少しばかり毛色の違う話が聞こえてくる――。
「そういえばカズ君」
「ん、どうした?」
「この前、仲良さげに話してる子がいたじゃない」
「ん……、ああ、アスミのこと?」
「そうそう、そんな名前の、派手めな子」
やり取りの中に、いくつか聞き捨てならないキーワードがあったのでそちらを見ると、やはり灰谷の想い人であるカズキとその彼女だった。
行儀が悪いとは思いつつ、僕は彼らの会話に聞き耳を立てる。
「あの子と、どういう関係?」
「同じ高校のクラスメイト」
「それだけ?」
「ああ」
「ほんとーにそれだけ?」
「何が言いたいんだよ」
「だって……、あの子ぜったいカズ君のこと狙ってるよ」
「そうかぁ?」
「じゃなきゃ、わざわざ無理めの大学を選んだりしないでしょ」
「考えすぎだろ」
「……っていうかカズ君、気づいてるんじゃないの」
「高い目標を持つのはいいことだ、うん」
「うっわぁ、白々しい!」
「いやいや、俺のことが好きだからって無理すんなよとは言えないだろさすがに」
二人の話はずいぶんと弾んでいた。灰谷の想いと努力をあざ笑うような物言いは不愉快だったが、あちら側からすれば、灰谷の行動は彼らの関係を邪魔するものとも取れる。だから、ああいう物言いをされるのも、ある程度は仕方がないのかもしれない。そう開き直って、平常心を保とうとしていたのだ、僕は。
「志望校を変えたことも教えてないくせにぃ」
「は?」
うっかり間の抜けた声が出てしまった。
僕の声は向こうにも届いたようで、二人がそろってこちらを向き、そして目が合った。
「なんだお前」
「……あ、この人、前にあの子と一緒にいたの見たよ」
しかめ面のカズ君をよそに、彼女は笑顔で僕を指さした。その表情から察するに、僕と灰谷の関係を邪推しているのだろう。
面倒くさいことこの上なかったが、こうなっては無視もできない。僕は腰の低い男子を装って彼らのところへ近寄った。
灰谷明日美はカズキに好意を持っている。
彼のそばにい続けるために、同じ大学を受験するという健気っぷり。彼には彼女がいるのに、それでも、近くにいればいつかは振り向いてくれるかもしれないと、はかない願いにすがりつきながら受験勉強を続けている。……その強引なやり方にはいささか問題があるかもしれないが、それでも、彼への好意を胸にがんばっていたのだ。
そんな灰谷の気持ちに気づいているにも関わらず――、
「なんで灰谷さんに、志望校を変えたことを伝えないの?」
「あ? ああ、俺の志望校しだいであいつの進路が変わるのも、なんか申し訳ないというか、重いというか、……ていうか、何お前、アスミのこと好きなの?」
「いや、そういうんじゃないよ」
「ウソだぁ~」
と彼女がニヤニヤ顔で絡んでくる。
「好きでもなきゃ、赤の他人の話に首突っ込まないでしょ」
「ああ、そういうことか。大丈夫だって、俺はあいつとは友達だけど、恋愛感情はねぇから。ああ、いっそお前もアスミと同じ大学受けたら?」
「それいい! 桜舞うキャンパスで感動の再会、みたいな?」
「だろ? いやー、俺も友達としてあいつには幸せになってほしいし、できることがあったら協力するぜ」
笑いながら無神経な話を続ける、2人の考え方がまったく理解できなかった。しかし彼らにとって、おかしいのは僕の方らしい。彼女の口からは何度か〝純情〟という言葉を聞いた。もちろん好意的なニュアンスではなかった。
僕は話の途中で踵を返した。これ以上、2人と会話を続ける気力はなかったし、意思の疎通ができるとも思えなかった。カズキが灰谷に事実を語ることも望み薄そうだ。
じゃあ、僕から灰谷に伝えるのか?
首を突っ込みすぎではないかと思うが、それを言ったら休憩コーナーでのやりとりから過干渉は始まっているのだ。そもそも、彼女は僕の話を聞いてくれるだろうか。想い人の裏切りを、素直に受け入れてくれるだろうか。
それ以前に、この干渉自体、純粋な善意ではないのだ。話を伝えたら、灰谷はまた志望校を変える。そうすれば、僕はもう、彼女の勉強を見ないで済むのではないか――そんな打算がないとは言い切れない。
参った。
灰谷の頼みを引き受けたときは、良いことをしているつもりだった。少なくとも、悪いことをしているなんて全く思っていなかった。
それがいつの間にか、拗れて縺れて絡まって、悩みの種になっている。
予備校を出た僕は、歩きながら電話をかけた。こんなことで情けないとためらう気持ちはあったが、快刀乱麻を断つような彼女の声が聞きたかった。




