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ハッピーエンドはここじゃない  作者: 水月康介
2年次2学期 ―承前―
7/100

何をいまさら

 教室の片隅に埋もれてしまいそうな凡人である僕に、特筆すべき〝劇的〟があるとすれば、それは家庭環境の複雑さについてだろう。


 母が亡くなったのは僕が小学5年生のころだった。父が再婚したのは僕が中学1年のころ。相手側もバツイチで、しかも当時高校生の女の子を連れていた。義理の姉ができたのだ。


 思春期にうら若い異性と一つ屋根の下で暮らすという環境によって、僕は徐々に、その義理の姉――千都世ちとせさんに好意を抱くようになる。


 年上で美人で面倒見が良くて、家事の得意な女の子が、ひとつ屋根の下にいるのだ。好きになるなという方が無理な話だった。


 僕たちは赤の他人だが、社会的には姉弟というくくりに縛られている。

 だからこの好意は禁忌なのだとずっと思っていた。


 打ち明けるなんて論外で、しかし抱え込むには幼すぎる。そんな僕に残された選択肢は、逃げることだけだった。


 高校進学にあわせて、僕は家を離れることを決意した。

 簡単にはいかないだろうと恐る恐る、遠すぎる進学先を切り出したところ、両親は思っていたよりもあっさりと了承してくれた。ひとり暮らしの件もだ。両親はすでに僕の感情を察していたらしかった。


 後日――というか1年ほどあとになって母さんから聞いた話だが、両親が察してたのは、僕の感情だけではなかった。千都世さんもまた同じだった。僕の好意は一方通行ではなかったのだ。


 このままではやがて、倫理的によろしくないことが起こる。ひとり暮らしを認めてくれた背景には、そんな懸念もあったのだろう。




 そうした事情から、現在、僕は1Kのアパートで一人暮らしをしている。最初は不慣れな家事に時間をとられていたが、1年半も過ぎた今では手慣れたものだ。


 例えば、雨の日は意外と掃除に向いている。

 湿度が高いと窓や床の汚れが落ちやすいため、拭き掃除がはかどるのだ。


 まずは窓ガラスから。濡らした新聞紙で右上から拭いていく。


 続いて洗面台の鏡。毎日見ていると気づかないが、ほこりや水垢などで映りが悪くなっていた。ていねいに拭いていくと新品のような透明感を取り戻す。


 こうなったらすべての鏡面を水拭きしてやろうと、僕は浴室へと移動する。風呂場の鏡は水垢で地味に汚れているし、浴槽回りはふだん、あまり細部まで掃除をする機会がないので、念入りに水洗いすることにした。


 今それをすることに、特にふかい意味はない。

 ただ、そう、万が一、自分以外の人間が風呂場を利用することがないとは言い切れない。実際、すでに数回その手のハプニングは発生している。急な来客があったとしても、汚れたところを見せるわけにはいけない。これはプライドの問題なのだ。可能性に備えているだけ。決してやましい考えなどない――


 そんな言い訳をとがめるようなタイミングでインターホンが鳴った。


 このアパートには外部モニターなんて上等なものは備わっていない。たとえ望まざる来客であったとしても、直接、面と向かって相手をしなければならないのだ。


 以前、1度だけあった新聞の勧誘を断ったときの心労を思い出して憂鬱になる。

 基本的には知人か、通販サイトの配達くらいしか来訪者はない。今日は後者だろう。先日注文していた例のブツが届いたのだと思った。


 部屋のドアを開けて、玄関へ続く短い廊下へ出ると、人が立っていた。


 玄関の外ではない。内側に、である。

 無断侵入だった。漆黒の不審者に思わず身がまえてしまうが、それはよく見ると繭墨だった。黒ずくめなのはもちろんセーラー服のせいだ。


「……繭墨、なんで」

「合鍵を使いました」


 繭墨はキーホルダーを指先でくるりと回す。


「いや、手段じゃなくて、理由を……。バスで帰ったんじゃないの?」


「帰ろうとしましたが、鏡一朗さんの別れ際の表情が気になって、問い詰めるために戻ってきました」


「表情って」


「わたしがファーストキスを差し出したというのに、鏡一朗さんのリアクションは今ひとつ淡白でした。それに加えてどこか、こう……、得意げに見えたというか」


「自分じゃよくわからないけど」


 僕はすっとぼける。自然な表情ができているだろうか。


「とっておきの豆知識を『それ、もう知ってるよ』と切り捨てるような――、話の盛り上がりに水を差す、あの嫌な感じです。それをあなたの表情から感じました」


「あまりにも動揺しすぎて、表情が硬くなっただけじゃないかな」


「私が感じた変化は、強張こわばりではなく脱力です。そこから推察するに」繭墨は言葉を切って、目を逸らす。「……鏡一朗さんは、違ったんですね」


 何が、なんて野暮な問いかけはすまい。

 僕は返事の代わりに、室内へと振り返る。


「……コーヒーでも飲む?」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 繭墨はコーヒーを愛飲している。

 そのこだわり具合は相当なもので、全自動コーヒーメーカーはもちろん、エスプレッソ用のポットやサイフォンまで持っている。豆を粉砕するミルは電動と手動の二種類を所持。そこまでそろえる必要があるのか、はなはだ疑問ではあるが、とにかく、繭墨はとんでもないほどのコーヒー党なのだ。


 飲み方はブラック一択。彼女の淹れたコーヒーを飲んだことがあるが、確かに、自分で淹れるよりもおいしかった。


 とまあ、それくらい繭墨はコーヒーが好きで、香りを嗅ぐだけで精神が安定するとまで公言している。この険悪な状況で、それを使わない手はない。


 それに、冷静にならないといけないのは繭墨だけじゃない。僕だって動揺していた。少なくとも、いつもとは違う精神状態だという自覚はあった。


 自分の部屋に、付き合いたての彼女がいるのだ。色気が皆無の状況だとしても、あまり近づきすぎると、変な気を起こしかねない。いや、彼女に対してそういう感情を抱くことを変だと言っているわけじゃなくて、単なる言葉の綾であって、ダメだ、まるで落ち着けていない。


 深呼吸をしつつ台所に立つ。僕の淹れ方はペーパードリップ。抽出器にフィルターをはめて、コーヒー粉を入れ、熱湯を注ぐというシンプルなやり方だ。ポットを持つ手がいつもより震えていたが、おおむね、上手に淹れられたと思う。


 ベッドの隅に座る繭墨にコーヒーを持っていくと、文庫本を閉じて顔を上げた。


 カップを顔に近づけて、まず香りを確かめる。

 それからカップをわずかに傾けて、コーヒーを少量だけ口に含む。


「腕を上げましたね」

「そりゃどうも」


 うっすらと微笑む繭墨に、僕は軽い口調で返す。

 大したことじゃない、いつもどおりにやってるだけさ、と。


 しかし、実際は毎日毎日〝美味しいコーヒーの淹れ方〟で検索したやり方を真似したりアレンジしたりと試行錯誤を繰り返していた。すべては繭墨をうなずかせるために。涙ぐましい努力だと我ながら思う。


 その努力がこういう方向で実るとは思わなかったが、繭墨の緊張は少しばかり解けたようだった。チャンスは今。


「……乙姫、は、法律の不遡及性ふそきゅうせいって知ってるよね」


 名前呼びにまだ少しテレを感じつつ、僕はそんな話から切り出した。


「はい。新たに制定された法律を、過去にさかのぼって適用することはできない、という話ですね」


 淀みなく応じる繭墨に、僕はうなずきを返す。

 法律にそういった特例があるように、恋愛においても不遡及性が認められるのではないかと、遠回しにアピールする作戦である。昔のキスについて現在の彼女があれこれ文句を言うのは、よろしくないことではないでしょうか、と。


「例えば、シスコン死すべし法という新法ができたからと言って、かつてシスコンだった阿山君を処罰することはできないということですよね」


 僕は激しく咳き込んだ。台所に立っていて助かった。


「……ちょ、ちょっと待って」

「どうしましたか。阿山君は現在もシスコンなのですか?」

「コンプレックスを異常性愛と同列に語るのはよくない――」

「やっぱり、お相手は千都世さんだったんですね」


 繭墨は目を細め、視線を落とした。


「第一容疑者はヨーコでした。ほかにも阿山君と妙に親しい生徒会の女性陣も捜査線上に浮上しましたが……、どうにもしっくりきませんでした。学校の外の、わたしの知らない阿山君を知っている誰かがお相手なのだと考えた方が、うまくイメージができました」


「ここへ来るまでの間に、そんなこと考えてたわけ」


 自然と声音が低くなる。

 繭墨が僕のことを考えて思い悩んでくれるというのはうれしいが、それも内容によりけりだ。ハッキリ言って不快だった。


「過去を詮索されるのは、嫌なものですよね。ですがわたしは、別れ際に感じた違和感を、そのまま家まで持ち帰って夜どおし煩悶はんもんするなんて、回りくどいことをしたくはなかったんです」


 だから直接ウチへ来たのか。

 確かに、そういう遊びのない率直さは、繭墨らしいと思う。


「ご想像のとおりだよ」


 繭墨からのキスの直後に、僕が千都世さんとのキスを思い出していたことも。

 繭墨のファーストキスが、僕にとっては違うことに優越を感じていたことも。


 どちらもあっさりと見抜かれてしまった。

 だから僕もまた率直に、認めざるを得なかった。


「……でも、これって別に僕が悪いことをしているわけじゃないと思うんだけど」


「そうですね。ちょっとした表情の変化から、あなたの過去を察してしまい、それが気になって事実を問いただそうとする。自覚はあります。面倒くさいですよね、わたし」


「何をいまさら」


 僕は反射的にそう口にしていた。


 普通、彼女が弱音を吐いていたら、何をおいても話を聞いて慰めるべき。そっとしておくのは下策だとしても、相手の言葉を否定するなんて論外だろう。どんな恋愛マニュアルでも『やってはいけないこと』として紹介されているに違いない。


 もし恋愛アドバイザーとかいう肩書を持つ人物が僕の言動を目の当たりにしたら、女の敵として徹底的に扱き下ろしただろう。女心のわからないダメ男、鈍感男、恋人失格と。


 それでもやはり、僕にとっては何をいまさら、である。

 繭墨が面倒くさいことなど織り込み済みだ。

 そういうところに惹かれたのだから。


 繭墨は呆気に取られたのか、ぽかんと口を開けている。


「だいたい、そっちからキスしてきたのって、何割かは打算だよね。主導権を握るための」

「お、乙女のキスに理由を求めるなんて」

「精神論に逃げちゃあいけない」

「阿山君のくせに今日は押しが強いですね……」


 確かにそうだ。

 おそらく開き直っているからだろう。

 昔のことをほじくり返されて気が立っていたのかもしれない。

 繭墨が見せた弱みが気に入らなかったのかもしれない。


 繭墨はコーヒーを飲み干すと、諦めたようにため息をつく。


「……今日のことがダメなら、もっと先へ進むしかありませんね」

「もっと先って……?」


 驚くべき発言だった。

 今日のことの、もっと先。

 つまりキスの先。


 となると――僕はつい繭墨の身体を凝視してしまう。次いで視線はベッドへと移る。繭墨が座っている辺りがくぼんで、シーツが皴になっている。


 再び視線を繭墨に戻すと、メガネ越しに冷たい目でこちらを見下ろしていた。地べたを這いずる虫をどうやって抹殺しようかと思案しているような視線である。少なくとも彼氏に向けていい目ではなかった。


「卑猥なことを考えていますね」


 繭墨は素早く立ち上がりつつ、身体の前で腕を組んで卑劣な視線をガードする。


「も、もっと先というのは、例えばどこかへ出かけるとか、そういう体験のことです。鏡一朗さんの想像している行為とは違いますから」


 今日は帰ります、話をしに来ただけですので――と、バタつきながら玄関へ歩いていく。繭墨が珍しく本気であわてていた。


 繭墨がうろたえたり、慌てたりするのは、いわゆるフリの場合がほとんどだ。


 うろたえるさまを見せて、相手を調子づかせたり。

 あるいは、慌てた様子を見せて、周囲を急かしたり。


 要するに、自らの注目度を活かして周りの人間を動かすためのポーズなのだ。


 だから、繭墨の焦りっぷりは、本気で〝その先〟を嫌がっている、あるいは怖がっていることの表れだった。


 そこが現状での限界のラインなのだろう。彼女が自分の部屋に上がり込んできたからといって、押し倒してもいいサインだとは限らない。


 例えば、繭墨がドアノブに手をかけたところで、ドアが開かないように押さえ込んで、『今日は帰さない』なんてイケメンにだけ許されるセリフを叩きつけてみたところで、それに心揺らされるやつではないだろう。今日のところは、おとなしく繭墨を見送ることにした。


 ――ただ、最後に少しだけ、ささやかな反撃を試みる。


「それでは、また。コーヒーありがとうございました」


 玄関口で頭を下げる繭墨に、軽い口調で語りかける。


「あ、そうそう」

「なんですか」

「千都世さんと、その、したのって、ちょうどここなんだ。玄関先の共用通路」


 繭墨は立ち止まって振り返り、不愉快そうに眉をひそめる。そりゃそうだ、と苦笑しつつ、今度は僕の方から近づいてキスをした。


 数秒間の接触のあいだ、お互い、意地を張るみたいに目は閉じなかったし、逸らしもしなかった。


 離れると、繭墨は人差し指で唇に触れて、それから、メガネの位置を調整した。

 ギロリと睨みつけてくる。


「メガネがずれました。それから、レンズに皮膚の脂がつきました。もう少し気遣ってください」


「ごめん、次からは気をつける」

「つ、次から……!?」


 繭墨は素っ頓狂な声を上げる。頬が赤い。


「阿山君のくせに、小癪なことを言いますね、さっそく駆け引きですか、心理戦ですか。わたしの心にくさびを打ち込もうという腹ですか」

「あれ、そんなに胸にキちゃった?」

「減らず口を……。か、勝ったと思わないでください」


 繭墨はバタバタと騒々しい足音を立てて、アパートの階段を駆け下りていった。ときどき足音のテンポがずれていたので心配だったが、無事に道路へ出てきたのを見届けると、安心して部屋へ戻る。


「――ッし!」


 思わずガッツポーズが出た。


 勝ったと思わないでください、だって? それは無理だ。

 繭墨と知り合ってからというもの、彼女にはさんざんやり込められてきたのだ。今日の大勝利に心躍らないはずがない。


 しかし、勝利の余韻なんて束の間だった。

 ひとしきりシャドーボクシングを続けて、ふと冷静になってベッドに倒れ込む。


 これは自力でつかんだ勝利じゃない。

 勝因は、繭墨の勇み足(・・・)だ。


 彼女が部屋に上がり込んできたからといって、押し倒してもいいサインだとは限らない。でも、彼女の方からキスをしてきたのだから、こちらから同じことをするのは問題ないはず――。


 そういう保証がなければ大胆な行動がとれない、まだまだ小心者の僕だった。


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