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ハッピーエンドはここじゃない  作者: 水月康介
2年次2学期 ―承前―
6/100

ファーストキスですから


 生徒会の手伝いを終えて昇降口へ降りてきた僕は、そこで軽いショックを受けてしまう。


 傘がない。

 いつも置いている傘立てから、僕の傘が消えていた。どうやら置き引きされてしまったらしい。


 降りしきる雨に視線を向ける。激しいというほどではないが、それなりの雨量だ。この中を傘なしで突っ切っていけば、部屋に着くころにはカバンの中身までダメになっているだろう。


 僕の傘がどこかの誰かを雨から守って、濡れネズミの悲劇を回避できるというのならそれでいい――なんて聖人みたいなことは考えられなかった。


「自分の不用意を他人に押しつけて、知らん顔のできる恥知らずな生徒が、同じ学校にいるかと思うと悲しくなるよ。人間という生き物はどこまでも利己的で自己中心的になれるものなのだなと、ある意味じゃ感心してしまうね。せめてこの罪に釣り合う罰が、犯人に降りかかることを祈るばかりだ」


「傘がないのなら、わたしの傘に入りますか?」


 繭墨はこちらの恨み言をスルーしてそんなことを聞いてきた。

 僕のしみったれた不幸など、帳消しを超えてお釣りがくる幸運がここに。


「……いいの?」

「もちろんです」

「災い転じて福となす、ってやつだね」

「不幸中の幸い、ですか」

「地獄で仏」

「捨てる神あれば拾う神あり」

「ケガの功名」

「干天の慈雨」

「棚からぼた餅」

「そうですか、ぼた餅ですかわたしは……」

「いやいや単なる言葉のアヤだから」


 急にテンションを落とした繭墨に弁明を試みるが、反応はよろしくない。


「それで? このぼた餅女をどうしますか?」


「ありがたくいただくよ」と僕は繭墨の手から傘を受け取った。「いただくっていうのは傘のことで、繭墨をどうこうするという卑猥な意味合いじゃないからね」


「その注釈が卑猥なんですよ」

「ぼた餅女を自称したのはそっちじゃないか」


 そういえば、ぼた餅ってなんだか野暮ったいイメージがあるな。


「何か失礼なことを考えていませんか?」


 疑いのまなざしから逃れた僕は、校舎の軒先から出て傘をさす。


 乙姫の持つ傘はかなり大きい。骨の本数が多いし、生地や取っ手の質感にやけに高級感がある。全体的なデザインも洗練されており、値の張りそうな傘だ。やや濃いめの紫色は、紫陽花を思わせる。秋なのに。


「繭墨の傘ってこんなに大きかったっけ」

「買い換えました。雨に濡れるのが嫌なので」

「へえ――それなのに相合傘をさせてしまってありがたいやら申し訳ないやら」

「へりくだらないでください。当然のことでしょう」

「生徒会長として困っている人を助けることが?」

「彼女として彼氏を傘の下に招くことが、です」


 ストレートな物言いに絶句してしまう。

 繭墨は得意げに口元を上げていた。

 優位を取って、してやったりの顔のまま、傘の下に入ってくる。


 出発進行、と心の中でつぶやく。

 僕の3歩が繭墨の4歩くらいだったのか、と歩幅の違いを意識する。

 むずがゆい沈黙は、雨音が紛らわせてくれている。


 雨音をBGMに、僕たちは黙って歩いていく。

 気まずい沈黙ではなかった。

 丁々発止とやり合うことの多い僕たちだけど、たまには静かなのも悪くない。


 僕は車道側を歩き、繭墨の方へ傘を寄せる。制服の右肩が二の腕あたりまでしっとりと濡れてしまうが、別に構わなかった。


 繭墨の言い回しを借りるならば、『彼氏として彼女を雨からかばうこと』は当然のことだし、あこがれのシチュエーションの一つだ。


 きっと繭墨もこの状況それ自体を楽しんでいるのだろう。濡れますよ、もっと寄ってください、なんて野暮なことは言わなかった。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 やがてバス停へと辿りつく。

 繭墨はいつも、ここから出るバスに乗って郊外の家へ帰っている。


「んじゃ、ここで。ありがとう」

「阿山君のアパートまで、まだ距離がありますよ。どうするんですか」

「ここから濡れるのは仕方ないし」

「折り畳み傘をお貸ししますよ」

「え、ほかにも持ってるの? 傘」


「はい。降りしきる雨を前に、昇降口で立ち尽くす生徒がいたとします。そんな彼女にやさしく折り畳み傘を差し出す生徒会長に、どういう印象を抱きますか?」


「うわぁ用意周到で打算的だなぁ、と」

「それは知りすぎてしまった阿山君の考え方でしょう。一般生徒は違います」


 繭墨はこちらをひと睨みしつつ、メガネの位置を正す。


「取っ付きにくいと思っていた生徒会長の、予想外のやさしさに触れて、わたしの株は急上昇するはずです。人はギャップに弱い生き物です。相手もきっと、あの生徒会長が傘を貸してくれたと嬉々として話して回るでしょう。そうやってわたしの支持層が徐々に広がっていくという寸法です」


「無所属候補がやる草の根運動みたいなことを……」

「心配しなくても、相手は女子生徒限定ですので」

「百合百合しいな……」

「彼氏に心配をかけないようにという彼女の配慮に、そのようなフィルターをかけないでください」


 繭墨の口からまたしても〝彼氏〟なんて言葉が出てきた。それが自分のことを言っているのだと自覚して激しく動揺してしまうが、あまりうろたえてばかりでは格好がつかない。僕は深呼吸を一つして、いつもどおりの声音を意識する。


「実際のところは、男子にそんなことしたら必要以上に(・・・・・)支持されてしまうからじゃないの」

「そうですね。わたしも同じ学校の生徒からストーカーを生み出したくはありませんので」


 なんという自意識の高さか。あながち言い過ぎでもないところがすごい。


「もちろん女子生徒に対しても、きちんと一定の節度を持って接します。親密になった女性同士の周囲にだけ現れる概念上の花が、開花することはありませんよ」


 繭墨はひどく婉曲した言い方をする。

 こいつはとても真面目そうな見てくれをしているが、言葉の端々からサブカル方面の知識にも明るいことを感じさせる。


 そういえば、繭墨の趣味というものを僕はあまり知らない。コーヒーに一家言あることは知っているが、一般的な趣味となるとどうだろう。ピアノを弾けるという話は聞いた。


 本はよく読んでいるが、ジャンル的な好みはどうか。男子の趣味は――おっとやめておこう。この手のことを掘り下げていくとこちらへのダメージが大きい。


 自分は彼女のことを何も知らない。


 よくあるモノローグだが、これは、ある程度の親しさを築いたからこそ出てくる不満なのだろう。もっと先へ関係を深めたいという願望が生み出す、渇きのようなものだ。雨が降っているのに渇きだなんて、哲学的アンビバレンスを感じる。


「ところで、阿山君」

「何」


 フィロソフィカルな二律背反よりも恋人の問いかけの方が大切だ。僕はすぐに思索を止めて、繭墨に向き直る。


「バスが来るまで、もうしばらく時間があります。それまでお話をしませんか」

「もちろん」


 バス停のベンチに並んで腰かける。実はこのバス停、学校の最寄りではないし、交通量の少ない脇道に位置している。こんなところでも人目を避けるための配慮を欠かさない。


「今日一日、いかがでしたか」

「えらく曖昧な質問だけど」

「わたし、考えたんです。どうするべきかを」


 曖昧な物言いは続く。


 触れたくないものの周囲をなぞって、輪郭を浮かび上がらせるような。

 自ら言い出すのではなく、相手に察してもらうことを期待するかのような。


 ――別れ話を切り出そうとしているような、そんな口ぶりだった。


 ところが、こちらの焦りをよそに繭墨が口にしたのは、まるで違う話題で。


「名前を省略されるのは嫌いですか?」

「特に考えたことはないよ。すでにキョウとかキョウ君とかって呼ばれてるし」

「しかしそれを後追いするのは工夫がないと思うんです」

「なんの話?」

「鏡一朗さん」

「――はい?」

「と呼んでも構いませんか?」

「ん……、別に……」


 構わないよと簡単には答えられないくらい動揺してしまう。鏡一朗さん。新婚っぽい。頬が引きつる。ニヤけてしまう。じゃあこちらはどう呼べばいいんだろう。


「どうしたの繭墨、これ、新しい精神攻撃? 男心を翻弄してるの?」

「翻弄されているんですか?」

「そりゃまあ、大いに」


「なるほど。鏡一朗さんにとっては不慣れなことなのですね。大丈夫、人間は慣れる生き物です。新たな、少々むずがゆく感じるような呼び方も、すぐに平然と受け入れられるようになりますよ」


「それはちょっと残念かな」

「それで、鏡一朗さんはどうしますか?」

「何を」


「わたしのことは、どう呼びますか?」繭墨は胸に手を当てて、こちらと目を合わせてくる。「どう呼んでくれるんですか?」


 繭墨乙姫という彼女のフルネームから、いくつかの愛称を思い浮かべる。


「まゆまゆとか、どうかな」

「正気ですか?」

「じゃあ、まゆずみん」

「アイドルの愛称めいたものは却下です。あと、名字から離れてください」


〝まゆりん〟とか〝まゆっち〟という弾丸タマも用意したが、使う機会はなかった。


「……オトヒメ、とか?」


 無言で睨まれた。


「いっそ乙姫いつきで」

「はい。わたしは奇をてらうのを良しとしません。シンプルイズベストです」


 繭墨から名前呼びについての提案されることが、もう十分に奇怪だった。

 でも、遅ればせながら、その理由に察しがついた。


 普通の相手だったら、すぐに思い至る理由かもしれない。だけど、それが繭墨乙姫だからというだけで、気づくのが遅れてしまった。嫉妬だ。


 僕が女の子からあだ名で呼ばれていることや、自分以外の女子と付き合っていると誤解されることが、気に入らなかったのだ。


 嫉妬なんて、こちら側の問題だと思っていた。


 文化祭で誰の告白も受け入れなかった――ということになっている――フリーの繭墨は、ひっきりなしに男子から言い寄られるかもしれないと予想していた。


 実際は、数多くの、それも高めの男子を振りまくったという〝実績〟が高嶺の花レベルを上げてしまい、近づく相手がいなくなっていたのだが、そんな武勇伝はともかく。


 男子に声をかけられる繭墨に、僕が気をもむことは簡単に想像できるのに。

 その逆もあり得るのだということは、まるで考えていなかった。


 恋愛小説家が恋愛をしたことがないなんて誰も思わないように。

 寿司職人が魚を嫌いだなんて誰も考えないように。


 繭墨が僕に執着してくれる(・・・・・・)というのは、仮にあったとしても、もっと将来的なことなのだろうと、勝手に思っていた。


 何故なら僕は、繭墨と対等ではないと感じていたから。

 釣り合っているとは言い難いと感じていたから。


 自分を卑下するほどではないにしろ、繭墨はどこか自分よりも〝上〟の相手なのだと、そういう風に意識していたことは否定できない。


「どうしましたか、気の抜けた顔をして」

「僕たちはちゃんと付き合ってるんだなぁ、と思って」

「呼び方が変わる程度でそれを実感するなんて、阿山君はチョロイですね」


 繭墨はしたり顔で口元を上げる。

 いや、そこじゃないんだけど……。本人は気づいてないのだろうか。


「――っていうか呼び方。戻ってる。阿山君」

「……鏡一朗さん」


 不機嫌な顔で頬を染めつつ僕をにらんでくる繭墨――じゃない、乙姫。


「確認しとくけど、これって周りに人がいないとき限定だよね」


「当たり前でしょう。この関係を見せつけたいわけでも、知らしめたいわけでもありません。バカップルに堕するつもりはありませんから」


「そうだね。バカップルは罪だ」

「ええ、大罪です」


 うなずき合っていると、遠くからほかの自動車よりも大きな、バスの走行音が聞こえてきた。


 繭墨は立ち上がり、カバンをまさぐっている。先ほど話していた折り畳み傘を探しているのだろう。彼女を見送るべく僕も立ち上がった。


「鏡一朗さん。傘をさしてください」

「え? このデカい傘を?」


 この傘は繭墨の持ち物だし、ここはバス停の軒下だ。二つの意味で、要求の理由がわからない。わからないが、とりあえず傘を開く。ほぼ同時に、スピードを落としたバスがゆっくりと滑り込んでくる。


「そちらの傘は鏡一朗さんが使ってください。わたしはこちらを使いますから」


 繭墨は折り畳み傘を軽く掲げてみせる。


「ああ……、でもなんで」


 繭墨は返事の代わりに、一歩、近づいてきた。

 軒下で相合傘という奇妙な状況になる。


 そこからさらに、繭墨は踏み込んできた。

 身体が密着する。

 繭墨が顔を上げた。まっすぐに目を合わせてくる。近づいてくる。


 金切り声のようなブレーキ音が聞こえて、

 唇に、やわらかい何かが触れる感触、

 鼻の頭に、硬い何かが触れる感触、

 そしてすぐに繭墨は離れていく。

 唇も、メガネも、身体も。


「これ、ファーストキスですから」


 繭墨はズレたメガネを直しながら得意げな口調で宣言すると、すぐに振り向いてバスに乗り込んだ。


 バスが発車して遠ざかり、角を曲がって車体が見えなくなって、ようやく僕は現実に立ち戻った。ファウルチップのような、かすっただけの口づけ。唇を舌先で舐めてみる。味はない。


 ああ、そうか。傘を差せと言ったのは、バスの乗客から僕たちが見えないようにするための小細工だったのか。なるほど……、と繭墨の周到さに遅れて気づく。


 それから、こみあげてくる嬉しさの中の、かすかな苦み。


 ――これ、ファーストキスですから。


 僕はそうではないことを、ずっと黙っていなければと思う反面、打ち明けたときの反応に興味がないと言えば嘘になる。


 僕は傘をたたんで、そのままバス停から出た。


 雨に打たれながら、歌でも歌いたくなるような浮かれた気分と。

 ずぶ濡れになることで、繭墨に抱いた浅ましさへの罰とする気持ちと。


 相反する感情をいだいて雨の中を歩いていく。


 白黒つけられない曇天を見上げながら。

 ときどき目に入る雨を不快に感じながら。


 それでもやはり、どうしようもなく口元がゆるんでしまう。

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