誤解
そこが世界の中心になってしまったかのように、テーブルの上に置かれた物体に目が釘付けになる。圧倒的優勢から王手飛車取りの致命的な一手を打ち返された将棋打ちのような気持ち――というのは言い過ぎかもしれないが、僕にとって乙姫の放った一手にはそれほどのインパクトがあった。
「……これは?」
「避妊具です」
乙姫もまた最も機能的な単語でそれを言い表した。
「それって、つまり」
ごくりと喉を鳴らして、世界の中心から視線を引きはがす。僕はたぶん期待に満ちた表情をしているのだろう。だらしない顔を彼女に見られるのは不本意だったが、そんな見栄を気にするよりも、乙姫が今どんな顔をしているのか、確かめたい気持ちの方がはるかに強い。
「誤解しているようですが」
乙姫はメガネの位置を直しつつ、平坦かつ冷淡な声で言った。しかし肝心の、いつもの氷柱のように怜悧な視線が逸らされているから、こちらの浮ついた気持ちを抑えつけるには、冷たさがまるで足りない。
だけど、今、誤解と言ったのか? ホワイトデーに恋人と二人きりで、そんなものを差し出しておいて、何をどう誤解するというのか。乙姫の口からはっきりと説明してもらいたいものだ。順序だてて、理路整然とした、こちらが納得するような説明を要求したい。ちょっと思考がねちっこくなっている。自覚はあるがノンストップ。たぶん視線も絡みつくように執拗なものになっているだろう。
「誤解って?」
「これはもともと、鏡一朗さんのものですよ」
「僕はこういう準備はしてなかったんだけど……」ホントに。
「先月の、バレンタインです。実家からの荷物の中に、これが入っていました」
細い指先ですっと突き返される避妊具は、やはりそういうことをとことん拒絶するという乙姫の頑なさの証のようだった。あまり露骨に残念がらないように、僕は努めて平然と、明るい声を出した。
「ああ、アレね? 荷解きを頼んだときの……。やっぱり義姉さんの仕業かな」
乙姫は無言でさらに避妊具を突き返してくる。これ以上粘るのは無理そうだ。しかし、素直に引き取るのは負けのような気がして、ひとまずテーブルの端に寄せておくことにした。
カジノのチップのように移動する避妊具を横目に、乙姫はすまし顔で尋ねる。
「それで、鏡一朗さんの用件は?」
「なんかもういろいろ段取りがめちゃくちゃだけど」
朝から出番をうかがい続けていながら、ずっとおあずけを食らっていた指輪ケースが、ようやく日の目を浴びることができた。もう夕方だけど。
最初にあった緊張やら何やらは吹っ飛んでしまっていて、僕はいくらかリラックスした心境で、ケースを開いて乙姫に差し出した。
「バレンタインのお返し。気に入ってくれるといいけど」
ケースの台座に収まっているのは、銀色の指輪。宝石はついていない。メビウスの輪のようにねじれているのが、特徴といえば特徴か。それ以外はなんの飾り気もない、シンプルなプラチナリングだ。飾り気のない研ぎ澄まされた美しさが、乙姫に似ていると思った。
乙姫はケースの中をぼんやりと見つめていた。唇がかすかに開いて白い歯がのぞいている。その表情が珍しく無防備だったので、こちらも咎められることを気にせずじっくりとその顔を見ることができた。
驚いてくれているのだろうか。
乙姫はこちらが指輪を贈ることを間違いなく予想していた。むしろ誘導されていた。だからこそ、その予想は裏切れなかった。彼女の期待から外れられないのなら、残る道はひとつ。それを超えることだけだ。
驚きから覚めたのか、はたまたそういう演技なのか、乙姫の表情が鋭さを取り戻した。指輪ではなく僕に目を向け、満足いく味のコーヒーを淹れられたときのように、ふわりと口元をゆるめた。
「あなたの手で、はめてくれませんか」
乙姫は立ち上がると、そっと手を差し出した。
指輪ははめる指によっていろいろな意味を持つという。指だけではなく、手の左右によっても違いがあるのだ。乙姫が差し出したのは左手だった。もっとも有名な、左手の薬指。心臓につながる指だと言われている。どうしてもそこに目が行ってしまう。あなたはどの指を選ぶのですか――そんな無言の問いかけだ。
乙姫はことあるごとにこちらを試してくる。それが全く不快ではないのだから、恋が病なら末期も末期、終末期だ。
僕も立ち上がって、乙姫の左手を取った。右の人指し指と親指で指輪をつまんで、向きを確かめ、軌道修正、宇宙船のドッキングのように、ゆっくりと彼女の薬指にはめた。
「ぴったりですね」
にっこりと乙姫が微笑む。
「おかげさまでね」
いつかのファミレスでの一幕を思い出してそう答える。
「気づかなくてもいい気遣いもあるんですよ」
「気遣いに気づかない、鈍いやつだと思われたくないんだよ」
「見栄っ張りですね」
「お互い様だよ」
そう返すと、乙姫はこれも珍しく、ふふっと声を出して笑った。メガネの奥の目尻をそっと、指先で拭っている。
こういうことを言ったらきっと怒られるのだろうけど。
先月のアレは例外中の例外として――僕はふだん、乙姫に対してあまり性欲むき出しのがっつくような感情を覚えることはほとんどなかった。
乙姫があまりに隙を見せないから、もともと積極的ではない僕は踏み込むことができなかった、というのが理由のひとつ。
乙姫自身がその手の行為を毛嫌いしていたこともある。彼女の家庭の事情が絡んだその理由は僕もよく知っていたから、彼女の気持ちを大事にする、なんて言い訳で尻込みしていた。
それともうひとつ、ある意味ではこれがいちばん根深いと思う。一年と数か月の付き合いのうちに刷り込まれていった、月夜を見上げるような憧れだ。
繭墨乙姫を綺麗だと常に思っていても、その感情は自然や美術品に向けるような、いわゆるお上品なものになっていた。凛然とした彼女を、手を触れずに鑑賞するように、一歩引いて見てしまっていた。
「……鏡一朗さん?」
乙姫が小さく首をかしげる。
長い黒髪が細い肩をするりと滑って、つやめきながら揺れる。
その問いかけは、指輪をはめてからも一向に手を離そうとしない、僕へと向けられたものだ。
返事の代わりに、2人の間で空気を読まずに居座っていたテーブルを横にずらす。足先で強引に。敷物が乱れるのもお構いなしだった。
邪魔物がなくなったぶんだけ距離を詰める。手はもちろん握ったままだ。
「嫌だったら、ぶん殴って止めて」
こちらから止める気はないと言外に告げて、さらに踏み込む。お互いが密着するほどの距離で、目を合わせて、唇を合わせようとする、その直前。乙姫がわずかにかがんだせいで、定めていた狙いが外れてしまう。
拒絶のサインかと一瞬の動揺。
乙姫は無言で右腕を伸ばして、テーブルの端のリモコンを手に取った。ピッ、という電子音とともに室内が薄暗くなる。そして、僕の胸元には、派手な色遣いでシンプルなデザインの小箱が押し付けられる。
「やっぱり、誤解してる」
薄闇の中で艶然と、だけど決して余裕のない笑顔で乙姫は言う。
「嫌だったら、こんなもの、律儀に返したりしません」
◆◇◆◇◆◇◆◇
目が覚めたのはこちらが先だった。
隣で眠る乙姫の、メガネを外した寝顔をしばらく眺めていた。自分でも驚くくらい穏やかな気持ちで――いられたのは最初だけ。だんだん寝顔以外のところに目が行ってしまい、これはいけないとベッドから転がり出た。狭いシングルなのに二人並んで器用に寝られたものだ、と妙なところに感心してしまう。
外はまだ暗く、時間経過の感覚がわからない。服を着替えながら時計を確認すると、時刻は早朝、夜明け前の暗さだった。
いつもだったら二度寝しているが、乙姫の方はそうはいかない。一度家へ帰らないといけないだろう。それに、こういう朝だ、少しくらい良いところを見せてやろうと僕は朝食の準備に取り掛かった。
トーストとベーコンエッグと、レタスとトマトを飾っただけの簡単なサラダ。飲み物は粉末のコーンポタージュ。お湯が沸いたところで、乙姫がベッドの上で身体を起こすのが見えた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
布団を胸元まで引っ張り上げて身体を隠しながら、乙姫はじっとこちらを見ていた。すでにメガネは装着済み。観察するような視線だった。
「もうすぐできるから、ちょっと待ってて」
「情事のあとに手作りの朝食を振る舞うなんて……、すごく手慣れた感じがします。まさか、また、初めてじゃないと――」
「ちょ、そんなことないって、誤解だよ誤解!」
カップに注いでいたお湯が危うくこぼれるところだった。
慌てて言葉をかぶせると、乙姫は疑わしげな視線を数秒ほどこちらに照射したあと、ふいっとそっぽを向いた。
「ま、まあ、わかってましたけどね。色々なことに、ずいぶんと手間取っていましたし……」
「やめて、あまり思い出させないで」
こちらの懇願などお構いなしに追撃を浴びせてくるのが、いつもの乙姫のスタイルだったが、今回はなぜか続きの言葉がない。どうしたのかと様子をうかがうと、布団にくるまって体育すわりをして、膝に顔をうずめていた。表情は見えないが、耳は真っ赤に染まっている。
「思い出してる?」
返事はなかった。一度寝ただけで調子に乗らないでください、くらい言われるんじゃないかと思っていたが、予想外の大人しさだった。
その後、僕が浴室に閉じこもっている間に乙姫も着替えを済ませると、テーブルをはさんで朝食をとった。大した量ではない上に、おたがい黙々と手と口を動かしていたせいで、あっという間に食べ終わってしまう。
口元をティッシュで拭うと、乙姫はすぐに立ち上がった。手にはカバンを持っている。
「一度、家へ戻らないといけないので。後片付けを任せてもかまいませんか」
「そりゃもちろんだけど」
応じつつ僕も立ち上がる。玄関へ向かう乙姫はいつもより明らかに足早だった。
「今日は、あと昨日も、ありがとうございました。では学校で」
「ちょっと待った」
靴を履いてドアノブに右手をかけた乙姫の肩に触れると、びくりと大げさなくらいに身体をふるわせた。
乙姫はあまりにも急いでいた。一刻も早くこの場から離れたい、そういう気持ちがはっきりと見て取れるほどに、焦りを隠そうともしない。
「何か気に障ることがあった? それとも……」
何か僕は失敗をしてしまったのか、と女の子に問いかけるのはとても勇気のいることで、口に出すのを迷っているうちに、乙姫が大きく首を左右に振った。
「違います。ただ、わたしの方が、いろいろと……、恥ずかしいというか、照れくさいというか……、とにかく、冷静でいられないだけなので」
乙姫は小さく身をよじって僕の手を肩から外すと、ドアを押し開けて、そそくさと共用通路を歩いていく。外気がとても冷たかったが、部屋着のままサンダルを履いて外へ出る。
足早どころかほとんど走るような速さで、乙姫はもう十数メートル先の階段を降りようとしていた。
「乙姫!」
自分でも驚くくらい大きな声だった。ご近所迷惑かなと一瞬思うが、乙姫が立ち止まって振り返ってくれたのだから、それ以外のことはどうでもよくなる。
「誤解しないでください! 後悔とか、そういう気持ちはありませんから! 本当に、一切、ないですから!」
乙姫の返事もまた、こちらが驚くくらい大きな声だった。
掲げた左手の薬指に、光を反射してきらめくものが見える。
「あと、プレゼント! ありがとうございました。本当にうれしいです。一生、大切にします!」
きびすを返して階段を下りていく乙姫を、僕はもう追いかけなかった。
いつもはたくさんの単語を駆使してこちらを責め立てる彼女の、いつもとは違うシンプルでまっすぐな言葉。それだけで胸がいっぱいだった。部屋に戻るとベッドに倒れ込んで意味のない叫びを上げたりして、どうしようもないくらいに浮かれていた。有頂天というやつだった。




