純心と悪意の対峙
「百代さんだっけ。これってさあ、会長に言われてやってるんでしょ」
その声は決して大きくなく、落ち着いたトーンだが、騒々しい教室の中にあって不思議とよく通った。
声の主から受ける印象は、良くも悪くも普通だった。ひと目見て遊んでいると思うほど派手ではなく、かといって優等生と感じるような硬さもない。
そんな女子が率先して声を上げている状況は、だからこそ奇妙に思える。
僕は彼女が橘だろうと当たりをつけた。
「ううん、ヒメ――生徒会長は何も言ってないよ」
百代は首をかしげる。どうしてここでヒメの名前が出てくるの? とでも言いたげな態度だった。
「でもさ、百代さんって繭墨さんと仲いいんでしょ」
お友達付き合いを強調するためか、橘は役職ではなく名前を用いる。
「うん、仲がいい友達のために、あたしが勝手にやってるの。なんか大変そうだから、ちょっとでも助けになればいいなぁって思って」
と、橘の揺さぶりにも、百代はあまり動じていない。もっと慌ててワタワタすると思っていたので、その落ち着きは意外だった。
おそらく橘は繭墨と百代のつながりを暴いて、贔屓だなんだと揚げ足を取るつもりだったのだろう。しかし、百代の方からそれをあっさり認めてしまい、計算が狂ったのだろう、追及の言葉が弱まり、思い通りに話が流れていかない苛立ちからか顔をしかめている。
が、その口元が歪に吊り上がる。
「ふーん、優しいんだね、百代さん。会長の彼氏のことが好きだったんじゃないの」
その言葉にはさすがに百代も表情を硬くする。
教室内がかすかにざわついた。
よそのクラスの事情なのに、よく調べている。あるいは以前から察していたのか。まあそれはどちらでもいい。
踏み込むべきか迷った。
ここで僕が乱入すれば、百代への攻撃はすぐに取り止められるだろう。そして橘は僕への追及を始め、さらには繭墨の責任を問いただすに違いない。
自分が矢面に立つことへの恐れ、百代の署名活動を台無しにすることへの恐れ、繭墨を糾弾する口実を与えてしまうことへの恐れ。
いくつものリスクを考えて、とっさに身動きが取れない。
いつだったか、百代をかばってクラス委員長に立候補したことがあったが、あれとはまるで重みが違っていた。
失敗して傷つくのは僕だけではない、そんな定型文めいた事実をこんなに重く感じるなんて。
百代の沈黙を好機と見たのか、橘は口元を歪めたまま言葉を連ねる。
「あ、そっか。会長じゃなくて、その彼氏の方を助けようと思ってた? それで恩を売っておけば、もしかしてまだチャンスがあるかもなんて」
「ないよ、そんなの」
絡みつく悪意を断ち切る刃のようなそれは本当に百代の言葉だったのだろうか。
「あの写真、見たでしょ。着物姿のヒメと、その隣でだらしない顔をしてるキョウ君のツーショットのやつ」
百代の声は、呆れたような、面白がっているような、いつもの明るいトーンに戻っている。
「あれに割り込もうとするほど身の程知らずじゃないし……って、あたしのことはどうでもよくて」
さらにおどけた調子であははと笑う。
「二人のことは置いといて、あたしたちの修学旅行は終わったけど、次に行く1年生たちのためにはなると思うし」
「次の連中のことなんてどうでもいいじゃない」
口ぶりだけは穏やかだった先ほどまでとは違い、橘の物言いには苛立ちが混じっている。しかし、対する百代は相変わらずで、
「え、そう? 自分がルールを破っておいて、そのうえ、次の人たちのことがどうでもいいなんて、あたしはそんな風には思えないし……」
という露骨な当てつけも、天然っぽい口ぶりのせいであまり厭らしさはない。
「ヒメのためとか、後輩のためとか、あと、自分の罪悪感のためとか、理由はいろいろあるから、もし一つだけ潰れても、あたしはそれで署名をやめたりしないし……」
指折り数えるようにゆっくりとしゃべり、そこでふと、橘をじっと見つめる。
「……ねえ、そっちは、ヒメが嫌いなの? だから反対してるの? そんな風にあたしには聞こえるんだけど」
「はぁ? そんなこと」
「それとも、不正は許せないっていう……、正義感? で動いてるの? でもそれだったら、後輩のことはどうでもいいなんて言わないよね……」
今度は橘が黙り込む番だった。
彼女は百代にやり込められ、明らかに自らの言葉のせいで逃げ場を失っていた。クラスの雰囲気は橘を嘲笑するようなものに変化していた。
勝負はすでに決していて、百代はそれ以上、敵を辱めるつもりはないらしい。
「――ま、いっか。そういうわけで、明日の朝も昇降口のところで署名集めてるから、もしよかったらそのときにでも、清き一筆お願いしまーす」
そう言いながら笑顔で手を振って、百代は2-5の教室を出ていった。
赤木もバタバタとそれに続いた。
純心と悪意の対峙。
これはそんな、わかりやすい構図だったのだろうか?
にわかにざわつき始める教室の中で、橘は口元を結んで、百代が去っていった前方の出入り口をにらんでいた。が、その瞳が大きく見開かれる。
「――失礼します」
凛然とした声の響きによって、室内は再び沈黙する。
「生徒会長の繭墨乙姫です。少しだけお時間を戴いてもよろしいでしょうか」
3秒待って返事がないことを肯定と受け取って、繭墨はしゃべり始める。
「私事でおさわがせしてしまい申し訳ありませんが、生徒会に現会長への辞任要求めいた投書が届いています。ただしこれは無記名のため、このままでは正式な辞任要求として受け取ることができません。
心当たりのある方は後日で構いませんので、生徒会室にお越しください。そこで正式な書式をお渡ししますので、それに記入の上、手続きを踏んで、おそらく次の生徒総会にて議題として取り上げることになると思います」
さらに言葉を切って数秒。
意見が出てこないことを確認すると、教壇から一歩横にずれて、
「では、失礼いたしました」
流麗な所作で深いお辞儀を残して教室を退出する。
繭墨はそのまま隣の教室へ入り、同じ話を繰り返していた。
すべてのクラスへ均等に声をかけることで、橘実華を狙い撃ちしたわけではないとアピールしているのだろう。
立て続けの展開に頭が痺れていても、そういう分析は勝手にしてしまう。




