せっかくの休日なのに 下
「個人がその場で思いついた不満なんて、時間が経てば消えるような軽いものばかりだと思うけど」
書類の束を整理しながら僕は繭墨に問いかける。
手伝うのが嫌なわけじゃない。作業をする意図を知りたいだけだ。
「そう馬鹿にしたものではありませんよ」繭墨は落ち着いた口調で説明を始める。「ひとつの意見の後ろには、同様の意見を抱えた多数の顧客が隠れている、というのはマーケティングの定説です」
「不満を1つ解決すれば、たくさんの潜在的な不満を持つ人へ先手を打てると」
「はい。それに、軽い不満も重なれば、大きな不満へと化けるものですから」
繭墨の心配は理解できる。イラつきが落ち着く前に、さらにストレスが加われば、感情の揺れは大きくなる。
「屋台で待たされたり、長い時間トイレを探し歩いたり、メイド喫茶のメイドが不愛想だったり――それが別々のことだったら我慢できたとしても、立て続けに降りかかってきたとしたら、どこかで不満が爆発しかねないと、そういうことだね」
「はい」繭墨は満足そうにうなずいた。「目に見える不満や、上がってきた明確な不満を解消するのは上策とは言えません。まず不満を出させないことを目標にするべきです」
「クレームが無くなることはありえない、ってバイト先の上司は言ってたけど」
「確かに、ゼロにはできないと思います。人的ミスはいつでも起こり得ますし、言いがかりめいた要求を突きつける、いわゆるモンスターカスタマーも存在しますから。ですが、常識の範囲内での不満ならば、こちらの努力しだいで減らすことはできるはずです」
「努力」と僕は繰り返す。
「お嫌いですか?」
「苦手に思う人の方が多いんじゃないかな」
「それは努力が実を結んだという成功体験が足りないからでしょう」
「繭墨は足りてるの? 成功体験」
「勉学に関しては、間違いなく」
成績最優秀生徒は、何のためらいもなく言い切った。
「学校の勉強が将来なんの役にたつというのか」
僕は勉強嫌いのお決まりの反論を投げてみる。
「それはあまり考えてません。新しいことを知るのって純粋に面白いじゃないですか」
「まあ、それは認めるよ」
「それに、おおぜいの人を動かして、自分の思い描く絵を形にしていくことが、最近、少し、楽しいと感じるようになりました」
「秘密結社のボスみたいなことを言うね。政治家でも目指す? 繭墨ファーストの会とか」
「政党名に個人名をつけるなんて恥ずかしいことはしません。そういう阿山君は、何か誇れるような努力をしたことがあるんですか?」
針のひと刺しのような繭墨の問いかけに、僕は待ってましたとばかりに応じる。
「そりゃもちろん、繭墨に告白したことだよ」
「ありがとうございます」
繭墨の返事は平坦なものだった。
僕は失敗を悟った。
不意打ちで歯の浮くようなセリフをぶつけて、照れさせてやろうと思っていたのだが、反応の薄さに逆にこちらが恥ずかしくなる。しかも目が合うとニヤリと口元を上げてみせるのだ。こちらの狙いはバレバレだったらしい。
「阿山君が気取ったセリフを用意しているときは、表情がわかりやすいですから」
「わかりやすい……?」
「はい。急に顔つきが引き締まって、声のトーンが上がります」
「え、僕そんなイタいキメ顔とキメ声になってたの」
「それから、意図的なのか照れ隠しなのか、相手から少しだけ目を逸らしますね」
「うわぁ……」
「そして言い終わると、相手の反応が気になるのか、チラチラと様子をうかがう」
「会話というのは相手あってのものだから……」
「相手の反応が薄かったら、真顔になってあからさまに落ち込みますよね」
「あの、もうそのくらいで……」
僕は机に突っ伏して泣きを入れた。
「では気分転換も済んだことですし、作業を再開しましょうか」
繭墨は晴れやかな声で言い、キーボードを叩くリズミカルな音が再開される。まあいいさ。恋人の気分転換に一役買えたのなら、僕の羞恥心なんて安いものだ。
なんだかんだで、繭墨は僕のことをよく見ている。慣れ親しんだアクションゲームのボスの行動パターンを完全に把握しているかのように、僕の恥ずかしい言動のすべてを言葉にしてみせたのだから。
なので実は、コテンパンに辱められた今こそが「繭墨は僕のことに詳しいね」と反撃できる最大のチャンスだったのだが……、その場でそれに気づけるほど、僕の精神には余裕がなかった。
ダウンを喫したボクサーが、ロープにしがみついて必死で立ち上がろうとするときに、さっきのパンチはこう避けたらよかった――などと振り返る余裕がないのと同じだ。
僕はどうにか精神を立て直すと、受け取った書類の内容を整理し始める。
◆◇◆◇◆◇◆◇
生徒会室を訪れてから2時間ほどが過ぎた、午後の1時を少し回ったころ。
繭墨が口を開いた。
「そろそろお昼ご飯にしましょうか」
「ここで休憩をはさむってことは、一日仕事のつもりだったの?」社畜めいた熱心さに呆れつつ、僕は行き先について提案をする。「坂の下のコンビニ? それともちょっと歩いて外食する?」
「いいえ、ここで食べましょう」
「ここ? 生徒会室で?」
「はい。お弁当を作ってきました」
「へえ」
繭墨はカバンの中から巾着袋を出して机のうえに並べた。
そう、並べたのだ。
巾着袋は二つあった。
赤いチェックの柄と、青いチェックの柄。ペアルックである。
「それ、もしかして僕のぶん?」
「作りすぎただけです。阿山君がここへ来るなんて想定していませんでしたから」
白々しいことを言いながらも、繭墨は平然としている。間違っているのはこちらではないかと勘違いしそうになるくらいの涼しい顔だ。上乗せされたら即降り必死の、完璧なポーカーフェイス。
「作りすぎたって……、別々に作っといてさすがにそれは」
「父に持たせるつもりだったのですが、間違って自分のかばんに二つとも入れてしまいました」
苦しい言い訳を述べる繭墨。それから、少しだけ考え込むような間があった。
繭墨はこぶしを軽くにぎると、のんびりした動きでそれを頭の上に持ってくる。
「てへ、ぺろ……?」と自信なさげにつぶやく。
「無理しないで」僕は左右に首を振った。「性に合わないことをしなくてもいいんだよ。サイズの合わない靴をはいたって足が痛いだけじゃないか」
「それはわたしの言動がイタいという遠回しな批判ですか」
「いや、すごくかわいいんだけど」
「ありがとうございます」
かわいいけれど、しかし、これは隙だ。
僕は繭墨をつねに警戒している。
彼女の隙を見つけたら、罠に誘っているのではないかと身構えてしまうし、彼女のミスを見つけたら、こちらを試しているのではないかと深読みしてしまう。
だから、彼女の言動に対して、僕はいつも疑いから入ってしまう。
僕は繭墨を畏れているのだ。
「そういうキャラ付けをするなら、普段から努力が必要だと思うよ」
「努力」と繭墨が繰り返す。
「例えば、料理がド下手だとか」
「メシマズキャラですか。安直であざといですね。実害があるようなキャラづくりは、さすがにためらってしまいます」
深刻そうに下を向く繭墨は、実際のところかなり料理が上手だ。
イタリアンなどの小洒落たメニューではなく、一般家庭で日常的に出されるような料理が得意である。味がいいだけではなく、手際もやたらといい。お嬢様然とした外見を裏切るあたりは、ギャップと言えばギャップであろう。
しかし、と僕は思う。
キャラ付けなんて、しょせんは外向きのアピールである。本来、近しい人間に対しては必要ないはずだ。僕はそんなもの、望んじゃいない。
立ち上がって繭墨に近寄ると、青色の巾着袋を手に取った。
「食べ切れないなら、もらっていい?」
「はい、お願いします……あ、待ってください」
と、席に戻ろうとする僕を引き止める。
「あまり遠いと料理への反応がわかりづらいので、こちらに座ってください」
そう言って椅子を引く繭墨。
隣へ座れと促されてしまった。
「……あ、うん……、……そうだね。……そうしようか」
思いもよらぬ率直なお願いに、返事が遅れてしまう。
何これ、恋人っぽい……。
困惑はするが、断る理由はない。
僕らは並んで座って、同じ中身の弁当を、それぞれのペースで食べ始める。
ミニハンバーグ、紅ジャケ、卵焼きに野菜の酢和え。アクセントにミニトマトが添えられており、シンプルながら彩り鮮やかな弁当だった。味も見事。それぞれの料理からイメージできる味を裏切らない、期待どおりのおいしさだった。
食に奇抜さなんていらない。安心して食べられることの素晴らしさをかみしめていると、繭墨がかすかに笑顔を浮かべながら尋ねてくる。
「繭墨は三角食べなんだね」
「はい、味に飽きることなく食べられますから」繭墨らしい合理的な理由を口にして、「阿山君は、好きなものを後回しにするタイプなんですね」
「ご褒美は最後に、っていう考え方の延長だと思う」
「でも、それがすべてのシーンで適用されるわけではない――ですよね」
「どういう意味」
「今日は文化祭の振り替え休日。付き合い始めのカップルの皆さんが、こぞって街へ繰り出しているのでしょう。そして乳繰り合っているのでしょう」
「今なんて?」
「ですが、わたしたちは交際を秘密にしています」
繭墨が静かに語ったとおり、僕たちが付き合っていることは公にしていない。
今日の外出が拒否されたのは、その辺りの理由もある。はずだ。2割くらいは。
「気にしてないよ。とても合理的な判断だと思う。それに……、秘密の関係っていう響きが、純粋に楽しいというか」
「子供っぽいことを言いますね」
そういう繭墨だって、目元がいたずらっぽく笑っている。
大人びた印象の強い彼女だからこそ、ふとした拍子に垣間見せる幼さには、目を瞠ってしまうインパクトがある。
――というか、そもそも。
〝大人びた〟なんてのは結局、子供に対して使う言葉だ。
だから、相手との釣り合いなんて考えなくてもいいのだ。
そんな詭弁を支えにしながら、僕は繭墨乙姫の隣に立っている。




