宿題を終わらせないと、身動きが取れない
――繭墨乙姫視点――
阿山君の言うとおりでした。
その日の放課後、わたしは生徒会室に近森さんと遠藤さんを呼び出しました。
修学旅行での班行動を破る生徒が出ないよう、生徒会として対策を考えたい。
この提案に対して、近森さんと遠藤さんは目を丸くすること数秒、そして顔を見合わせるとニヤニヤと不気味な笑顔を浮かべます。
「どうした会長、いきなりそんなしおらしい提案をするなんて」
「やっぱり阿山君? 阿山君に何か言われたんでしょ?」
二人の茶々入れによって脱線した話を元に戻すのには苦労しましたが、なんとかその日のうちに対策をまとめることができました。
◆◇◆◇◆◇◆◇
六時になっても職員室の席はほとんどが埋まっていました。空席はほぼ部活の顧問をされている先生の席なので、実質、定時で帰宅できている先生はいらっしゃらないのではないでしょうか。昨今の人手不足や、学校への過剰な要求などのあおりを受けて、残業が増えているというのは事実のようです。
成人年齢が下がることですし、ここは思い切って授業数も減らしてみてはどうでしょうか。特に美術。素人の描く絵に優劣をつけることが、正しい教育だとはわたしには思えません。未熟な絵を人前に晒されることによって心に傷を負う生徒がいる可能性を、文科省は考えたことがあるのでしょうか。
教育事情に思いを巡らしているうちに、生徒会の顧問である国沢先生のデスクにたどり着きました。
わたしは話し合いで決まった内容をA4用紙にプリントして持参しています。それを先生に提出しました。まあ座れ、と促されて、空いている隣の椅子に腰をおろします。
「――修学旅行中の自由行動に関する取り決めについての提案、か」
書面を一読して、国沢先生はこちらを見据えてきます。
「内容に関しちゃ特に文句を言うことはない。生徒側の自由度が上がるぶん、行動日数を減らしたりして、監督をする教師側の負担についても考慮されているしな」
「では」
「学校側としても一考の価値はまあ、あるだろう」
こちらの提案を肯定しつつも、国沢先生の表情は冴えません。乗り気でない、という雰囲気です。
「ちなみに、これは繭墨が考えたのか?」
「呼びかけと、書面にまとめたのはわたしです。内容については生徒会で意見を出し合いました」
ほう、と国沢先生が嘆息します。なぜか嬉しそうに口元が緩んでいます。
「それはよかった。繭墨は視野が広いし、人を見る目も確かだ」
「ありがとうございます」
「ただし、見切りが早いのは悪い癖だ」
「見切りが早い……、ですか?」
「ああ、メンバーの能力を熟知しているから、誰かに任せるよりも自分でやった方が早い、という判断が正確にできてしまう。その上、お前は〝自分でやった方が早い〟範囲が広すぎる。だから大方の案件を自分でやってしまう。やれてしまう」
国沢先生のご指摘と同種のものを、阿山君からも言われることがあります。しかし、そこはやはり年季の違いでしょうか、言葉の精度が格段に高いと感じました。
国沢先生は言葉を切って、提出した書面をひらひらと振ります。
「この提案書もそうだろ?」
「……はい」
「だが、そうしなかった。みんなの力を借りた。生徒会長という立場を、その役割を、ちゃんと学習しているなと感心したんだ」
「阿山君に言われました。一人でやるなと」
これを言ってしまうのは自分の未熟さを認めてしまうようで――また、ノロケをひけらかすようで――少し気が引けました。
ほう、と国沢先生が再び嘆息しました。今度は嬉しそうにというよりもおかしそうに口元をニヤニヤと歪めています。客観的に見て、女子高生に向けていい表情ではありません。
「あいつがそんなことをなぁ……、教育の甲斐があったというものだ」
「何か入れ知恵を?」
「繭墨、もう少し耳障りのいい言葉を使いなさい。大人は見栄っ張りなんだ。持ち上げて気分を良くさせておいた方が得だぞ」
「阿山君の目覚ましい成長は国沢先生のご指導ご鞭撻の賜物だったのですね」
「虚飾が過ぎる。……まあ、半年以上も前の話だ、阿山が覚えているかどうかはわからんが、多少なりとも血肉になっているのなら、教師としてうれしいことだ」
国沢先生はそう言って窓の外に目を向けました。西の空の残照も残りわずか。運動部もほぼ撤収したグラウンドは物寂しく、〝教師としてのうれしさ〟の対極にある世界のように、わたしには思えます。
「あの、先生。学習と教育の違いは何でしょうか」
「学習は自発的なもの、教育は与えるものだ」
即答でした。日常的に自問しているのかもしれません。答えが淡泊に過ぎると感じたのか、先生は少し間をおいて、
「つまり……、学習は恋で、教育は愛だな」
などと宣いました。
これは……、まさか……、女子生徒ウケを狙ったのでしょうか。軽くショックを受けていると、国沢先生は痛みをこらえるように眉をハの字にして、
「繭墨、もう少し表情を取り繕いなさい。そんな視線を向けられるのは家の中だけでたくさんだという男性教師がどれだけいると思っている」
わたしは意識的に笑顔を作ります。
「たいへん含蓄に富んだ比喩に感嘆しました。詩心が刺激されてわたしも一歌詠みたくなります」
「繭墨。慇懃無礼という言葉を知っているか」
「すいません……、未熟者なので適切な言葉を選ぶセンスが不足しているのだと思います」
「そうか」
その〝そうか〟には〝そうことにしておこうか〟という諦めのニュアンスが感じられました。
「あ、でも、教育無償化の流れを鑑みれば、教育は愛という喩えもあながち的外れではないかと」
「無償の愛か」
「キリスト教におけるアガペーというものですね」
「その反面、学習はそうはいかない。子供は塾通いに習い事、大人だってスキルアップのための勉強に投資している」
「恋にはお金がかかるんですね」
「止めなさい、そういう意味で言ったんじゃない」
先生は悲しそうに目を伏せます。そういうつもりではなかったのに、思いがけず事実を突いてしまったことを悔いる顔をしていました。
「どうも調子が狂うな。阿山とはいつもこんな益体のない話をしているのか?」
「はい、概ねこのようなノリです」
「そうか。よかったな」
国沢先生はどこか疲れたような、しかし労るような苦笑いを浮かべます。
「……? はい、ありがとうございます……?」
「で、話を戻すが」
その一言でくたびれた表情を即座に引き締める先生。スイッチのオンオフのような切り替えの鋭さに、こちらも居住まいを正します。
「提案書についての話ですか」
「提案じたいには問題ないが、その中身について意見を交わすのは難しい」
「どうしてですか」
「時期的な問題だ」
国沢先生は疲れ目なのか親指と人差し指で目尻を押さえて、
「期末テストに終業式、受験生のケアもある。年の瀬というだけで各方面の仕事は勝手に増えていくしな……。それに、年が明けたら入試の準備も本格的になる。だから、そうだな……、2月下旬の生徒総会。そこで意見を出すのが妥当だろう。生徒の信任を得てから、正式に学校側へ提出する。前もって学校側も提案書を見ておけば、お互い意見をすり合わせて、提出後はすぐに採用されるように地ならしもできるからな」
事実上の採用通知にも等しい話でしたが、わたしの心は晴れません。
「年内は難しいですか」
「さすがに、厳しいな。無理強いすれば、教師側にも悪感情が生まれるだろう」
――教師側にも悪感情が生まれる。
それは、教師も人間である以上、すべての生徒に平等ではありえないということ。本来なら教師が生徒に対して口にしてはいけない事実です。それを言ってはおしまいという類の現実です。幾重もの建前で徹底的に守らねばならない本音です。
それを包み隠さずに明かして諭してくれることが、国沢先生からの最大限の温情であるというのは理解しています。
それでも、2月下旬というのは遠すぎます。3か月というのは長すぎます。わたしは宿題は早めに片づけたい性質なのです。
それに――
この宿題を終わらせないと、身動きが取れないじゃないですか!
とはいえ、この場でこれ以上言い募ったところで心証が悪くなるだけ。わたしたちのやり取りは周囲の先生方にも聞こえているはずですから。
わたしは立ち上がって一礼し、可能な限り穏やかに職員室から退出します。最後の戸締りまでぬかりなく。音を立てずに締め切ると、歩く速さと思考の速度を上げていきます。




