4月―ハッピーエンドはここじゃない
あれから8年の年月が流れた。
四月初旬。
僕たちは、満開の桜並木の下を歩いていた。周りにもスーツ姿の人たちがちらほらと見受けられる。時間を気にしながら足早に歩く男性や、スマートフォンを構えて写真を撮る女性など、それぞれだ。しかし、僕たちほど若い子供連れはさすがにいない。
僕と乙姫をつなぐように、親子三人の真ん中には娘の乙夏がいる。子供用のフォーマルワンピースをまとった、母親似で凛とした女の子。しかし、舞い散る桜の前では澄ました態度も続かない。きょろきょろと周りを見回していたが、やがて我慢できなくなったのか、僕たちの手を離して桜の木の方へ駆けていった。
「こら、乙夏、走ったらダメって言ってるでしょ!」
「気にしすぎだよ、子供ってそういうものだろ」
「あなたは本当に甘いんだから」
白地のワンピースに黒の上着を羽織った、レディススーツ姿の乙姫は、ここにいるどの女性よりもきれいだし、若々しさだって負けていないと思う。
知らない人に一児の母だと明かすと、未だに驚かれる彼女だが、子を叱り夫をにらみつける姿には、間違いなく母親の貫禄がある。
乙姫は「まったく……」とため息をつきつつ、指先でメガネの位置を整える。
その横顔を眺めながら、これまでの時間を想う。
高校を卒業してからの、慌ただしくも充実した日々のことを想った。出産直前の自分のうろたえっぷりを思い返すと、いまだに恥ずかしさがこみあげてくる。産まれたばかりの乙夏を見たときに流れた涙の理由は、永遠に言葉にできないだろう。乙姫は全力を出し切って役目を果たした。その彼女に抱いた感謝の念を、一生かけて伝えていこうと改めて心に決めた。
子育てに右往左往して、ときに意見をぶつけ合った日々のことを想った。学生時代みたいに睨み合って文句を言って、だけど乙夏の姿を見ると、お互い冷静になれた。その乙夏の具合が悪くなると、またそろって慌ててしまうのだけれど。
乙夏がまだ産まれる前の、高校生活の日々を想った。あの当時の僕たちは、未完成で不安定で、だからこそ、いろんな可能性に満ちあふれていた。ちょっとしたすれ違いや、異なる選択、それこそ列車をひとつ乗り過ごしただけで、まったく別の関係性になってしまうくらいに、揺らいでいた毎日だった。
そんな中で、僕たちは選んだ。
いがみ合って恋をして、愛し合って命を宿した。
想定外だけど、後悔はない。
言葉に出して確かめ合う必要なんてないくらいに。
だけど、ひとつだけ、聞きたいことがあった。
「……どうしたんですか?」
こちらの視線に気づいたのか、乙姫が顔をかたむける。
「最初に会ったときのこと、覚えてる? ハッピーエンドなんて物語の中だけだ、って言ってたよね」
「正確には、交際しただけではそうはならない、という意味合いでしたが」
「……僕たちは、ハッピーエンドに、たどり着けたかな」
二人の間を桜の花びらが舞い落ちる。
はらり、はらりと、時間が止まっていないことを証明するように。
「いい歳をして、急にキザなことを言い出さないでください。まだ何も終わってませんよ」
乙姫は突き放すような口調で言うと、朱く染まったほほを隠すように、振り向いて足早に歩きだす。「乙夏、こっちよ」なんて娘を呼びながら。
桜並木の端まで来ると、大学の講堂が見える。
今日は大学の入学式だ。
阿山乙姫は見事、新入生代表の座を射止めていた。
「ママ、がんばってね!」
乙夏が一輪の花を差し出す。濃い紫色の小さな花。スミレだろうか。桜の木の下で摘んできたらしい。
「ありがとう乙夏」
乙姫は娘の頭をなでながら花を受け取り、胸元のポケットに飾った。
「そうだ、2人ともそこに並んで」
スマートフォンを取り出してカメラを向けると、乙姫は居住まいを正しつつ、長い黒髪を手櫛で整える。乙夏はぴしりと気をつけの姿勢。娘の肩についた花弁を、母親がそっと払いのける。
ハッピーエンドはここじゃない。
だけど、ひとつの区切りとして――
このしあわせな瞬間を焼き付けるように、僕はシャッターを切った。
というわけでこれにて完結です(1年2か月ぶり2回目)。
いくつかお詫びを。
まずは一度完結したお話をまたずいぶん長く続けてしまったこと。
続編ですが前作を知らなくても大丈夫、みたいなことをあらすじに書いたくせに、明らかに前作を読んでないとわからないお話にしてしまったこと。
2人がいちゃつくお話です、みたいなことをあらすじに書いたくせに、ストレスフルな展開があちこちにあったこと。
特に終章は学園ラブコメというジャンルからかなり逸脱した内容だったと思います。正直、ブクマが半減するくらいは覚悟して書き始めたので、そうならずに済んでほっとしております。
ずいぶん長くなってしまいましたが、これにて二人の物語は完結です。ここまでお付き合いくださった読者の皆様、ありがとうございました。皆様が費やした時間のぶん、お楽しみいただけたなら幸いです。




