人間動物園
短い短い物語です。
ただ生きていくのも時に少し難しい。なんだか僕はもう、自分のことがよくわからない。なにをしたいのか。なにが欲しいのか。更にはなぜ僕は僕としてここに存在するのか。人間としてここに生まれなければ、この、ずっと持っているには少し重たい感情も、手放せていたのかもしれない。例えば猿に生まれていれば、あの鳥に生まれていれば、なにが違う動物に生まれてさえいれば。その僕の妄想に果てはない。
ある日僕の元に、滅多にはこないような封筒が届いた。他のダイレクトメールや明細に紛れて埋もれかけていた白い封筒。真っ黒な文字、僕の名前。裏返してみても、送り主の名前に見覚えはない。
家に入り、はさみをいれる。取り出した中身はハガキが一枚。記された言葉。
「招待状」
僕が招待されるようななにかがあるとは思えなかった。
「人間動物園」
その変な名前にも覚えはない。説明は少ない。場所を示す簡単な地図。そして、心よりお待ちしております、という言葉。誰かに待たれるということをしばらく忘れていた僕には、とても気持ちのいい一言だった。
久しぶりに雨の上がったその日、僕はそこを訪れた。檻に入れられた人間たち、そして僕。僕はゆっくりと園内を見てまわった。
「女」
僕の想像する女とは違う女がいた。特徴のない、女。もっと性を強調するような、主張するようななにかが足りない気がした。女は僕ではないどこかを見ていた。
「男」
僕とは違う男がいた。普通の男。スーツを着て革靴を履いていた。疲れた顔をして、ベンチに座っていた。
「不良」
僕の思った通りの男がいた。煙草をくわえてこっちを睨みつけ「見てんじゃねえよ」と言った。「ここは見る場所なんだ」と心の中で僕は言った。
「子供」
僕がよく見る子供がいた。赤いランドセルを背負って、木の枝で地面になにかを書きつけている。僕になんて気づきもしなかった。
「母」
僕は家での母をもうよく覚えていない。焦るように生きている人だった。でも、優しい人だった。
「父」
僕の父は厳格だった。何度叱られたかわからない。仕事ばかりしていた。
祖父、祖母、少年、青年、少女。いろいろな人間がそこにはいた。
たくさんの檻の中で彼、彼女らは息をしていた。
僕みたいなのは、どこにもいなかった。自分は普通の普通の、更に普通の中にいると思っていたのに、僕はいなかった。最後の檻は、
「あなた」
そこには誰もいなかった。僕はドアをそっと押し開けた。キイと耳障りな音には似合わず、それはスーと開いた。僕はその檻の中に入って、土の上に座った。ただ、座って、前を見ていた。時折誰かが僕を眺めた。ちらっと、じっと、睨むように。僕はそれでも動かず僕を眺めるあなたを見た。
「あなたは、僕だよ」
声も出さずに座っていた。朝と、昼と夜と何回か繰り返した。景色の変わらないそれが、何度すぎたのかは忘れた。
僕は檻の中を歩きまわってみた。なにかが僕の中でむくむくと大きくなるような気がした。それは僕を見つめる誰かの視線によって大きくなった。僕はくまなく歩きまわった。端から、端まで。
気づかなかった。そして、気づいた。
「ぼく」
檻の中にまた扉があった。僕はとうとう僕になれると思って、その扉を開けた。
人間動物園の裏の道に出た。あっけなくそれは外の世界に繋がっていて、安心したような、がっかりしたような気持ちになった。僕は家に帰ろうと思った。振り返ることなく、歩こうと思った。
僕はもう、あなたじゃない。そう確信できるからまだわからないけれど、僕は確かにあのとき、「ぼく」自身の扉を開けた。