幻覚
焦げた匂いが漂う部屋の隅に、震えて親指を噛む男がいる。
この部屋は暗い。まだ夜明けが来ない。この部屋の住人で男の名前は直哉、二十八歳。直哉の座る右側の絨毯には、無数の煙草の焦げ跡がある。震える指先で持った煙草は一晩にして五箱目だった。そして、絨毯の焦げ跡だけを残し、直哉の姿は明け方にはなかった。
早番だった直哉は帰宅途中、婚約者の本城由佳と御徒町の駅で十四時に待ち合わせていた。
「ゴメーン遅くなっちゃった」
由佳は乱れる髪を手ぐしで直し、直哉の元に掛け追った。直哉は腕時計を見ながら言った。
「遅れるならメールくらいしろよ」
「うーん。ごめんね。会社なかなか抜けられなくて」
「全く。お前って奴は」
直哉は、由佳の腰に手を回し御徒町の宝石店街をふらついた。
由佳の左手の薬指には婚約指輪が輝いている。
「ねえ。直哉もう直ぐ式ね。マンション早く引き払わないとね」
「ああ。そうだな」
二人は、大学時代から付き合って八年になる。由佳が一軒の宝石店『ビエル』を指さした。
「ここ入りたい。いい?」
「なんだよ。飯食いに来たんじゃないのかよ。指輪はもう買っただろう」
「入りたいの。直哉。いいでしょ。可愛いピアス欲しくて」
店内に入った直哉と由佳は蛍光灯の光が眩しく感じた。
「いらっしゃいませ」
一人の女性店員が声をかけた。女性店員は、短い黒髪で少しふくよかだ。左手の中指に薔薇のリングをしていた。
「ねえ。お姉さん。お姉さんがリングで着けているみたいな薔薇のピアス探しているんですけど、あります?」
「・・・・・あ、はい。少々お待ち下さい。見てみます」
直哉は女性店員をじっと見つめた。
「ねえ。直哉?どうしたの?」
「ああ。なんでもない」
女性店員は由佳の言った薔薇のピアスを探し円花の前に出した。
「これ如何ですか?」
「可愛い。ねえ。直哉どう」
直哉は、女性店員の事をじっと見つめている。女性店員も恥ずかしそうに下を向いたままだった。
「な・お・や。聞いているの?」
「なあ。ピアスはいいから帰らないか」
「え―」
愚図る由佳の手を引いて店をでた。
「ねえ。直哉。あの店員さんの事ばかり見ていたけど知り合いなの?」
「いや。しらない」
「ねえ。直哉。次のお店回らない」
「ああ・・・・」
「な・お・や。どうした?」
「いや。なんでもないよ。今日は早めに帰ろうか」
由佳は不満げな顔を見せた。
「俺、父さんに話したいことがあるんだ。俺達の結婚の事で」
「うん。じゃあ。これで今日はバイバイなの?」
「そうだな。また明日、メールするよ」
「うん。待っているね。まだウエディングドレス決めてないからママと明日見に行くから直哉には当日まで秘密ね」
「ああ・・・そうだな」
直哉は、由佳と御徒町駅で別れた。由佳が電車に乗る姿を見送った。
―—――—― 直哉は、ついさっき由佳と行った『ビエル』向かっていた。直哉は、店内に入り女性店員の【神山円花】を探した。直哉に声を掛けて来たのは中年の女性店員だった。
「何かお探しですか?」
「あの—―――。二十代前半位のショートカットの女性は?円花はどこですか?」
中年の女は店の裏へ行きどうやら円花を呼んでいる様だった。
「お待たせしました。今来ますからね」
円花が直哉に顔を見せると、二人は暫く見つめ合い、直哉は円花の手を引き店を出た。御徒町の駅へ向かい自宅のある千葉市内へと電車で向かった。
円花は全く嫌がる様子はない。むしろ直哉に連れられるがままだ。
中年の店員は口をぽっかり開けたまま立ちすくんでいる。
電車の中で、直哉は円花の手を握り円花は直哉の肩にもたれ掛かっていた。周囲は恋人同士なんだろうとしか思わないだろう。まさか今日知り合ったばかりの二人には誰にも見えなかった。
直哉の住む街はごみごみとした密集地の一角に建つ五階建てのマンションだ。直哉の部屋に入った円花は直哉に抱きつき言った。
「二人の秘密。あの子、婚約者なんでしょ」
「・・・・・別れる」
「何で?」
「君がいるから」
直哉は、そう言って円花のスカートを脱がせた。部屋に置かれた水槽のアロワナだけが二人の抱き合う姿を見ていた。
直哉の背中は汗が光っている。その背中に円花は爪を立てた。直哉の息使いは激しくなった。
「円花。もっと爪を立ててくれ」
「引きちぎってしまいそう・・・」
円花は直哉の頬を噛みながら言った。
その時、直哉の携帯が鳴った。
直哉が携帯の画面を見ると【由佳】と表示されていた。
「もしもし」
「直哉。言い忘れたんだけど。『結婚指輪早く決めろ』てパパが・・・」
「ごめん由佳、別れよう。俺達別れよう」
「・・・・どうしてよ」
「俺には好きな人がいるんだ」
「だって、さっきバイバイするまで、そんな感じじゃなかったじゃない」
「あの宝石店の人と今部屋にいて抱き合っている」
「うそよ」
「嘘じゃない。もう切る。明日会社にも辞表を出す。式場にも断りの電話を俺から入れておくよ」
「ちょっと。ちょっと待って」
「切る」
直哉は、円花と会ったばかりだというのに全てを投げ捨てた。
「彼女?」
円花は乱れた髪を直し言った。
「うん」
「いいの。結婚するはずだったんでしょ」
「俺には君しかいないんだ」
「・・・・・もし、別れたくなったら私を殺してそしてどこかへ捨てて」
「・・・・・・・・・」
直哉は、また円花を抱き円花は寝息を立てて眠った。部屋の壁に掛けてある鏡を見ると、円花がさっき噛んだ痕がくっきり残っていた。
直哉は、七月だというのに厚手のコートを羽織り、襟を立てコンビニへ歩いた。円花が起きたら二人で食べる弁当を買いに出た。
周囲の人間は皆不思議そうな顔で直哉を横目に通りすがったが、直哉は人目を気にしながらも弁当を二人分とワインを買って店を後にした。
マンションに帰った直哉はベッドで眠る円花の髪を撫でた。ボンヤリと煙草に火をつけ会社への辞表届を書いていた。
「直哉?」
目を覚ました円花が直哉の名を呼んだ。
「随分寝てたね。もう明け方だよ」
「なんかお腹すいちゃった・・」
直哉は、コンビニで買った弁当を円花に手渡した。
「あ、ありがとう」
円花は、弁当に箸をつけて直哉に聞いた。
「直哉。私、会社辞めようと思う」
「俺も辞表を書いていた」
「少ないけど貯金あるから銀行に連れて行ってくれない」
「わかった」
二人は貯蓄がなくなるまで働くのを止めようと話し合った。
「それより・・・」
「なに」
「この部屋を出ないか」
直哉は重い顔つきでこう言った。
「両親も、由佳もここは知っているから」
「うん・・・・」
直哉はマンションを解約し、二人で横浜へ向かった。
横浜に狭いマンションを借り、二人で暮らした。
部屋はいたってシンプルで、ソファーとテーブルが置いてあり、シングルベッドが一台だけだ。
「円花。この窓から見える横浜の景色は息がつまらないね」
直哉は、マンションの七階の窓から下を見下ろし人々が交差する地面を指さした。
「直哉。本当にいいの?由佳さんの事もご両親の事も」
「今更だ。俺には君がいるならすべてを失っても怖くないよ」
「・・・・うん」
直哉は円花が下を見て俯く姿に胸が熱くなった。
「なあ。円花、お前は幸せじゃないのかよ」
直哉の口調はこの時初めて強くなった。円花は、直哉を怯える子犬の様な目をして口びるを噛んだ。その姿に直哉は円花を殴った。
「お前。ここから逃げようなんて思うなよな。俺には君しかいないんだから」
「はい」
円花の顔は小刻みに震えていた。
「直哉。抱いてください」
細く弱弱しい声で円花は言った。直哉は、そんな円花にむさぼりつく様抱いた。首筋に食らいついた直哉はまるで獣の様だ。避妊もせず獣の様に体を絡めて二人は昼夜問わず抱き合った。
ある朝、円花の姿がこの部屋にはなかった。ベッドから降り目を擦る直哉は円花がいない事に気づく。
「円花――――」
直哉は、円花がいない不安から目の前にある剃刀で腕を切りつけた。
「円花――――いなくなるなんて俺は許さないよ」
涙を流し腕からは血を流し、涙を腕の血で拭った。
「ただいま」
円花は、近くのコンビニで朝食を買いに出ていた。直哉は、目を赤くし円花を殴りつけ頬を剃刀で切り付けた。
「勝手に出るなんて許さないよ。円花。君は俺のものなんだから」
「な・・おや。あまりにも優しい顔して眠っていたから起こすの、悪いかなって・・・」
直哉は、円花のシャツを掴みかかり裸にして背中を剃刀で切りつけた。
「嫌――――いたい・・なおや・・・いたいよ」
暴れる円花を拳で殴り、真っ赤な鼻血が床に直垂落ちた。
この頃から、円花は直哉が怖くなり始めて来た。強い嫉妬と暴力で円花は直哉に支配されていた。
普段は手にロープを巻かれベッドの柱に縛られるようになった。直哉は、円花を何処にもやりたくない一心で、円花の頬や体から流れる血を吸いついて飲み干した。殴れば殴る度、円花は流血しそれを舌で掬い取るよう舐めた。
「愛しているよ。俺がこんなに好きなんだ。君がいない人生なんて俺にはいらないよ」
直哉は、優しい目から獣の目に変わり果てていた。
ある昼間、直哉は円花の手に縛ったロープを解いた。
「出て行けよ」
直哉は円花に言い放った。
「嫌よ。直哉。嫌よ」
円花の髪は艶々だったのが伸び切り、髪は絡み合って、顔には無数の切り傷の痕や煙草の火傷の痕が残っている。直哉は、目にくまをつけ、崩れた円花を自分がここまでしたのかと思うと頭に脂汗をかいた。
「直哉。ならば私を殺してよ」
「出ていけ。お前なんてもういらない」
直哉は、そう言い放って部屋を出た。
夜の街に光る自動販売機に目が向いた直哉は光に群がる蛾を見て滑稽だと感じた。
「お前たちも俺の様だな。まるで一人の女を貪っているようだ」
呟いた直哉は手で蛾を払いポケットから百円玉と十円玉二個を出して水を買った。乾いた喉を潤すと、円花も喉が渇いているんだろうと思い、部屋へ帰った。
一方の円花は、突然母が気になり電話をかけていた。
「お母さん。私もう家には帰らない」
「円花、今どこにいるの―――」
「ごめんね。お母さんごめん」
そう言って電話を切った。
直哉が部屋に戻ると円花が暗い部屋で立てた膝を両手で抱え座っている。そんな円花の姿に直哉は愛おしくなった。
「円花。俺は君しかいない。寂しかったか?」
直哉が円花の耳元でささやいた、その時、円花の携帯に電話が鳴る。鳴り続ける電話に直哉が出た。
「もしもし」
「神山円花さんの電話ではないですか?」
「そうですが・・・。誰ですか?」
「港警察署の生活安全課の岡崎と申しますが、あなたは?」
直哉は慌てて電話を切った。円花に捜索願いが出ていると思った直哉の顔色は真っ青になった。円花に馬乗りになった直哉は、円花の首を絞めつけた。
「君は何処へもやらない。許さないよ。俺は許さない円花を何処かにやられるくらいなら俺がこの手で殺してやる」
円花の目は今にも飛び出しそうに見開き、心臓の鼓動はしなくなった。直哉はそれでも首を絞めつけた。
横浜の朝日が差し込んだ頃、直哉は息をしない円花をボンヤリと座り見ていた。煙草を一本吸って、絨毯で消していた。
暫く円花との出会いと最後までを思い返し泣いていた直哉は、何かを思い立ったようにインターネットで大型業務用冷蔵庫を注文した。届いた冷蔵庫には円花の遺体を入れ凍らせた。 直哉は、一切外出をせず、パトカーのサイレンを聞くたび震えた。直哉は、円花の足をのこぎりで切断し、鍋に入れ煮込んだ。そして空腹をしのいだ。円花の体は日毎に切り刻まれ、頭部だけが残った。
「ピーンポン」
この部屋を借りてインターフォンが鳴ったのは二回目だ。大型冷蔵庫が届いた時と今だ。直哉は覚悟をした。
ドアーを開けると刑事の七瀬たちが直哉に訪ねた。
「小橋直哉だな。神山円花さんのお母さんから連絡があった。上がらせてもらう」
直哉は堪忍した様にへたり込んだ。刑事たちが冷蔵庫を開けると中には円花の頭部だけが入っていた。直哉は刑事の腕を引き離し、「円花。愛している」と叫び七階の窓から飛び降りこの世を去った。―――――――
早朝、千葉市の住宅街にある五階建てのマンションから男が飛び降りたと警察に通報があった。
直哉が死んだのは由佳と御徒町の駅で別れた翌日の朝のことだった。
住民から通報を受けて駆け付けたパトカーと救急車が直哉のマンションの下に止まっている。
部屋を開けた刑事の七瀬は煙草の焦げ跡に目が向いた。近隣に聞き込みに行っていた刑事の緑川は部屋に戻り、七瀬に言った。
「七瀬さん。ここの住人ですが一人暮らしだそうです」
一人の刑事は七瀬にこう言う。
「クローゼットからこんなものが」
七瀬に渡したのは薬の処方箋だった。
「精神科に通っていたと思われますね」
七瀬は顔を顰め煙たい部屋に咳払いをして処方薬を見た。
警察署では、直哉の両親と婚約者の由佳が呼び出された。
由佳は泣き崩れ安置所から出て来た。七瀬は、由佳に直哉が部屋で綴っていた日記を渡した。由佳は日記をじっと見つめた。そしてページを進める毎にへたり込んだ。
「ここの日記に書かれている人なんですが、昨日宝石店で見た女性のことかもしれません」
【円花。君は美しいよ。俺は君をどこへもやらない。俺は君を心から愛している。】
【君と死ねるなら本望だ。君の白く美しい背中を俺は噛む。そして君は俺の頬を噛む。円花との未来は永遠だ。俺が愛して止まない君は俺の左側にいつも眠っている。円花。俺が怖くなったら殺して灰にしてくれ。そしてまた天国で再会しよう】
【円花。泣かないで俺を怖い目で見ないで。君の涙が乾くまで俺は何処にもいかない。円花。今日の君は不穏な顔しているね。ほかの誰かになんかやらないよ。俺がこんなにも愛しているんだから】
数年間に渡り記されていた日記の中には円花の顔が描かれていた。
「宝石店?」
七瀬が言うと、由佳は震えながら泣いた。
「昨日彼と宝石店に行ったんです。そこの店員の女性がこの絵の人にそっくりなんです」
「顔見知りですか?」
緑川が訪ねると、由佳は首を横に振った。
「じゃあ、何故・・・・・」
緑川は七瀬を見てそういった。
「本城さん。恐らく今の段階では直哉さんは自殺とみています。彼が精神科に通院していたことはご存知ですか?」
七瀬の問いかけに由佳は顔を横に振った。
直哉には誰にも言えない秘密があった。
直哉は、就職した頃から幻覚に悩まされ精神科に通院していた。いつも幻覚でまだ見たことがない円佳という女の体を貪る自分の姿を見ていた。現実にいた円佳という女に出会い怖くなって、由佳を見送った後、自宅まで虚ろな目で帰って行った。部屋に帰った直哉は今までの幻覚を拾い集めるように隅で震えながら親指を噛んだ。
直哉は円花という女を見てから、幻覚と現実の区別がつかなくなり、自分が円佳という女の首を締め上げる姿に恐れて目に涙を溜めた。直哉が描いた物語の中には現実で生きている七瀬刑事も出てきていた。それは、直哉自身の記憶の何処かに潜んでいる人物だった。
由佳は、御徒町の駅に向かった。そして宝石店の『ビエル』まで歩いた。円花という女は直哉が死んだ日もビエルの店員として宝石店で働いていた。
「円花さん?」
由佳が宝石店の女性店員に声を掛けると、女は振り向いた。名札には【渋谷真理子】と書かれていた。
「いらしゃいませ。あら。昨日素敵な彼と来られたお客様ですよね。素敵な婚約指輪。ご結婚されるんですね」
「いえ婚約者は今朝、死にました」
「え?」
「あなたを想いながら死んでいったんです」
由佳はそれだけ言って夜の御徒町を後にした。